第45話・月明かりの下に二人

 新学年が始まってから最初の金曜日。

 俺は月明かりの下にある小高い丘の、大きな桜の木の下に居た。


「はあっ……どうして俺は、龍之介と二人でこんな所に居るんだろう?」


 隣で温かい缶コーヒーを口にしながらそんな事を言っているのは、花嵐恋からんこえ学園に入学してから知り合った悪友の渡だ。


「一応聞くが、お前は何を期待してここに来たんだ?」

「そんなの決まってるだろっ! 女の子と一緒に夜を過ごして愛を育む為だよ!」


 渡にまともな返答を期待した俺が馬鹿だったと思う。

 それにしても、渡はいつ誰と、愛を育めるだけの関係を築いたと言うのだろうか。

 単純明快な願望を熱く語る渡を横目で見ながら、俺は缶コーヒーを口にする。

 渡はブツブツと何かを言いながら、クネクネと気持ち悪く身体をじらせて身悶えしているが、きっと変な想像でもしているんだろう。それに普通に考えれば、こんな事を女の子にさせるわけが無いって事くらい、容易に想像がつくと思う。

 妄想に浸っている渡に哀れんだ視線を向けつつ、はあっと溜息を吐く。

 あと一時間半もすれば、日付も変わろうかという時分。桜が咲き誇る下で俺達が何をしているのかと言うと、この時期の名物、花見の場所取りだ。

 それにしても、四月に入ったとは言え、まだまだ夜は冷え込みが厳しい。それが証拠に、渡はさっきから何度も馬鹿でかいくしゃみをしている。


「ヘックシッ!」

「大丈夫か?」

「大丈夫だよ。風邪なんかひかねえから」

「いや、そこは心配してねえよ。なんとかは風邪ひかない――って言うしな」

「ああ。なるほどなー――って、コラッー!」

「ははっ、冗談だよ、冗談」


 今にも飛びかかって来そうな形相の渡をなだめる。

 まあ、冗談はこれくらいにしても、渡の格好は野外で過ごすにはあまりにも不向きだ。長シャツに上着を羽織ってはいるものの、この冷え込みを考えると、絶対に体調を悪くしてしまうだろう。


「まったく……ヘックシッ!」

「でもよ、冗談抜きに一度家に帰って、厚手の上着か防寒具を持って来た方がいいぜ? まだまだ冷え込むだろうから」

「……そうだな。いつまでも缶コーヒーで誤魔化すのも無理があるしな」


 そう言いながら傍らに置いてある缶コーヒーの山を見つめる渡。


「そうそう。金も勿体ないしな」

「だな。そんじゃまあ、ちょっと行って来るわ」

「おう。行って来い」


 渡は『わりぃな』と言ってから大量の空き缶を袋に詰め込み、それを持って丘を下りて行った。

 そんな渡の姿を見送ってから携帯の時刻表示を見ると、二十三時を少し過ぎていた。花見の開始は明日の午前十時頃だから、まだまだ先は長い。

 暇つぶし相手の渡が居なくなった俺は、携帯の電子書籍アプリを開いて漫画を読み始めた。

 読み始めたのは俺のお気に入り作品の一つで、『俺に妹は居ないはずだが、突然妹ができました。』という作品だ。妹系美少女ゲームオタクの主人公のもとに、突然現れた幽霊の女の子。その女の子と兄妹として生活していく主人公の、兄妹愛を描いたハートフルストーリーで、俺の一押し作品でもある。

 最近はこうやって携帯一つで暇潰しができるんだから、本当に便利になったと思う。

 こんな感じで暇潰しを始め、日付も変わってから十分くらいが経った頃、漫画を読みふけっていた俺の携帯に電話がかかってきた。

 携帯の着信表示には、水沢茜の名前。俺は画面の通話表示をスライドし、携帯を耳に当てる。


「もしもし? どうした?」

「あっ、龍ちゃん? ちょっと聞きたいんだけど、場所取りってどこでしてるの?」

「場所か? ほら、小さな頃によく遊んでた、でっかい桜の木がある丘だよ」

「ああー、あそこか。分かったよ、じゃあねっ!」


 それだけ言い終えると、茜は一方的にブツッと通話を切った。いつもながらやる事が荒い奴だ。

 そういえば携帯の時刻を見て思ったんだが、渡が戻って来るのがやたらに遅い。ここからアイツの家までは、往復三十分もあれば十分に戻って来れるはず。まあ、渡の事だから、コンビニとかに寄り道をしている可能性も高い確率でありえるけど。


「ううっ、結構冷えてきたな……」


 少し強くなり始めた風が吹く度に空気の冷たさが増し、身を縮こまらせてしまう。


「たくっ……渡の奴、早く戻って来いよな」


 身体が冷える度に温かい飲み物を口に運べば、必然的にトイレへ行きたくなる。しかも一度尿意をもよおすとその事ばかりに意識がいき、ますますトイレに行きたくなってしまう。

