茨と牢獄
聖都の地下には、大迷宮が広がっている。
はるか昔、銀翼の女王はこの迷宮に水底の生命たちを隠して戦いをおこなっていたという。
女王の遺骸の下に広がる迷宮は教会によって厳重に管理されている。
罪人を閉じ込めるする牢獄として。
そして、ヴェーロもまたここに閉じ込められていたことがあった。
灰の
かつて牢獄の中からその光景を見ていたことを思い出しながら、ヴェーロはヴィーヴォに手を引かれて通路を歩いていた。
「僕ならともかく、なんで
木製のランタンを持ったポーテンコにヴィーヴォは問う。自分たちの前方を歩くポーテンコは、
「見た方が早い……」
ポーテンコの持つランタンが前方へと向けられる。照らし出された周囲の光景に、ヴェーロは息を呑んだ。
「ヴェーロっ!」
ヴィーヴォが自分へと振り返り、体を抱きしめてくる。たぶん、眼の前の光景を自分に見せたくないのだ。
腐った肉の香りがする。
そこに照らし出されたのは、通路の両脇に設えられた牢獄だった。その牢獄の中に閉じ込められている人々がいる。
いや、それは人の形をした違うものだった。
彼女たちは一様に背から翼を生やし、呻き声をあげながら恨めしそうな眼差しをこちらに向けている。まるで蝶の標本のように翼を
虚ろ竜の少女たちだけではない。
竜の形をした
それは上半身だけが竜の形をしていたり、竜の体から人の足が無数に生えている。人と竜をまじ合わせたかのような
それらが苦しげに呻き声をあげながら、床の上をのたうち回っているのだ。
「なんだよ……これ……」
呆然としたヴィーヴォの声が耳朶に轟く。
「こっちだ。ヴィーヴォ……」
ポーテンコは彼を振り返ることなく、虚ろ竜と異形の存在で溢れた牢獄の通路を静かに歩んでいく。
ヴィーヴォは力強くヴェーロの手を握りしめ、兄のあとをついていく。
冷たい靴音だけがヴェ―ロの耳朶に轟く。
「ここにいるのは、すべて実験に使われた花吐きと、虚ろ竜たちだよ……。教会は長年、私たちの祖先である竜に人を近づけるべく研究を重ねていた」
「僕がここで
「お前がここに投獄されていたときは、まだ牢獄の最奥にしか被検体はいなかった。おかしくなったのは、つい最近だよ……」
通路が途切れる。通路の最奥には巨大な牢獄が設置され、ポーテンコはその前で立ちどまった。
「違う……。私たちが生まれたことが、すべての元凶だったんだ、ヴィーヴォ……。教会は私たちの父さんと母さんを使って、始祖の竜を復活させようとしていた……」
ポーテンコははゆっくりとこちらに振り返り、辛そうな眼でヴェ―ロたちを見つめる。
「父さん……?」
牢の中を覗き込んだヴィーヴォが唖然と声をあげる。牢獄に閉じ込められているそれを見て、ヴェーロも大きく眼を見開いていた。
それは、巨大な
黄金の鱗で全身を
大きく見開かれた眼は血を想わせる深紅。その深紅の眼で、竜はヴェ―ロたちを睨みつけていた。
「違う。これは、
ポーテンコの声が震えている。ヴィーヴォに手を強く握りしめられ、ヴェーロは彼を見つめていた。
ヴィーヴォの手が震えている。彼は水晶に閉じ込められた竜を見つめたまま、じっと動こうとしたい。
「何で……。どうやってこんな……緋色……? 緋色っ!」
「ヴィーヴォッ!」
突然、ヴィーヴォがヴェ―ロの手を振り払い、
それが赤い花を咲かせた
まるで炎のように赤い髪を
「緋色! 緋色っ!!」
ヴィーヴォは牢獄の鉄格子を両手で掴み、少女に必死になって呼びかけている。
「やめろ、ヴィーヴォ……」
そんなヴィーヴォにポーテンコは震える声をかけていた。
「言っただろう。もう、緋色は……」
「嘘だ……。こんなの……。みんな、どうしちゃったんだよ……」
ポーテンコの言葉を受けて、ヴィーヴォは石畳の床に膝をつく。かすかな彼の
「ヴィーヴォ……」
そっとヴィーヴォの両肩を抱く。ヴィーヴォは潤んだ眼をヴェーロに向け、ヴェーロの体を抱きしめてきた。
「なんだよ、これ……。僕がちょっといないあいだに……。なんでこんなことになってるの? 訳わかんない……。なんで、みんな……」
