第92話・気になるアイツ

 翌朝。俺の目覚めは最悪だった。

 それもそのはず。俺は昨日の出来事のせいで、ずっと気持ちがイライラしていたからだ。

 それに寝付く頃には深夜の三時を過ぎていたし、今は部屋の時計が六時を指し示している始末。寝不足と言った意味でも最悪と言えるだろう。

 とりあえずもう少しだけ寝ておこうと、身体を右に左に動かして寝返りをうつ。普段ならこのまま二度寝をするなど容易い事だけど、今回ばかりは目を瞑って寝ようとしても、まったく眠る事ができなかった。


「――お兄ちゃん。起きてる?」


 眠れないままで何十回目かの寝返りをうった時、コンコンと部屋の扉を叩いた音の後で杏子の小さな声が聞こえてきた。その小さな声音は、どこか遠慮を感じさせる。

 昨日はほとんど会話を交わさずに部屋へ閉じ篭ったから、きっと心配しているんだろうと思う。


「起きてるよ」

「あっ、良かった。のんびりしてるみたいだけど、大丈夫? 遅刻しちゃうよ?」


 杏子にそう言われて部屋の掛け時計に目をやると、もう八時二十分を指し示そうとしていた。それを見た俺は、ヤバイと思ってベッドから慌てて跳ね起きる。

 そしてベッドから急いで下りて前へと進もうとした瞬間、足が絡み合って派手に床へと倒れてしまった。


「だっ、大丈夫!? お兄ちゃん!」


 ドタン! という大きな音にビックリしたのか、杏子が慌てて扉を開けて中へと入って来た。


「あ、ああ。大丈夫だ。遅刻したらいけないから、杏子は先に行っててくれ。俺もすぐに行くからさ」

「う、うん。分かったよ。それじゃあ、先に行ってるね」


 杏子は躊躇ためらいながらもそう言うと、心配そうな表情を見せながら部屋を出て行く。

 捻った右足を手で押さえながら痛みに耐えていた俺の耳に、スリッパを履いた杏子の階段を下りて行く音が聞こえる。そしてその音は少しずつ小さくなり、やがて聞こえなくなった。


「うぐっ! とりあえず着替えないとな……」


 捻った右足の痛みを我慢しながら立ち上がり、ハンガーに掛けてある制服に手を伸ばす。こんな無様な姿を誰にも見られなかったのは、不幸中の幸いと言えるだろう。


「――今日は結構涼しいな」


 準備を済ませて家を出た俺は、通学路をのんびりと歩いていた。

 遅刻しそうだったのにのらりくらりと歩いているのはどうかと思うが、そのあたりは心配無い。だってもう、余裕で遅刻が確定しているんだから。

 まあ、準備をしている時こそ慌てていたのは事実だけど、足の痛みもあってか準備に結構な時間を取られてしまった。

 花嵐恋からんこえ学園の授業開始時刻は九時から。

 そして家を出る頃にはもう九時を過ぎていたので諦めの境地に達した俺は、どうせ遅刻なのだからと、のんびり学園へ向かう事にしたわけだ。

 普段なら途中で沢山の生徒と遭遇するこの通学路だけど、さすがにこの時間には一人として同じ学園の生徒を見かけない。普段は何気なく通っている通学路だが、時間が少しずれるだけでその雰囲気がまったく違って見えるから不思議だ。

 そんないつもとは違った雰囲気を楽しみつつも、今だ痛みが引かない右足を若干引き摺りながら学園へと進む。

 そして俺がようやく学園へと着いた時には、一時間目の授業がほぼ終わる寸前だった。

 のろのろと下駄箱で靴を履き替えたところで、一時間目の授業が終了した事を告げるチャイムが鳴り響く。すると数十秒も経たない内に階段から下りて来た生徒達と何人もすれ違いながら、俺は自分の所属する教室を目指した。


「あっ! 龍之介どうしたの? こんな時間に来るなんて」


 自分の席へと向かって進んで行くと、まひろが驚いた様にして話し掛けてきた。


「わりい。ちょっと寝坊しちまってな」

「なんだ……そうだったんだ。そういえば、鷲崎わしざき先生も連絡を受けてないからって、心配してたよ?」

「そっか。あとで先生には謝っておくよ」


 そう言うとまひろはにこっと笑顔になり、ウンウンと頷いた。


 ――まったく。今日も可愛い奴だぜ。


 俺は自分の席に座って次の授業のノートと教科書を出す。

 そしてふと黒板の方を見た時、前の授業で書かれた文字を黒板消しで消している茜の姿が目に映った。どうやら今日は、茜が日直みたいだ。

 なんとなくその姿を目で追っていると、文字を消し終わった茜が後ろを振り向き、その時に偶然にもこちらの方を見た事でお互いの視線が合ってしまった。その事に慌てた俺は、急いで視線を外して窓の外を見る。

