第51話・淡い想いとお願い事
街中にある桜の花も全て散ってしまい、太陽は暖かな陽射しを徐々に夏の様相へと変え始めている。
そんな五月を目前に控えたある日曜日。
俺は駅前にある時計塔の下で、一人ベンチに座って過ぎ去って行く人達を眺めていた。
「そろそろか」
手に取った携帯の時間表示は、そろそろ午前十時を示そうとしている。それを見た俺はベンチから立ち上がり、きょろきょろと辺りを見回した。
今日は柄にもなく緊張をしているせいか、さっきからソワソワとして落ち着かない。いつもなら行き交うリア充共を見る度に呪いの言葉を心の中で唱えているんだけど、今回ばかりはそんな心の余裕は微塵もなかった。
このままではいけないと、とりあえず落ち着く為に深呼吸を何度かしてみる。だが、これが驚く程に効果を感じない。
「くそっ、まったく落ち着かん」
もはや深呼吸では間に合わないくらいに緊張している俺は、次の手段として手の平に人の文字を書いて飲み込んでみた。しかしこれは、深呼吸以上に効果を感じない。
――そもそも何で『人』って文字なんだ? 例えば落ち着くって言葉から一文字取って、『落』とかじゃ駄目なんだろか?
そう考えた俺は、試しに落という文字を手の平に書いて飲み込んでみた。
――なんだか今度は気分が落ちてきた気がする……くそっ! これを考えたのはどこの誰だ!? 受験生には教えられんではないかっ!
半ば八つ当たりともご乱心とも思える事を心の中で言いながら、俺は一人で頭を抱えて悶える。端から見れば、間違い無く不審者だろう。
そんな俺が振り返って時計塔の上を見ると、時計の針は十時五分を指し示したところだった。
「龍之介く――――ん!」
空を見上げる様にして時計塔の時計部分を見ていた俺の右側から、明るく弾む声で名前を呼ばれるのが聞こえてきた。
名前を呼ばれているんだから、その声がする方へサッと振り向けばいいんだけど、俺の身体はオイル切れのロボットの様に関節が上手く動かず、今にも全身がギギギッ――と不快な音を立てそうな感じだった。
「や、やあっ!」
なんとか声がする方へと身体を向けた俺は、走って来る雪村さんに向かってぎこちなく右手を上げ始めた。
緊張しているせいもあるけど、高く上げようとしている右手は本当に控え目な感じでしか上がっていかない。我ながら情けない程のヘタレ具合だ。
「はあはあっ。ごめんね、待ったよね?」
急いで来たからだろう。乱れた息を整えつつ、雪村さんは丁寧に謝る。
「いや、俺も今来たところだから気にしなくていいよ」
そんな雪村さんを見た俺は、こういった場面ではお約束とも言うべきお決まりのセリフを口にする。
一度は言ってみたかったこのセリフを力強く言うと、雪村さんは『良かった』と言って微笑んでくれた。
――うん。可愛いよね! この笑顔は反則だよねっ!
そんな事をしみじみと感じさせる雪村さんの笑顔。それを見ているだけでもここに来た価値はある。
「そ、それじゃあ行こっか。雪村さん」
俺がいつもの感じでそう言うと、雪村さんは不満げに口を尖らせた。
「もう、龍之介君。私のことは『陽子』って呼んでって言ったでしょ?」
「あっ、そ、そうだったね。それじゃあ行こっか。よ、陽子……」
「あ……うん……」
雪村さんは耳を朱色に染めながら、小さく俯いて返事をする。名前を呼ばれただけでこんなに照れるなんて、はっきり言ってめちゃ可愛いと思う。
俺達はお互いの距離を縮めて行き交う人々の中へと入り、目的の場所へと向かい始める。
こうしているとまるで恋人みたいに見えるかもしれないけど、間違い無く、俺と雪村さんは恋人同士だ。そう、俺はついに勝ち組へと至ったのだ。
――すまんなみんな。俺は一足先を行かせてもらうぜ。
108人の脳内友達の罵倒による
「それと、今日はごめんね、龍之介君。恋人の振りなんて頼んじゃって」
雪村さんは申し訳なさそうにそう言いながら、俺の隣から顔を覗き込ませる。
「あ、いやほら、他ならぬ雪村さんの頼みだからさ、そんなに気にしないでよ」
「ありがとう。龍之介君」
――えっ? これはいったいどう言う事だって? ス、スンマセンッ! 恋人うんぬんは全部嘘です! 調子に乗ってましたっ!
