命の口づけ
――名は君を縛る。だから僕は人前で君の名前を呼ばない。君も誰にも名前を教えちゃいけないよ、ヴェーロ……。
あれは自分が生まれて間もない頃だ。
まだ、ヴィーヴォの頭よりもヴェーロが小さかった頃の話。ヴィーヴォは
名を呼ぶことは、その存在を支配することと同義なのだとヴィーヴォは言う。だから、ヴィーヴォは自分の名を人前で呼ばないし、自分はヴィーヴォの言いつけを守って誰にも名前を教えない。
いや、教えられない。
自分の名前を思い出そうとしても、思い出すことができないのだ。
ヴィーヴォが自分の名を忘れさせた。
どうしてそんなことをしたのとヴィーヴォに問うと、彼は悲しそうに眼を
――ごめんね。僕は、ヴェーロを失いたくないんだ……。僕が名前を呼ぶと、君は何でも望みを叶えてくれる。恋人が欲しいって言ったら、君は人間の姿にすらなってくれた。僕を好きって言ってくれた。聖都を壊して、僕を守ってくれさえしてくれた。
だからね、僕は誰にも君の名前を教えない。君にも名前を忘れてもらう。
そうすれば、君は僕だけのものだから。ずっとずっと、永遠に――
そしてヴィーヴォは人の姿をした自分の耳元で、こう囁いた。
――僕は、君をずっと自分自身に縛りつけておきたい、
歪んだ笑みを浮かべた彼の顔は酷く歪で、悲しげだったことを今でも思いだせる。
それからヴィーヴォは、自分の唇に静かにに口づけをしたのだ。
「それでも竜は、ヴィーヴォを失いたくない……」
昔のことを思い出しながら、少女の姿をしたヴェーロは水晶の谷を
それでもヴェーロは気にすることなく川を泳ぐ。
花の香りが下流からする。花吐きに
ヴェーロは周囲に視線を巡らせた。
「ヴィーヴォ……」
ヴェーロは卵を抱きかかえ、ヴィーヴォのもとへと駆け寄っていた。卵をそっと
「ヴィーヴォ……」
話しかけてもヴィーヴォは応えようとせず、眼を閉じたまま動かない。
ヴィーヴォの体に
ヴィーヴォの命がつきかけている。
冷たい水に長時間漬かっていたせいもあるが、本当の原因は別にある。
花を吐きすぎたせいだ。
花吐きは自らの命を糧に、魂を花に変え、新たな命へと転生させる。そのため彼らの
ほとんどの花吐きは、大人になる前に死んでしまう。
ヴェーロはそのことを誰よりもよく知っている。ヴィーヴォは何度も死にかけたし、その度にヴェーロは彼を失う恐怖に襲われた。
「死んじゃ、だめ……」
そっとヴィーヴォを抱き寄せ、ヴェーロは彼の顔に頭を近づける。眼を半分閉じて、ヴェーロは彼の唇に自分のそれを重ね合わせていた。
人の姿をした自分に、いつもヴィーヴォがするように。
ヴィーヴォの口内に息を送り込む。その息の中に、ヴェーロは自身の生命力を
ヴィーヴォが死にかけるたびに、ヴェーロは自分の命を彼に分け与えてきた。虚ろ竜である自分の
だから、その命を少しあげることぐらい何てことない。
唇を離す。
ヴィーヴォが水を吐き出し、激しく咳き込む。うっすらと眼を開け、彼は自分を見つめてきた。
「ヴェーロ……?」
「ヴィーヴォ……」
ちゃんと自分のことが分かるみたいだ。ヴェーロは優しく微笑んでヴィーヴォの手を握ってみせる。彼は弱々しくヴィーヴォは自分の手を握り返してくれた。
「また……僕は君を……」
ヴィーヴォが悲しげに眼を
「
ヴィーヴォの声に体の動きがとまる。
ヴェーロはヴィーヴォを見つめることしかできない。もっと命を与えないと、ヴィーヴォは近いうちに倒れてしまうかもしれないのに。
「ごめん……。でも、君の命を吸ってまで僕は生きたくない。君を傷つけたくないんだよ……」
