第19話

 部長が連れて行かれたときとは違う特大の目覚まし時計のような音が廊下に鳴り響いた。


 看護師がベルを止めるために管理棟に走ったことを期待して、詰所を挟んで反対側の廊下へ向かう。 

 思った通り、普段なら看護師が座っている位置はもぬけの殻で、詰所の前を通っても見咎める者はいなかった。全速力で女性部屋が並んでいる廊下に入り込んだ。頭の中ではミッションインポッシブルのテーマが鳴っている。

 彼女がいるはずの特別室は長い廊下の突き当たりにあった。

 扉の前で息を整える。

 取っ手をつかみ、扉をスライドさせようと力を込める。

 動かない。

 …………

 んーっと、さらに力を込めて引っ張ってみる。何度繰り返しても結果は同じだった。

 鍵がかかっている。


 そんな、バカな……バカはボクだ。どうして、予想しなかったのだろう。

 ボクがいる普通の病室は、精神科という特殊な病棟のためか、扉の鍵がない。

 しかし、彼女がいるのは特別室だ。鍵があることくらい考えるべきだった。

 もう一度心の中で深く息を吐きながら言う。

 ボクはバカだ。

 

 “扉を叩いて彼女に呼びかけるか?”

 無茶を言うな。

 仮に彼女にボクの声が届いたとしても、鍵を開けてくれるわけがない。

 

 そのとき、遠くからかすかに物音がした。音はだんだん近づいてくる。

 音の輪郭がはっきりするにしたがって、それが足音であることが分かる。

 看護師だ。間違いない。 

 

 終わった……ボクも部長と同じように御輿みこしになって、扉の向こうへ消えていくのだ。


「ちょっと、アンタ!」

 小声で鋭く呼ぶ声がした。

 服を引っ張られてバランスを崩しそうになる。

 身をよじって相手の顔を確認した。

 この人は確か……“ユウさん”だ。


 そのまま他の病室まで引きずられていく。

 

「アンタ、バカねえ。いきなり来たって入れるわけないでしょ? 夜這いにしたってもうちょっと上手いやり方があるでしょ?」

「いえ、ぜんぜん! そういうワケじゃなくて」

 否定するが、ユウさんは聞いてくれない。

 どんな必死に言い訳しても「まあいいから、いいから」といなされてしまう。

 彼女は何度も「バカねえ」を繰り返した。ボクは「すみません」と謝り続ける。


 いきなり病室の扉が開いた。

 廊下から漏れる明かりを背中に受けて、女性看護師が立っていた。

 チッ

 ユウさんの舌打ちする音が聞こえる。


「すぐに出なさい」

 強い怒りは感じないが、有無を言わせない毅然とした態度だった。

 ボクはうなだれて病室を後にした。

 その看護師は“山口さん”といった。

 姿勢が良いせいか、ボクよりずっと大きく見える。

 彼女は何も言わず、早足で廊下を歩いた。置いて行かれないように、つまづきそうになりながら必死についていった。


「ベッドに戻りなさい」

 部屋の前まで来ると、さっきより柔らかい口調で彼女が言った。詰問され、罰を受けるものと思っていたので拍子抜けした。お礼を言おうとしたが、“あっ…うっ…”と言葉にならない呻きが洩れただけだった。

 

 ボクがベッドで横になり、布団を被ると扉は閉められた。

 音を立てないようじっとしていた。

 蟻が全身を這うような後悔の感覚が襲う。

“ぼくはバカだ、ぼくはバカだ、ぼくはバカだ……”

 百回くらい言ったが、全然足りなかった。実際、どうしようもない、バカだった。

 

 いつまでも耳元で非常ベルが鳴っている気がした。両手で耳を覆って、音が遠ざかってくれるのを待ち続けた。

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