結実

 イソラとセイレーン・イミテーションの戦いは佳境を迎えていた。同じ系譜から発した未踏技術の結晶たる両艇。彼らが鎬を削る此度の決斗こそが、即ち櫻冑會おうちゅうかいと枢機会議の最初にして最後の戦闘である。


 水雷の炸裂が波紋状の衝撃を生み、大気中の其れよりも遥かに速く伝播していく。炸裂の呀はイソラを捉えきれず、衝撃の大音声だいおんじょうで海中を撹拌させるも、其れだけではイソラを討った事にはならぬ。爆風ならぬ爆にあおられたイソラが海底へと舵を取る。


「……! 逃がすか」


 安曇野正義を生贄の祭壇へと掲げるのが目的である男にとって、其のための供物であるイソラの首は総て揃っていなければならぬ。彼の切り札を絶ち、其の上で絶望の階段を昇らせる……其れこそが顧客クライアントの望みであり、男の目的だった。ならば、逃がす手があろう筈もない。


 其れに、実のところ彼の視界ヽヽも完全では無かった。確かに光も沈みきった、視認叶わぬ筈の深海に於いて視界の恩恵にあずかれるのはまさに理外の事象であり、セイレーンが現代の水準を上回る存在である証左でもあったが、其の視力ヽヽも流石に白日の下と同じというわけでは無かった。遠望のできる範囲には確かに限界が存在し、其の向こうは曖昧模糊あいまいもことした藍色のおりに隠されている。更に下方へ向かうにつれ、視力ヽヽあおぐろい翳りが芽吹き、其の枝葉を伸ばしつゝある……。つまり確実な最終ついの一手は、自然との届く範囲――即ち、其れは確実な距離まで詰めての水雷爆撃――でしか成立せぬ。


 となれば、沈下するイソラを追走するセイレーン・イミテーションという構図は必然として成った。深海の深み、深淵の深淵たるを思い知らされる、地球の底近くへと没入していく二つの翳は、今、前人未到の戦場を目指していた。


 此れが空戦ならば――考えがない限りは愚策である。上方を得ているという意味は、活殺自在の位置取りに成功していると言っても過言ではあるまい。上位からは其の挙動の総てを確認でき、下位は仰ぎ見なければ上位を見て取る事ができず……そして、上位の攻撃をたゞ躱すのみ。巴戦は、如何に上位を維持するか、如何に下位から上位へと躍り出るか――究極的には其の点に畢竟する。


 此れが水中戦ならば――尋常なという但し書きは必要だが――逆に下方に位置しているものが有利となる。視認叶わぬ闇黒の沃野に於いて、深みの圧力に対応できるという事実は其れだけ彼我の距離を稼ぐ事ができ、更には戦闘水域からの脱却が可能という意味でもある。潜水艦の戦いが隠密からの一撃必殺かつ即時離脱である以上、攻めるも逃げるも選択肢が存在するのは最高の有利なり得る。


 ならば、此の戦の上位下位の趨勢は如何と占うべきか。有視界戦闘という意味で空戦での天秤で測るべきか、あくまで海中戦の天秤で測るべきか。此れが、視界を有する水中戦という前代未聞の戦である以上、其の趨勢は単なる両者の比較では測れぬであろう。


 船殻の限界深度に迫る、深淵の更に底を目指す両艇……。本来ならば自殺行為に等しい愚行である。海水の暴圧は深度に比例して、船殻を圧壊せしめんと不可視の力を差し向けてくる。圧力は純粋故に圧倒的なるもので、其れ故に宇宙よりも近く遠い場所とも呼称される。


「おい、大義! 此れ以上深みに往くと戻れなくなるぞ!」


 勲の声も尤もだ。現在、限界深度の際にまで迫っている事実は、彼をしても心胆寒からしめられた。しかし、イソラへと置換された大義は、勲の言が聞こえていない筈はないというのに、なおも深淵を目指す。


「大丈夫だ」

「そんなわけあるか! 此のまゝじゃ圧壊されて犬死にだぞ!」


 しかし、大義には確信が――或いは、其れ以上に宿命的に信じられる心があった。此の感覚は、イソラと合致している彼だからこそ感じられるものなのか。イソラの限界は此処には無い、更に底へと迎える。


