嗅覚

 蚩尤しゆうが放った猟犬たちは悉く安曇野に翻弄され、彼の正体を探るどころか迷宮へと彷魔酔い抜け出せなくなっていた。幸いにも、彼の行動から目的は朧気ながら検討がついた今では、もはや其の正体と目的を探る意味は殆ど消え失せている。


 自然、猟犬の主が下した下知は、安曇野正義本人よりもむしろ櫻冑會おうちゅうかいと安曇野警備保障を探るものへと変化した。半世紀に渡るほどの期間、周到な準備を人知れず行っていた一個人を追う事はもはや不可能と断じていい。ならば、組織だ。人が介在する以上、幾ら鉄の掟を敷こうとも情報は漏れる――。其れは畢竟、どのような組織でさえも起こる不文律であり必然であり宿命である。


 流石は、枢機会議にさえも正体を悟らせない実力者が組織したとあって、徹底した情報管理が成されてはいたが網の隙間は存在していた。目撃者の証言を丹念に統合した結果、或る工作員が浜辺に立っている。足元には流木に見えて入るが、目を凝らせば不自然な直線が描かれた木片が砂に塗れていた。


 福岡県筑紫。海の中道と呼ばれる砂州の先に、志賀島はある。男が立っているのは神遊瀬という浜だ。


 冬鳴りが短い秋の終わりを告げ、太陽も足早に暮れ始めている。波の音色が耳朶を叩くも、其の清涼たる響きが此の寒空にはいっそ恨めしい。まだ冬の入り口だというのに、芯まで凍えさせんと忍び寄る寒気は、今冬の厳しさと長さを物語っているようにも思えた。


 吐く息も白い。厳冬の気配を肌身で感じつゝ、工作員はコートの襟立て、体温を低音から守る。あまり期待していた程の効果は得られなかったものゝ、其れでも風の冷たい手は些かやわいだと感じられた。砂浜に残された季節外れの足跡が、夏の盛況ぶりが幻であるかの如き閑散さに印され、却って真白い雪に踏まれた其れを連想させて一層の寒々しい気配を伴っている。そう見れば、木片もまた半ば以上を砂にうずもれさせ、積雪の趣に似た詫びと寂びが根ざしている。


 自然が成した枯山水の風景に、しかし工作員は傾ける心を持ち合わせていなかった。


 海水と砂に晒されて、今は朽ちてるがまゝに任せているが、彼は既に此れが建材の一部である事を看破している。入念に痕跡を消していたのだろうが、組織内には何処かにこういった迂闊な者が現れたりするものだ。想像でしか無いが、此処には建造物が存在していた。建築者は其の事実を秘匿するために。解体の後に建材を回収していたのだが、生憎漏れヽヽがあった。其れこそが、砂浜に取り残された木片と見て間違いなかろう。


 突如、海岸の寂れた雅をかき乱す足音と共に、数人の男が足型を砂に刻む。此の寒空の下、わざ〳〵砂浜に赴くなど酔狂者がいよう筈もなく、無粋さを咎める者は皆無である。


 何者の制止もなく枯山水に立ち入る無粋を冒した者たちには、しかし其れをはばかるような心持ちはなかった。たゞ事前に打ち合わせていた通りの動きを見せるのみである、工作員の目配せに意図するところを感じ取ってか、男たちは速やかに足元の木片に注目する。


 近場で居を構える老婆からの証言が決め手だった。偶然にも寝苦しい夜に散歩していたところ、篝火に照らされた舞台が忽然と顕れたという。白昼には見かけなかった、夜の底で舞台がぼんやりと浮かび上がり、太棹が世界を凛と震わせ、人形が神を下ろしたかのように舞い狂う様は、此の世ならざる夢幻の光景だったという。


 無論、此の証言だけでは老婆が見た夢現の出来事と一笑に付しただろうが、彼女は日記を記す習慣があった。其の日付と、安曇野警備保障のものとおぼしいトラックが数台此の地を訪れたという日付と合致していた。二つの線が交わった地、此処で何かがあったのだ。


