第9話 失われた帽子3
カララン!
翌日。サトウ帽子屋のドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ!」
応対の挨拶と同時にアトリエの小窓を振り返る
「兄さん、いらっしゃったわよ、
「どうも。予約した通り、早速、購入しに来ました」
「ご用意してございます」
カウンターに置いた箱の中に入っているのは、昨日までイベント会場に展示されていたあの白いベレー帽だった。
展示
「いや、まいりました。この帽子……!」
大切そうに帽子を手に取って、製作者に問う。
「どうして、わかったんです? ひょっとして
―― 読唇術はあります。
これは漣流のジョークである。
「僕は、暫くこの帽子の前を離れられませんでした――これは僕が失くしたものです」
鳥住は何を言っているのだろう? 手に取った帽子、そこに彼が見えているのはどんな光景なのだろう?
純白の雪原。一点、ポツンと残された赤いマフラー……
「小学生の僕としては仕方なかったと思うのですが、時が経てば経つほど、自分に腹が立ってくる」
手の中の帽子を見つめて鳥住は言った。
「僕は新潟県の雪深い田舎の出身でしてね。9歳のクリスマスの翌日でした。雪の中を友達と遊び廻ってマフラーを落としてしまった……失くしてしまったんです」
キュッ唇を噛む。
「気が付いた時には遅かった。冬の日は短くて、既に日暮れまぢかでした。何処で落としたのかも覚えていなくて……」
声が掠れて、咳払いをした。
「母が丹精込めて編んでくれた、クリスマスプレゼントのマフラーだったんです。泣きながらそれを告げると母は笑って、また編んでくれると頭を撫でてくれました」
―― おバカさんね。さあ、もう泣かないの。そんなのなんでもないことよ、駿ちゃん!
「でも、僕は自分が許せなくて。翌日も、その翌日も翌日も、ずっと探し回ったけど遂に見つからなかった。母は乳癌を患って入院中でした。春を待たず死んでしまったから、次のマフラーはなかった」
手の中の雪原とマフラーを鳥住はじっと見つめていた。
「兄は言っています」
一華の澄んだ声が店内に響いた。
「鳥住さんの思い出と重なったのは偶然なんです。このお帽子を、兄は、私たちの弟が読んでいた本の話に触発されて作ったんです」
サトウ帽子屋末弟、文学マニアの
『
その中の一節:22 伊香保の冬 には……』
原稿を書くためにこの地の温泉宿に籠っていた作家の元へ、突然やって来た妻と幼い娘のことが綴られている。
せっかくなので翌日、作家は妻と娘を山の中にある〈湯の元〉まで連れて行こうとする。でも戸外は氷点下7、8度! あまりにも寒くて、結局引き返したのだが、人家近くまで戻った妻が気づいて振り返る。「おや、肩掛けは?」
幼い娘の赤い肩掛けは〝影も形もなかった〟
『小説家はこう締めくくっているよ。
〈赤い女の児の肩掛けがぽっつり山の中に一つ落ちているということが、私にある不思議な「詩」を思わせた。〉 』
「ああ、そうなんですか? それは知りませんでした。田山花袋? 〈温泉めぐり〉か。美しい情景ですね……!」
有能な仕事人だけあって鳥住は目を輝かせた。
「僕も読んでみよう。今後のイベントプランの参考になる」
一華が笑って、
「でも、肩掛けをマフラーにしたのは、あなたが身に着けていらっしゃったからですよ!」
「え?」
―― 来店時の鳥住さんの姿が目に浮かんだんです。だから、あなたにインスピレーションをいただいたのは事実なんです。本文のままの〈肩掛け〉ではデザイン的にどうかなと迷った時、あなたの姿を思い出して、リボンのようにも見えるので〈マフラー〉にしました。
「いゃあ、今まで自覚しなかったけど――確かにいつもマフラーをつけてるな、僕!」
今日もグルグル首に巻いていた。
「そうか? ファッション的に気に入ってると思ってたけど、あの日失くしたものへの無意識の心理……特別な想いがあったのかも知れませんね」
ほろ苦い悔恨……懐かしい母への憧憬……
それらを埋めて、あとからあとから雪は振り積もる……
「でも、本当に素晴らしい帽子だ!」
早速、かぶってイベントプランナーはきっぱりと宣言した。
「これからはマフラーだけじゃなく、帽子も愛用することにします。どうです? 似合いますか?」
「ええ、とっても!」
―― ものすごくお似合いですよ!
人は誰でも失ったもの、失くしてしまったものほど心に深く刻まれる――
〈失われたもの〉と聞いて、あなたが真っ先に思い出すものは、何ですか?
カララン……
第三話 《失われた帽子》 ――― 了 ―――
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