第六話「迷宮の森」

「そういうことで、社長。

 あたしたちは調査してきますけど。

 くれぐれもお気を付けあそばせ。

 独りっきりになった社長を、ほら、あそこの木陰からジッと見つめる眼が狙ってるかもしれませんから」


「えっ!

 ええっ!

 どこどこ、どこから妖怪が見てるって?

 ねえ、ねえってば!」


 むつみは追いすがろうとする刀木かたなぎの鼻先で、思いっきりドアを閉めた。


 太陽はまだ天から射している。

 どちらにしてもどんな状態なのか調査しておかないと、方針が立てられない。


 むつみは大きく深呼吸すると、カメラを首からぶら下げた則蔵のりぞうのお尻を叩いた。


「さっ、ノリゾーさん。魔物の巣窟へ探検開始よ」


「あ、ああ。魔物の巣窟へ、探検開始、だな」


 二人はカタナギんちゃん号の中でまだわめいている刀木に背を向け、『禍桜まがざくらの森』へ入って行った。


 まったく人の手が加えられていない森というのは、都会育ちのむつみにとってはまるで異界であった。


 見たこともない樹木が緑よりも濃い色で重なり合い、陽射しを遮っている。


 ツタや小枝が仕掛けられたトラップさながらに、全身を攻撃してくる。

 足元にはナイフのような熊笹が密生しており、万が一転んだら顔をスッパリと斬られそうだ。


 則蔵の背後についていけば、多少は樹木の攻撃を回避できると考え、むつみはピッタリと影のように張り付いていた。


「行けども行けども目的物件へ到着しない感じだわ」


「あ、ああ。道に迷ったら、ほ、北極星を目印にすればいいって、かあちゃんが言ってた」


「北極星ねえ。

 まだお天道さんは高いし、しかも見上げても木の葉っぱが多すぎて、空が見えないんだけど」

 

 ドスンッ! 

 

 いきなりむつみは衝撃を受けた。


「ちょ、ちょっとぉ、ノリゾーさん、急に立ち止まらないでよね」


 則蔵の大きな背中をはたいた。

 ところが則蔵は頭を上に向けたまま固まっている。

 

 まさか、真由ピーが言ってた妖怪が!


「ノ、ノリゾーさんっ」


 周囲にはこの則蔵しか頼れる男性はいない。

 むつみは則蔵のつなぎ服の袖を引っ張った。


「あ、ああ」


 ゆっくりと振り返る則蔵。

 危険を察知し、思わずむつみは身をひるがえそうとした。 


「む、むつみさぁん」


「イヤーッ!

 あたしを巻き込まないでーっ!

 ノリゾーさんひとりが犠牲になってぇ!」


 むつみは則蔵を妖怪の生贄に捧げるべく、渾身の力を込めて突き飛ばすために両手を差し出そうとした。


 ところが則蔵の小さな目がしばたたき、おもむろに右腕を持ち上げ指す。


「ほ、ほら、すぐそこに、道があった」


「はっ?」


 むつみは両手を突き出したまま、則蔵のさす方向へ顔を向けた。


 木々の間からのぞくのは、紛れもなく道路であった。

 二人はわざわざ道のない樹木の間を、必死に歩いていたことになる。


「ええーっ! なんでもっと早く見つけないのようっ。

 なんのために死ぬ思いで草木をかきわけて進んできたわけぇ?

 もう、ノリゾーさんの役立たずっ」


「あ、ああ。めんぼく、ないんだあ」


 草木を、身体を張ってかきわけてきたのは則蔵であったのだが、むつみは大仰にプリプリと口元を尖らす。


「まあいいわ。

 もとはと言えば、社長が来ないのが悪いんだし。

 さっ、ノリゾーさん、なにをグズグズしてんの。

 早く先に行って!」


 則蔵は指示されるがまま、先頭に立ってもう一度草木をかきわけて歩いていく。その後ろから、むつみはブツブツと文句をたれながらついていった。


 道路といっても、むつみたちが進んできた密林よりかは歩きやすいというだけで、舗装してあるわけではない。乗用車なら二台がぎりぎりすれ違うことのできる程度の、土道である。