 破滅を暗示させる軋みが到るところから響き渡る操縦席は生きた心地がしない。自然、大義を除く二名はイソラという人形の舞いをよすがに万事を委ね、イソラを遣う部品の一つへと化していく。年齢に見合わぬ人形遣いとしての研鑽の深さと期間が、死に瀕した現実を脱却し幽玄たる幻想の舞台へと心を寄せる。心頭滅却した彼らは、幻想の住民となった。研ぎ澄ました感触で必要な挙措を紡ぎ出し、三位一体に人形イソラを遣う。


 際どく追尾する水雷を清顕が撒き菱ヽヽヽで無効化……。破滅の音色が足元から響いたが、水雷の炸裂所以のものではない。重々しい震動は鉄の塊が圧縮される苦鳴であり、断じて爆たる轟音が嘶きではなかった。


 幻想の舞台に没入している二名は知る由もなかったが、大義は脚部の推進機構が圧壊された事実を知った。しかし、其れでも深みへと進む。重力に牽引されているのではない、明確な意志が底を目指しているのだ。


 ――やはり、此の状態では満足に当たらないか。


 事此処に来て無駄撃ちが許されぬ事態となったセイレーン・イミテーションも、また追い詰められていた。


 先んじて海底へと突き進むイソラの姿は靄じみた蒼い膜に阻まれ、詳らかには視えていない。加えて、深まった海深の抗い難い水圧に依るものか、水雷の捕捉精度に衰えが見受けられる。其れに、装弾数の問題が浮上してきていた。


 水中に於ける推進力と旋回力が最大の武器であるセイレーン・イミテーションではあるが、此処に到っては、其れが故の葛藤が存在した。イソラと比類するまでもない、遠い間合いを持つセイレーンだが、間接武装の宿命か残弾数からの束縛からは逃れられぬ。そして、此処に来て露呈した、余剰空間の乏しさ故の装弾数の強い縛り。更には、貯蓄電量についても充分とは言えぬ。ポンプジェット推進が生む静粛性と速度は確かな強みではあったが、電力の消耗も激しく、有り体に言えば効率の悪さが浮き彫りとなってきた。いくら新世代型の省エネルギー設計とはいえ、そも〳〵の効率の良いスクリュー推進に比較するには余りに分が悪い。


 血闘の帰趨するところは既に未知の領域にあり、容易に予想ができぬ可能性の混沌へと到った。単純な勝敗という天では相打ちを含めて三者択一であるが、此の先の事細かな運命を占える者がいたとすれば、形而上的存在――其れこそ神と呼ばれる者くらいであろう。


 深海へ向かう暴挙を冒した両艇ではあるが、既に計器上では許された深度をゆうに超えていた。破滅の鉄鎚が場として振り下ろされているというのに、比叡丸もセイレーン・イミテーションも構わずに深部へと向かっている。乗機其のものと直結していなけば、または幻想に没入していなければ、無視できぬ程の軋みは圧壊の運命に抗する船殻の呻きだ。


 しかし――限界深度を超えているというのに幕引きは一向に訪れない。むしろ深海其のものが自らの底へと誘っているかと思わせる程であり――耳を苛み続けてきた船殻の苦鳴がささやかなものへと変化し、いつしか可聴域を下回っていた。もっとも、此の事に気づいた者は清顕以外にはおらず、彼自身も意識を永劫の幻想に置いていた為に其の意味については思い当たらなかったのだが。


 水深は更に下り、七〇〇〇米を前に僅かに足りずの深度まで到達した。舞い降る白い雪の如き海底懸濁物マリンスノウ……かつて海に生きた生物の成れのてが、厳しい水圧が支配する世界に降り注ぎ、水底を雪景色として彩る。


 イソラの視界でさえ暗い海底で見る情景は、翳に閉ざされていながらも白い死が積もる、背筋が凍るような黄泉の光景を思わせた。厳然と海底に聳える大山に、断崖絶壁に、自らの生命で焼かれた灰が物言わず、無情なる悲愴へと積もる。其処には冷淡なまでに漂白された朽ちた生命の在り処があった。死とは没入する事、沈没する事なのやもしれぬ。だからこそ、海の底には枯山水の白川砂を思わせる寂びが存在しているのだろう。


 イソラの脚が海底に触れる。砂よりも遥かに軽い水底に溜まった雪が、靄めきつゝ舞い広がる。白靄しらもやを纏ったイソラの存在は、此処に来て海中の戦いが新たな局面へと突入した事を物語っている。


「……此れは……!」


 イソラ貳號艇にごうてい比叡丸に置換されている大義は、自身の五感の内のそくが、義足の海底を踏んだ事実を知った。特殊カーボン製の板撥条バネで構成された義足が、体重を受け止め軋むしなりと震動を触境が伝えてくる。そして、其れは大義に或る確信をもたらした。


 ――疾走はしれるッ!


