第6話 周辺視と逃げ
あの時、焚き火に向かって歩き出した私の心は希望という光が瞬いていた。人だ。これで帰れると、素直に思った。今となっては、安直な考えだったかもしれない。
一応、少し進んだ所である可能性に気付いた。
良い人とは、限らない。
考えてみれば、おかしな事なのだ。私は一体どうやってここに来たのか。自分の足でここまで来ていないのだとすれば、無論誰かに連れて来られたという事だ。確かに十時間もあれば、日本全国、大抵の所には行けるだろう。それこそ、人気の少ない山奥だって行ける。
しかし、いくら徹夜明けと言え、疲れが溜まっていたとしても、車やら電車やらに乗せられれば、私でも起きる。気付かず移動となると、睡眠薬などの類を服用したという疑いが浮上する。
つまり、何らかの事件に自分は巻き込まれたのではないか、というのが一番有力な説なのだが。だとすれば、私が何も無い場所で、拘束もされずに起きたというのは、不自然なのだ。
犯人の目的は? まさか女性一人を攫って、山奥に放置するのが目的ではあるまい。何ら得にならない。暴行という線は体に違和感を感じていない時点で消えている。するとなぜこんな山中、わざわざ道も無いような場所に私を運び、何もせずに私を捨て置いたのか。自分の置かれている状況について、二つの可能性に思い当たる。
一つは、犯人達の目的は、私の存在を利用する事で得られるものであり、私自身から得られるものではなかった。つまりは、私が寝ている間に犯人達の目的は無事果たされ、私は唯のお荷物と化した。何も知らない、見ていない私を、殺す理由も特に無いので、適当な場所で置いて行かれた。
二つ目は、私は何らかの手違いであの場所に置いて行かれた。車の荷台に積まれていたのが、悪路を走る弾みで荷台から転げ落ちた、とか。まぁ、体に打撲が見られないので、実際はそんな荒々しい事は高確率で起きていない。飽くまでも例えである。しかしこの場合、犯人達の目的はまだ果たされていないという事も有り得るので、私は見つかり次第、捕らえられるかもしれない。
そしてもう一つ。今の状況が、奇妙だと感じる理由。この状況下で、私が先程から抱えている枕の存在は異様なのだ。どこからどう見ても、これは私のアパートにあった、毎日使っている枕。カバーの色にこのくたびれ加減は、間違いようが無い。しかし人一人誘拐するにあたって、果たして枕も一緒に持ち去るだろうか。
首を捻るが、満足な答えは浮かばない。だがこの謎については、さほど緊急性を感じない。取り敢えずは保留だ。
それより、今考えるべきなのは、私の置かれている状況の二つの可能性。用済みか、間違いか。
どちらであれ、もし私を攫った犯人が焚き火の主であるのなら、こちらとしてはあまり会いたくないというのが本心である。一度は自分に害を為そうとした連中だ。いつ、また牙を剝くか分からない。他に助かる手立てがあるのならば、自分から火に飛び込むような真似はしたくない。
更に言うならば、第三者だとしても無害とは限らない。悲観的にはなりたくないが、いくらテコンドー黒帯保持者と言えども、女性の夜の山の一人歩きは好ましいものではない。
ここは慎重に行こう。まずは声を掛けず、遠目から観察。良い人そうなら助けを求めて、そうでなければ、その場から離れよう。安全第一。強いて贅沢を言うならば、携帯電話の一つや二つを拝借してから、その場を去ろう。
点滅する間接照明の様に焚き火の灯りが、一塊の木々を照らしている。大きな岩に憚れて、直接には焚き火とその周りに居るであろう人達は見えない。微かにだが、朝方を知らせる鳥のさえずりに紛れて、複数の男の笑い声が聞こえる。
胸は期待と緊張で一杯だ。足音を極力たてぬよう、細心の注意を払いながら、声の方へと近づく。
山肌に突き刺さる様に、巨大な岩の一角が水平よりやや上を指す形で固まっている。上は平らのようで、そこから男達の様子を伺えるだろうが、それには及ばない。しゃがんで、横から顔を覗かせれば、充分見えるだろう。枕を右脇に挟み直し、岩に手を付ける。冷たくざらつく感触を確かめるように岩肌を撫でながら、向こう側が見える場所までにじり寄る。そして、反対側から木々に反響して届いてくる声の主たちを見極めるべく、ひょいと顔を覗き出す。
白んできた空、満月に近い月、加えて焚き火と光源が揃った事で、男達の姿をはっきり捉えることができる。焚き火を囲むように六人程の男達が寝転げていたり、地べたに座り込んでいる。雑談をしているのか、数人が時折笑いを織り交ぜながら、簡素な水筒らしき物から飲んだり、良く分からない何かを口に運んでいる。横になっている人達は眠っているのか、話には参加していない。
理解できる事から脳が処理していっているが、私は自分でも分かるほどに困惑していた。男達は皆、外国人の様なのだ。彫りの深い顔の造りや、黒を始め、赤、茶色に金と色とりどりの髪。座ってはいるが、それでも分かる彼らの大きな体躯は日本人のそれとは掛け離れている。何より私には彼らの話している言語が見当もつかないのである。
日本語ではない。アメリカに留学した経験もあるので、英語でもないと断言できる。だが、発音がどこか重いドイツ語や、癖のあるロシア語にも聞こえない。喋る速さが特徴的なイタリア語、スペイン語、ポルトガル語も除外するべきだろう。鼻に抜ける感じもない事を考慮するとフランス語という線も薄いと思われる。馴染みの無い顔立ちからアジア勢を選択肢から外すと、残るのは白人系アフリカ人しか思い当たらない。
まさか私は外国にまで連れてこられたのだろうか?