ヴェーロの腹部に顔を埋め、ヴィーヴォは上擦った声を発してみせる。悲痛な彼の声をヴェーロは黙って聞くことしかできない。
「何って、みんなで帰るために決まってるじゃないか。ヴィーヴォ……」
弾んだ声が牢獄に響き渡る。
ヴェーロはとっさに後方へと顔を向けていた。
薄暗い廊下に佇む人影がある。暗闇で妖しく光った片眼鏡の光を見て、ヴェーロは口を開いていた。
「若草?」
「ご名答。さすがは竜ちゃん、眼がいいねぇ」
「若草、君は……それに帰るって、まさか……」
「そのためには君と彼女の力が必要なんだ。協力してくれるよね? 君は僕と同じなんだから……」
「マーペリア……?」
ヴィーヴォはヴェ―ロの体を放し、覚束ない足取りで立ちあがってみせた。
ヴェーロの横を通り過ぎ、彼は友人である若草のもとへと向かおうとする。
「行くな。ヴィーヴォ……」
そんなヴィーヴォの歩みを、ポーテンコの片腕が制した。ポーテンコは厳しい眼差しをヴェ―ロたちに向け、前方にいる若草を睨みつける。
「あれはもう、お前の知ってるマーペリアじゃない」
「兄さん?」
「はは、何だよそれ……」
ポーテンコの言葉を受け、若草は可笑しそうに顔を歪めてみせる。彼の哄笑は
これが、あの優しかった若草なのだろうか。
彼は、意識を取り戻さないヴィーヴォを心配して、つきっきりで
そんな彼が、壊れたようにヴェ―ロたちを
「どうして、若草……?」
疑問が呟きになる。すると若草はぴたりと笑うことをやめ、
「どうしてって、僕の母さんが君の一族に殺されたからだよ。女王さま……」
口を大きく歪め、マーペリアはヴェ―ロに嘲笑を向けてみせる。瞬間、巨大な轟音が牢獄に響き渡り、周囲が大きくゆれた。
「何だっ!?」
「ヴェーロっ!」
巨大な揺れに、ヴェーロはバランスを崩して床に倒れ込んでしまう。そんなヴェ―ロのもとへとヴィーヴォが駆けつける。彼がヴェーロを抱きしめた瞬間、床が大きく
壊れた床下から、緑の鱗を煌めかせた雄竜が顔を
「もう、遅いよ。父さんてばっ!」
弾んだ声をあげながら、若草は緑の竜へと駆けていく。竜は若草を愛しげに見つめながら、首を下ろす。そんな竜の頭を若草は優しく抱きしめ、その鼻筋に唇を落としてみせた。
「まさか、教皇?」
「そのまさかだよ。ポーテンコ。父さんは竜になったの。僕と一緒に、
震えるポーテンコの言葉に、若草は嬉しそうに言葉を返す。若草は頬を嬉しそうに赤らめ、幸せそうに微笑んでみせた。
その
「狂ってる……。それに、どうやって人である教皇さまを竜になんて――」
「先祖返り。オレたち色の一族は始祖の竜の直系だ。傍系では無理だったけど、血の濃い直系であればたとえ花吐きでなくても先祖である竜の血を呼び起こすことができる。ここにいる出来損ないたちで試した実験で、それは
ヴィーヴォの言葉を、若草の弾んだ声が遮る。彼は喜悦に歪めた眼をヴィーヴォに向け、言葉を続けた。
「でも、最後の最後で彼は自分の体を水晶の中に閉じ込めて、オレたちが手出しできないようにしちゃった。一緒に実験体にされてた緋色もろともね……。だからさぁこの研究、まだ完成してないんだぁ。本当に残念。花吐きが生まれるためにも、始祖の竜の復活は欠かせないイベントなのに……。残念だよねぇ、ポーテンコ」
こくりと首を傾げ、若草はポーテンコに語りかける。ポーテンコは辛そうに眼を歪め、若草から顔を逸らした
「まさか、兄さんもその実験に――」
「ううん、この人はつい最近まで何も知らなかったよ。だって、この実験は緑の一族が
すっと若草の顔から笑みが消える。彼はポーテンコに色のない顔を向けてみせた。
「ねぇ、ポーテンコ……。2人を名前で縛って、わざとこんな姿にしたのは君でしょ? ヴィーヴォたちまでここに連れてきて、一体何を考えているの?」
彼は片眼鏡の奥に隠された眼を鋭く輝かせ、ポーテンコに問う。
「分かっているだろう。マーペリア!」
ポーテンコが叫ぶ。
瞬間、
「お目覚め下さいっ! 我らが主! 金糸雀っ! いや、fondinto《フォンデント》!」
ポーテンコの言葉と共に、金の竜を取り囲んでいた水晶に
ぐわぁあああああああああ!
