6, Witch and nuisance
顔をしかめた教師を、適当な幻惑で追い返す。
実にどうでもいいことに魔力を使っている。人間相手の術式は、そう難しいものではないとはいえ――。
あまり、自分以外のために力を使うのは好きでない。
「便利だよね」
他人事のようにのんびりと笑う魔女を睨む。悪魔の手綱を握ることをすっかり放棄して――それどころか暴走を楽しんでいるような節もある彼女は、エリアナを一瞥しても笑みを崩さない。それに余計に腹が立つ。
――まあ、しかし。
彼女がこの調子なのは以前からである。それよりもと見た先の狼は、扉と机の間に挟まるようにして震えていた。
背後で急に扉が開いたのがよほど堪えたらしいが、頼りないことこのうえない。これが女王の転生体であるというのだから、前途多難もいいところだ。
それでも、指先を揺らして呼んでやれば、おずおずと出てくることはした。
無言のまま意図を問うルディから視線を外し、代わりに百夜を見遣る。報告は済んだが、こちらからの用事はまだ残っているだろう。
渋々とばかり、生徒会長は頷いた。眉根を寄せてまじまじとルディを見る目が、不服そうに鼻先へ皺を寄せる。
「姉上にこいつを渡すというのも、不思議な気分だが」
言いながら――。
開いた手にあるのは、女学院の校章に似た小さなブローチである。
鈍銀の色合いと形は校章とほぼ同じだ。しかし、刻印された狼と六芒星は、清天教女学院の名には似つかわしくない。およそ背徳的なそれを手渡され、眼鏡の底の赤い瞳が不思議そうに百夜を見る。
「これは?」
「裏校章ってやつだな」
その一言で説明を済ませた気になる生徒会長に目を細める。結局、説明の大半を引き受けたのは滴であった。
「この学校にいる悪魔と魔女は、全員それを持ってるはずだよ。私は全員把握してるけど、お互いを識別するには楽でしょ?」
いくら清楚な校風が売りとはいえ、このご時世にアクセサリーまでもが規制されるわけではない。目立たないもの――などという曖昧な規定の校則に反さぬよう、校章に似せて作られたそれは、
特別言葉を交わすことはないまでも、互いの顔を知っておくことに不利益はない。会議室代わりに利用している生徒会室で、うっかり人間に話を聞かれないためにも、判別のためのものは持っておいた方がいい。
――おおよその説明を終えたところで、それまで何も理解できていない顔で黙っていた百夜は、ひときわ大きく胸を張った。
「持ってない奴はいないはずだ。悪魔で私の顔を知らんものはいないし、魔女で滴に挨拶に来ない奴も見たことがないからな!」
「挨拶に来ないならそりゃ見たことないでしょうよ」
欠席者に手を挙げさせるようなものである。そう説明したところで、それはいい案だと言われそうで、エリアナはそれ以上の言及をやめた。
「まあ、君の顔を知らない悪魔もいないだろうけど――一応、渡しておくよ」
ルディの目が校章を見る。狼の刻印を指でなぞり、彼女の瞳がふとエリアナを見る。
「どこにつければいいですか?」
「どこでも。貴女のこと知らない相手はいないだろうし、鞄にでもつけといたら」
私はここ――。
言いながらスカーフを裏返す。立派な校則違反だが、体にまとった術式が人間の目を阻害している。同族と人間を識別するには、非常に役立つ位置だ。
ルディが裏校章といわれたものをしまい込む横で、授業の終了を告げるチャイムが鳴る。次の授業を放り出す――というわけにはいかないのだろう、別れの挨拶もそこそこに、生徒会の魔女と悪魔は部屋を後にした。
残されたのは、生徒会長の椅子を占拠したままのエリアナと、茫然と立ち尽くすルディである。
エリアナが立ち上がれば、開いたままの扉に消えた背を見送る狼が振り返る。その横を歩み去りながら、頼りない女王を一瞥した。
「私たちも戻りましょう。そろそろ三時間目よ」
「でも、服が」
「魔術でごまかしてるでしょうよ」
――先ほどもそう言ったろう。
呆れ混じりの吐息を漏らす。ルディの方はそれでは納得できないようで、ちぎれた右袖を疑わしげに見据えた。
やろうと思えば悪魔の目をごまかすことも可能だ。しかし彼女は元より規格外であるし、天使との戦闘を了解している同胞らの目を欺く必要もない。
とはいえ、眼前で眉をひそめる彼女は納得しないだろう。頭を押さえるまま、エリアナは廊下に指を向けてみせた。
「そんなに信じられないなら、鏡でも覗いてけば」
確か廊下に全身鏡があったはずだ。
人目を気にするように、ルディはおずおずとエリアナから離れた。突き当たりの鏡の前に立って――。
「本当だ――」
その声だけで、彼女がどんな顔をしているかはおおよそ伝わってきた。覗いてみれば、眼鏡を取って目を細めているようである。
しばしその場で視界を確かめていたルディが、諦めたように戻ってくる。引き裂かれた右袖に触れながら、彼女はじっとエリアナの目を見た。
「これ、どうなってるんですか」
「知らないわよ」
そもそも魔術に理論などない。あるのかもしれないが、好き好んで解き明かすような魔女もそうそういないだろう。使えれば何でもいいのである。
促すように歩き出せば、今度は後方からついてくる足音がした。ひと気の増えた廊下を割りながら、エリアナは周囲を伺う悪魔を一瞥する。
「そうでなくても、私たちはちょっと変わって映るの」
「エリーも?」
「さあ。鏡は見ないから」
