心と魂
竜の
「落ち着かない……」
結い上げられた髪をなでながら、ヴェーロは頬をぷくっと膨らませてみせる。背中にはえた竜の翼をはためかせると、髪飾りが
「落ち着かない……。でも、着心地はいい……」
ドレスの裾を持ち上げ、ヴェーロは自分の身を包むそれをしげしげと見つめる。
ポーテンコにこの屋敷に連れてこられるなり、ヴィーヴォは大変な目に遭っていた。たくさんの
体を無理やり洗われたあとは、この服を着せられて屋敷の離れにあるこの部屋に押し込められたのだ。
ふいっとヴェーロは部屋を見回す。
白を基調とした家具が
部屋の中央に置かれた丸テーブルにはレースの施された布が敷かれ、その上に
竜の象嵌が施されたカップに入っているのは、
他の植物と同じく地球の光を浴びて光合成を繰り返すこの植物は、
その香りと、お湯にしみ出した葉の成分が体にいいとヴィーヴォはよく自分にこれを飲ませていた。
ヴェーロは、このお茶からする香りが好きだ。ヴィーヴォの香りとよく似ているから。
でも、どうしてヴェーロの好物がこの部屋に置かれているのだろう。ポーテンコに話をしたことなんて1度もないのに。
「きゅーん……」
首を傾げてヴェーロは眉を顰める。たしかにヴェーロの番であるヴィーヴォは人間だ。そのヴィーヴォに合わせるために自分も人の姿をするが、人間扱いされても困る。
けれどポーテンコの着せてくれた服は、ヴィーヴォの作ったそれより着心地がいい。それに自分が好きな色が白であることを、どうして彼は知っているのだろうか。
「竜……入るよ」
部屋の外についた呼び鈴が鳴らされる。ヴェーロはくるりと部屋の右側にある扉へと顔を向けた。
「彼女に……そっくりだ」
彼女とは誰だろう?
ポーテンコの言葉に、ヴェーロは首を傾げてみせる。しゃらんと髪の飾りが鳴って、ヴェーロは顔を
「髪飾りうるさい……。人間の服、嫌……。竜は人じゃない……」
「あれ……気に入らなかったかな? 君のお母さんは喜んでくれたんだけど」
「お母さん……」
苦笑するポーテンコの言葉に、ヴェーロは疑問を抱く。
巨大な母の顔をヴェーロは思いだしていた。その母が、この服を着ていたとでもいうのだろうか。
「どうして、お母さんが?」
「君のお母さんも昔、聖都にいたんだよ。お母さんはこの部屋でしばらくのあいだ暮らしていた。私と一緒にね」
「ポーテンコと一緒に?」
彼の言葉に、ヴェーロは大きく眼を見開いていた。ポーテンコは笑顔を浮かべながら、ヴェーロのもとへとやって来る。
そっとヴェーロの頭に手をのばし、彼はヴェ―ロの頭をなではじめた。
「ポーテンコ……」
ポーテンコから懐かしい香りがする。花吐きでないのにヴィーヴォのそれを想わせる花の香り。茶華樹と同じその香りに、ヴェーロはうっとりと眼を細めていた。
頭をなでられるたび、心地よい
自分はこの人を知っている。でも、懐かしいと感じるこの人が何者なのか思いだすことが出来ない。
「あなたは、誰……?」
しゃらんと髪飾りを鳴らし、ヴェーロはポーテンコに問いかける。ポーテンコは困った様子で眼を細め、笑ってみせた。
「私は、どうも君の父親のようだ」
「お父さん……?」
「それなのに、君たちが生まれたことすら私は知ることが出来なかった」
悲しげに眼を細め、彼はヴェーロの頬を優しく指でなぞった。
「君が人になった姿を見た。そして、彼女が現れたことで確信したんだ。君は、彼女が私に
震えるポーテンコの声がヴェ―ロの耳朶を叩く。ヴェーロは父親だと名乗る男性を見つめることしかできない。
「違うよ……。お母さんは竜が
「竜……」
思ったことをポーテンコに伝える。ポーテンコは大きく眼を見開き、じっとヴェーロを
細い腕を彼に伸ばし、ヴェーロはポーテンコを抱きしめていた。
「君は……」
「そっか、お父さんだったんだ……。だから、ポーテンコは嫌じゃないし、懐かしい匂いがするんだ……」
ポーテンコの胸に顔を埋め、ヴェーロは
