第5話 懐かしい帽子2

 こういうわけでサトウ帽子屋としては珍しく採寸のため新田にった邸まで出かけることとなった。

 

 予想した通り新田邸の豪壮なこと……!

 瀟洒な大邸宅が覇を競う芦屋のその一帯でも屈指の豪邸だった。白い石に桃色がかった壁、並んだ高窓。目の覚めるようなヴィクトリアン・ゴシックスタイル。


「ようこそ! お待ちしてました!」


 やって来た帽子屋兄妹を七穂ななほは跳びついて迎え入れた。

「どうぞこちらへ――」

 増築した離れへと案内する。庭というより森のよう。樹々の葉の煌めく中を渡り廊下が伸びている。その壁と天井がコバルトブルーに塗られているところにも七穂の父の実母への愛が伝わってきた。母に、祖母に、一番似合う色……




 ―― ああ! 僕の思った通りだ! とてもよく似合うよ、洋子ようこさん!

    君にはこの青が一番似合う!


 ―― まあ、正一郎しょういちろうさんったら……

    お声が大きくってよ。叔母様たちが睨んでいるわ。


 ―― だって本当のことだもの! 僕はなんて幸せ者だろう!

    こんな素敵な人をお嫁さんにもらえるなんて! 

    僕は君を絶対、幸せにするからね?


 ―― 正一郎さん、私…… 

    私も、今日からこの色が一番好きになりました!


 ―― 洋子さん……




「おばあ様!」


 庭の花の見渡せるフランス窓の横に据えられたベッド。横たわる銀髪の老婦人は小鳥のようにみえた。優しい瞳を開ける。

「……ナナ……ちゃん?」

「ほら、今年の帽子屋さんがいらしたのよ。フフ、素敵な方でしよう? ちょっと正一郎おじい様の若い頃に似てない?」

 丁寧に頭を下げるれん

 続いて頭を下げ、一華いっかが挨拶する。

「はじめまして。サトウ帽子屋と申します。今日はお帽子の採寸にまいりました。よろしくお願いいたします」





 その日の夜。

 サトウ帽子屋三階。夕食後のリビング。


「大丈夫なの、漣にいさん?」


 ―― 何が?


「新田家の帽子の注文を請け負ったことよ。今年まで4軒もの帽子屋で帽子を制作してきて……そのどれもがお気に召さなかったなんて」

 テーブルに頬杖をついて一華はため息を吐いた。

「にいさんは気に入ってもらえる自信があるの? 正直なところ、私、心配になってきちゃった。そりゃ、出来上がった帽子をツッ返すことはないみたい。一応引き取っては貰えるようだけど……」

 妹は兄の丹精込めた帽子が封印され5つ目の箱となって老婦人のクローゼットに積み上げられることを憂慮しているのだ。

「それにしても――何が違うのかしら? うーん、やっぱり形?」

 参考になればと帰り際、七穂が渡してくれた5枚の写真を並べてみる。

 1枚は婚約記念日の写真のコピー。あとの4枚は去年までの4つの帽子の写真だ。

 この形、クロシェ型はフランス語で〈釣鐘〉を意味する。その名の通りまんまるで深いクラウン、縁には狭いプリムがつく。

 一華は目を細めて後ろからの写真バック・ショットを丹念に見比べた。

 過去の4つの帽子は、皆それぞれ想像を尽くしていて素晴らしい出来だった。

 リボンをつけたもの、コサージュを飾ったもの、同色のレースを縫いこんでいるもの、あえて何も加えずシンプルに仕上げたものもあった。素材は、これも、どの職人も記念写真から正確に読み取ってフェルトを選んでいる。そして何より共通しているのは色だ。

 鮮やかなコバルトブルー……!


 ―― 洋子さんに一番似合う色。

 ―― 私も! この色が大好きになりました……


 漣は、今日、足を踏み入れた老婦人の居室を思い出した。コバルトブルーの廊下の果て、カーテンもクッションもソファも、皆、コバルトブルーが煌めいていた。


「グラハム医師センセイみたいな話だな!」


 首にタオルを巻いた風呂あがりのそうの一声。

 冷蔵庫からアイスを取りだしながら次男坊は笑った。

「青!青!青! クローゼットに隠された青い帽子たち……!」

「なぁに、ソレ? 似たような話があるの、颯?」

 サトウ帽子屋の末子は大学の文学部に通う作家志望の文学少年なのだ。読書量も半端ではない。

「あるよ。〈シューレス・ジョー〉、作者はW・P キンセラ。映画化されて、映画タイトルは〈フィールド・オブ・ドリームズ〉だよ」

 その中の主要登場人物がグラハム医師なのだと言う。

「グラハムは、愛称ムーンライト・アーチー・グラハム。1005年ニューヨーク・ジァイアンツに在籍中、たった1試合、それも1イニングだけ守備として出場した悲劇の野球選手なんだ。遂に一度も打席には立てなかった。でも一度でもプロとしてメジャーの試合に出た、それを誇りに野球界を去り大学へ戻って医者になった。開業した故郷の田舎町で信頼され愛されてその生涯を終えた」

「そのお医者さんと帽子と、どんなつながりがあるのよ?」

「グラハム医師は愛妻家で、小さな町の洋装店は常に青い帽子を欠かさなかった。奥さんが、青が好きで、青い帽子を飾っておくとグラハム医師が必ず買ってくれると知っていたからさ」

 2本目のアイスバーを口に入れながら颯は続ける。

「グラハム医師が亡くなった時、渡しそびれたいくつもの青い帽子の箱が見つかったってさ!」

 この心優しい医師は一夜だけ復活する。自分のあきらめた夢を実現するために。そのシーン描写の美しさを颯は胸に刻んでいる。たった一行。


     〈 チザムの夏が動き出す。〉


 この短いフレーズで世界が変わるのだ。

 ああ! いつか、僕もこんな決定的な文が書けたらなぁ!


 一方、姉も頬を染めた。胸の前で手を合わせうっとりと息を吐く。

「素敵な男性ねぇ、そのセンセイ! 私もそんな人と結ばれたいわ。結婚するなら絶対そんな人がいい! 死ぬまで愛してくれる人……町中の帽子を買い占めてくれる人!」






「漣にぃ、まだ起きてるの?」


 兄は静かに顔を上げた。

 1階店舗奥のアトリエの作業台の上には一つだけ灯りがついている。裏階段があって住宅部分から行き来できるようになっているのだ。

「あんまり根を詰めないほうがいいよ。はい」

 弟が差し出したのはミルクたっぷりのココアだった。


 ―― ありがとう、颯


「フフ、僕もさ、ついつい面白い本を読みだしたらやめられなくて。一華ねぇには内緒だよ? 夜更かしは体に毒だってまた小言われるから」

 近くの椅子を引き寄せ腰を下ろすと自分のココアをゆっくりすする。

 唐突に口を開いた。


「漣にぃ」


 ―― なんだい?


「生意気言うようだけどさ。僕、今回ばかりは漣にぃの〈完敗〉だと思うな」




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