108人の脳内友達に向かって、俺は全力で土下座をする。
まあ、俺の中の脳内戦争はともかくとして、何で雪村さんとこんな恋人の真似事をしているのかと言うと、もちろんちゃんとした理由がある。
今のこの状態に繋がる最初の出来事があったのは、ほんの三日前の事だった。
× × × ×
雪村さんとの仮想恋人デートの三日前。
夜もすっかり更けてベッドの上で天体本を見ていると、チラッと見た窓から見える空には、キラキラと瞬く星と明るい三日月が見えていた。
普段は街の灯りがあるせいでそうは思わないかもしれないけど、月は俺達が思っているよりもずっと明るい。どれくらい明るいかと言うと、太陽系の衛星では一番の明るさを誇るくらいだ。
その明るさを等級で言い表すと、満月の時には約マイナス12.7等級程になり、みんなが知っている太陽の等級は、約マイナス26.7等級程になる。
星の明るさを示す等級は、0等級より明るいものには全てマイナスの記号が付き、等級は数値が小さくなる程に明るさを増す。そして等級は、1等級違うごとに明るさが約2.5倍くらい明るくなる。つまり1等級と6等級では、約100倍くらい明るさが違うわけだ。
まあ要するに、月は夜にある自然光源の中で一番明るいんだと思ってもらえればいい。
「月ってすげえんだな……」
俺はベッドの上で寝転がりつつ、手に持った天体本の月のページを見てしきりに何度も頷いていた。
万人に知られていながらも、その
手にした天体本を読み耽りつつ哲学的な事を考えていると、ベッドの枕元に置いていた携帯が、ブブブッ――と音を立てて動いた。
本をベッドに置いて手に取った携帯の画面には、雪村陽子の名前。俺は画面の通話表示を横にスライドさせ、携帯を耳に当てる。
「もしもし?」
「あっ、もしもし? ごめんね、こんな時間に。今は大丈夫かな?」
「大丈夫だよ。どうかしたの?」
俺がそう尋ねると、雪村さんは何やら話を始めたのだが、その声があまりにも小さくて、何を言っているのかよく分からなかった。
「あの、雪村さん。ちょっと声が小さくてよく聞こえないんだけど」
「あっ、ご、ごめんなさいっ!」
突然慌てた様に大きな声で謝ってきたので、俺はちょっとビックリしてしまった。
普段は落ち着いている印象が強い雪村さんだけに、いったい何事だろうかと身構えてしまう。それから少しの沈黙のあと、電話の向こう側で雪村さんが大きく息を吸い込む音が聞こえてきた。
「あ、あのね、龍之介君。私の恋人になってほしいの!」
「えっ!?」
寝転がっていたベッドの上で上半身をガバッと起こし、慌てふためきながら視線をあちこちに泳がせる。
――ここここ恋人って、手を繋いで歩いたり、イチャイチャしたり、好きだよ――とか言い合ったり、ちゅ、ちゅーしたりとかする、ああああの恋人ですか!?
「あの、えっとその……と、突然の事で何と言っていいのやら…………」
突然の展開に俺の頭脳は急速にショートを起こし、まともな思考ができない状態へと陥っていた。
「あっ、ごめんなさい。私の言い方が悪かったよね。正確には、恋人の振りをしてほしいの」
「こ、恋人の振り?」
振り――という言葉を強調され、急速に冷静さが戻ってくる。
――愛の告白じゃなかったのか……。
天国へと一気に駆け上り、上がった瞬間に落とし穴から地獄へと突き落とされた様な気分を味わいながら、ガックリと肩を落として再びベッドに寝転がる。
そして頭の方にある小さな物置台に手を伸ばし、スタンドミラーを手に取って自分の顔を見ると、まるで魂が抜け出したかの様な精気の無い表情をしていた。
――まったく、なんて顔をしてんだ俺は……。
「私ね、
――へえー。雪村さんて演劇科がある学校に通ってたんだな。
最初に出会ってからもう一年が経つと言うのに、通っている学校や学科すらも知らなかった俺は、近しい人の事でも意外と知らない事は多いんだなと、そんな風に思った。
「つまり雪村さんのやる役は、恋人が居るってわけか。それでその役作りの為に、仮想の恋人役を俺にやってほしいと?」
「そうなの」
「でも、そんな大事な事を俺なんかに頼んでいいの? 他に適任者が居るんじゃ――」
「それは龍之介君じゃないと意味が無いの!」
「えっ!? それってどう言う事?」
「あっ、えっと……それはその…………」
食い気味にそう言ってから急に口ごもる雪村さん。
なにやら言葉を発してはいるものの、その声があまりにもか細くて、何を言っているのか分からない。
「まあ、なんだかよく分からないけど、俺でいいなら協力させてもらうよ」
「本当に? ありがとう、龍之介君」
俺じゃないと意味が無い――と言う理由がよく分からないけど、嬉しそうにそう言ってくれる雪村さんの声を聞いていると、理由はどうあれ俺を頼ってくれた事を嬉しく思う。
「それで、俺はどうすればいいのかな?」
「えっと、今度の日曜日なんだけど、私と一緒に水族館に行ってほしいの。大丈夫かな?」
「水族館か。了解、今度の日曜日だね? どこで何時に待ち合わせをする?」
「えっとね――」
それからしばらく仮想恋人デートの詳細を話したあと、俺は雪村さんとの通話を切った。
協力するのはやぶさかではないけど、雪村さんが言ってきたお願いの一つに、『当日は陽子って呼んでね』というのがあった。この要望は俺の中でも相当にハードルが高いミッションになる。
たかだか名前を呼び捨てにするだけの事だけど、世の中には呼び捨てにし
俺はむくりと上半身を起こしてベッドから床に下り立ち、目の前に仮想雪村さんを投影しつつ、仮想デートの仮想をしてみる事にした。
「よ、陽子」
その一言を口にしただけで頭が沸騰するかの様な熱さを感じ、そのままベッドへと崩れ落ちる。
――イカン……名前を呼び捨てにしただけでこの有様では、仮想デートなど到底できん。しかもこれって、仮想デートの更に仮想だよな? 仮想の仮想でこれって、本番になったらそのまま天国行きになるんじゃないか?
このままでは、雪村さんの前で大恥をかいてしまう未来しか見えない。そう思った俺は、仮想雪村さんを相手に再び練習を始めた。
夜の自室に、陽子――と小さく名前を呼ぶ俺の声だけが聞こえる。
それから日曜日までの短い期間。俺は毎夜一時間の名前呼び練習をし、仮想デートに備えた。
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