「言っておきますが命の危険があります」

 ダダーを出て駅から各駅停車の電車に乗り、無人駅で降りるとタタリさんはそう言った。

「タタリさんの仕事って――」

 至極当然のことをここでようやく訊ねると、タタリさんはむっとした目で僕を見上げた。

「私は勤労はしないんです。貧乏神につかれても血を吐く思いで働いて働いて働いぬいたから、今はようやく福の神がきとるんだな。だからこれは、タタリさんが仕事をするんじゃなく、させられとるんです」

 なんの説明にもなっていない。いや、僕の曖昧な聞き方が悪かったのか――そう思っているとタタリさんが僕の顔を見ていることに気付く。

「見たほうが早いでしょう」

 無人駅を出てしばらく行くと、コンビニの広い駐車場の隅で、缶チューハイを煽っている男がいた。朝っぱらもいいところだが、そもそもの通行人自体も少ないこともあり、トラブルのようなことは起こっていない。

「おい」

 男の濁った目が、僕を捉えた。

「なんだその顔は」

 いくらタタリさんにメカニズムを解明してもらったところで、この性分はそう易々と矯正できない。つまり僕は、男に向かってあからさまな嫌悪の表情を向けている。

「酒ですね」

 タタリさんはいつの間にか、立ち上がろうとする男の足元に転がった空き缶を検分していた。

 当然男はぎょっとする。ぎょっとしたのはいいものの、タタリさんの行動をはねのけることはできない。小柄な女性であるタタリさんに強く出ることができない程度の良識はあるようだ。僕よりもまともな人間ではあるらしい。

「ひと缶350mlかけることの20缶。7リットル。度数は3パーセントから9パーセントまでいろいろですが、まあしかし、まるで酔っとらんのは尋常ならざることでしょう」

 驚いて男の様子をよく見て――思い出してみると、顔が赤らんでいるわけでもないし、さっき僕にかけた言葉もしっかりとしたものだった。立ち上がろうとした時の動作もスムーズで、酩酊の特徴は全く見当たらないのだと気付く。

「雑だ! こんなことをして何が楽しいというんだ! またこんな青二才が出てくるこの町は本当にどうなっとるんだ!」

 これは――多分本当に怒っている。

「それで、あんたにその人はなんと言いました」

 タタリさんは呆気に取られている様子の男に、遠慮することなく詰め寄る。

 男はタタリさんに触れないよう――タタリさんは身体がぶつかる寸前まで近寄っている――両手を挙げながら、慌てたように頷く。

「く、薬だ。無限に酒が飲める薬」

 なんの説明もなしに出合い頭に詰問されているのだが、男はタタリさんの求める回答を口にする。

 明らかに奇妙な光景ではある。タタリさんは男から何も聞き出すことなく、いきなり第三者の存在を前提に質問をしている。だが、それに素直に答えるという男の一見おかしな反応は僕にも理解できる。

 タタリさんと向き合い、質問をぶつけられた時、タタリさんはさもこちらの事情を全て知っているかのように振る舞う。無論質問をしているので、タタリさんが一から十まで全てを把握しているわけではないというのはわかるのだが、それがかえってこちらの不安というか、動揺のようなものを誘う。

 部分部分だけ把握されている――それがひどく不完全で我慢ならず、この人に全てを話さなければならないという強迫観念のようなものを起こさせる。

 タタリさんにはその有無を言わせぬ信頼関係を成立させるだけの貫禄のようなものが――なぜだか――備わっている。それは当然その突飛な言動から想起させている部分もあるのだろうが、この人は、明らかに何かが違う。

「三流以下だネ。こんな馬鹿の相手をさせられる私の身にもなってほしいですよ」

 そう言うとタタリさんは男を無視し、コンビニ沿いの道へと戻っていく。

 困惑する僕と男だったが、タタリさんが振り返ってこちらを睨んだことで我に返り、男は僕の肩をぽんと叩いた。

「あの女ぁ、苦労するぞ」

 押し出される形になってタタリさんのところに駆け寄ると、そのまま細い路地へと入っていく。

「あの――」

月日つきひくんが住所を特定しとるから、迷うことはないですよ」

「え? 伯父さん?」

 思いもよらない人物の名前がいきなり出てきたので、僕は驚いて聞き返す。

「なに、君はあの男の甥だったのか。悪いことは言わんから、あんな人間と関わり合いになってはいかんですよ」

 僕が伯父の紹介でダダーで働いていることはタタリさんには直接言っていない。いないが、店に入ってきた時に繰り広げられたマスターとの会話からそのくらいのことは察せるのではないだろうか。興味がないので取り合わなかったのか、あまりにタタリさんの推察が深すぎたのか――多分前者だろうなと僕は苦笑する。

 僕たちが辿り着いたのは、割合新しい二階建てのアパートだった。タタリさんは真ん中の部屋の前に立つと、無言でドアを開けようとする。

 慌てて止めようとする僕だったが、幸い部屋には鍵がかかっていた。この辺りの地域では日中家に人がいる間は施錠をしないところがほとんどだが、アパートの住人はさすがに防犯意識が一つ高いらしい。

