電気羊の異世界プロトコル
みかぜー
プロローグ
プロローグ 『泡沫の見た夢』
彼方に浮かぶ浮遊大陸『最後の
落下の最中に空気抵抗を受けた岩塊は、現実世界のそれと同じく大小無数の欠片に分解する。崩壊と共に、内包されたダンジョンの構造材―――均一に切り揃えられた石材や、苔むした大樹の破片を周囲に撒き散らしながら、遠くの海原に飲み込まれて行った。
崩れた場所は『第七層南 守護者の仄暗い杜』あたりだろう。
かつて僕らが駆け抜けた石灯籠の回廊も、エリアボスと凄絶な戦いを繰り広げた檜造りの大舞台も。なにもかもが奈落の海原に飲み込まれ、この世界から永遠に失われた。
大小の水柱が上がって少しの時間が経った後、海鳴りのような重いうねりが遠く響く。
この世界の最後の日。
厚い雲の層が全天を覆っているが、決して薄暗くはない。
まだらに開いた雲の切れ間から、大海原に数多の光の帯が降り注いでいるからだ。黄金色の光の帯と共に、雲の層の薄い所にはスペクトル拡散した夕暮れのオレンジが滲み、空はまさに極彩色に輝いている。
それはまさに世界の黄昏と呼んでも良いくらいに、非現実的で幻想的な光景だった。
「これで最後なんですね……」
不意に僕の右手に力が込められる。
右隣で一緒に浮遊大陸の崩壊を眺めていた彼女は、僕の目の高さよりも少しだけ小さい。
名前はユネ。僕の右手の温もりの主。
「一年前にグランドクエストを達成した時から、いつかこの時が来ると思っていました」
「………」
どこか穏やかに聞こえるユネの言葉に僕は何も答えられない。
慰めの言葉は必要だろうか。いや、それを口にすることは出来ない。
間も無くこの世界は終わりを迎える。
この世界が終末を迎えても、僕の向こうでの人生はこれからも続いて行く。この終わりは、僕の生の中でこれからも数多訪れるであろう『終わり』のひとつに過ぎないのかもしれない。
しかしユネにとっては、これが最後の終わりなのだ。
今際の際に立ち、心を決めた彼女の高潔を、僕なんかの安っぽい慰めの言葉で汚すことなど到底出来はしない。
「こちらで過ごした時間は全てまぼろし。どうか私のことは忘れて下さい……と言うのは少しマスターには難しいお願いかもしれませんね。マスターは優しい人ですから、きっとこれから先もずっと、私のことを覚えていてくれているのだと思います」
「まぼろしなんかじゃない。ここが仮初の世界だったとしても、僕にとってユネは本物だ」
ユネの背中に両腕を回す。
華奢な身体だ。強く抱きしめれば壊れてしまいそうな硝子細工。かつて僕達と共に何度も剣を並べあった凄腕の術法剣士とはまるで思えない程の頼りない体躯。
身体を通して感じるユネの温かな体温。細すぎて存在の曖昧さすら感じるさらさらの髪の毛。少しだけ甘い匂い。たとえそれが外部からの電気信号によって励起された擬似的な感覚であったとしても、僕にとってはこれが本物だ。
「私も、このユネは本物であったと……たとえ、電子の海に漂う小さな泡沫が見た夢であったとしても、私のこの感情は本物だったと。私はそう思います」
僕の右肩に額をつけて、ユネが睦語るように囁く。
「この六年間で、マスターにはたくさんの気持ちをいただきました。楽しいことも、辛いことも、嬉しいことも、悲しいことも、いっぱい。いっぱいです」
「ユネに辛い想いや悲しい想いをさせてしまったのは、今更になってごめんって感じだよ」
ユネは腕に抱かれたまま、僕の顔を見上げてにこーっと笑う。
「そんなことはないですよ。全部含めて今のユネですから。善いことも悪いことも、全部まぜまぜの今の私が、私は大好きです」
優しい娘だ、と思う。
仮初の世界である故に、その身に不条理が降りかかって来たことも少なからずあるはずだ。仮初の命である故に、謂れのない理不尽に晒されたこともたくさんあるだろう。それでも真っ直ぐ、真摯に、時には愚直だと思われるほどに、優しく生きることが出来たことは、ある種の奇跡かもしれない。
