キムチ

 齢六十を超え、この時代としてはすでに老人の域に入っていたその女性は、開店直後の『前田美海店』を訪れていた。


 まだ昼には少し早く、客も『数量限定品』目当てで来た客が数人居る程度で、まだ席には余裕がある。


「およね」という名の彼女は、江戸で『漬け物仙女』と異名をとるほど、漬け物に対する造詣が深かった。


 日本全国あちこちへの旅を繰り返し、「塩漬け」、「味噌漬け」「糠漬け」はもちろん、「粕漬け」、「醤漬け」、「甘酢漬け」など、あらゆる漬け物に精通していた。


 その彼女が、

「阿東藩の『前田美海店』にて、今まで誰も食べた事のない漬け物の提供を始めた」


 という噂話を聞きつけ、旅の途中、わざわざ東海道から逸れてこの店に立ち寄ったのだ。


 しかし、「この店独自の漬け物」と聞いても、正直、物珍しさ程度しか感じていなかった。


 漬け物は、文化だ。

 一朝一夕に、たった一つの店が独自の新しい漬け物を生み出す事など、出来るわけがない。


 まあ、せいぜいちょっと塩加減を変えたとか、誰も試みなかった野菜を使ったとか、そうでないならば、それこそ誰も試そうとすらしなかった、常識外れのゲテモノ漬け物だ。


 まあそういった物は、最初は珍しがられるかもしれないが、すぐに飽きられる。

 いい漬け物というのは、毎日でも食べられる、ご飯に合う「おかず」なのだ。


 いや、ひょっとしたら、そういった「いい漬け物」なのかもしれない。

 しかし、それでも自分が子供の頃に沢庵を初めて食べた時の衝撃を上回るとは思えなかった。


 まああれこれ想像しても、実際に食べてみないと始まらない。

 食べておけば、


 「ああ、あの店のなんとかという漬け物は、何々漬けにちょっと工夫を凝らした物で、珍しい物ではあるが、まあそう毎日食べるような物でもない」

 などと説明できて、それでまた「さすが漬け物仙女」と感心されるわけだ。


 注文を取りに来た給仕の娘に、

「この店では珍しい漬け物を食べさせてくれると言うが、それはあるのかえ?」

 と聞いてみると、


「はい、他のお店ではたぶん出していない、『キムチ』という漬け物があります」

「『きむち……ああ、このお品書きの端っこに載っているやつか……他の漬け物と値段は代わらないねえ。じゃあ、これと、飯を一つ」


「はい、ありがとうございます……えっと、他には……」

「いや、それだけでいいんだ。余計な物食べると、味が分からなくなるからねえ」


「あ、はい、分かりました。確かにキムチはご飯によく合いますからね」

 給仕の娘は、笑顔でお辞儀して厨房に歩いて行った。


(ご飯に良く合う……ほう、あの娘、よく分かっておるようだね……)

 孫の様な、可愛らしい女の子でもあったので、およねにはかなり好印象に映った。


 この時代、白米は普通に流通しており、江戸では一般の町民でも食べることができ、地方でも特に贅沢品という訳でもなくなっていた。


 ほんの少し待っただけで、茶碗に盛られた飯と、小皿に乗せられたキムチが運ばれてきた。

 およねは、その赤で彩られた漬け物に正直、驚いた。


「これが、『きむち』……この赤いのは一体、何?」

「それは、『赤唐辛子』です。辛いので、あまり一度に口の中に入れないよう、気をつけてくださいね」


 娘は相変わらず笑顔のまま、それだけ言い残して帰って行った。


 およねは、混乱していた。

 想像すらしていなかった漬け物だ。


 唐辛子、それは分かる。これだけ使っていれば、辛いのは当然だろう。

 あと、この野菜が菜っ葉なのも分かる。

 つまり、菜っ葉と唐辛子の漬け物だ。


 ほんの少しだけ、薬味として漬け物に唐辛子をまぶす料理は知っていたが、これだけ大量に唐辛子を使うとは……こんな物が本当に美味いのか。それとも、やはりゲテモノなのか。


 彼女は、先に匂いを嗅いでみた。

 独特の香りが、彼女の鼻を刺激する。


(……塩辛の汁ねっ!)

