短編集

東雲ありす

輪郭の歪んだユーフォリア






くちびるを切るのが好きだ。


なんて言うとただの変質者として扱われるかもしれないけれど、これは自分にとってはなんでもないことだった。

冬の日に、ふと微笑んだその瞬間にくちびるが裂ける、あの感覚。にじみだす鉄の味。後から追いかける微かな痛み。そのどれもが愛しいも同然の感情を芽生えさせる。

だからリップクリームは使わない。その愛しさを、すぐに手におさめるために。







ふつり、とやわい音をたてて粘膜上の薄い皮が裂けた。ひどくかわいてでこぼこと盛り上がったそこを、舌をのばしてたどる。ざらざらとした羽衣の上、厚くも薄くもないただ平均的な薄さの舌が、ときどきささくれだったところにひっかかる。そのたびに、甘い痺れが脳髄を駆けた。ひらりひらりと舌をひるがえして、ようやくたどり着く失楽園。丹(あか)の絶え間なくこぼれおちる泉源。その縦にひらかれた口へ、容赦なく舌の先端をねじこんだ。

瞬間、ぴり、と微弱な電流が走る。口腔内に広がった鉄の味がふわりと余韻をひいてのどの奥に落ちてゆく。



ああ、生きている。



この傷口は、もとは自分の劣情だ。



不揃いの歯で噛み締めた肉の下の血管に綻びが生じた。そのときはなにも感じなくて、ただ鈍痛に知らぬふりを決め込んだ。それがいまになって花開いたらしかった。もっと口腔よりの、粘膜と羽衣の境にある口内炎は、そのときの名残である。

ああ、あのときはどうしてこんなことをしたのだろうか。あまりよくは覚えていないが、おそらくはいつも通りの自傷だった。




死にたいと思ったことは数十、否数百回を上回ることだろう。ただ、思うだけでそれは行き止まりだった。至極当然だ。誰が躯じゅうをぼこぼこに腫らして絶えたいだろうか。誰がもがいて爪を剥がす痛みに耐えながら奈落へ落ちてゆきたいだろうか。答えはいつだって、いつだって決まっている。結局、結果としてそういう道を選ばざるを得なかった人々は脇に追いやってしまっても、望んでそうなりたい人間はいないものなのである。

手首を切るのは自分のなかでこれらと同じことに分類されていた。だからいくらナイフを持ったって、そのにびいろに手どころか躯ごと震えだす。けれど、そうすることで得られるであろう愚かな感情は、自分にも心あたりがある。

それが、くちびるを切るときだった。


どんどん開く傷口につよくつよく歯をつきたてて、やわいところを破っていく。舌先でなぶって甘露を吸い、ひりひりとした痺れをたどる。

自分のたかがちっぽけな劣情とひきかえに得られるこれは震えるほどに甘美だった。

さらにその劣情がどんなに悪意にみちたものとひきかえでも。





だから、悔しいときでも、悲しいときでも、くちびるを噛む。赤みのうすい肉をかみしめて、そのしたの細い脈道がきれるのを願う。内心でほくそ笑みながら。






ただ、その甘美な愛しさを得るために。





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短編集 東雲ありす @Vollkommenheit

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