「恐いの? 竜が恐い? ヴィーヴォも恐いとよく震えている……。でも、竜には恐いって教えてくれない……」
「いや、違うよ……」
潤んだ眼を細め、ポーテンコが笑ってみせる。彼はヴェーロの背中に腕を回し、ヴェーロを抱きしめ返してきた。
「君が、そう言ってくれるのが嬉しいんだ。嬉しくて、どうすればいいのか分からない……」
「お父さん……」
そっと顔をあげ、ヴェーロは彼を見つめる。眼に微笑みを浮かべ、ヴェーロは言葉を続けた。
「ただいま……」
「お帰り、私の可愛い娘……」
娘の言葉に、父親は優しい声で答えてみせた。
「我らが夜色よ……。黒の一族を司る始祖の竜の使いよ。我らが母なる銀翼の女王の名のもとに、君の罪を
男の言葉と共に人々の
その祭壇に立つ男を、ヴィーヴォは鋭い眼差しで見つめていた。
若草と同じ深緑の法衣に身を包んだ男は、後方で結んだ髪をゆらしヴィーヴォに手を差し伸べた。
「銀翼の女王の恩寵を受けし愛し子よ。我が
うっとりと翠色の眼を細め、男はヴィーヴォに来ることを
「教会を
ヴィーヴォは祭壇の前に
「我の名のもとに、
教皇の高らかな宣言に、再び聖堂が歓喜の渦に包まれる。ふと髪を
「教皇さま……?」
「あぁ、ヴィーヴォ、お前の髪はいつさわっても心地がいい……。あのときのことを思い出すよ……」
うっとりと眼を細め、
「おやめください……。今は……」
髪を指に巻きつけられ、ヴィーヴォは震える声で彼を制する。彼はヴィーヴォの耳元に唇を寄せふっと息を吹きかけてみせた。眼を潤ませ、ヴィーヴォは肩を震わせる。
「大きくなってもちゃんと体は私のことを覚えているようだね……。あぁ、また君をこの聖都という名の
彼に触れられた感触を思い出して、ヴィーヴォは反射的に彼の手を
「あっ……」
「ヴィーヴォ……」
我に返ったとたん、冷たい声が自分を呼ぶ。慌てて教皇を見あげると、冷たい眼がヴィーヴォに向けられていた。
「ごめっ……」
「私の美しい夜の花は、いつからそんなに
宙に
聖堂に集う人々がざわめく。だがそんな
「マーペリアから聞いたよ。人手不足で私たちが花にできなかった星たちを導いてくれたそうじゃないか……。それに
そっとヴィーヴォの耳たぶをはみ、彼は囁いてくる。ヴィーヴォは体を震わせ、潤んだ眼を彼に向けた。教皇がそんなヴィーヴォを見て満足そうに微笑む。
ヴィーヴォは不敵な微笑みを浮かべ、教皇に言葉を返した。
「何がお望みですか? どうぞ、あなたの御心のままに……」
ヴィーヴォの言葉に、教皇は眉を
「マーペリアから聞いてはいたが、魅力的な少年に成長したものだな。これから躾ていくのが楽しみだよ……」
彼の爪が顔の皮膚に突き刺さりヴィーヴォは痛みに顔を歪めた。教皇は満足げに笑って、ヴィーヴォの体を
「教皇、お
涼やかな声が、そんな教皇の
片眼鏡に隠れた眼を妖しげに細め、若草色がこちらを見つめている。彼は
「若草……」
「
「マーペリア……」
「夜色はオレのおもちゃ……じゃなくて大切な友人でもあります。そんな友人が苦しめられている姿をオレは見たくない。その相手が、あなたであってもね……」
するりとヴィーヴォの頬に指を這わせながら、若草は教皇に笑ってみせる。
「大丈夫……。他の僧侶たちの眼もあるし、このまま父さんは君から手を引くよ……。だから、震えないで……」
耳元で若草が囁く。
ぎゅっと優しく手を握られて、ヴィーヴォは自分が震えていたことに気がついた。
「そうか、それは残念だ。私はただ、愛しい夜色に緋色と金糸雀の話をしたかっただけなんだがね、マーペリア……」
肩を落とし教皇は苦笑してみせる。わざとらしくため息をついて、彼は言葉を続けた。
「それに久しぶりに再会したんだ。彼と、彼のお母さんについての話もしたい。彼のお母さんがどうなったのかも……」
ヴィーヴォに視線を向けながら、教皇は嗤ってみせる。彼の言葉を聞いたヴィーヴォは、思わず声を発していた。
「母が、どうかしたんですか?」
幼い頃に引き離されてから、ヴィーヴォは自分の母親に会っていない。その母親に何があったというのだろうか。
