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 中は不思議な感覚だった。

 確かに重力に従って下に堕ちているはずなのに、静止――厳密には、浮遊しているような、そんな違和感を抱いた。

 例えるならば、宇宙空間にいる、だろうか。


 自分の姿も目視できず、ひたすら真っ暗な世界。

 目を開けているのか、それとも閉じているのか混乱してしまいそうだった。何よりも蒼斗に重圧を与えていたのは、闇の中に蠢く無数の悪意だった。


 悲しみ、嫉妬、憎悪――あらゆる負の感情が全てを満たし、心の奥底まで見透かされるような視線もビシビシと感じた。

 目に視えないものの、堕落に導く囁きが聞こえてくる。これが普通の人間なら、今頃発狂してしまっていることだろう。


 蒼斗がこの場に呑まれないのは、人間ではない死神故なのかもしれない。

 そう考えると、今だけは自分が人間ではないことに、多少なりとも感謝した。



 亜紀は一体何処まで堕ちているのか?



 距離が縮まる気配のない糸に手をかけ、巻き取りを試みる。強く手に手繰り寄せていると――ようやく手応えがあった。

 くん、と糸が張る感触に喜びが込み上げる。終わりの見えない作業の繰り返しに心に折れそうになるところ――、ついに終着点を見た。


「亜紀さん――っ!」


 振り返るなと亜紀は言った。そして、己のことより優先すべき多くの命がその手にかかっていると叱咤し、瞬く間に消えてしまった。

 蒼斗は前に進み続けると約束した。亜紀は赦さないだろうが、彼にとって、亜紀をこうして見つけることは、己の決意に背くものではないと信じていた。



 それに――僕が生きる意味は、あなたなしには見いだせないんです。



 見つけた亜紀は死んだように眠っていた。

 鎖は手足を縛り、下へ下へと垂れ下がっている。身体を守るように包む、赤い光が闇の中で妖しく輝く。

 いくら声を掛けても反応はなかった。恐らくこの光――バチカルの力が亜紀から空間で耐えられるよう守っているだろう。

 いくら最恐の皇帝であり、アポカリプスの総帥だとしても、所詮はただの人間。蒼斗のように、耐えられるわけがなかった。



「馬鹿だと思っていたが、ここまで無計画、無鉄砲な馬鹿だとはな」

「っ、誰だ!」


 直接脳裏に語りかけてくるような声に、蒼斗は鎌を握りしめた。声は嘲笑まじりに答えた。


「お前はよく知っているはずだぜ。同じ主を持つ契約魔なんだ、仲良くしようぜ」


 同じ主を持つ契約魔――それつまり。



「バチカル、なのか?」

「ご名答」


 姿は見せていない。

 だが気配を辿り、亜紀から溢れているのを確認。声の主がバチカルなのだと理解。


 バチカルは呆れた、と息を漏らした。


「半人前が人間をこんなところまで助けに来るなんざ大馬鹿のすることだぞ、本当」

「アンタこそ、主人が地獄に堕とされたっていうのに、助けようとは思わないのか?」

「アバドンの鎖は対悪魔、しかも上級悪魔であるバチカルオレ用だ。オレが封じられてんのに、当人がどうこうできるわけねぇだろ」


 アバドンの鎖の威力は、今もなお継続中なのか、バチカルは時折息を詰まらせる。

 身体を蝕まれながら、亜紀が壊れないように五感を全て強制的に遮断し、結界を張るのが精いっぱいなようだ。


「半人前、悪いことは言わねぇ。ここから早くお前だけでも出ろ。今なら、お前一人だけでも現界に戻るくらいはできるはずだ」

「そんなことできるわけがないじゃないですか! 何のためにここまで来たと……!」

「地獄の最深部に着いちまったら、後戻りできなくなっちまうんだよ」


 そうなれば鎖は亜紀共々、バチカルを繋ぎとめ、完全に地獄に幽閉されてしまう。

 鎖がなくても、このまま一緒に堕ちれば蒼斗も出られなくなってしまう。

 何が何でも蒼斗を生かそうとした主人の意思を汲み、バチカルは告げた。


「大体、なんで皇を助けようとするんだよ、お前」


 皇というのは亜紀の呼び名だろうか。


「え?」

「皇はオレに似て悪魔そのものみてぇな性格だ。お前に理不尽なことばかりした上に、自分本位の行動しかしねぇ。……こんな奴が離れて、普通なら清々するだろ。命張って守る必要があるか?」


 確かに、出会って早々に首輪に繋がれ、ペット扱いされた。

 捻くれた性格で、他人が苦しむことを悦とし、目的のためならどんな惨いことでもする。

 自分の信じるもの以外は全て切り捨てる。

 他人に恨まれることだってした――けれど。



「僕は命を張るか否かではなく、守る必要のない命は存在しないと思います」



 たった数か月しか経っていない。その短い日々の中で、蒼斗はずっと、誰よりも傍で亜紀の背中を見てきた。

 反発したくなることは吐き捨てるほどあった。何度、この首輪を外そうと試みたことか。

 一見血も涙もない人間のように思えるだろう。

 だが、蒼斗は理解した。


 変化には、必ず犠牲が伴う。その規模が大きければ大きいほど、なおさらのこと。


「御影は大きな犠牲を以て今の実権を握った。国を動かすほどのことをするには、やっぱり奴と同等のことをする必要があるんだろうな」



 ポツリ、と亜紀がそう、言葉を溢したことがあった。


「世界は闇に溺れている。人の数だけ正義は存在するのに、それを貫き通すには、いつだって犠牲がある……皮肉なもんだぜ」


 鼻で嗤う亜紀。蒼斗は、そんな亜紀の横顔が寂しげに見えた。外でこんな表情は、一度たりとも見せたことがなかった。



 蒼斗は知っていた。

 本当は、犠牲のない方法を模索し、徒労に終わり、己の信念を諦め……せめて最小限におさえられる最善の選択を採り、妥協をするしかなかったことを。


 蒼斗は知っていた。

 狂魔の犠牲者、戦闘で失った尊い部下の命。人知れず彼らの死をひとり悼み、していたことを。





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