第69話・思わぬ事態
放課後の本校舎内は、いつもなら二十分と経たない内に閑散となる。
だけど今日は三十分が経っても残った生徒の数は減らず、長い廊下の中央に位置する掲示板には、沢山の人だかりができていた。
その人だかりの中心には、花嫁選抜コンテストの出場希望予定者名が載せられた紙が張り出されていて、みんなはそれを見る為にこうして本校舎に残っているというわけだ。
「すげえ人だかりだな……」
「それだけみんなが楽しみにしてるって事だよね」
掲示板に張り出された出場予定者を見ようと、俺はまひろと一緒に掲示板の方へと向かっている。
しかしあまりにも人だかりが凄いので、俺とまひろはなかなか目的の物が見える位置まで進めないでいた。
――くそっ、これじゃあいつになったら見れるか分からんな。
掲示板へと続く人波はなかなか動かず、さながら帰省ラッシュの渋滞に巻き込まれた車の様に進んで行かない。しかもこうして進むのを待っている間も、掲示板へと向かう人波は大きく膨らみ続けている。
季節柄と沢山の生徒が居るせいか、周囲は非常に蒸し暑く、俺はその人波に居続ける事に段々と嫌気がさし始めていた。
「蒸し暑いね……」
「ああ。まるでちょっとしたサウナだよな」
俺の後ろで人波に揉まれながら辛そうな声を出すまひろ。
ここ最近はただでさえ気温と湿度が上がって不快指数も高まっていると言うのに、こんな所で人波に挟まれてサウナ状態なんて、ストレスがマッハで溜まってしまう。
「まひろ、ここから出ようぜ」
「えっ? でも、掲示板は見なくていいの?」
「いいさ」
まひろと一緒に掲示板へと続く人波から抜け出そうと逆走を始める。
そしてなんとか人波から抜け出ると、開け放たれた窓から入って来た風が廊下を吹き抜けて行くのを感じた。
その吹き抜けて行く風が、汗ばんでいた肌を優しく撫でる様にして通り抜けて行く。そんな風の通り抜ける瞬間がなんとも心地良い。
「涼しい~」
そんな俺の隣では、同じく吹き抜けて行く風に身を
出場予定者が誰なのかを早く見てみたい気持ちはあるけど、わざわざストレスを感じてまで見たいとは思わない。それに最近はまひろが体調を崩す事も多くなっていると宮下先生も言っていたし、まひろが体調を崩すかもしれない原因をわざわざ作る必要はない。誰が出場するかは、遅かれ早かれ分かる事だから。
「あれっ、もう掲示板を見て来たのか?」
鞄を取って帰ろうと思い教室へ戻って来ると、開け放たれた教室の窓の内側から渡が声を掛けてきた。そんな渡の右手には、小さな双眼鏡が握られている。
「いいや。あんなむさ苦しい行列には並んでられん。美味い物が食べられるわけでもないしな。ところで、それは何だ?」
「何って、双眼鏡だが?」
手に持っている双眼鏡に向けて視線を送ると、渡はそれを俺に差し出してそう言ってきた。
「いや、そんな事は見れば分かるんだよ。俺が聞いているのは、それを使って誰の胸を見てたんだって事だよ」
「俺が胸を見てるのは確定ですかっ!?」
俺の隣でその様子を見ていたまひろが、楽しそうにくすくすと笑っていた。
この前の体調不良の件もあったし、こうして笑っているまひろを見ていると安心する。
「えっ? それじゃあ、胸じゃないならどこを見てたんだよ? お尻か?」
「俺ってどんだけ変態さんなんだよ……あっちだよ、あっち」
呆れた様にそう言う渡が指さす方向を見ると、そこには例の人だかりがあった。
「なんだ。やっぱり覗きをしてたんじゃないか」
「ちっがーう! 何でそうなんの!?」
「だからあれだろ? 人混みに並んでいる女子達が、暑さのあまりスカートを使って扇いだり、胸元を
「俺ってどこまで変態さんだと思われてんの?」
「いやまあ、だって渡だし……」
「俺の名前を変態の
――なんだ。それならそうと早く言えばいいじゃないか。
そう思いながら双眼鏡を使って掲示板の方を見る。
しかし、張り出されている紙はここから遠く、双眼鏡を使ってもはっきりと書かれている名前を確認する事はできない。
「……この双眼鏡じゃあの位置の文字は見えないな」
「倍率が低いんだろ。右側にあるボタンを押してみろ」
言われるがままに双眼鏡を覗きながら右手の人差し指でボタンを何度か押すと、さっきまで見えなかった文字が段々とはっきり見える様になった。
「おー! 見える見える! この双眼鏡、小さい割にすげーな!」
「ふふん! 俺の自作双眼鏡なんだぜ? 凄いだろ~。ちなみに真ん中のボタンを押すと写真が撮れまーす」
こんな小さな双眼鏡に、どんだけの機能を持たせてるんだろうか。それにしても、双眼鏡に写真撮影機能があるとか、いよいよ普段の使用用途が疑わしくなってくる。