「うん、僕もユネらしいユネが大好きだ」
大好きだったよ、と心の中でもう一度呟く。
そんな恥ずかしいセリフに、ユネはにこーっと笑わせた赤い瞳を更に細くして、僕の胸に強く顔を摺り付ける。正直ちょっと痛い。
「術法剣士のSTRは伊達じゃないですー」
照れ隠しだろうか。その細い身体からは到底想像が付かないほどの力。
まるで自分が存在した証を僕に刻み込むかのように、僕の腰に回した両腕に力を込める。
ユネにしては珍しい、独占欲の表れかもしれない。僕もユネの温かさと形を忘れないよう、その腕に力を込めた。
明るいと言えども曇天。大海を臨む切り立った岬だから海風も強い。
風晒しになっていた彼女の白い首元に、自分がしていた赤いマフラーを巻く。最後の贈り物にしては安っぽかったが、ユネはそれでも満足そうに笑ってくれた。
寄り添い合い、少しの時間をかけていくつかの言葉を交わす。
大体はいつも通りの他愛の無い内容。恋愛小説に出来るようなロマンチックな内容では無かったけれど、僕達はこれでいい。これで十分だ。
そして、その時は来た。
にわかに僕の身体が光を放ち始める。ユネの肩越しにかざした自分の指先が、少しずつ光の粒子を放って崩壊して行く。光の粒子はある程度集まると、小さな光の羽根を象り、海風によって散らされた。
最後の最後まで粋な演出をしてくれるなあ、と僕の頭の冷静な部分は暢気にそんなことを考えていた。
最初は穏やかだったその速度は徐々に加速し、ユネを抱いていた両腕もほろほろと光化して行く。両腕という物質は無くても感覚はまだある。変な感じだ。
「あぁ、もう本当にこれが最後みたいだよ」
「はい、マスター……あちら側でもお元気で……」
最後にユネの髪を撫でようとしたが、両腕が既に消失していることに気付いて苦笑する。
崩壊はなおも続く。両手と共に始まった両脚の崩壊も佳境を迎え、下半身を経て既に上半身を飲み込みつつある。
両手両脚の崩壊は合流して首元に達した。
「ユネ、今までありがとう」
さようなら、とはもう発声できなかった。
「マスター! 私はマスターのフェローとして生まれることが出来て本当に―――」
ユネの言葉を聞き終える前に、僕を形作っていた全てが崩壊した。
彼女の言葉は最後まで聞き取ることが出来なかった。
だけど伝わった。今の言葉だけで僕には十分だ。
視界が白濁する。薄れ行く意識の中に、女性の声が響いた。
≪System Announce≫
≪ただいまの時刻 日本時間20X2年 7月1日 午前0時を持ちまして
VR-MMORPG『エヴァーグリーン・ファンタジア』の全サービスを終了いたします。
六年の長きに渡るご愛顧、誠にありがとうございました。
今後のスケジュールに関しましてはオフィシャルサイト―――≫
頭の中に響いた綺麗な、しかしユネの声よりも無機質なシステムアナウンスはもう聞こえない。
慣れ親しんだ特有の落下感だけを感じながら、僕の身体と意識はあの世界から消滅した。
間も無く全てが消滅するあの世界に、最愛の人を残して。
仮初だったとしても、僕にとってあの世界は現実だった。
仮初だったとしても、僕にとってユネはただ一人のユネだった。
たぶん、目を覚ましたら、まず最初に彼女の姿を探す。もう二度と会うことが出来ないと分かっていたとしても。いつか、あそこでの思い出が風化して、この気持ちに折り合いをつけることが出来る時まで、僕は彼女との思い出を何度も反芻するのだろう。
今はまだ忘れることは出来ない。
僕は、NPCを愛していた。
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