 しかもほとんど通る車も人もいないからであろう。地面は風雨でデコボコになり、石や雑草がそこかしこに見える。


 道は直線ではなく、ゆるいカーブになっているために、先はやはり生い茂る緑のカーテンになっていた。


 則蔵は首からぶらさげたカメラで、立ち止まってはカシャカシャッとシャッターを切る。


「い、いちおう周囲の状況も撮っておかなきゃね」


「ところでさあ、ノリゾーさん」


「フィルムはたくさん残っているから、だ、大丈夫」


「写真は任せた。じゃなくてさあ」


「あ、ああ。ごめん、気づかなくて」


 則蔵はカメラのレンズをむつみに向ける。

 条件反射でむつみはピースサインを作り、小首をかしげながらニッコリととっておきの表情を浮かべた。


 はっきり言って、ものすごく可愛い。

 この写真だけを見たならば、そこいらのモデルやアイドルにも引けを取らないチャーミングなむつみ。

 だが肝心なのは、写真には、性格や本性は決して写り込まない、と言うことである。


「はい、チ、チーズっと。

 むつみさんの家では、お味噌汁にはどんなチーズを入れるのかな。

 かあちゃんは同じ発酵食品だから、旨味が相乗効果をもたらすって言うけど。

 ぼ、ぼくはプロセスチーズよりも、青かびタイプのほうが美味しいと思うんだなあ。油アゲとの相性も、ば、抜群。うん、抜群」


「チーズを、お味噌汁に?

 チーズって、あのチーズよね」


「それともお吸い物の具にするほうが、好き?」


「どっちも結構ですっ。

 それにあたしを被写体にしてちょうだいなんて、言ってないし。

 それよりもさ、なにか臭わない?」


「チーズは元々発酵食品だから、多少は臭いもあるんだあ」


「いいからっ! もうチーズはいいからっ。

 ほらっ、その真ん丸な鼻の穴で嗅いでごらんなさいよっ」


 むつみは則蔵のあぐらをかいた鼻を、ビシッと指した。


「んんっ?」


 目を閉じて、くんくんと辺りの空気を吸い込む。


「おおっ、むつみさんって、なんだか女の子のようないい香りがするんだあ」


「ムキーッ! あたしは、れっきとしたオ・ン・ナ・ノ・コですーっ!」


「おやっ、むつみさんの香りの間から、ほのかに鼻孔を刺激する臭いが」


「そんな言いかたしたら、あたしが元の体臭をデオドラント洗剤で隠してるみたいじゃないさ。

 だからあ、この臭いはあっちの目的地から漂って来てんじゃないかって、言ってるのよ」


 むつみの剣幕をかわすように、目を閉じた則蔵は身体を回転させる。


 則蔵にとってむつみはハートを揺さぶられる異性としてではなく、性を超越した同志としての感情しかないようであった。


「おっ」


 つむっていた小さな目が、パッチリと開いた。


「ホントだ。

 うん、むつみさん、なんだか臭い」


「その言いかただと完璧にあたしが臭いの元凶じゃない。

 まあ、いいけどさ今さら。

 ねっ、これは明らかに腐敗臭よ」


 二人は顔を見合わせた。

 午後の太陽が直接射してくる道を、ゆっくりと進んでいく。


 左右には伸び放題の草木、曲がって行く前方も青い葉をたわわに繁らせた枝が視界を遮っている。


 明るいとはいえ、二人が歩く乾いた音しか耳に入ってこない。


 むつみはなにかあれば、すぐに則蔵を盾にしようと、さりげなく則蔵のつなぎ服を後ろから握っていた。


 臭いがだんだんきつくなってくる。まぎれもないゴミの腐敗臭である。


 いつの間にか則蔵が、お掃除用のマスクで口元を隠していることに気づいたむつみ。


「ノリゾーさん、あたしにもマスクを貸してよ」


「ない」


 あっさりと言い切る則蔵。


 つなぎの制服には、つねにマスク、ゴーグル、ゴム手袋、軍手がポケットに収められているのだが、あいにくむつみは学校帰りの私服である。


 通学用バッグにはハンカチを入れてあるのだが、車の中に置いてきてしまった。


 むつみは目線で則蔵を攻撃しながら、腐臭に眉をしかめる。

 臭いはかなりきつくなってきた。

 これ以上進むと呼吸困難になりそうだ。


「プハッ、ダメだわ。

 ノリゾーさん、あたしはこれ以上進めない」


「あ、ああ。マスクをしていても、たまんないなあ。

 わかった。じゃあここから先はぼくがひとりで行って写真だけ撮ってくるから」


「あたし独り、ここで待てと」


 則蔵はうなずいた。


 悩んだ。

 むつみは脳から血が噴き出すほど悩んだ。


 ここでいつ妖怪に襲われるのか、ビクビクしながら待つのか。

 それとも呼吸困難に陥る覚悟で、異臭の元へ一緒に進むのか。


 対戦中のプロ棋士がごとく、頭の中でフローチャートを描き、どっちが得策か考えた。

 くいっと顔が上がった。


 つづく

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