他の者もあまり鏡は覗かない。
またしても曖昧な声を上げたルディをよそに、教室に向かう足取りは緩まない。次は英語の授業だったはずで、教師は堅物だ。五分前には必ず教壇に立っている。それも板書に頼る傾向があるから、下手をすれば授業前には最初の板書が終わっていることもある。
エリアナとて一応は成績を維持せねばならないし――ノートの提出がある以上、早いところ教室に帰りたいというのが本音である。
扉を開ける前に、後方の少女が深呼吸をするのを待つ。教室に入るのがなぜそんなに恐ろしいのか、エリアナにはよく理解ができないが、ルディにしてみれば非常に重要な儀式らしい。
緩やかな呼吸が終わり――。
入った先の黒板には、やはり英字が並んでいた。
「エリアナさん、大丈夫だった?」
「はい。授業を中断させて申し訳ありません」
振り返った教師に愛想を振りまく。当然のようにルディの隣の席に座れば、しきりに右腕を気にする悪魔に声がかかるのが聞こえた。
「八咲さんは付き添い?」
「そ、そんなところ、でした」
尻すぼみの笑声が俯く。隣に腰かける気配をよそに、素早く板書をノートに写したあと、鞄の中からスマートフォンを取り出す。
画面に指先を滑らせ、ロックを解除してから、連絡ツールで見慣れた名前を呼び出す。このところの技術の進歩は異常だ――と、この四角い形状を見るたびに思うが、これだけ手軽に連絡が取れるというのは魅力的だ。
授業開始のチャイムが鳴っても構わない。五分ぶん程度の板書は済ませてある。あとは時折目を上げればいいだけだ。隣の狼が心配げな視線をよこすのが、少しばかり鬱陶しいが。
物好きな相手から、喜びを示すスタンプが送られてきたところで――。
「エリアナさん、授業中ですよ。携帯はしまって」
「『先生の気のせいじゃないですか』」
咎める声には目を合わせる。それきり追及の声が止む。
滴ではないが、自分でも便利な力であると実感はしている。
隣から降る憂慮が、その一瞬で羨望に変わった。無数に送られてくるスタンプからちらと目を上げれば、赤い瞳が眼鏡越しにエリアナを見詰めていた。
「エリー、わたし、ゲームしたいんですけど」
「面倒だから嫌」
「そんなあ」
――思いの外大きく声が漏れた。
慌てて口を塞いだルディの健闘虚しく、堅物の視線が彼女を睨む。すっかり委縮した少女は、消え入りそうな声を上げた。
「ご、ごめんなさい」
それきり口をつぐんだ彼女であるが、それでも瞳はエリアナの端末を見ている。板書の進む音の感覚からして、恐らく半分が埋まった頃合いであろうかと、彼女がスマートフォンをシャープペンに持ち替えたときである。
おもむろに、ルディが自身のノートを寄せた。まっさらなそれの端に字が並んでいる。
なるほど筆談か――と思うと同時に、下手な字だな――とも思った。
――勉強やりたくない。
先ほどの懇願の続きであるようだった。そういえば、彼女の名前をよく見かけたのは、補習対象者を貼り出した紙であったような気がする。
さりとて、エリアナにはそれを許可するつもりはない。退学になられては困るのだ。自身のノートをルディの方へ押して、その端へペンを走らせる。
――我慢。
怨みがましい視線に思わず笑う。
得意げに鼻を鳴らしてやれば、彼女はひどくむくれたような顔をして、新しい文字を連ねた。
――英語と数学教えて。
――英語と数学だけ?
――できれば全部。
落書きの気分なのか、ノートの端には顔文字が並んでいく。膝の上に置いた端末が、通知を受けて青白く光るのを手に取ると、ルディのペンが再び走った。
――だれ?
下手な文字を一瞥してから視線を外した。手を軽く上げれば、意図は伝わったようだ。
待つことのできるルディより、待つことのできないメッセージの主に応える方が先だった。このまま放置すれば、肝心のメッセージがスタンプに埋もれて遠くに消えてしまう。
未だに慣れない入力法に手間取りながら、手短に文章を返してやる。既読の二文字がついてから、二つばかりの動く絵たちが画面に表示されて、少しの間通知が止まる。
それでペンを持った。
――厄介ごとが好きそうな魔女。
間違ってはいない。彼女のことを説明するとなると、どうしてもその奇特な性質に帰着する。百夜とは違った騒々しさのトラブルメイカーだ。
そんな相手に連絡を取っているのは、彼女くらいしか要請に応じないという確信があるためである。厄介ごとを嫌い平穏を善しとする魔女たちの中にあって、彼女の存在は稀有なのであるが――。
少しばかり食いつきすぎている。思わず眉根を寄せれば、隣の狼の唇が引き結ばれるのが見えた。
――放課後に呼び出し。どうする?
つるつると書いた文字に、しばらく悩む気配があった。
――制服きがえたい。
――どうせボロボロになる。
どうやら何かを察したらしい。大きくバツを描いたルディを見遣る。
性急すぎると思っているのはエリアナも同様だ。悪魔として覚醒したばかりの彼女には、負担が大きすぎる。契約した相手を道具のように浪費することは、いくらエリアナであっても望むところではない。
けれど、相手の方はそんな事情を汲んではくれないのだ。
――戦いたいって。逃がしてくれる相手じゃない。
大きく首を横に振ったルディに、再び教師の冷たい視線が降り注いだ。
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