 タタリさんは今度はインターホンを押して、暫く待つ。反応がなかったので、何度も押す。

「どこのどいつだ!」

 足音を抑えながらも、息は荒くドアの向こうで中の住人が誰何する。

「薬を売ってほしいんです」

 タタリさんのその口調に、僕はぎょっとする。それまでの放埓なものではなく、惨めにしょぼくれたかよわい女性のような声だったからだ。

 少しの間行動をともにした僕にはすぐに演技だとわかる。だがそれは普段のタタリさんの言動を知っているからであって、その強烈な第一印象がなければあっさり騙されてしまうだろう。

「金はあるんだろうな?」

 中の男は見事にそれに引っかかった。最初の語気の強さはどこへやら、満身創痍の獲物が息絶えるところをじっくり待っているハゲタカのような浅ましい欲望を丸出しにして聞いてくる。

「いくらでも出します。だから――」

 そこで鍵が外され、ドアが開いた。

「いいぜ、入んな」

 よこしまな笑みを浮かべた男は、そう言って僕とタタリさんを迎え入れた。

「薬の売人って言ってもさ、俺は身体に悪い薬とかやばい薬は一個も売らないよ。みーんな健康目的。もちろんその分、値は張るけどね」

 狭い部屋の中に入ると、ウォーターサーバーから注がれた水を出された。部屋の中に余計なものは置かれていないが、その代わりとばかりに、壁に取り付けられたラックに錠剤が入った容器が整然と並んでいた。

「ていうかよく俺がここに住んでるってわかったね。俺、基本出張型なんだけどな。まあそれだけ切羽詰まってるってことか」

 一人で勝手に納得していく。というより、そういう思考に誘導させるだけの力が、さっきのタタリさんの演技にはあったのだ。

「で、あんたらどういったご関係で? 恋人同士ならそういう薬も出せるけど、そんな雰囲気じゃないもんな」

 タタリさんは、フローリングの床を拳でどんと叩いた。

「薬! あんた一体どういう了見でこっちに踏み込んできとるんですか! 薬は効くんです。嘘でも効く。これはね、『逃げ』ですよ。己の解釈の触媒に、こんな手っ取り早いものを使うなんていうのは三流以下のすることです」

 普段通りにまくし立てるタタリさんに、男は呆然と固まり、僕はなんだか安心する。

「お前――『解釈人かいしゃくにん』かっ!」

「その呼称を知っとることには若干の加点をしてあげますが、大幅な減点です。解釈人の存在を知り、自らも足を踏み込んだことを自覚しとるのに、それがこのザマとは! 粗製濫造もいいところだ。それと、私は解釈人ではないですよ」

 男は目に見えて狼狽していた。そこで僕が出された水を飲み干していることに気付き、顔を邪悪に歪ませると、ラックから小さなプラスチック製のボトルを取り出した。

「残念だったな。もう手遅れだ。お前が今飲んだ水に、やばい毒薬を混入させておいた」

 目に見えて驚いた僕の顔のわかりやすさが滑稽だったのか、男は声を上げて笑う。

「解毒薬はこれだ。なに、即死はしない。だが身体の末端から徐々に痺れが広がり、やがて全身が動かなくなる。その痺れはやがて心臓、肺、脳にまで届く――いずれにせよ、助かるにはまだ身体が動く内に、この解毒薬を飲むしかない」

 取引といこうぜ――男は冷や汗を流しながら、果敢にもタタリさんに立ち向かう。

「そいつを助けたかったら、俺から手を引け。俺の商売に今後一切口を出すな。なに、お互いに困ることはないだろ?」

「私は困りませんが、あなた、その内死にますよ」

 けろりとした顔でそう言い放つタタリさんに、男は虚を突かれたように目を丸くする。

「私はですね、あなたみたいななまっちょろいのが、ばたばた死んでいくのが可哀想だから、こうして忠告にきてあげとるんです。手を引かなければならないのはあなたのほうに決まっとるでしょうが。解釈人は己の解釈を敷衍していく。それがかち合った時に起こるのは言うなれば領土争いです。あなたのような愚か者は、真っ先に死にます。相手の領域を見極めるだけの審美眼も持たず、小金のためだけに解釈を敷衍するような馬鹿は、この町でしぶとく生き延びとる手合いに目をつけられた瞬間に終わりです。私はそうした事故を未然に防ぐために、あなたを解釈するんです」

「た、タタリさん――」

 僕はぴくりとも動かなくなった両手と両足をなんとかアピールする。薬が効いてきているのだ。今はまだ手足ですんでいるが、この痺れがだんだん身体を昇ってきているのがわかる。このままでは、本当に死ぬのではないか――命の危険があると忠告されたことを今更になって思い出す。