 我ながら白々しいとは思うけど、他に誤魔化す良い方法が思いつかない。

 それでもなんとなく気になってしまったからか、俺は茜に悟られない様にしながら黒板の方を見た。するとそこには、顔を俯かせて落ち込んでいる感じの茜の姿があった。


「――龍ちゃん。ちょっといいかな?」


 二時間目の授業が終わったあと。席を立った茜は俺の所へやって来ると、恐る恐ると言った感じでそう聞いてきた。


「悪いけど、これから鷲崎先生のところに行くんだ」

「そ、そうなんだ……」


 そう言ってからサッと席を立ち、痛む右足に無茶をしながら教室を出て行く。

 別に今のタイミングで先生に遅刻の報告をしに行く必要性は無い。しかし、あの場に居たらなんとも言えない居心地の悪さに包まれていたと思う。

 それに茜が何の話をしたいのかは分からないけど、仮にそれが森山についての話だとしたら、俺は多分、今更だな――と思っていただろう。

 とりあえず鷲崎先生のところに行くと言った手前、俺は職員室へ遅刻の報告をしに行った。そして職員室で鷲崎先生に報告を入れた俺は、その場で軽く説教を受けただけで解放してもらえた。

 そのあと、小休憩の時間を迎える度に茜が話をしようとやって来たが、俺はその度に色々と理由を付けては逃げ回った。


「――まひろ、今日は外で昼飯食べようぜ」

「えっ? うん。別にいいけど」

「あっ、龍ちゃ――」

「まひろ、俺は前に一緒にご飯を食べたベンチに行ってるから」

「えっ? ちょ、ちょっと龍之介!?」


 茜が話し掛けて来ようとしていたのに気付いた俺は、急いでまひろにそう言ってから教室を出て行く。後ろからは戸惑った様なまひろの声が聞こえていたけど、俺は振り返らずに目的の場所へと向かった。

 そして目的の場所へと着いた俺は、ベンチに座って大きく息を吐き出した。右手に持った弁当袋と、左手に持った水筒を両脇にそれぞれ置き、まひろがやって来るのを待つ。


「――ごめん、遅くなっちゃって」


 ぼーっと空を眺めながら待っていると、まひろが息を切らせながらやって来た。

 特に待ったという感覚は無かったけど、まひろ的には待たせてしまった感じなんだろう。


「いや、いいよ。とりあえず弁当を食べようぜ」


 まひろはその言葉に頷くと、隣に座ってから可愛らしい小さな黄色の巾着袋を開け、そこからこれまた可愛らしい小さな弁当箱を取り出した。

 その小ささはまるでダイエット中の女の子が持って来る様な、本当に小さなサイズの弁当箱だ。


「いつも思うけどさ、よくそんな量で足りるよな」

「えっ? そうかな? 僕はこれで十分な感じなんだけど」

「俺ならその三十倍の量がないと身体がもたないよ」

「男の子だもんね」

「おいおい。まひろだって男じゃないか」


 そう言うとまひろは、『そうだったね』と苦笑いをしながら答えた。それにしても、いちいち見せる表情が可愛くてたまらない。

 しばらくは他愛のない話をしながら食事をしていたけど、俺がそろそろ弁当を食べ終わろうかという頃、まひろが不意に質問をしてきた。


「ねえ、龍之介。茜ちゃんと何かあった?」


 その質問に箸の動きが止まる。

 さすがにあんな態度をとっていたら、誰でもおかしいと思うのが普通だろう。


「…………別に何も無いよ」


 そんな風に思いながらも、俺は白々しくそう答えた。別に改まって話す事でもないと思ったからだ。


「本当に?」


 その問い掛けに、俺は一回だけ頭を縦に振って答えた。


「茜ちゃん、凄く落ち込んでたよ?」

「…………」


 俺はまひろの言葉に何も反応せず、茜が先日告白を受けていた場所の方を見た。


「……もしかして、この前の事が気になってるの?」


 その言葉を聞いた俺は、一瞬ビクッと身体が反応したのが分かった。

 すると時をほぼ同じくして、昼休みが終わる五分前のチャイムが学園内に鳴り響いた。


「戻ろうぜ、まひろ」

「うん……」


 チャイムを聞いた俺はスッと立ち上がり、そう言って教室へと戻る為に歩き始める。そしてこのあとも、俺は接触して来ようとする茜から理由を付けては逃げまくっていた。

 そしてこの日から二日後。茜は珍しい事に風邪を引いたらしく、学園を休んだ。

 健康優良児の筆頭の様な元気印全開の茜が風邪とは珍しいもんだと思ったが、今の気まずい雰囲気を考えると、俺はちょっとだけその状況に安堵していた。

 しかしそんなほっとした気分を感じていたのは、本当に最初の内だけだった。

 茜が風邪で休んで二日が過ぎ、三日が過ぎても学園へ来ない事に段々と落ち着かない気持ちを感じ始めていた俺は、自分の中にある色々な感情を上手く発散する事ができず、イライラをつのらせ続けていた。

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