金の竜が叫ぶ。
その叫びに応じて、赤毛の少女を閉じ込めていた水晶も音をたてて砕けた。少女の裸体は床に投げ出され、金の竜は翼を翻して少女のもとへと飛んで行く。
ゆったりと赤髪を纏う少女は顔をあげる。眼を
「お兄ちゃん、無事だったのね……」
横たわる少女に金の竜は優しい眼差しを送り、鼻先を近づけてみせる。少女は竜の頭を抱き、起きあがってみせた。
「緋色……」
唖然としたヴィーヴォの声が聞こえる。立ちあがった少女は、ヴェ―ロたちへと顔を向けた。
「行きましょう、2人ともっ!」
赤髪を靡かせながら、緋色と呼ばれた少女はヴェーロたちに声をかけてきた。同時に、灯花の茨たちが牢獄の天井へと襲いかかり、天井に大きな穴を穿つ。
金の竜が咆哮をあげる。緋色は
「行けっ! 2人ともっ! 緋色たちについていくんだっ!!」
ポーテンコがヴェーロたちに叫ぶ。
「行かせないよっ!」
そんなポーテンコに若草が怒声を浴びせた。若草の言葉を受けて、緑の竜がヴェーロたちに襲いかかる。
翼を後方へと滑らせこちらへと向かってくる竜の前に、ポーテンコは立ち塞がる。彼が手に持つランタンを投げると、それは太い
蔓が竜の首を
「お父さんっ!」
「竜っ!」
ヴィーヴォの体を振りほどき、ヴェーロはポーテンコへと向かって行く。ヴェーロの体を蒼い光が包み込む。銀の竜となったヴェーロは、後方へと飛ばされるポーテンコの襟首を
「竜……」
ポーテンコの優しい声が耳朶に響く。きょろりとヴェーロは蒼い眼を動かし彼を見つめた。
ポーテンコは、唖然と自分を見つめている。そんな彼を見つめながらヴェーロは眼に微笑みを浮かべ、父であるその人を自分の脇に優しく降ろした。
ぎっとヴェーロは緑の竜を睨みつけ、
2頭の竜はお互いの首筋に噛みつき、頭を打ちつけ、鍵爪を体に突き立てながら争い合う。やがて、緑の竜はヴェ―ロの胸に頭突きを食らわせ、ヴェーロの体を吹き飛ばした。
ヴェーロの体は牢獄の壁に叩きつけられる。
「竜っ!」
そんなヴェーロにヴィーヴォが駆け寄ろうとする。そのヴィーヴォの前に、翼を翻した緑の竜が立ち塞がった。
「どこに行くの? ヴィーヴォ……」
「あっ……」
竜と共に若草がヴィーヴォのもとへと近づいていく。ヴィーヴォは大きく眼を見開き、彼らを
ヴィーヴォが危ない。ヴェーロは必死になって体を起こそうとする。だが、首をあげただけで激痛が走り、ヴェーロは呻き声をあげていた。
歪む視界の中で、若草がヴィーヴォに手をのばそうとしている。ヴィーヴォはその手を払いのけ、腰にさげたナイフを抜いていた。若草と距離をとり、ヴィーヴォは彼を
「僕に近づくな……」
「やめてくれよ。君とは、争いたくないんだ……」
ナイフを構えるヴィーヴォの体めがけ、緑の竜が前足を振るう。ヴィーヴォはすんでのところで竜の鍵爪を避け、後方へと跳んでいた。
そんなヴィーヴォの体を、植物の蔓が
「兄さんっ!?」
「行けっ! ヴィーヴォっ!」
驚いた様子でヴィーヴォがポーテンコを見つめてくる。それと同時に、ヴィーヴォを拘束した蔓はヴェーロめがけて近づいてくるではないか。
ポーテンコがこちらへと駆け寄ってくる。
「Vero《ヴェーロ》、飛びなさい……。ヴィーヴォを連れて、金糸雀を追うんだっ……」
名を呼ばれ、ヴェーロは眼を大きく見開いていた。その眼にポーテンコの優しい微笑みが映りこむ。
お父さんと呼ぼうとした瞬間、背中に違和感を覚えヴェーロは後ろへと振り向いていた。
蔓によって拘束されたヴィーヴォが、自分の背中に乗せられている。
「兄さんっ! 何を考えて――」
「行けっ……。Veroっ!」
ヴィーヴォの言葉は、ポーテンコの鋭い言葉によって遮られる。名を呼ばれ、ヴェーロは自身の意思とは関係なく瓦礫から起き上がっていた。体中に激痛が走る。それでも、自分の体は翼をはためかせ、
ポーテンコの命令通り、ヴェーロは金糸雀を追って天井に空いた穴へと飛びたっていた。
「兄さんっ!」
ヴィーヴォの悲鳴が耳朶に
なんとか首を動かして下方へと視線をやる。すると、微笑みながら自分たちを見あげるポーテンコの姿が視界に映りこんだ。
瞬間、耳を劈くような爆音が辺りに響く。ポーテンコの姿は爆風と煙幕に遮られ、見えなくなってしまう。大きく口を開け、ヴェーロは鳴いていた。父を助けに行きたいと思っているのに、体はいうことをきいてくれない。
やがてヴェーロの体は縦穴を抜け、星の舞う夜空へと躍り出る。その星空の上空を飛ぶ竜がいた。
金の鱗を煌めかせながら、赤髪の少女を乗せた竜は夜空を飛んでいる。その竜を、ヴェーロは一心不乱に追っていた。
唯一、自由に動く眼を下界へと走らせる。
輝く聖都の周囲で、いくつもの爆発が起こっていた。赤い爆炎は轟音を伴いながら、険しい山頂に鎮座する巨大な竜の遺骸を幻想的に照らす。
ポーテンコの笑顔が脳裏を過って、ヴェーロの視界は潤んでいた。
「ヴェーロ……」
慰めるように背中のヴィーヴォが声をかけてくれる。そっと彼に背中をなでられ、ヴェーロは大粒の涙を
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