第29話 奏でる帽子 2
瀟洒な和風の外見だけでも一見の価値がある。懐かしい思いを覚えるのは屋根の形が〝むくり〟と呼ばれる大和屋根の形状を採用しているせいだろうか。
企画した
「こんな美術館があるなんて知らなかったわ! とっても素敵な建物ね!」
―― この美術館は神戸で海運業を営んでいた中村準策・準一・準佑、三代の実業家の収集品を一般に公開するために作られたそうです。
森閑として落ち着く館内は秘密の隠れ家のようだ。絵画もさることながら古代中国の青銅器や拓本、古鏡から、中国・朝鮮・李朝・日本の陶磁器など。これら膨大な東洋美術品が定期的に入れ替えて展示されている。二人が訪れた今回は古代中国を中心とした印章の企画展を見ることができた。
印章は印鑑ともいう。歴史の教科書に必ず載っている漢の倭の奴国王の〈金印〉を思い出してもらうとわかりやすい。
館内に展示されている印章はその金印に似た四角い形で上に駱駝やカエル、亀が乗っているもの、タコ焼きのような丸い形もある。
バイオリニストは興味を抱いたようだ。ガラスケースに身を寄せて熱心に覗き込んでいる。
「まぁ? コレなぁに?」
―― シュメール初期王朝時代……紀元前2600の頃とありますね?
「これも印鑑なの?」
「他は皆、四角くてどっしりしてるのに、これは華奢で細いのね? これだと、すごく小さな印になるわよ。よほど奥ゆかしい人の印章なのかしら?」
この感想に思わず
―― 失礼。それはね、円筒印章というやつですよ。縦に押すものより古い、印章の最古の形です。転がして使用するんです。
漣は手真似でそれをやって見せた。縦に印判を〝突く〟のではなく横に寝かせて〝転がす〟……
―― どういう文様が現れるかは……ほら、そこに掲示してあるのがソレです。
ケースの上に掲げてあるパネルを指し示す。
陽奈は目を
「まぁ! まるでレリーフね! これがそうなの? 印章の形からは全然想像できないわ! だって、造詣的にはこんな細い棒なのに、これから、こんな長い文様が生まれるなんて!」
よほど感銘を受けたらしい。バイオリニストは幾度も筒形印章とそこから生まれた文様を見比べていた。やがて大いに納得して頷いた。
「誰が最初に考えたのかしら? 古代の人の発想は凄いのね! だって、こんなに――漣さんの指みたいに細いのよ。そんな細いものがこんなに広がって、望めばどこまでも模様を記して行けるなんて……ちょっと魔法みたい! ポケットに入れてもかさばらないし、それで、どこでも取りだして使えば大きな〈印〉……〈模様〉を産み出せる……」
印章展示のケースの前で思いのほか会話が弾んだ。
だが、これだけではない。この美術館のチケットを購入するともれなく隣接する庭園の入場券も付いてくる――と言うか、正確にはこの美術館自体がその庭園の中に建っているのだ。
庭園の名は〈
江戸時代前期の日本庭園様式の〈前園〉、明治時代に隆盛した築山と借景様式の〈後園〉、二つの池から構成されている。
「えーー! 入口からは全然想像できなかったわ! こんなに広くて美しいお庭を隠してるなんて! 大きな池に小川や滝まであるわよ! わぁ、どうしよう、 冒険心が疼くぅ!」
―― ぼ、冒険心? ハハハ……
あなたもね、陽那さん。漣は思った。バイオリニストの優雅で
この新しい発見にまたクラッとなる帽子職人だった。
―― じゃ、冒険の後は……
颯の企画書が囁いている――
庭園内の風雅な庵が解放されていてお茶やスィーツ……ビールまでいただけるよ!
たくさん歩いた足にちょうど良いブレイクタイムになること間違いなし。どうぞゆっくり古都のティタイムを満喫してね、漣にぃ。
そして、この後はゆっくりと東大寺を目指して散策の旅をお楽しみください!
道沿いにまず見えてくるのが
堂内、四方から這い寄る闇を塞ぐようにして立つ四天王は優しい目をしていた。
続く道で一頭の大きな鹿に出合った。この辺りはあまり鹿はいないのに。
「キャ!」
吃驚して飛び上がった後で陽那は小さく微笑む。
「でも、私たちのほうが闖入者ですものね?」
奈良では鹿は神使である。何を伝えに来たのだろう? 悠然と頭を上げたまま雄鹿は二人が通り過ぎるのをじっと見つめていた。
やがて至った三月堂。正式名は
隣の二月堂の方が春を呼ぶ〈お水取り〉の行事などで全国的に有名だが、実はこちらも素晴らしい。本尊の
しかし、現在修復中のため拝観できなかった。
「残念!」
―― ここは東大寺の堂宇の中で唯一、一度も焼けたことがないそうです。
「火事になったことがないのね?」
「きっと、風の通り道……風に守られているのね?」
拝観は叶わなかったが不空羂索観音は幼い実子を亡くした
そして、いよいよ二月堂へ登る。
本尊の二体の十一面観音、
だが、ここの見所は堂宇西正面の高欄からの眺望だ。
眼下に広がる風景は、あおによしと歌われた遥か昔の大和の都を彷彿とさせる。時間が止まったかのようだ。
柔らかい空。芽吹いている草木の緑。早春の、どこかピリリとした風が心地良かった。
「今日は本当にありがとう! 私ね」
東大寺の屋根にキラリ、煌めくのは黄金の
「母も私も、生まれは漣さんと同じ神戸なんだけど、私が小学生になってすぐ、私に音楽の才能があると指摘された母は、より高度な教育環境を求めて海外に転居したの。だから、私、日本のこういう風景や場所、ほとんど知らないのよ。今日は凄く勉強になったわ! 本当に楽しかった!」
―― それを聞いて僕も嬉しいです。
「ああ! 最高の誕生日だったわ!」
この言葉に吃驚する漣。
―― え? 誕生日だったんですか?
「正確には一週間前よ。でも、どうせ仕事があったし……だから今日がその代替日!」
―― すみません、知っていたらプレゼントを用意したのに……
「いやだ! こっちこそごめんなさい。そういう意味で言ったんじゃないのよ。今日があんまり楽しくて……この一日が素晴らしいプレゼントだった! 改めて、ありがとうございます、漣さん」
陽那は欄干に置いていた漣の腕をぎゅっと握ると自分の方へ顔を向けさせた。
「ねぇ? 私は、今、
―― ?
「私は今まで楽器を奏でることで精いっぱいだった。懸命に楽器を弾いてきた。でも、最近、思うようになったの。私は私自身を奏でているのかしら?
一つ歳を取って大人になったことだし、これからは存分に自分自身を鍛錬して、美しい音を響かせたい。かけがえのない人生の旋律を丁寧に奏でたいと思っています」
そっと陽那は付け足した。
「聞いて欲しい人ができたから」
更に、言い足した。
「聞いていてくれますか?」
―― ……
こんな時どう応える?
さすがに弟の企画書にも書かれていない。
漣は思い出す――
今まで生きて来て、話したいこと、明かしたいこと、訴えたいこと……
伝えたいことはヤマほどあった。
胸に溢れる千の言葉をうまく伝えきれず、そのたびにもどかしい思いをかみしめた。
だが、それは、〈声〉でも〈指〉でもいっしょなのだ。
伝えたい思いが多ければ多いほど、強ければ強いほど、
人の取る行動は一つ。
だから――
漣もそうした。
背を伸ばし、まっすぐに相手を見つめて、
ひとつ、
しっかりと頷いた。
無音の最強解答がここに。
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