第35話

 彼女はベッドの上で眠っていた。

 呼吸の有無を確かめる。

 朝の四時。鳥が鳴くにも、まだ早い。

 彼女の命が夜と一緒に消えてしまわないようにと祈った。


「どこ行ってたの?」

「ちょっと散歩に」

「嘘が下手ね。そんなことしたらすぐにナースに捕まっちゃうわ」

 彼女はそれ以上の追求はしなかった。


「独り言を言うのね。誰かと話してるのかと思った」

 最近、独り言が増えている。おかしなことを口走って、聞かれていないか気にかかった。

「誰とも話してないよ」

 つい、強く否定してしまう。

「怒ってるの?」

「怒ってないよ」

「いつも怒ってるみたいに聞こえる」

「本当に怒ってないよ」

「ほら、怒ってる!」

 それじゃ、どれくらいの声の大きさで、どんな顔をして言ったら良いのだろうか? 彼女と話すと感じるこの不自由、この苦しさはいったい何だろう?


「いつも独りで考え込んで、何も言わないからあなたのこと何も分からない」

 そう言って彼女は頭を抱えてかぶりを振った。

「ねえ、わたしどうしたら良い? 本当にどうしたらいいの? こういうふうにしていなさいって命令して! わたし、その通りにするから!」

 彼女の“ジェットコースター”が走り出した。いつも通り、止め方は分からない。多分、もともとブレーキなんかついてない。

「このままだと、どんどん崩れてしまう! カチッとまわりを固めてないと、わたしが流れてしまう!」

 ボクにはどうしようもない。どうしようもないとも言えない。彼女の前だと固まってしまう。あらゆる場所に罠がしかけられているような気がして、一歩が踏み出せない。言葉を選び過ぎて何も言えなくなってしまう。結局、ボクも何がしたいんだろう? どこまで行っても何がしたいのかなんて分かりそうにない。ボクこそ何をしたら良いのか命令して欲しい。


“彼女に脳をあげる”


 悪くない考えだ。それ以外に自分をうまく料理する方法レシピを思いつけない。


「どうしたの?何か言って。独りで考えないで。黙ってるのが一番怖い」

「分かったよ。ボクがこれからしゃべり続けるから聞いてくれる? ……あるところに罪深い男がいてね、終身刑になってしまったんだ」

「良い物語の出だしとは思えないけど……それって殺人とか?」

「うーん、そんなものかな。それで、ずっとツマンナイとか思いながら、生き続けてたんだけど、ある時すごくかわいいアイドルに憧れてね。ずっと、狂ったように24時間彼女のことばかり考え続けるようになったんだ」

「気持ち悪い男ね」

「……そうだね。それで、ある時、刑務所の中で見たニュースで彼女が重い病気になったことを知るんだ。その病気はめったにない病気で、他の人から内臓をもらわないと助からないことが分かったんだって」

「それはつらいわね」

「うん。彼女は本当につらくて毎日そのことで頭がおかしくなりそうなんだ。自分でそのままだと死ぬことも知ってて、その恐怖とも戦ってる。毎日が地獄のような日々なんだ」

「何とか治してあげたらいいのに」

「男もそう思ったんだよ。何とか治してあげたい。何とか救いたいって。だから、内臓をそのアイドルにあげることにしたんだ」

「どうやって、その子に自分の内臓を届けることができるの?」

「そういうことの仲介をしてくれる人たちがいるんだ」

「便利だけど、変わった人たちね」

「そう。とても変わっているんだ。……でも、一つ大きな問題があってね。その内臓は人間の体の中でもすごく大切な部分だったから、男からそれを取ると彼は死んでしまうんだ」

「じゃあ、その男の人は自分の命をかけて、彼女を救うわけね」

「うん、実際その男はアイドルに自分の内臓をあげて、そのまま死んでしまうんだ」

 ボクは息を整えてから、問いを口にした。

「そのことを知った彼女はどんな気持ちになるだろう?」


「待って、その男の人はどんな人なの? 終身刑になってるってことは悪い人よね」

「うん。まあ、今は改心したようだけどね」

「終身刑だから、生きていても刑務所の中でずっとツマラナイ生活をするのよね」

「そうだね。アイドルの彼女に比べるとずっとツマラナイかもしれないね」

「分かったわ。答えはあるの?」

「いや、どんな答えも正解で、不正解かな」

「ずるいわね。でも、彼女の気持ちはね、きっと……」

 彼女はボクの目をしっかりと見つめながら答えた。

「ずっと感謝して生きていくと思うわ」


「分かったよ。ありがとう」

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