第7話 死ぬかと思った
優しい振動がし、びくりと全身を揺らすように起きた。自分の現状が上手く掴めず、ぼやけている漂白された幹と暫しの睨めっこ。男達から逃げている途中、川に流されたところまで思い出し、いつの間にか寝てしまっていたのだと気付く。極度の緊張のせいだろうか。
流木からまた、小突かれるような振動が伝わってくる。顔を上げると、川は先程の激流の面影は無く、緩やかに湾曲するように流れていた。私が掴まっていた流木の先端は岸に乗り上げ、一回り小さな流木が水面で
寒気が走り、思わず身震い。自分の両脚を見れば、水に太腿まで浸かっている。そこそこに暖かいとは言えども、冬の山の川水。さっさと上がろう。
上手く動かない指は、半乾きで固まりかけているシャツの袖の結び目に苦戦するものの、なんとか解く。枝に跨ったままだと足は川底に届かない。だが、目と鼻の先に岸があるのだ。心配する程の深さはあるまい。
枝に腹ばいになり、それを軸にして体を反転させる。水に入ると、右腕に鈍い痛みが走る。傷はどうなったのだろう。
流木の隣に立ち、腰まである水の中、幹を伝って岸を目指す。時折、震えで体が強張るが、すっかり昇り切った太陽がポカポカと温かい。日の当たる場所でじっとしていれば、まともに動けるくらいまで回復するかもしれない。足を引き摺る様に岸に上がる。衣服から水を滴らせながら、完全に乾き切っている大き目の流木に、やっとこさの思いで腰掛ける。
震える両手を合わせるように鼻を挟み込み、目を瞑ったまま眉間まで指先を撫で上げる。深く吐き出された息が、掌に囲われた空間を反響しながら温める。吹き出された息の音と熱から、生きている実感が湧く。
死ぬかと思った。
疲労困憊。お腹も減っているし、寒いし、体の至る所は痛むし、右腕の傷はやはりと言うべきか、まだ血を流している。だというのに、私は滲み出る様な嬉しさを噛み締めていた。男達に追われ、川で溺れかけていた時、生まれて初めて死を意識した。諦めはしなかったが、心のどこかで最後の最後まで足搔いてやろうという覚悟をしたように思える。
それが今。寒い、痛い、苦しい。
生きているのだ。私は、まだ、生きている。
まだ、足搔ける。
冷え切っていた両脚の感覚が戻ってくる。良かった。歩けそうだ。ぐじゅぐじゅに濡れている靴を脱ぎ、座っている流木の上に並べる。少し乾けば、軽くなるのではないだろうか。未だに脱ぎかけだったシャツの袖に右腕を通し、肘まで捲り上げて傷口を改める。肌が少し乾いてきたせいか、引き攣る皮膚がより一層一文字の傷口を開かせている。血はどくどくとまではいかないが、じわじわと出ていて、右袖は川の水と血で桜色に染まっている。暇を持て余しながら皮膚の下の組織を眺めていたが、気分が悪くなってきたので、目を逸らす。
大学院では主に菌の研究をしているが、ラットも使う。血や臓物には慣れていたと自負していたが、自分の物となると話は違うらしい。実のところ、菌の研究者としては、傷口が感染しないかがもっぱら気になる。気になるのだが、アルコールもない中、日光消毒が精一杯だ。
あまり期待をせず、ズボンのポケットに手を突っ込む。川に入る前に眼鏡を仕舞っておいたのだが、あんなに水の中で転がされた後、残っているとは到底思えない。だが予想と反し、指先が硬い物に当たる。取り出してみると、一枚のレンズがあった。フレームを無くしたそれは、奇跡的にもひびはおろか、傷さえも入っていない。暫くレンズを通して鮮明な景色と感動を噛み締める。やがて、ポケットにそっと戻し、ズボンの上からレンズの存在を確認する。
帰ったら。帰ったら、新しい眼鏡を作ってもらおう。
いつの間にか震えが止まっている。本当に十二月とは思えない暖かさだ。まるで春の陽気。靴を履き、生乾きの服装のまま立ち上がる。気合の一呼吸。
さて、もう少し足搔いてみますか。
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