 工作員――ヤンという偽名を持つ男は、汚名をそそぐ為に此の地に赴いていた。火の付いた煙草から揺蕩う紫煙の昇りゆく様が、曖昧に大気を満たさんと躍起になっている。砂漠に墜ちた一つの砂粒が如き懸命な反逆は、安曇野が世界の裏側其のものである枢機会議に挑む様と似ている……と彼は思った。


 夜の内に突貫で工事を行い、そして解体して足元で砂の海に半ば沈む木片だけを残して立ち去る――此の無意味としか思えぬ行為のてに何があったのか。其れを解き明かす事こそ、黒四二二八号――或いは、全くの別人である安曇野正義という人物の意表を突くに他ならぬのだ。


 一度は敗走した身、帰趨で語るのならば勝負の場にすら立てなかったと言っていい。しかし、安曇野の目的を探る為其のルーツを遡った彼の着眼点を評価する者がいたのだろう。再びのチャンスを与えられたヤンは、其の誇りに懸けて、安曇野正義の尻尾をつかむべく行動していた。もはや意地に近い感情が動機ではあったが、仄かな残り香を辿り追跡する餓狼の執念深さで彼は此の地まで導かれた。


「此処で行われた何かの目的とは……」


 誰ともなしに投げかけられた言葉は潮騒のざわめきに溶け消え入る。もとより、ヤンには行為其のものについての興味は薄い。安曇野警備保障の母体――新興宗教団体櫻冑會おうちゅうかい。いかがわしさを感じる母体から生まれた民間軍事会社PMCがまともである筈がない――とは、ヤン自身の見解だ。いわゆるカルトと呼ばれる宗教組織が、常識人の理解の範疇にない無い行動や儀式に走るといった例は枚挙に暇がない。


 むしろ、彼が関心を持っているのは行動の先。意味と意図と目的であり、其の三者はヤンにとっては同義でもあった。


 ヤンが思う安曇野正義という人物像は、確かに教祖としてのカリスマと偏屈なこだわりを持ち合わせているが、同時に其れ以外ではリアリストの一面が色濃く顕れていた。何処までもロマンチストでありながら、リアリストでもある二律背反は、だが逆説的に両者を成立させている。思い浮かべる人物像が正鵠を射ているのならば、人目を忍んで未明に行われた儀式は何かしらの――宗教上という理由からは計り知れぬ何かが潜んでいるべきだ。


 ――そう、でなければ此の地にまで赴いて、深夜に行動を起こす愚など冒すまい。


 あれ程過去を入念に消している男が、見落とした一つの瑕疵。砂浜に取り残された孤児の木片が其れだ。深夜の内に成さねばならぬ理由が――ひいては、其の行動自体を秘匿しなければならぬ理由があったのだ。更に言えば、隠蔽工作がまだ完成していない状態で、ヤンたちが動き出した証左でもあった。


 自身に近づく砂混じりの跫音に、ヤンは振り返った。しらみ潰しに聞き込みをさせていた部下である。気配を遮断するという工作員にとって初歩の初歩を心得ていない部下は、本来ならば物の役にも立たぬのだが、彼はあえて彼らを起用した。自身らの関与が悟られぬよう素人の学生を雇い、郷土研究という名目で調査をさせていたのだ。


「……なんだね」

「近場の漁師の方が、深夜に見慣れない船を見たそうです」

「ッ……確かかね?」


 息を呑んだのは、遂に本物の尻尾を掴んだのかという感慨だろうか。其れはヤン自身さえもわからなかったが、興奮を苦労しい〳〵抑えて、先を促す。そう、そも〳〵まだ一つの情報であり、調査対象の正体が確定しているわけではない。其れに、手痛い敗北を喫したのはつい先日の事だ。此のような時こそ気を引き締めるべきと、ヤンは自戒した。雇い主の変化に気づかない学生は、有力な情報を手に入れた者に与えられる特別ボーナスに眼が眩んでか、興奮の色を隠そうともしていない。


「はい。船内の記録にも載っていたそうです」

「そうか……。わかった。其の漁師の方々とは私が話そう」


 其の船艇――おそらく安曇野警備保障の手の者に相違あるまい。ならば、其の目撃した周辺には何かしらの答えかヒントが隠されていると見える。


 ――さて、鬼が出るか仏が出るか。


 心中でごちながら、ヤンは学生が案内する漁師の元へと歩を進め始めた。

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