 狙いを外すべく大義はイソラを、イソラと化した自身を海底で舞わせる。着地ヽヽを沈没と誤認したのか、または単純に動きの停止した瞬間を見定めたのか、セイレーン・イミテーションが水雷を発射する。先程よりも水雷を放つ間合いが近いのは、おそらく確実を期する為だろう。だが、今比叡丸が立っているのは推進力のみが頼みであった水中ヽヽでは、既に無い。


 先程までと打って変わった炸裂的な加速力を得た比叡丸は、まさに水を得た魚と言えた。スクリュー推進はスクリューの刃が水中を掻ける廻転を得るまでの誤差が生じるが、は反射的な反応に機敏に反応する器官だ。即座に応じる反射性は其のまゝ回避性に直結する。自らに向けられていた水雷を後に残して、イソラは海底という大地を蹴って爆発の影響の外へと逃れた。


 ――何ッ?


 必殺必中を必然のものとして予感していた男が眼を剥いたヽヽヽヽヽ。当然、操縦席に座る彼自身の肉体は動きを見せず、セイレーン・イミテーションもまた眼が存在していなかったが、彼の心胆は確かに眼を剥いたと言えた。


 反応速度、旋回力から心中で測定した彼我の距離の内――今までの敵の性能であるならば、確かに捉えるに足る……そんな確信を抱ける間合いだった。其れが外れたとなれば――既に、水雷の残数が乏しい事実もあり――彼の驚嘆も頷ける。地の利を得たイソラは、男が今までの戦闘でそうと弁えていた加速力や推進力――正確には走力だが――を過去のものとし、今や海中よりの刺客ならぬ海底ヽヽよりの刺客と変化していた。


 足がかりの存在する水底という場を与えられたイソラは、其の身に備わった両脚で奔るヽヽ。いざ奔り出してしまえば、此の感覚は至極当然の事のように思われた。白き生命の残骸を蹴散らし、イソラは今、水中推進を上回る速度で水雷の狙いを外さんと稲妻の如き切り返しで、縦横無尽に駆け続ける。


 彼我の距離と高低差、更に速力を測りつゝ、間合いを見定めていく。今や、速力が逆転した両者だが間合いに関しては、依然としてセイレーン・イミテーションに分がある。斬鯨太刀ではイソラの膂力があったとしても、精緻な剣技は叶わぬ。必然、二の太刀いらずの豪刀に頼らざるを得ない。間合いを詰め、刃を届かせる工夫が必要だ。


 スクリュー廻転を開始しつゝ、全力の走力で駆け――跳躍、同時スクリュー推進をも設計限界に迫る回転数へと導く。スクリューの助力を得た跳躍からの推進に捻りを加えて。斬鯨太刀を竜巻に見立てて振るう。柄尻近くへと握り込んで刃圏を可能な限り拡げた上で、だ。にわか仕込みにすらならぬ、即興の海底ヽヽ剣術は、流石に泥臭くてらいを感じさせない。当然ながら、長大とは言え斬鯨太刀はを斬る。風切り音ならぬ切りだけを残し、剣術の効果は雲散霧消した。


「大義、潜航しろ!」


 左遣いに没入し、身にかかる水圧の一切を忘れていた勲の叫びに、大義は問いを挟まずに海底を目指す。其の脚の先に生じた巨大な水泡は、遅ればせながら発射された水雷の炸裂の焼痕だ。際どい爆裂の呀を免れたイソラは、半ば落下する勢いで海底に着地し、更なる爆撃を警戒してひた走る。


 水中の推進力ならともかく、海底の疾駆については上空ならぬ上からの水雷は追いつけぬ。水中に活路なく、足がかりという優位性を捨てては勝利もない。足場ヽヽこそが、そして足場を有利に使用できる脚がイソラの勝利を導く――勲が達した結論が其処にはあった。


 さて、無為に終わった海底剣術ではあったが、しかし、セイレーン・イミテーションの男にもたらした心理的な効果については覿面にしてなった。狙いを慎重にする必要ができたとはいえ、一方的に爆撃する立場に揺るぎはないと想定していた筈が、一挙に自身の座標まで駆け昇り刃を振るってきたのだ。


 ――往生際が悪い!


