第42話

 夕方の説明で、手術が明日であると伝えられた。

 説明の後、血液検査や心電図等、術前検査といわれる一連の検査を受けた。

 検査も終わってしまい、今さら迷いはないつもりだったが、落ち着くことができない。明日までどんな風に過ごしたら良いのか分からなかった。手術までの時間が果てしなく長く感じた。


 部屋に帰ると彼女は眠っていた。

 いつものように、ベッドの側に座り、彼女の胸が上下するのを眺める。

 なぜだろう。彼女が起きているときより、眠っているときのほうがずっと幸せだ。

 彼女が眠っているときだけが、ボクが彼女を独り占めできる時間だからだ。 

 それなら、彼女がずっと眠っていたらボクは幸せなんだろうか? それは胸の上下する彼女の死体を手に入れることに近い気がした。


 外から強い雨の音がしていた。


 生まれて最初の記憶は強い雨の中、疾走する父の背中にしがみついているときのものだった。

 高熱を出したボクを病院に連れていくために、車から降りた父が病院の入り口までを一刻さえ惜しんで走ったのだった。

 振り落とされそうになりながら、必死にしがみついていた。

 高い熱でもうろうとしているにも関わらず、安心感があった。

 それは最も幸せな記憶でもあった。

 いつのまにか父のことを“お父さん”と呼ぶことができなくなった。父に向かっては“あなた”、他の人に向かっては“父親”と呼んだ。

 父親は家を出るときボクに向かって「いつか分かるから」と言ったが、未だに何が言いたかったのか分からない。


 雨はさらに激しくなり、地面を叩きつけるような音が響き始めた。


 ある晩、母が土砂降りの雨の中、全身びしょ濡れで帰ってきたことがある。

 どう見ても濡れ方が雨のためだけではない。海岸で入水自殺を図ったのだという。

 一応理由を尋ねると宗教団体で知り合った“良くしてくださる方”に、ボクたち親子が寄生虫だと言われたらしい。経済的に援助を受けていたからだろう。

 ボクは傘立てに刺さっていた父のゴルフクラブを持ち出し、自転車で“良くしてくださる方”の家に行った。本人は不在で、代わりに駐車場に止めてあった車のフロントガラスを滅茶苦茶に破壊した。雨が激しいので車の中が濡れてしまうなと考えたのを覚えている。

 その後、児童相談所に母が相談し、ボクを施設に預けようという話になったが、“良くしてくださる方”にボクが土下座して謝り、許してもらった。


 雷が鳴ると雨が激しくなる。何度も連続で雷鳴が響く。

 梅雨が開けるのかもしれない。


 もうすぐ、ボクと彼女の脳は一つになる。


 いつの間にか座ったまま眠っていた。


 寝ていた彼女がベッドの中に沈んでいく。彼女が助けを求めて叫び声を上げる。

 ボクは膝を抱えて座ったままで動かない。

 彼女が手を伸ばして助けを求める。こちらを見て懇願する。

 それでもボクは動かない。彼女のことをじっと見ている。

 さらに彼女はベッドに飲まれていく。

 とうとう、最後にはマットレスから突き出た腕だけになった。

 ボクは腕を見て、それが右腕なのか左腕なのかじっと考え続け、結局彼女を助けなかった。

 目が覚めて、ベッドの上で寝息を立てている彼女を見る。

 夢だったと気づいた。


 もう一度、彼女の呼吸を確認する。大丈夫だ。ちゃんと生きている。

 彼女のことを考え、彼女のことで胸をいっぱいにする。

 彼女の呼吸を数え、彼女の吐く息に自分の吸う息を合わせてみる。こうやると、彼女の吐いた息が、自分の中に取り込まれるような錯覚に浸ることができる。

 ボクは変態だ。

 彼女のことが好きでしょうがない、変態だ。

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