月を望む

彼を望月と言う。

彼は自分が月を望むのはこの名前のせいだ、と思っている。


実際よく月を見る。月に詳しいという訳ではない。新月等の種類は全く分からず、月なら何でも良い、という性質である。ただ彼が特別に好きな物は満月だった。ある時その理由を訊かれて、単純で分かりやすいからだ、と答えた。何事も単純な方がいい、と彼は思っている。

今日は満月のきれいな夜だった。部屋の明かりを消すと、暗闇の中で三つの窓からわずかな月光が差し込む。望月は一番大きな窓の脇にあるベッドに横になった。家の前にある水田から聞こえてくる、蛙の大合唱が夏の訪れを告げている。彼は少し体を起こし、閉じたカーテンに向かって手を伸ばした。彼はこの瞬間が好きだった。

ゆるゆると暗闇が開け、一条の光が部屋に届く。それはまるで、自分の手で世界という舞台の幕を開けるような快感、神になったような感覚だった。光は柔らかく彼の顔を照らし出す。顔を少し右に傾け、彼は月をぼんやりと眺めた。満月の姿が現れただけで、うるさいほどの蛙の声も、道路を走る車の音も、時折家の前を通る人の声も、全てが静かになったように感じられた。まるで月に音を吸い取られたかのように。うるさい主旋律がBGMに変わった気がした。音を吸い取った主は、墨汁色の空間に独り白く佇んでいる。


単純だから、美しいんだ。そう思った。月をじっと眺めるうちに、白くて丸い形はその輪郭をゆがめ、光は分裂し、全ての音は空の片隅へ流れて行く。

代わりにぼんやりと浮かんでくるのは、朝の風景、四角く大きい窓__。


「どう、最近は」

小鳥のさえずりが聞こえる。窓のブラインドを通して柔らかな光が差し込み、開いた窓からは新鮮で涼しい風が流れてくる。活動を始めたばかりの、まだ静かなオフィスの窓辺に、男が二人座っていた。

「どう」

部長が重ねて訊く。

「はあ。まあまあ」

訊かれたAさんが答える。

「誰かいい人はいないの」

部長の声が少し苛立たしげに響く。

「はあ」

「君ね。今はいいかもしれないよ。でもね、ご両親だって、いつどうなるかも分からない。一人の老後は寂しいよ」

「はあ」

「だから」で、部長の声は大きくなり、慌てて声のトーンを落とす。

「結婚は絶対した方がいい。やっぱり一人より二人だよ。私もね、この年になって有難みがよくわかるようになった」

「はあ」

窓辺の男達の会話が、朝の風に乗って少し席の離れた望月の耳にまで聞こえてくる。

彼はメールを作成しながら、こみ上げる苛立ちを抑えていた。

時代錯誤な部長もそうだが、AさんもAさんだ、と思った。結婚したくないならそうとはっきり言えばいいじゃないか。

Aさんは三十代後半の望月の先輩で、まだ独身だと噂で知った。言われてみれば、穏やかながらマイペースで、趣味_旅行らしい_に没頭しているAさんを見ると、自由人としての生活が合っているように思えた。

部長はそう思ってはいなかった。Aさんと二人で話す機会があると、度々結婚話を持ちかけた。見合い話に始まり、Aさんにその気がないと分かると、結婚の素晴らしさ、老後について、果ては自分の人生論までも熱弁し、それらは全て望月の耳にまで流れて来た。

聞くのが嫌なら席を立てば良い。仕事の電話をかければ良い。もっと簡単なのは近くの同僚に話しかける事だ。

彼は毎回そう思いつつも、席を立つ事も、電話をかける事も、人に話しかける事もなく、硬直したように席に座り続けている。

何故これほど苛立つのだろう、と彼は目の前のパソコン画面をぼんやりと見つめた。特に親しいわけではないAさんの、味方をするつもりではなかった。


自分がまだ結婚したくないからかもしれない。

現在二十七歳。しばらくは仕事に没頭したい、とまだ結婚は望んでいなかった。


全てはタイミングだろう。

自分の意思での。

大嫌いな言葉がある。

「何で結婚しないの? 」


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