偽ものの国

青乃郁

永久のふたり

 白い家に一人きり。当たり前のことだったけど、今となってはもう違う。一緒に過ごしてくれる人がいる。毎日じゃなくても、毎時じゃなくても。あの頃は、家の中に誰かが必ずいるにも関わらず、心にぽっかりと穴が空いていたようだった。心の穴に他の誰かがいることがこんなに嬉しいことだったなんて——知ってしまったら、もう戻ることはできない。

「明日は行けない。仕事だから」

 クリアはそう言っていたから今日は会えないのだろう。彼がお仕事をしているのなら、わたしも何かしなければ。そう思って開いたのは一冊の本と真っ白な紙。これも彼にもらったもの。「覚えておいて損はないはずだ」と彼は言った。

 わたしには読めない不思議な文字がずらりと並ぶ本である。〈魔族〉の文字なのだそうだ。それを一つ一つ地道に書き写している。もともと読むのが専門で、書くのは苦手なわたしである。慣れ親しんでいるはずの〈人族〉の文字だってどんなに練習しても悪筆だった。兄に送った手紙は「ヒントがない虫食い問題」と言われたし、メイドのエリーは「暗号としてとても有効だと思います」と言った。父に送った手紙は「上手な絵」だと思われて額縁に入れられ壁に飾られている。クリアは、わたしの文章を読んで氷が溶けたかのように微笑んだ。その表情はすぐに固まり直し、呆れ顔へ変わったけれど。なんだかすごく嬉しくなったことを覚えている。

 しかし、汚名返上のためである。わたしは熱心に紙を真っ黒にしていき、気がついたときには日が暮れて真っ暗だった。昼間から始めたのに今日はもう終わりつつある。集中力だけは人一倍あった。

 夕食を食べ損ねていることに気が付いたわたしは本を閉じた。時計を見ると夜中だが、自由な身の上では夕食の時間だって自由だ。立ち上がって、寝室から居間へ移動する。居間は食堂も兼ねている。庶民の生活はこのようなものだ。慣れてしまえば特に不自由に感じない。むしろ効率的で素敵だと思う。広すぎては寂しい。

 食卓に食べ残したアップルパイがのっていたので、温めてから食べることにする。ついでにお茶もいれて簡単で質素な夕食の代わりとしよう。エリーに知られたら大目玉だけど。

 赤い果実はそのままでもおいしいが、調理するともっとおいしくなるのが不思議。甘い匂いとお茶のいい匂いが部屋を満たした。パイ生地が香ばしさを取り戻し、かじるとサクサクと音を立てた。食べ終えてしまうと少しばかり物足りなさを感じる。確か干し肉があったはず。そのままかじってもおいしいかしら、と考えていたそのときだった。

 ——ドスン。

 居間には外に通じる扉がある。居間兼玄関である。ついでに台所でもある。狭くておもしろいのはさておき、その玄関扉が音を立て振動したのだった。ノックの音ではないし、そもそも深夜だ。来客には遅すぎる。わたしは唇についたリンゴの名残をぺろりと舐めた。

「誰ですか」

 恐る恐る扉に寄って聞いた。誰何もせず開けてしまうとこっぴどく怒られてしまうことをわたしは学んでいる。

 ところが返事はなかった。この場合、どうするべきなのかはまだ教わっていない。しばし考え、適当に閃く。

「開けるですー」

 気になって眠れなくなるよりはその方が良い。鍵を開け、扉を押す。重くてびくとも動かなかった。内側から押して開ける扉である。何か障害物があるのだろう。開かなければ、閉じ込められたことになる。悪いことをした自覚はないから、これは不当なことだ。わたしは考え、すぐに閃く。

「窓から出てみるです」

 淑女であればそんなことは許されないが、今のわたしは「ただのエア」。問題ない。エリーに知られたら大目玉だが。

 寝室に移動し、マントを羽織っていることを確認してから椅子を運んだ。それを足場にし、窓枠に足をかける。このときに付いた足跡のせいで結局怒られることになるのはまた別の話である。