「やはり……。知らされていないのか……」
鋭く眼を細め、教皇は若草を見すえる。
若草は怯えた様子で顔を俯かせ、ヴィーヴォを抱きしめる力を緩めた。
「どういうこと、若草……?」
「ごめん、ヴィーヴォ……。言えない……」
ヴィーヴォの言葉に、若草は顔を
「ヴィーヴォっ!」
「教えてください。母に何があったのか……。お願い――」
突然、視界がゆれてヴィーヴォは言葉を発することが出来なくなっていた。
力が入らない。体が前のめりに倒れ込み、聖堂の床が眼前に迫る。
「ヴィーヴォっ!」
そんなヴィーヴォの体を教皇の腕が抱きとめた。彼はヴィーヴォの体を横抱きにし、耳元で囁いてくる。
「大丈夫かい? 君が倒れるなんて……」
心配そうに教皇が顔を覗き込んでくる。歪む視界に彼を捉えながら、
「大丈夫です。だから、教えて……。母さんのこと……。それに緋色と金糸雀に何が……」
「話すよ。だから、今は黙りなさい……」
そっとヴィーヴォの頬を労わるようになで、彼は周囲の人々を見回した。
「
ヴィーヴォを抱え直し、教皇は祭壇奥の
「父さんっ!」
そんな教皇を若草が呼び止めた。
ヴィーヴォは教皇の体越しに若草を見つめる。若草はじっとヴィーヴォたちを見つめていた。教皇は、そんな若草に顔を向ける。
「どうして、教えてやらなんだ……?」
冷たい教皇の声が若草にかけられる。若草は大きく眼を見開き、
「お前も、ヴィーヴォの悲しみは分かるはずだろう。マーペリア……」
悲しげな眼差しを若草に送り、教皇は顔を正面へと戻した。
「行こうヴィーヴォ……。君は知らなくてはいけない。たとえそれが、残酷な現実でもね」
眼を悲しげに歪め教皇は笑ってみせる。ヴィーヴォはそんな彼から眼を離すことが出来なかった。
竜胆の形をした灯花がどこまでも広がっている。
蒼く煌めく灯花を眺めながら、ヴェーロは感嘆と眼を見開いていた。そんなヴェーロに
「ヴィーヴォの灯花じゃない?」
彼が吐く灯花と音が違う。そっとしゃがみ込んで、ヴェーロは灯花の1つを指でなでた。花弁の輝きも、ヴィーヴォのそれと違い輝きが
「ヴィーヴォの母さんが吐いた花だよ。君のおばあさんになるのかな?」
声をかけられ、ヴェーロは後方へと体を向ける。ワイシャツを纏ったポーテンコが、竜胆の灯花を手に持ち微笑んでいた。
「寒くないの? お父さん……」
聖都に来る直前、ヴィーヴォが寒がっていたことを思いだす。ヴェーロはこくりと首を傾げていた。
標高が高い場所にあるのに、聖都は不思議と寒くない。だからポーテンコは
聖都を追放されてまもない頃の話だ。
ヴィーヴォが空高く跳んで欲しいとヴェーロに懇願したことがあった。
望み通り彼を空に載せて飛ぶと、ヴィーヴォは驚くほど喜んでくれた。それが悪かった。ヴェーロは調子に乗ってヴィーヴォが寒さに
その後、ヴィーヴォがどうなったのか言うまでもない。
冷たい外気に晒された彼は高熱を出して寝込んでしまい、ヴェーロが数日間彼の体を温めて回復させた。
それからヴェーロは周囲の温度に気を使うようにしている。今感じている温度は人間にもはちょうどいい温度かもしれないが、心配になって大丈夫かと相手に聞いてしまうのだ。
「あぁ、女王の
「ジョウキノチカラ……?」
「その昔、地球からやってきた
「あの歯車たちは、竜みたいに生きてるの?」
大きく眼を見開いて、ヴェーロはポーテンコを凝視する。ポーテンコは困ったように笑ってみせて、答えた。
「生きてはいないかな……。あれには魂がないからね。それゆえに意思を持たず、自分が与えられた仕事を最適な方法で
「じゃあ、灯花にもならないんだ……」
魂を持たない存在。
ふっと友人であるメルマイドの姿が脳裏を過って、ヴェーロは悲しい気持ちになっていた。ポーテンコは魂が存在しないものには意思が宿らないという。じゃあ、メルマイドはいったい何なのだろう。
彼女にはちゃんと意思がある。
