幸せな目覚め
松本昆布
前編
『Kさん。あなたの実験は間もなく終了します。三十年の冷凍睡眠が終わり、目覚めるのです』
カプセルの前で、白衣の女性が小さく呟いた。感情を押し殺した、機械的な声だった。
『……やっと、この日が来たのです』
その顔に笑みはなかった。
*
精緻に整えられた、壁も床も真っ白い一室。部屋の中央に鎮座するコンピュータが、一層大きな駆動音を上げる。それに遅れて、気の抜けたアラームが場を埋める。
大仰な、二メートルほどの、機械仕掛けのカプセル――何世代も古い型の冷凍睡眠装置が、その蓋を静かに開き始めた。
その中にいたのは一人の中年の男だった。機械の中に横たえた細い身体は、外の空気に触れてから数秒経った後、ほんの僅か身震いをした。
続いて目が開く。手足が恐る恐る動き出す。やがてその男は、自身の目覚めを確信したように、少しずつ頬を緩ませた。
「……おはようございます、Kさん。身体の調子はどうですか? おかしなところは有りませんか?」
「……快適だよ。うん……そうだな、喋るのも問題ないみたいだ」
装置の隣に立って彼を見下ろしていた白衣の女は、Kと呼んだ男の声を聞いて頷いた。
「こんにちは。私は現在あなたの実験の担当となっております、Nと申します。あなたが眠られた当時の責任者は、数年前に亡くなってしまったもので」
Nはそう呟いたあと、ちらりと横に目を向けた。その先には壁に埋め込まれたデジタル時計があり、現在の時刻と日付、そして年度を正確に指し示していた。
「そうか、本当に……三十年も眠ったんだな。こうまで身体に変化が無いと、実感がないが」
「眠る前と同じ状態を保っての長期冷凍睡眠――という趣旨の実験でしたから。おそらくこの研究所の外に出れば、実感が湧くかと思われます。技術も人も町並みも、相応に変わりました」
「そうだな……社会はもちろん、他の人はみんな三十も歳を取ったわけだからね。同級生はもう葬式も近い老人で、若造が同級生か。君なんか、僕が眠った後に生まれたんじゃないかい? おっと、女性の年齢を聞こうとするのは今の時代でも失礼かな? へへ」
寝起きにも関わらず軽妙な調子で喋る男に、Nは愛想笑いも返さなかった。
「歩行も問題は有りませんね」
二人はその後、しばし実験室の中で身体機能の確認を行った。身体に異常がないことを確かめると、Nは部屋の戸を開ける。
「この後、脳機能に関しての検査を別の部屋で実施します。今の時代がどんな様子であるかも、そこでゆっくり確認していただきます」
KはNの後に続いて部屋を出て、しばらく廊下を歩いていた。人工物だけで作られた、無機質な道。好奇の目をあちこちに向けていたKは、途中ある一室の前で立ち止まった。
「どうかされましたか?」
「僕の他にも、眠っている人が沢山いるみたいだね。研究所だから当たり前か、へへ」
扉にはガラスが付き、中が見えるようになっていた。その部屋には、Kが先刻まで入っていたものと酷似したカプセルが多数並べられており、その全てに緑のランプが灯っている。冷凍睡眠が障害なくできているサインである、という睡眠前に聞いた説明をKは思い出していた。
「こちらの方々は、Kさんとは状況が異なっています。Kさんの頃は、まだ『方法を確立する実験』として行われていました。しかしそれ以前から行われていた実験の成果もあって、手段は確立、安全性も概ね確保されました。今は残った被験者の方々を観察しつつ、実用化を進めている段階です」
Nの話を聞きながら、Kは一つ一つのカプセルを眺める。それぞれの蓋にはまた窓がついており、中に入っている人間の顔が伺えた。じろじろとそれぞれの顔を観察していたKの後ろで、Nは少し顔をしかめた。
「ん、あれ?」
そんな最中、Kが急に小さな声を漏らす。変わった何かを見つけた、と言わんばかりに。
「どうしました?」
「いやね、知ってる顔があったような気がして……」
そう返事をするKの表情は、朗らかさが打って変わって曇ったものになっていく。
「偶然だよね、へへ」
しかし最後には、手を頭に当てながら笑い飛ばした。顔の節々の皺が際立つ。
Nはその笑顔を見て、自身は仏頂面を崩さないように努め、また歩を進め始めた。
*
検査は翌日にも跨って行われた。全ての検査が終わってから、数時間が経った後。
「……記憶障害もなし。脳機能は、先代研究者の想定通りに保持されているようです」
「ありがたいね、へへ」
Kは研究所内の小部屋で、ゆっくりと休息を取っていた。柔らかいソファに腰掛けて、変わらぬ笑い声を上げる。
彼の前には低いテーブルが置かれていて、その上には大量の書籍があった。大衆向けの雑誌から医学書、法律書に至るまで、そのラインナップは多様である。
そしてその横には、空になった複数の食器とコップ。昼食として出された食事と飲料は、N自身の手で作られたものだった。Kはその出来を褒めつつも、「三十年経っても食事の味は変わらないね」とのコメントを残していた。
「この研究所ですべき調査は終わりました。あなたは今後、別の施設でもうしばらく経過観察や他の検査をさせていただきます。日常生活に戻るまで時間がかかってしまいますが、ご理解ください」
「ああ、うん、問題ない。元より独身貴族、心配するような親戚も残ってなかったからね、へへ」
いい加減彼の笑い声に慣れてきたNは、今の笑いだけが少し自虐を帯びたもののように感じた。
「迎えがもう少しで来ますので、それ以降は別の人間が話をします。何かこの研究所について質問等あれば、いま伺いますが」
「あ、それなら一つ。自分のこととは関係ないけど」
Kは無意識に手元の書籍を手繰り寄せながら言う。柔和な表情はまだ崩さなかった。
「この用意してもらった資料でさ、現代の世界情勢とか文化とか技術とか、そこそこ分かったけどさ、読んでて疑問が湧いてきて」
少し溜めてから、Kは問いを口にする。
「昨日のあの部屋の人たち、なんで眠ってたの?」
Nの細い目を見つめて、Kは話す。あの部屋の人たち。カプセルの中で眠っていた他の人間のことを指しているのだと、Nはすぐに察する。
「この本の中で、『医学が飛躍的に進歩し、病死が圧倒的に減った』って感じに書かれてる部分があって。多くの致死性の病気でその進行を抑える手法が確立されて、死に至るケースが稀になった、ってことらしいけど。僕が眠った頃は、難病が治せないから治療法が見つかるまで眠る、って動機が多かった。でもこんな時代になったなら、その理由で眠る人はあんまりいないんじゃないかと思って」
真剣味を帯びるKの言葉を、Nは黙って聞いていた。Kが喋り終えてからも、少し間を空けて、考えこむようにしてから彼女は話し出した。
「Kさんも、健康でありながら眠ったのですよね? 人それぞれ、事情はあるものです」
Nは実験に関する資料の中の、ある記述を覚えていた。Kの身体は至って健康であったが、当人の志願により被験者となった。未来に興味があるから、というのが、当時の彼が語った動機であった。
「Kさんの場合は、何故眠ったのですか?」
Nはその記述を踏まえた上で、少しはっきりとした物言いで逆に問いかける。彼女もまた、Kを真っ直ぐに見つめていた。
Kは一瞬だけ神妙な面持ちになって、語り出す。
「逃げるためさ」
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