一抹の不安が過るも、観察を続ける。
彼らの発している、言葉と思われる不可解な音に加え、服装や持ち物が、彼らの素性を更に謎めいたものへと仕立て上げている。薄汚れている身なりやツギハギを縫い合わせるように作られた服は、ホームレスを彷彿させるが、所々あしらってある鈍く光る金属や動物の毛皮や骨と思われる装飾品で、どこか野性味が溢れる雰囲気を醸し出している。
テントは見当たらないし、キャンプに来ている訳では無さそうだ。地元の猟師だろうか。いくら田舎でも、こんな自然に帰ったような生活で狩りをする猟師など居ないだろうと思う反面、消去法ではそれ以外が残らない。
しかし、困った。これでは彼らが友好的に接してくれるか、判断材料が揃いにくくなるだけではなく、言語の壁という障害が立ちはだかる。声を掛ける事すら気後れしてしまう。誰か一人でも英語を喋れれば、良いのだが。
男達の様子を窺っている私の目は、一人の座っている男の腰に携えられている物に釘付けになる。それは刃渡り四十センチはあるだろう小剣だ。実物のハンティングナイフを見たことが無いが、隣に並べたらさも可愛らしく見える事だろう。凶器という言葉がひどく似合う。恐らく、対人用。
口の中の水分が一気に無くなるものの、比較的冷静を保っている。道場で時折行われる暴漢に襲われた時の対処法の授業で、ナイフを目にした事があるお陰だろうか。あそこまでの大きさではなかったが。先生の教えが蘇る。
対多数の時も、武装している相手の時も、まずは不利であるという事実を忘れてはいけない。どちらの状況でも一番最初に検討すべきなのは、避けて通る道。つまるところ、今の私の最善の選択は逃げの一択である。
まるで子育て中の母熊と対峙している心境だ。唇を湿らせながら、ゆっくり、退く。刺激しないように、見つからないように。今になって明るくなってきた空が恨めしい。それでも、ゆっくり、慎重に、岩の陰に徐々に体を隠していく。
右目は完全に隠れた。息を殺し、瞬きもせず。唯々、退く。
風が吹く。一瞬だけ、ふっと頬を撫でるような弱い風。
しかし充分だった。
縛っていない私の髪が微かに靡く。肩上までの短めの長さが災いする。光と動きに敏感なのは、周辺視。
座っている男の一人が顔を上げ、バチリと目がかち合う。男は目を見開き、僅かに驚嘆する。だが次の瞬間、私は背筋を下から舐め上げられるような恐怖に、間髪入れずに来た道を引き返していた。
本能が喚き散らしている。逃げろ逃げろ逃げろ。
笑ったのだ。男は。
言葉が通じなくとも分かる。本能的に分かる。あの笑い方は、言葉で言い表せない程の脅威が含まれている。
男はがなっている。仲間を起こし、武器を手に私を捕らえる気だろう。突如、逃げている私の左肩が上から勢い良く叩かれる。ふらつきながらも、地に手を着き、自重を押し上げる様に体勢を整えようとする。再び走り出そうとする私の肩に手が掛かる。振り向くとすぐそこには目が合ったのとは別の男。肘で素早く内側から弧を描き、男の腕を振り払う。
私が覗き込んでいた岩の上に居たのか。迂闊だった。
男は払われた右手に代わり、左手を私の首に伸ばしてくる。咄嗟に右手で払う。だが相手もそれを予測していたのか、喉元ではなく右手首を掴んでくる。ぐいっと腕を引っ張られると同時に、脇に挟んでいた枕が抜け落ちる。反射的に自由な方の手で枕を掴み、男の顔目掛けて放る。枕では大したダメージにならないだろうと思考が追い付いた頃には、私の左手は既に投げる動作から殴る動作へ切り替えていた。
固い拳を作った左手を腰に据えて、やや不安定ながらも正拳突きの構えをとる。練習で身に浸み込んでいる一連の動きが実に滑らかに続く。未だ離さない右手を使い、男の引き寄せる力に加え、自らも宙に飛び上がり右脇腹を締めるように素早く間合いを無くす。構えた拳を捻りながら、腰から正拳を放つ。飛び蹴りならぬ、飛び殴りで男の顔面に枕もろとも一撃喰らわせた。気絶するまではいかないが、男は予期せぬ反撃に怯み、手を離した。この隙を逃す手は無い。
全速力で私は今度こそ男達から逃げる。ところが、無計画に走り出した私は早い段階で息切れを起こした。このままでは追い付かれてしまう。ふと、中学時代に読んだとある本を思い出した。山猫の一生を描いた、特に面白くもなかった小説。途中、猟犬に追われる描写があったのだ。山猫は全速力と、休む為に少しペースを落としてと、二つの走り方を交互に実施する事で、長く速く走り、逃げ切る事に成功した。果たして、本当に有効な走法かどうか不明だが、闇雲に走り続けるよりは、ましに思える。先を急ぎたがる頭で渋りながらも、完全にばてる前に走る速度を落とす。
そこからは兎に角、一心不乱に走り続けた。
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