第163話 映画の創世記とシネマトグラフ

映画の創世記とシネマトグラフ(cinématographe)- 概略

シネマトグラフは、1895年フランスのリュミエール兄弟が発明した映画の映写機。現在の映画のスタイル、それは、いわゆるハリウッドスタイルと言われる映像のフィルムをスクリーンに投影する構造であり、学術的にも世界で当初の映画といわれる。そして、このスタイルは、1910年代にシネマという言葉で一般化した。


リュミエール兄弟:兄-オーギュスト・リュミエール(1862-1954)フランスの化学者,写真家,映画監督,映画製作者。弟-ルイ・リュミエール(1864-1948)は、感光材料や乾板写真の研究を当初は行っていた。

父は、アントワーヌ・リュミエール(肖像画家から、ダゲレオタイプの発生により、写真家・写真用品工場主)の家に生まれ,17歳のとき乾板を開発し,その世界的販売によってリヨン工場に繁栄をもたらした。

当時の肖像画家は、カメラ・オブスクラで描くことが多々あったが、ダゲレオタイプの登場により写真家にシフトしていった、父-アントワーヌもその1例だ。

1894年パリでアントワーヌはエジソンの開発したキネトスコープに圧巻された。そして、兄弟に映画の研究を行わせ、キネトスコープの延長上に、スクリーンに投影するスタイルのシネマトグラフが開発された。スクリーンに投影することによって、多くの観客との同時性が発生する。


1895.12.28 のグラン・カフェの地下で、映像を人々に公開した。

世界最初の実写映画は「工場の出口」である。また「ラ・シオタ駅への列車の到着」では、カメラに向かってくる鉄のかたまり蒸気機関車に観客が逃げまどったと記録されている。

このあたりもスクリーンでの同時性と集団での認知行動の要素が大きいだろう。


1900年のパリ万博で、この映画の上映も行われ、映画というロジックは定着した。そして、リュミエール協会を企画し、世界中に撮影隊を派遣、当時の世界各地の映像を多く残したが、この中には、極東の日本も含まれる。

その後、このシネマトグラフの特許は、パテ社に売却された。

この流れと競合するように、エジソンは映画撮影のための施設(Edison's Black Maria)を作り、劇映画製作に乗り出した。

また、リュミエール兄弟の方法論は、ジョージ・イーストマンのコダック社とも競った。


1897 日本ではリュミエール兄弟のシネマトグラフ映写機2台とフィルム8種が輸入され、大阪戎橋の南地演舞場で公開された。


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