 彼女は、即座にその正体を見破った。


 しかし、そうなると本当に全く予想外の組み合わせだ。

 なぜ塩辛の汁など使って、しかもこれだけ大量に唐辛子も使って漬けているのか……。


 あれこれ考えても仕方無い。まずは、食べてみることだ。

 そして彼女は箸で菜っ葉の切れ端を掴んで、口の中に放り込んだ。


 クシュ、という心地よい歯ごたえ。

 次いで、えもいわれぬ甘み、旨み、そして辛さが、口の中に広がった。


(……辛いけど、美味いっ!)


 その旨みは、菜っ葉本来の旨みと、唐辛子の辛さだけによる物ではない。

 おそらく魚介類を原料とし、それを発酵させた、しかし発酵させ過ぎていない段階で漬け汁として利用している。


 独特の甘みがあることから、恐らく砂糖も使用しているだろう。

 漬け込みに、相当手間がかかっているはずだった。


(……確かに、これは派手で、今までの私の常識を覆すわね……でも……)


 次に、横に置いてあった白飯も口に入れる。


(……なるほど、あの娘の言っていた通りだね……これは飯にも良く合う……)


 そのままでは唐辛子の辛み、漬け汁の塩辛さの刺激が少々強すぎたが、ご飯に美味く調和され、そして白米自体の食味も加わって、ここで初めて味の変化が完了する。


 そしてまたキムチが欲しくなり、次に白米を食べたくなり……と、止まらない食欲の連鎖が生まれてしまっていた。


 ――気がつくと、二つとも綺麗になくなっていた。


「これは……いい漬け物だねえ……六十年以上の人生の中で一番、驚いたよ……」

 およねは、一人そうつぶやいた。


 この瞬間、彼女の

「人生における衝撃を受けた漬け物ランキング」

 第一位が書き換わっていた。


 思わず、給仕の娘を呼び止めた。


「あ、あんた……この漬け物、どうやって作ったか、教えてくれないかい?」

 突然の女の質問に、その娘、ハルは戸惑った。


「いえ、あの……作っている訳ではなくて、仕入れているみたいです……」

「仕入れる? こんな変わった漬け物を作っている所があるんだね? その場所、是非とも教えてくれんかね?


「えっと、あの……仙界です」

 と、ハルは女の勢いに少し怯えて、思わずそう口に出してしまった。


「……仙界、だって?」

「はい、ですので……『キムチ』は、仙人であるこの店の経営者か、その妻しか手に入れることができないのです……」


「……ああ、そうか……そうだよねえ、そんなに簡単に教えてくれる訳ないよねえ……」

「いえ、あの……本当なんです、本当に仙界の漬け物なんですっ!」


 がっかりした様子の初老の女を見て、ハルが必死に反論する。


「……あんたの目……嘘を言っていないね……じゃあ、やっぱり本当なのかい? ここが『天女の店』っていう噂うわさは……」


「……えっと……はい、本当です……でも、秘密にしておいてくださいね」


 やっと信じてもらえてほっとしたのか、ハルが満面の笑みでそう答えた。

 そのかわいらしさに、およねも笑顔になった。


「ああ、私も信じることにしたよ。こんな漬け物、初めてで驚いたけど……これだけ美味しいのも、仙界の料理と思えば納得がいくというものさ」


「はい……信じていただいて、ありがとうございました」


 ハルは一礼し、上機嫌で帰って行った。


(……漬け物仙女、か……私はうぬぼれていたんだねえ……)


 本物の仙界の漬け物を口にして、彼女はこの歳にして目が覚めるような思いだった。


 そして今一度、ただの欲深い人間に戻ってしまおう。しばらくこの町に滞在し、どうせなら漬け物以外の仙界料理も楽しもう――と、彼女は早くも立ち直っていたのだった。

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