 ならば、視界の限界から一挙に迫っての水雷で機動力と回避の選択肢を奪い、有線誘導式水雷で必中せしめて轟沈させるが手か。先程の間合いより外――しかし、距離を取りすぎては、たゞでさえ数の無い水雷を命中させられぬ。危険を承知で、刃の届かぬ際からの爆撃を敢行するしかあるまい。


 共に慎重に間合いを測りながらの戦いは、曖昧模糊たるまだらな混沌を幾何学的混沌へと導き、天秤の秤は揺れ続ける。拮抗しつゝも際どい攻防は剣戟も爆雷も生じぬながらも、一手誤ればたちまち破綻して敗北へと墜落する危険性を孕んでいた。互いに一髪千鈞を引く緊張感の中で、海底と海中に分かれたイソラとセイレーンは遊弋ゆうよくし合う。まさに喰らい合い、まさに混沌。確率の獣は両者の破綻を待ち望み、敗北の可能性を高めた瞬間に呀を突き立ててくる。其れに滴る唾液を躱しつ、両者は二重螺旋を描き、決定的な瞬間を見定める。


 イソラが斬鯨太刀を鞘に納める姿を認めた男は身構えた。此の局面での納刀が勝負を諦める意味ではない事を、セイレーン・イミテーションと化した男は重々承知していた。次の一刀への構えである事は明々白々である。


 海中と海底の輪舞曲、二合目。イソラの蹴り足に付随して廻転を増すスクリューの猛々しさが、主のときの声を代弁する。ポンプジェットのほとばしる泳力がセイレーン・イミテーションを飛鳥ひちょうの域へと導く。


 納刀からの一太刀――となれば、居合いしかあるまい。確かに海中剣術に於いて、居合いは――かかる圧と潮の抵抗を極力抑える最善の剣技の一つである。跳躍のベクトルと平素の海中剣術の術理を併せた一太刀。先程の一手の手応えを反映して術理を鍛え、練磨していく。未だ成立していない海底剣術の極意は、今より始まるのである。問題は、海底剣術が敵方を斬るまでにイソラが沈まぬかどうか……。


 接近するイソラの猛進は確かに海中とは思えぬ程に素早い。しかし、其れでも音のみが寄る辺ならともかく、視覚を有するセイレーン・イミテーションが反応しきれぬわけはない。腰部に接続された推進機関を反転させて、全力での後退。際どいながらも、次世代ポンプジェット推進は男の瞬時の要求によく応えた。腕部を少々白刃が掠めたものゝ、船体其のものは無傷である。当然全力での推進となれば、惰性が支配する海中では間合いが離れていくが、セイレーン・イミテーションにとっては未だ間合いの内。むしろ足場の無い海中にいるイソラなど、怖れる相手では無い。


 魚雷を撃ちつゝセイレーンが、長太刀とはいえ刀身の届かぬ距離へと離れていく。更に、離れ際の水雷がイソラを囲む網のように逃げ場を無くす。


 ――拙いッ!


 焦燥に肝を冷やす間もあればこそ。間に間を縫う急速潜航を敢行するしか手立てが無くなった比叡丸――大義だったが、残念ながら爆裂の檻の中ともなれば無傷ではいられない。


「グッ!」


 途端生じた灼痛は耐える間もなく、大義は苦鳴を漏らす。右肩が灼ける疼痛に其の在り処を見れば、存在を喪った右腕。灼痛は断面より生まれ、神経を苛んでいたのだ。


「大義、均衡が崩れたぞ。どうかしたか!」


 清顕の問いは物視えぬ彼が、そうであるからこそ微妙な傾倒の加減が常の其れを超えている事に気づいた証だった。


「……右腕をもっていかれた」


 半透明に輝くイソラの血――櫻冑會おうちゅうかいでは義血と呼ばれ、枢機会議では光粘性0R流体と呼ばれる液体が、深大な海へと流出していく……。流出が続けば、比叡丸は残電量に関わらず動きを止める。