そんな事を思いながら掲示板の内容を見ていくと、どうやら出場予定者一覧は、左側は自薦、右側は他薦で別れているみたいだった。
とりあえず俺は、自薦枠に表記されている名前を上から順に流し見ていく事にした。
――おー、やっぱり出場者希望者は多いな。
そして上から出場予定者の名前を流し見ていると、その中に茜と美月さんの名前があった。
――やっぱりあの二人も出るんだな。急にコンテストに出場すると言った時には驚きもしたけど。まあ、あの二人なら結構いい線いけるんじゃないかな。
そんな事を思いつつ、表記されている名前を再びゆっくりと流し見る。
そして出場希望予定者の名前を見ながら頭と一緒に双眼鏡を下へ傾けていくと、今度は真柴と愛紗の名前を見つけた。愛紗は出場すると言っていたけど、まさか真柴も参加しているとは思わなかった。
「あっ……」
二人の名前を見たあとに羅列されている名前の列を更に下へ見ていくと、そこには我が妹である杏子の名前があった。
――この名前があるのは見たくなかったな……。
「龍之介。どんな感じ?」
「今は自薦枠を見てるんだが、ざっと見ても百人近く出場予定者が居るな」
「そんなに居るんだ!?」
まひろの驚く声を聞きながら、今度は他薦枠の方を見ていく。
それにしても、やはり他薦枠は自薦枠とは違い、表記されている名前は少ない。
更に他薦枠には自薦枠との明確な違いがあった。それは書かれた名前の横に、推薦者の数が記されているという事だ。
俺はまた上から順に名前を見ながら、その推薦者数を見ていく。
――ほほう。この人は推薦者数二十人か。結構すげえな。
「――はあっ!?」
そして他薦枠最後の名前を見た時、俺は思わず双眼鏡を外して驚きの声を上げてしまった。
「ど、どうかしたの?」
「あっ、いや、何でもない……」
さっきのは俺の見間違いだろうと自分に言い聞かせ、まひろにそう言ってから再び双眼鏡を覗き込み、他薦枠のある部分を見た。
――おいおい。マジかよ……。
再び見た部分に表記されていた名前は、涼風まひろ。
さっき見た時とまったく変わっていない。そしてざっと見る限り、他薦枠にまひろ以外の男性と思われる人物の名前は見当たらない。しかも驚くべき事に、まひろを推薦している人達の数が凄まじい。
その数なんと、二百八十人と表記されている。これはつまり、普通科に通う生徒の約半数くらいがまひろを推しているという事になる。
「……なあ、まひろ。ちょっとこれで右側にある他薦枠の一番下を見てみろ」
「えっ? うん」
まひろは俺の物言いに戸惑いの表情を見せつつも、双眼鏡を覗き込んで言われた場所を見始めた。
「……えっ? ええっ!?」
どうやら自分の名前が書かれているのを発見したみたいで、まひろは掲示板の方を指差しながら俺を見て酷く取り乱している。
「りゅ、龍之介、ああああれっ」
こんなに慌てふためいているまひろを見るのは、かなり新鮮な感じがする。
「とりあえず落ち着け、まひろ」
「う、うん……」
まひろは持っていた双眼鏡を震える手で渡に手渡し、どうしよう――と俺に意見を求めてくる。
「おーっ!? 涼風さんの名前が他薦枠にあるじゃん! それに推薦者の数がすげえ! ダントツだ!」
まひろから受け取った双眼鏡で掲示板を見ながら、興奮気味に騒ぐ渡。やはり俺やまひろの見間違いや幻ではなかったみたいだ。
「とりあえずどうするよ? まひろ」
「ど、どうするって言われても……」
まひろは掲示板のある方を見ながら、非常に困った表情を浮かべている。
「まあ、とりあえずまだ時間はあるわけだし、じっくりと考えてみたらどうだ?」
「う、うん。龍之介がそう言うなら……」
まひろは戸惑いながらもそう返事をした。
そしてこの出場希望予定者一覧が張り出された翌日から、最終意思決定期間として三日間の猶予が出場希望予定者には与えられ、自薦他薦問わず、出場するか辞退するかの選択をしなければいけない。
俺としてはコンテストにまひろが出るのを見てみたいと思ったりもするけど、こればっかりは本人の意志次第だ。
まあ、まひろは人に注目される事や目立つ事を嫌うタイプだから、おそらくこのコンテストも辞退する事になるだろう。まひろの性格を考えれば、イベントとは言え気軽にとはいかない事だろうから。
「俺は涼風さんに出場してほしいけどなあ」
「か、考えておくね」
苦笑いをしながらそう答えるまひろに、渡は『是非頼むよー!』と言いながら、両手を握ってブンブンと上下に動かしていた。
――やれやれ……このコンテスト、色々な意味でまだまだ波乱を呼び起こしそうだな。
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