 タタリさんは、明らかな落胆の溜め息を吐いた。

「見込み違いだったかな。その程度で死ぬようなら、あなたはどうせすぐ死にます」

「だ、だって、毒――」

「あなたはこう言ったね。『全てを失った』――私はそこを見込んであげたんです。あなたがなぜそこまでの無に至ったのか――それをちいっとは考えてみたらどうです」

 ところが、慌てたのは男のほうだった。僕が床に倒れて身じろぎもできなくなっていくと、手に持った解毒薬の蓋を開けようとする。

「余計なことをしちゃいかん!」

 僕を助けようとした男を、タタリさんが一喝する。

 ――いや、なんで。

「人が死ぬのを見かねるようなら、最初から解釈をするな。プラセボをプラセボで上書きするというその貧困な発想にはかける言葉もないですよ。あんたの解釈で、その人を助けるのでは意味がないんです。それはあなたをつけ上がらせるだけだからネ」

 というか、タタリさんはひょっとして僕の名前も把握していないのか――そういえばきちんと名乗っていないことを思い出し、ぴくりとも動かなくなった身体でそんなことを思う。今わの際でこんなどうでもいいことを考えているあたり、脳まで痺れてきているのではないか。

「あー、動けませんねこれは。しょうのない。ですがいいですか、最後の最後は自分でやりなさい」

 男の驚く声とともに、何かが床にぶちまけられる音が響く。それに呼応するように、立て続けに同様の乾いたが音が広がる。

 もはや顔を上げることすらできない僕の眼前に、いくつもの錠剤が転がってくる。タタリさんが解毒薬を落としてくれた――のではない。あの音の数からして、恐らくはこの部屋中の錠剤をぶちまけたに相違ないからだ。

 それを証明するかのように、タタリさんの足が転がった錠剤をかき集めて、僕の目の前まで運んでくる。

 男は毒薬を持っている。解毒薬も持っているのは確かだが、それもこれだけの種類の毒か薬かもわからない錠剤を持ってこられては、その中から解毒薬を見つけ出すというのも無理な話だった。

 タタリさんは僕にロシアンルーレットでもさせるつもりなのか。それも「あたり」を引けばお陀仏という生易しい話ではなく、それ以外全部あの世行きという、圧倒的に理不尽な。

 タタリさんはなんというか、人が目の前で死のうが平然としていそうなところがある。死のうが生きようが、自分には別段関係のない話だと、あらゆる人間に対して思っている。

 だが、人の死を楽しむような外道かと聞かれると、それは違うと、これだけ短い付き合いの僕でも、全力で否定したくなる。

 タタリさんは善悪などという物差しで語れるような人間ではない。善人ではないし、悪人でもない。失礼かつ胡乱な物言いになってしまうが――面白い人なのだ。

 死は否定しない。同時に生も否定しない。だがそのために、わざわざ自分が楽しむという行為は起こさない。タタリさんを面白い人たらしめているのは、あからさまなパフォーマンスではなく、元来の性分ゆえなのだ。

 だからきっと、僕が死の淵でもがくのを見物するなどという露悪的行為はしない。つまり、これは僕を助けるための、最短経路。

 目の前に転がった無数の錠剤に目を凝らす。これを飲ませたいのなら、男を止めたりはしない。僕を助けようとする男の不都合になり、同時に、僕を助ける――矛盾しているようにも思えるが、そもそもの前提が違うのだ。

「三つ――」

 疑問として口に出してみると、急に見える範囲が広がったように感じた。

 そうだ――やはり――どれだけ見ようと、この床一面に広がっている錠剤は、三種類しかない。しかもその分量は、ほぼ三等分である。

 男は多様な薬を処方できるようなことを言っていた。それを抜きにしても、僕に飲ませた毒薬、その解毒薬、道中で出会った男がもらったという「無限に酒が飲める薬」――この時点で三種類。まさかこの全てがそれだけの用途に限られているわけがない。

 解釈――そう、解釈だ。自分の中にある解釈を、無理矢理相手に押しつけてしまえば――それは相手の世界観を塗り潰すことと同義である。

 タタリさんのこれまでの言葉が、一気に意味を持って僕の中に流れ込んでくる。薬――三流以下――触媒――プラセボ――薬は嘘でも効く。

 僕はゆっくりと起き上がり、呆然とする男と向き合う。

「解釈違いです」

 嗚咽のような声を漏らしてくずおれた男は、最後の気力を振り絞って、

「解釈――痛み入ります」

 それだけ言うと、魂が抜けたようにその場にうずくまった。

「さ、帰りますよ」

 自分でぶちまけた錠剤のことなど知ったこっちゃないとばかりに足で踏んづけながら、タタリさんは玄関を出ていく。僕はまだ困惑したままだったが、この場に残る義理もないので、タタリさんのあとに続く。

「君は解釈違いがよく似合う」

 コンビニの前を通った時に、吐瀉物の海で倒れている男を一瞥して、タタリさんは僕にそう言った。

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