「大義、無くなった腕に力を入れろ」


 咄嗟の勲の判断に、大義は異議を差し込まずに喪った右腕に腕力を込める。すると、義血の流出が次第に収まってきた。義血がイソラからの――正確には、潮乾珠シホフルタマが光情報に反応して粘度を変化させる性質を心得ていた勲は、力を込めるという光情報を以って断面の義血を凝固させる策に出たのだ。そして、其の判断が正しかった証左に比叡丸は致命的な流血を免れた。


は止まったか?」

「あゝ、なんとかな」


 イソラは再び海底を踏み、爆発的な脚力で続く水雷の群れを引き離した。破裂した水雷の衝撃が海底懸濁物マリンスノウを濛々と巻き上がらせ、海の雪のホワイトアウトをもたらす。流石に光なき海を見通すイソラもセイレーンも、此の白靄はくあいの澱みを透視する事は叶わない。セイレーン側は海底に淀んだ白で比叡を見失い、そして比叡側はというと……。


「最悪だ。視えない……ッ!」


 眼前が白濁の幕に覆われ、全く視認出来ない。言わば、白い闇に閉ざされた状態であり、左手を伸ばせば先すらかすれて模糊もことなる。


 色彩が白一色に固定された世界に取り残されるのは、普段光に満ちた世界に棲まう者にとっては相当の負荷を強いる。特に、先程まで超自然的感覚で見通していた海底だ。突如として色境が効かぬとなれば、狼狽もしようものだが……。


「お前たち、黙れ。音が聞こえん」


 清顕の厳しい声色が鞭となって、艇内の空気をぴしりと打ち据える。此の男にとっては、尋常の状態に他ならぬ。盲目の美青年は。周囲を観察するように首をおもむろに巡らせて、音景色に触れる。緊迫した雰囲気に、大義も勲も口を閉ざしていた。目明きよりも敏感な残り五識へと意識を没入し、眼識無き世界でひたすらに己の外側へと耳を傾ける。在るか無しかの音色――しかし、海中では其れが視覚よりも肝要である。其の、余人よりも遥かに発達した耳識にしきが捉えた、海底のものではない音……、


 清顕の身じろぎ――大義の、彼自身の肉体に与えられた刺激は、其れまで全く何も感じなくなっていた触感を呼び覚ました。彼の身じろぎの意味など、幾度も行ってきた修練――人形浄瑠璃のものも、剣術も、イソラ遣いのものも――で示し合わせ、また培ってきた日々が自然のものとして、理解できる。


 疾駆の後に爆撃の破裂が白い靄をなおも掻き乱し、薄れかけてきた其の濃度を更に深める。盲滅法にしては良い狙いをしている……。イソラは其の脚力を最大限に活かして、海底懸濁物マリンスノウを掻き上げ巻き上げつゝ爆裂の脅威から逃れた。


 一方、セイレーン・イミテーションはと言えば、勘任せだったとはいえ、放出した爆雷が無為に終わった事に苛立ちを隠せない。残電量を確認すると些か心もとない現実が突き刺さり、浮上も検討せねばならぬ事態へと到らんとする未来を悟っていた。


 どちらにとっても最終局面、生存か死滅かが確実に決定する、そんな戦いである。一手一手がお互いを――自分自身さえも追い詰める戦闘は、ともすれば繊細な玻璃が堕ちて砕け散るような、静やかでありながらも緊迫した様相を呈してきた。


 しかし、実のところ、刀と其れを振るう右腕を喪った比叡丸の不利は、弾数と残充電量が残り少ないセイレーン・イミテーションよりも大きかった。清顕という視界が無くとも感じる感覚器官センサーを持っているとはいえ、逃げの一手しか打てないとなれば、いずれは捕捉されるのは目に見えている。そして、セイレーン・イミテーションが敵方に攻めの手段が無い事を悟った時は――。待ちの一手で事足りる。たゞ、此の白濁した生命の残滓が晴れるまで待ち、姿を顕したところを狙い澄ませば良いだけの事だ。


 常に海底懸濁物マリンスノウを舞わせる必要がある比叡丸と較べて、待ちに徹しさえすれば流石に充電量が乏しいとはいえ、セイレーン・イミテーションが起動状態を持続できる。


 つまり、趨勢だけで語るならば、イソラに勝ちの目は消えた……と解釈すべきである。勝利の女神の天秤は今やセイレーン・イミテーションへと傾きつゝあった。負けは許されぬ、負けられぬ戦……だが、気概だけで勝てるのならば、戦争の歴史は石器時代から変わらぬ。


 ――何か、何か一手……ッ!


