嗅覚
自然、猟犬の主が下した下知は、安曇野正義本人よりもむしろ
流石は、枢機会議にさえも正体を悟らせない実力者が組織したとあって、徹底した情報管理が成されてはいたが網の隙間は存在していた。目撃者の証言を丹念に統合した結果、或る工作員が浜辺に立っている。足元には流木に見えて入るが、目を凝らせば不自然な直線が描かれた木片が砂に塗れていた。
福岡県筑紫。海の中道と呼ばれる砂州の先に、志賀島はある。男が立っているのは神遊瀬という浜だ。
冬鳴りが短い秋の終わりを告げ、太陽も足早に暮れ始めている。波の音色が耳朶を叩くも、其の清涼たる響きが此の寒空にはいっそ恨めしい。まだ冬の入り口だというのに、芯まで凍えさせんと忍び寄る寒気は、今冬の厳しさと長さを物語っているようにも思えた。
吐く息も白い。厳冬の気配を肌身で感じつゝ、工作員はコートの襟立て、体温を低音から守る。あまり期待していた程の効果は得られなかったものゝ、其れでも風の冷たい手は些か
自然が成した枯山水の風景に、しかし工作員は傾ける心を持ち合わせていなかった。
海水と砂に晒されて、今は朽ち
突如、海岸の寂れた雅をかき乱す足音と共に、数人の男が足型を砂に刻む。此の寒空の下、わざ〳〵砂浜に赴くなど酔狂者がいよう筈もなく、無粋さを咎める者は皆無である。
何者の制止もなく枯山水に立ち入る無粋を冒した者たちには、しかし其れを
近場で居を構える老婆からの証言が決め手だった。偶然にも寝苦しい夜に散歩していたところ、篝火に照らされた舞台が忽然と顕れたという。白昼には見かけなかった、夜の底で舞台がぼんやりと浮かび上がり、太棹が世界を凛と震わせ、人形が神を下ろしたかのように舞い狂う様は、此の世ならざる夢幻の光景だったという。
無論、此の証言だけでは老婆が見た夢現の出来事と一笑に付しただろうが、彼女は日記を記す習慣があった。其の日付と、安曇野警備保障のものとおぼしいトラックが数台此の地を訪れたという日付と合致していた。二つの線が交わった地、此処で何かがあったのだ。
工作員――
夜の内に突貫で工事を行い、そして解体して足元で砂の海に半ば沈む木片だけを残して立ち去る――此の無意味としか思えぬ行為の
一度は敗走した身、帰趨で語るのならば勝負の場にすら立てなかったと言っていい。しかし、安曇野の目的を探る為其のルーツを遡った彼の着眼点を評価する者がいたのだろう。再びのチャンスを与えられた
「此処で行われた何かの目的とは……」
誰ともなしに投げかけられた言葉は潮騒のざわめきに溶け消え入る。もとより、
むしろ、彼が関心を持っているのは行動の先。意味と意図と目的であり、其の三者は
――そう、でなければ此の地にまで赴いて、深夜に行動を起こす愚など冒すまい。
あれ程過去を入念に消している男が、見落とした一つの瑕疵。砂浜に取り残された孤児の木片が其れだ。深夜の内に成さねばならぬ理由が――ひいては、其の行動自体を秘匿しなければならぬ理由があったのだ。更に言えば、隠蔽工作がまだ完成していない状態で、
自身に近づく砂混じりの跫音に、
「……なんだね」
「近場の漁師の方が、深夜に見慣れない船を見たそうです」
「ッ……確かかね?」
息を呑んだのは、遂に本物の尻尾を掴んだのかという感慨だろうか。其れは
「はい。船内の記録にも載っていたそうです」
「そうか……。わかった。其の漁師の方々とは私が話そう」
其の船艇――おそらく安曇野警備保障の手の者に相違あるまい。ならば、其の目撃した周辺には何かしらの答えかヒントが隠されていると見える。
――さて、鬼が出るか仏が出るか。
心中でごちながら、
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