 だが、荷物を置いたままここを離れるわけにはいかない。俺は耐え難い生理現象を前に、しばらく我慢を強いられる事になった。


「――くそっー、早く帰って来いよ。渡……」


 尿意を感じ始めてから約二十分。

 俺はかみ殺す様な声を出しながら、渡が帰って来るのを今か今かと待っていた。こんな時の一分二分は、とても長く感じるから地獄だ。


「あっ、居た居たっ! おーい! 龍ちゃーん!」


 声がした方をサッと見ると、そこには月明かりに照らされながら走って来る茜の姿があった。


 ――ああ……今こっちへ向かって来る茜が天使に見えるぜ……。


「あれっ? 顔色が悪いけど大丈夫?」

「すまん茜! ちょっと荷物を見ててくれっ!」

「えっ!? ちょ、ちょっと龍ちゃん!?」


 俺はサッと立ち上がり、脱兎の如く丘を下りた先にあるトイレへと走り始める。こうして茜が来てくれたおかげでトイレには間に合い、俺はこの歳でお漏らしをしてしまうピンチから解放された。

 トイレですっきりと晴れやかな気分になった俺は、急いで場所取りの代わりをしてくれている茜の所へと戻った。


「あっ、龍ちゃん。いったいどうしたの?」

「わりい。ずっとトイレに行きたかったんだけど、行けなくて我慢してたんだよ。もう限界にきてたから助かったぜ」

「トイレを我慢て……そういえば、渡君はどうしたの?」

「アイツさ、防寒着を取りに家に戻ったんだけど、それっきり帰って来ないんだよ。電話にも出ねーし」


 俺は事情を説明しながら茜の隣に座り、ふうっと大きく溜息を吐く。


「そうだったんだね。はい、お疲れ様」

「おっ、サンキューな」


 茜は苦笑いを浮かべながら、温かい飲み物を差し出してくれた。こういうところはいつもながら気が利く。

 水筒のコップに注がれた液体からは、コーヒー独特のコクのある香りが匂い立っている。俺は早速そのコップを口に運び、少し冷えた身体を温め始めた。


「うん、美味い。茜は俺好みのコーヒーを作るのが上手いよな」

「そ、そうかな?」

「ああ。茜が出してくれるコーヒーは、いつも程好い甘さ加減だからな」

「そっか。良かった……」


 茜はもう一つの水筒からコップを取り外し、それにコーヒーを注いで飲み始めた。


「そういえばさ、どうしてここに来たんだ?」


 さっきはトイレへ行く事に気を取られて気にしてなかったけど、夜中に一人でこんな所まで来るなんて、危ないにも程がある。


「どうしてって。場所取りをしてる龍ちゃんと渡君の為に、差し入れを持って来たんだよ」

「おばさん達にはちゃんと言って来たんだろうな?」

「もちろんだよ。ここにもお父さんに車で送ってもらったし、お母さんなんか、『頑張っておいで!』って言ってくれたし」

「頑張る? 頑張るって何をだよ?」

「えっ!? そ、それは……」


 俺の聞き返しを聞いた途端、茜は急にモジモジとし始めた。


 ――あれ? トイレにでも行きたくなったのかな?


「茜、我慢しなくていいんだぞ?」

「えっ!?」

「我慢は心と身体に良くないんだ。行ってすっきりしろよ」

「言ってすっきりって……で、でも、恥ずかしいよ……」


 月明かりに照らされて見える茜の顔は、これでもかと言うくらいに恥ずかしがっている様に見えた。

 確かに男に対してトイレに行きたいと言うのは、女の子にとってかなり恥ずかしい事なのかもしれない。だが、男以上に女の子のトイレの我慢は身体に良くないと聞くし、ここはちゃんと言ってやるべきだろう。


「恥ずかしいのは分かるけどさ、我慢を続けるわけにもいかないだろ? そういうのってさ」

「た、確かにそうかもしれないけど…………言ってもいいのかな?」


 少し上目遣いでこちらを見る茜。

 月明かりに照らされているその顔は、更に紅くなっている様に見えた。


「いいから早く行ってくれよ」

「本当に? 本当に言ってもいいの?」

「ああ。遠慮無く行ってくれ」

「そ、そっか。分かったよ……あ、あのね龍ちゃん、私――」

「モジモジしてないで、早く行って来いよ。トイレに」

「えっ!? トイレ?」


 なぜか素っ頓狂とんきょうな声を上げる茜。先程までの控えめな声の出し方とはえらい落差だ。


「いっていいって……トイレの事?」

「モジモジしてたから、トイレに行きたいのを我慢してたんだろ?」

「…………」

「ど、どうしたんだよ?」

「龍ちゃんの……バカ――――ッ!」

「ぐはっ!?」


 茜の右拳が腹部へ見事に決まり、俺はそのまま後ろ向きに倒れ込んだ。

 もしも持っていたコップの中にコーヒーが残っていたら、大変な事態になっていただろう。


「もうっ! トイレに行って来るっ!」


 茜はそう言って立ち上がると、肩を怒らせながら丘の下にある公衆トイレへと向かって行った。


「な、何だよ。やっぱりトイレに行きたかったんじゃないか……」


 茜からまったく意味が分からない一撃を受けた俺は、腹部を押さえながら上半身を起こす。昔っから茜にはこういうところがあったけど、未だにそのスイッチの切り替わりどころが分からない。

 俺は一撃を加えられた腹部を右手でさすりつつ、なぜかご立腹なご様子の茜のご機嫌取りを考えながら帰りを待った。

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