 焦燥にかられながら、大義は死濾色しろいろに濁った視界を無駄を悟りながらも、此の状況を打開するに足る起死回生を探していた。突進からの靠撃こうげきに望みを託すのは、大義をしても無謀で括られる行為である事は重々承知している。あの身の捌きを見るに、十中八九……いや、十やれば十とも到達叶わずに躱され、今度こそ致命に到る魚雷の爆裂に生命を落とす。しかし、全くと言っていゝ程に、勝利の鍵となる物は見当たらない。


 其の時、大義は己の――比叡丸の左腕が意志の外で動いている事実に気がついた。暗夜に手がかりを求めるような手の動きだが、此の動きが大義の意志に依るものでは無いのならば、誰の意志に依るものかは明白である。


 ――勲か!


 弓弦にたわめられたが解き放たれる運命を待ち焦がれるが如き此の瞬間、敵方を察知するために声を封殺された勲が自ら動くとなると、彼なりの考えあっての事だ。少なくとも、其れを信じられる程には彼らの縁は深かった。大義は、勲の思うがまゝに任せる事にし、息を潜めつセイレーン・イミテーションへの警戒に専念し始める。


 左遣いである勲は情報系統も担当しており、現在位置を確認していると或る事実に思い立った。此の場所――もし、勲が想定した通りの座標であるならば、探し求める攻めの一手が見つかるやもしれぬ。触れた身体で、大義に周囲を一定の速度で巡航するよう指示し、勲は指先の感触に集中する。潮盈珠シホミツタマでイソラと繋がっている大義とは異なり、勲には比叡丸が感じる繊細な触感の再現など望めない。だからこそ、左腕の動きと後付けの触感センサーからの信号をモニタで睨みながら、其れヽヽを探す。


 ――此の辺りにある筈……。ある筈だ……。


 其の瞬間、何かに触れた感覚……。正確には、左腕の動きに仄かな違和を感じ取った。潮盈珠シホミツタマを持たぬ身でありながら、勲は何故か其れが探し求めていたものであると予感した。


 肉体の、何か内側深くから湧き出る衝動のまゝ、勲は左の五指を握り込む。奇遇に助けられたか細い糸だった。しかし、在りべからざる極小の可能性の重なりがもたらすものが奇蹟の爪痕であり、人の意識の美しさが現象へと働きかけた結果と言えよう。


「此れは……榛名の刀」


 イソラが再現する、水圧の暴虐を無とした繊細な感触が、大義に艶めいた鞘の肌触りを伝えてきた。其の滑らかさに思い当たった彼の呟きは榛名丸が託した意志――ひいては、石動の現世の不在を意味していた。


 最後のイソラの右手はとうに無く、しかし左手には納刀されたまゝの打刀が収まっていた。今の状態で石動より託された榛名丸の刀を抜くとなれば、鞘を打ち捨てねばならぬのだが、大義は其れを選択しなかった。った際に納める鞘を捨てるなぞ、愚の骨頂。其れに、石動が遺したものだ。大義の矜持がどうして仲間の遺品を粗雑に扱おうものか。


 其れに、セイレーン・イミテーションに打ち克つには、やはり居合いの一撃しか無い。大気よりも濃い水の抵抗を封じこめた剣技、此れこそが破滅の歌姫を断つ、イソラの剣。


 腰部刀ジョイントと打刀の鞘を接続。其の様を船殻から伝わる幽かな震動で察した清顕が、無言のサインでセイレーン・イミテーションの座標を知らせる。


 ――此の一刀が最終ついの一刀だ。


 決意を胸に秘め、遂に比叡は最後の一合へと赴く。そして、セイレーン・イミテーションも同じ結論へと到っていた。


 ――此のまゝでは埒が明かん。


 実際として、彼がもう少し我慢強ければ、もう少し戦術的な意味での観察眼に優れていたとすれば、此の戦はもう終わっていただろう、確実な時を待っての狙撃も可能であったし、何より榛名丸の刀を与える事は無かった。海底懸濁物マリンスノウの揺蕩いの中、埋もれているが確かに顔を出していた、イソラの艇体に気がついていたとすれば……比叡の狙いも看破されていたのだが。とはいえ、歴史は既に過ぎた過去を語るもの。結果のみで語られるべきものである。