そのメルマイドにも、心が宿っていないのだろうか。
「人魚にも……心はないの?」
ぽつりとヴェーロは呟くように囁く。ポーテンコは困ったように笑って、ヴェーロの頭をなでた。
「彼女たちに魂はないが、心はちゃんとあるよ。私たちと同じ生命の卵から生まれ落ちたものだからね。彼女たちには心を
「心を造る器官?」
「私たちは情報を司る脳が
水底ができた創世神話によると、私たちの存在は地球で眠り続けている少女が見ている夢そのものだそうだ。彼女が見ている夢がこの水底を始めとする虚ろ世界だという。虚ろ世界は、彼女の心そのものだという説もある」
「竜たちは夢の中で生きているの?」
夢をみたときの出来事を思い出し、ヴェーロは首を傾げていた。
夢を見ているときは、その見ている夢そのものが現実だと思っている。
夢から
たまにヴェーロは思うのだ。
夢と現実、どちらが本当の世界なのだろうかと。もしかしたら自分は、違う世界へと夢を通じて迷い込んでいるのではないかと。
例えるなら夢は幻だ。
見ているときはそれを現実だと
そして、あれだけはっきりと現実だと思っていた世界の
「夢は、記憶の
「心の闇からの声……」
「無意識。意識されていない心の暗い部分と言ったほうがいいかな。ちょうど、虚ろ世界の底にあるこの水底のように……」
ポーテンコが顔をあげる。
ヴェーロも彼に倣って顔をあげた。水晶の骨がヴェ―ロたちの立つ屋敷の庭を覆っている。その向こう側に、星空に浮かぶ地球があった。星空に、いつもある虚ろ竜たちの陰影は見当たらない。
「この水底が少女の心そのものだとしたら、ここは心の底に広がる意識されることのない無意識の世界なのかもしれないね……。けっして誰にも知られず、意識されることもなく、暗闇に閉ざされたままそこにあり続ける……。ここに、私たちはいるというのに……」
ポーテンコの声が暗い。声の方へと顔を向けると、彼は悲しげに眼を伏せていた。
「意識は、情報の
「じゃあ、魂は何?」
ふと思った疑問をヴェーロは口にしていた。
心が肉の器から生まれるものだとしたら、その心を司るとされていた魂は一体何なのだろう。
「魂は、伝えるものだと言われている。心が電気信号とホルモンの分泌によって創り出される夢だとしたら、魂はその夢を乗せて次の心を創り出す
「メルマイドが夢……」
ポーテンコの言葉に、ヴェーロは両手を眺めていた。横抱きにしたメルマイドの冷たい体を思い出す。
彼女の体は冷たくて、でも笑うとほんのりと頬が林檎のように赤くなって――
そんなメルマイドが、夢のようにいるかどうかも分からない存在だというのだろうか。
それなら、自分自身もそうじゃないだろうか。
「でも、私たちは外からの認識によっても常に『私』であることを再確認する。私たちの意識が私たちという存在を創りあげるように、他者が私たちの存在を知覚し、私たちが何者なのかを規定する。その他者とのやりとりすらも、ある意味では心の1つの形なんだよ」
頭をなでられ、ヴェーロは顔をあげていた。ポーテンコが優しく自分に微笑みかけている。
「だから、他者という存在が観測を続けてくれる限り、その存在が私という名の意識の中に刻まれている限り、私たちは存在し続ける……。たとえそれが、他人の記憶の中だとしても、私の大切な人たちは私の中にずっといるんだ……」
そっとポーテンコの手が頭から離れていく。彼は眼を悲しげに歪め、ヴェーロを抱き寄せた。
「お父さん……」
「私の母は、ずっとここで花を吐いていた。私のせいで死んでしまった人々のの魂を弔うために……。ヴィーヴォと君を迎えに行ったときは、もう……」
しゃらんと灯花が悲しげに音を奏でる。すすり泣くポーテンコの声を聞きながら、ヴェーロは灯花の花畑を見つめていた。
花畑の中央に小さな石碑がある。
それがポーテンコの母親の墓だと気がつき、ヴェーロは大きく眼を見開いていた。
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