ヴィーヴォが起き上がり、ヴェーロを優しく抱きしめてくれる。涙に震えるヴィーヴォの声にヴェーロは悲しくなっていた。
「ヴィーヴォ……死んじゃいやだ……」
じわりとヴェーロの眼に涙が
「死なないよ……。絶対に君を独りになんてしないから。約束しただろう? ずっと一緒だって……」
「ヴィーヴォの
「ヴェーロ……」
命を分け与えなければ死んでいたのに、この人は何を言っているんだろうか。ヴィーヴォを抱きしめる腕に力を込め、ヴェーロは彼の胸元に顔を
「ヴェーロ……卵は?」
ヴィーヴォが小さく問う。
その声にヴェーロは顔をあげていた。ヴィーヴォを放し、彼の
「ヴィーヴォっ!」
「貸して、ヴェーロっ!」
動揺するヴェーロの手から、ヴィーヴォは卵を取り上げる。額を卵にしばし押しつけたあと、彼は悲しそうに眼を歪めた。卵を胸に抱き寄せ、ヴィーヴォは
「ヴィーヴォ……卵……」
「ごめん……ヴェーロ……卵は……」
「それが、お前が彼女を手放さない理由か」
冷たい声が会話を遮る。
ヴィーヴォは素早く顔をあげ、眼を見開く。彼は無言でヴェーロに卵を手渡し、ヴェーロを
ポーテンコが、自分たちの前に立っていた。彼の周囲では、ヴェーロたちを襲った人形たちが
「虚ろ竜が人の形をとることはあるが、よく化けたものだな。お前が
彼の眼がヴェーロに向けられる。ポーテンコの視線からヴェーロを守るように、ヴィーヴォはヴェーロを自分の背後へと
「形なんて関係ないよ。竜は僕にとって大切な存在なんだ。あんたには分からないだろうけどね」
静かにヴィーヴォは言葉を紡ぐ。だが、彼の声はかすかに震えてた。
――この人は、ヴィーヴォの敵だ。
ざわりと、ヴェーロは自身の血が騒ぐのを感じていた。ヴェーロはポーテンコを睨みつける。
彼が何かしたら、ためらうことなく殺してしまおう。
ヴィーヴォを自分から奪おうとしたあのときのように――
ふと、ポーテンコの視線がヴェーロに向けられる。彼は辛そうに眼を歪め、自身を見つめてきた。ヴェーロに彼は悲しげな笑みを投げかけてきたのだ。
その笑みに、ヴェーロは大きく眼を見開く。
困ったように眼を伏せ、ポーテンコはヴィーヴォへと視線を戻した。
「彼女を教会に引き渡すつもりはないんだな?」
「彼女を失うぐらいなら、死んだ方がマシだ……」
ヴィーヴォの言葉にポーテンコは落胆した様子で俯いてみせる。彼は
「あっ……」
ヴィーヴォはそれを、取り落としそうになりながらも受けとめる。
ヴェーロは彼の肩越しにそれを見みる。それは、鉱石でできた
首飾りの花は、ヴィーヴォが吐く灯花とそっくりだ。
竜胆は黒の一族を象徴する花でもある。首飾りを見つめながら困惑するヴィーヴォに、ポーテンコは言った。
「だったら山奥になど引きこもってないで、自分から旅をして仕事をすることだな。聖都と違い、辺境の地は花になれない星が山ほど
「兄さん……?」
「旅には足が必要だろう。だったらその竜も必要になるはずだ。それに――」
彼は言葉を区切り、ヴェーロを見つめる。ふっと彼は眼に笑みを浮かべ、言葉を続けた。
「彼女がいる
いい終わり、彼はヴェーロに視線を戻す。
「
ポーテンコが指を鳴らす。
周囲を飛んでいた人形たちが複雑に絡み合い、
「本当、あの人って素直じゃないよなぁ……」
空を仰ぎながら、ヴィーヴォが呟く。その声がどこか寂しそうにヴェーロには聞こえた。
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