 男が此の局面で頼る攻撃手段として選択したのは、有線誘導式水雷だった。此れは任意のタイミングで炸裂せしめる事が可能であり、しかも燃料が尽きるまでとはいえ、男の指し示すがまゝに操作できる。つまり、場に存在している限りは、彼の命に従う炸裂性猛獣であり、命中すればイソラを確実に仕留めきる破壊力を有した水雷だ。彼にとっては鬼札足り得る一手である。


 残り一発の有線遊動式水雷……。しかし、此れならば先程までの間合いの概念は薄れる。燃料が届く限り、そしてケーブルが届く限り追尾する魚雷は、一手にして其の効果を数手にまで及ぼす魔手だ。一度や二度の回避では躱しきれぬ必中の一撃……。撃つならば間合いの外、姿を確認した途端撃ち出し、破滅の爪がイソラを引き裂くのだ。


 ――何処だ、何処にいる?


 白い緩慢な靄の揺蕩いは、しかし時間を経るごとに其の濃淡を変遷していく。そして、其れは一定と思われた靄の棚引きが、不自然に舞い上がり濃淡も異なる箇所を暴き立てた。靄の異なりは移動をしている様子で、此の移り変わりを見定めると……。


 ――見つけた。


 一際乱れた靄の一角。其処に爆撃すべき標的の姿を透かし見た男は、水雷を投下する。無論、此れが当たるとは到底思えぬ。其れは誘いだ。包囲網のように水雷を投下し、まさに爆裂の網で囲い込むのだ。たして、爆裂が靄を海底の泥を巻き込みながら白靄を撹拌する。乱れる靄は海泥と入り混じって、泥の色を孕ませた火山灰へと変じた。


 泥まみれの海底懸濁物マリンスノウの嵐を下界の光景と、セイレーン・イミテーションが遊弋する。


 此の一手だけは外すわけにはいかぬ。既に、炸裂の網は目標を誘い囲み込んでいる。後は、相手の攻撃の手が届かぬ距離を取りつゝ、最終にして必殺の一手を繰り出すのみ。


 そして、遂に男の運命を担った魚雷が主の下知に従い、深海を串き、白黒い混沌へと飛び込む。此の、セイレーンの神経を応用した誘導魚雷はまさしく男の思うがまゝに、時間差タイムラグ無しで応じる、まさに切り札と呼ぶに相応しい一撃である。


 流石に神経を直結しているとはいえ、セイレーン・イミテーション其のものではない魚雷では、視認までは叶わぬ。此れは魚雷がそも〳〵に於いて使い捨て……一撃で散華する定めの兵装が故だろう。セイレーン・イミテーション本体程の繊細な感覚を有しては、爆裂の際、遣い手に多大な精神的感覚的損傷ダメージをもたらす可能性が高い。特に、セイレーン・イミテーションが一人乗りである以上、此れは甚大な悪影響足り得る。


 発射された有線魚雷はセイレーン・イミテーションと繋がった神経からの命令に従い、濛々たる靄の向こうに透かし視えた翳へと猛進する。たして、命中叶わなかったものゝ、翳からイソラがまろび出た。向かう先は別で立ち込める濃霧……ともなれば、再び姿を隠す心算という事は明白だ。


 右腕を喪ったイソラだが、先程欠損したとは思えぬ均衡性を保ったまゝというのは、驚嘆に値する。直立への進化を遂げた人間でさえ、腕ほどの部位を欠損すればたちまち姿勢の均衡は崩れ、立つことまゝならぬのだから。しかし、男は感嘆を胸にたゞ胸に抱いている立場に無い。無感情に粛々と速やかに殺処分するのが、彼の仕事である。


 神経を共にする端末魚雷は今やセイレーン・イミテーションの外部器官として機能している。従って、セイレーン・イミテーションから離れようとしている比叡丸を追尾するのは至極当然の話だ。流石に、魚雷に精妙な操作を行うとなれば、一人遣いワンマン・オペレーターであるセイレーン・イミテーションは動作を止めるしか無くなる。


 だが、其れがどうしたというのだ。上空ヽヽからの目から誘導される魚雷には死角がほゞ存在しない。加えて、魚雷の巡航速度はイソラの走力を超えていた。遠くないいずれ、必ず捉えきれる。


 しかし、彼は――あまりに自然に深海に適用していた事で、頭から完全に消えていたことわりを思い出す。むしろ、其のことわりが姿を消していたからこそ、彼も思い当たらなかったのだが……。