 ぴょんと着地し、素早く玄関前を目指す。壁の向こうにひょいと顔を出し——そこで見たものは、玄関扉にぐったりと寄りかかる人影であった。ぎょっとするのは一瞬で、すぐに持ち直す。なにしろ人が落ちているのを見つけるのは二度目なのだ。きっと三回目もあるのだろう。そろそろと近寄った。

「もしもーし。おうちを間違えてるですよ。大丈夫ですかー」

 返事はない。覗き込むと、その姿が少し変わっていることに気づく。

 少年。青い皮膚。額から伸びる大きなつの。平均より長めの耳。体を覆うのは真っ黒な羽毛のようなもの。手足の爪が鋭い。閉じた瞼に垂直に伸びる傷(だろうか?)。そして——黒い翼。

 心臓がどくんと鳴ったが、気づかぬふりをした。自分に構っているところではない。傍に座り、顔を寄せてみると呼吸音を確認した。とりあえず生きている。軽く肩を揺すってみる。片耳の十字架のピアスがきらりと揺れただけで反応がない。

「困りました。さすがに運べそうにないですね」

 自分より体長があるものを背負うのは難しいだろう。わたしは考え、すぐに閃く。エリーには内緒にしないと——


 木々の葉の間から朝日が零れてわたしを照らす。空から鳥たちの声が朝を告げる。

 わたしを呼ぶ声にはっとする。

「エア! 起きろって。おい。ほんと、この、ばか」

「いた」

 ぺしんと軽く叩かれた。目を開けるが、夢から帰った瞬間で何も思い出せない。

 わたしを見下ろす少年がいる。わたしの唯一。昨日は来れなかったはず。でも今日なら。

 まばたきを繰り返した。寝顔を見られた恥ずかしさを感じる。わたしにも羞恥心くらいあるのだ。誤魔化すように、むくりと体を起こす。かかっていた毛布がずり落ちた。気にならない。顔をあわせると自然と笑みが浮かんでしまう。

「クリア。おはようですー」

 目覚めの挨拶はいつだってこれだ。寝癖がついてないかな。よだれの跡は?——どちらも、彼は呆れて笑ってくれるだろうけど。

「お前って……」

 早速だ。苦笑しながら「もう昼だ」と、彼は言う。

 ふと周りを見渡すと、ベッドの上にいなかった。なんと部屋の中ですらない。家の外、玄関の前、土の上。ああ。合点がいく。いつもより木漏れ日が顔に当たって眩しくて、小鳥の声は近かった。

 昨晩、わたしは異形の少年の傍で眠ったのだ。動かせない彼に毛布を譲り、わたしは枕を抱いて丸まって寝たはずだったが、今その毛布を被っている。少年の姿も消えていた。

「夢でも見たんだろ」

 じっとわたしを見ていたクリアが顔を逸らした。

「ですか?」

「です、よー」

 ふてくされたようにわたしの口真似。後頭部の丸さがかわいくて、力が抜ける。笑っていると、ぐんっと突然振り向いた。その顔は怒っている。

「な、なんですか。無罪です」

 びっくりして、とにかく主張したが効果はない。頰が赤くて照れているようなのに、やっぱり怒っている。

「有罪! 警戒心がなさすぎるって何度も言ったよな。博愛主義もいい加減にしろ」

「誰にでもしてるわけじゃないですよ」

「当たり前だ! 言い訳をするつもりは?」

「……いえ。わたしが、助けが必要な人をにできなかっただけです」

「放ったらかし」

「世の中には悪い人もいます。わたしがまだ出会ってないだけだっていうのもわかってるです。今回も間違えたですね」

 首を傾げてクリアを見ると、こくんと頷いた。

「次は人を呼ぶことにします。ごめんなさいでした」

 素直にぺこりと頭を下げた。わたしの行動がどこかずれていることも、彼といる時間が長くなるにつれてわかってきた。正しい道へ導いてくれる。彼はそのためにここにいるのだろう。

 叱られて、わたしは反省した。クリアは少し体をもぞもぞさせて座り直した。理由は——そう。秘密が生まれてしまったから?

 むくりと意地悪な心が頭をもたげる。だって私は反省したのに。ずるいですよね。

「後悔はしてないですよ。二人目のクリアだったかもしれませんし」

 居心地が悪そうに、彼のピアスが揺れるのをわたしはこっそりと笑う。

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