 魚雷がイソラを追いかけ……其の炎を孕んだ顎門あぎとにいよ〳〵噛み千切られようとした刹那、其れは起こった。まるで童子が失敗した折り紙を滅茶苦茶に丸めるが如く、魚雷が外圧に曲がり凹み、そして力尽きて海底に触れて――爆ぜた。

 大玉の水泡が生じ、海面目がけて長い旅路に出る。そして、此の水泡が大気と雑じるよりも早く決着は着くだろう。此の瞬間、決定的に不可逆的に勝利の女神の天秤は均衡を完全に崩してイソラに傾いたのだから。


 ――……なっ。


 必中必殺の一撃がどうして無為に終わったのか、理解に要するために生まれた虚。男が意識の虚に足を取られた瞬間、イソラは転身していた。実のところ、イソラはたゞ逃走していたのではなく、そうと見せかけて迂回しつゝ攻めに転じる機会を窺っていたのだ。そして、其の準備の差――または覚悟の差――とも言うべき一瞬が総てを制した。


 ――勲、託したぞ!


 勲に全幅を運命を預け、大義は跳躍と腰を切る。左手での抜刀、しかも海底とあっては大義はともかく勲の目は利かぬ。だが、彼の目の役は清顕が務める。ならば、後は託すだけだ。今まで幾度も行ってきた三人遣い。大義が主遣い、勲が左遣い、そして清顕が足遣い。此の三人でイソラ比叡丸を繰ってきたのだ。連綿と受け継いできた人形浄瑠璃座としての、歴史の裏側で禁じられたを繋げてきた徒としての、そして憂国の士としての人形浄瑠璃。今こそ、其の集大成を見せつける時。


 脚から始まり、膝、股関節、脊髄、肩、肘、手首――総てが淀みなく稼動し、総てが示し合わせていたように連動していく。そして、鞘から解き放たれた榛名丸の刀が其の刃が、外圧も潮をも斬り、セイレーン・イミテーションの胴体へと通った。


 一度刃筋が通れば、後は原潜の二重船殻さえも斬り裂ける銘刀だ。たか〴〵七メートル程度の人型潜水艦など容易く斬って捨てられる。破断の筋から靄と漏れ出たのは、イソラと同じ透明の――そしては今は白く映る義血。臓腑が存在しないセイレーン・イミテーションからははらわたがこぼれる凄惨さは無かったが、其れでも胴を斬られたとなれば程なく生命の燈火は消え行く定め。


 イソラの居合いは、船殻と同時に男の腹をも破断せしめていた。腹を斬られるのは通常ならばまろび出た己の内腑と大量の血を見つめ、更には絶え間ない激痛に身を晒される事となるのだが、そういった意味では男は僥倖だったのかもしれぬ。破断の瞬間より、其の淵目がけて侵入してきた海水が、痛みをも感じるいとまさえ与えず男の肉体を圧搾したのだ。


 深々たる海底で圧縮された海水は、自然の摂理としてセイレーン・イミテーションを圧縮していく。其処には何の感情も挟まれる余地もない、冷酷で厳然で当然たることわりだけが存在した。圧壊し、海底まで墜落するセイレーン・イミテーションをイソラが見つめる。


 翻ってきっさきを敵――がいるとおぼしい方向――へと突きつけたイソラの一連の挙措が見せた無謬性は、勲が剣術の稽古を欠かさなかった証左といえよう。


 帰趨は決した。かくも美事な一刀は、まさしく彼らが三人遣いとしての確かな研鑽を積んできた日々を意味していた。


 イソラ三艇を失う戦は、場にいる総ての者の天運までも秤に乗せた血闘だった。喪われた生命、喪った物は計り知れず、彼らの志も無情の海底へと沈んだのだ。しかし、彼らの血は、此の広大な海の一部となり、永劫となる。其れは、地球という天体が見せる、壮大な循環なのやもしれぬ。


 比叡丸は浮上する……。しかし、何故、敵の魚雷はおのずと散ったのか。何故セイレーン・イミテーションは、最後の一刀の後は其れまでと異なり自然法則に従って圧壊したのか。大義たちには知る由も無かった。


 たゞあったのは、舞っていた海底の沫雪あわゆきが鎮魂歌の如く、はだれと降るのみである。

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