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 その日の夕方、式典の下準備を一通り終えたアデリルは、中庭を臨むお気に入りの応接間で、チャコールの姉のトライサを迎えていた。

 チャコールより八歳上のトライサは既に結婚し、別の地方に暮らしている。この度のアデリルのお披露目式に出席するため、そして舞踏会で彼女の後見役を務めるため、夫と共に戻ってきていた。トライサが選ばれたのはアデリルと親しい付き合いがあり、かつ彼女がアトレイ王室に古くから仕えるキリエール家の人間だからだ。

 それは弟のチャコールが、朝から堂々と王女の寝室に入り込める理由と同じだった。

 王室に近い家柄というだけでなく、キリエール姉弟とアデリルは親戚でもある。お互いの母方の祖母が、従姉妹同士なのだ。

 ひとり娘のアデリルは他人に慣れるため、幼い頃から同年代の子どもと同席する機会を多く持たされた。その中でも王室に近いキリエール家の息子は特に歓迎された。実際、誕生日も一ヶ月くらいしか違わない。祖母同士は若い頃から今に至るまでずっと仲が良く、どちらかの屋敷で顔を合わせたり、休暇を一緒に過ごすこともしばしばだった。アデリルはトライサにも、顔を合わせるたびにとても可愛がってもらった。彼女のような姉が自分にもいたら、と羨ましかったこともある。

 そうやって幼い頃に親しくなったアデリルとチャコールは、当時より自分の立場を自覚しなくてはならない十七歳になっても、未だに気安い関係を保っている。アデリルの周りには彼女と年齢の近い女官がいないことも手伝って、チャコールとの付き合いを制限されることはなかった。

 最も、アトレイ王家にもキリエール家でも、一部の人々に将来的にふたりが夫婦になれば良いという目論みがあることは否めない。アデリルも長じてから、そして今でも、薄々それを感じている。けれど幸か不幸か、お互いにまったくそんな気持ちは芽生えていない。

 アデリルにとってチャコールは、家族のような兄弟のような、その関係を上手く言い表すことはできないけれど、心許せる特別な友人だった。

 トライサはその弟によく似ていて、一目で姉弟なのだとわかる。久しぶりの再会を喜び合った後、アデリルは彼女と、お茶とお菓子を乗せた丸テーブルを囲んでいた。

「衣装は決まった?」と、トライサが尋ねる。

「あとはそれぞれ順番を間違えないように着るだけです。思い出すだけでも大変だった。最初はわー、きれいな着物がいっぱい、って浮かれてたけど、採寸と仮縫いの日々は悪夢だって気づいたの。しかも寒い時期だったから」

 宣誓の時、毎日の食事会の時、二度の舞踏会、正餐会の時、署名式の時、主役の王女はその場に合わせて、全て衣装を変えることになっていた。作り始めたのは半年前だ。

「見栄を張らないで、アトラントの民への誓いの言葉と署名だけにしてくれればいいのに」

 アデリルはそう言って苦笑する。アトラントは豊かな国だが、自分のお披露目式のために、ここまで金を掛ける必要はないと思うのだ。

「アデリルがそう思っても、質素に済ませるわけにいかないでしょうね。アデリルは待ち望まれた次期女王だもの」

 アトラントは伝統的に女王の国で、トライサはそれを言ったのだ。もちろん男の国王が立ったことも多い。けれど女王の治世の時に、急速に国が栄えるという歴史を何度か繰り返していて、今でも女王が望まれる。特に飛び抜けた外交手腕を持っていたアデリルの曾祖母が急遽してから、その座を継いだ前国王の祖父、現国王の父、と現在に至るまで二代男性の統治者が続いているため、アデリルには国中から熱い期待が寄せられていた。

「これで兄弟や姉妹がいたら、また別なんでしょうけど」

「肖像画もたくさん送られてきたでしょう? チャコールにも見せた? お婿さんにしても良いと思える方はいて?」

「トライサお姉様までそんなことを。名前と顔を覚えるだけで精一杯」

 アデリルの苦い顔に、トライサが笑った。彼女はもちろん、お披露目式が次期女王の婿選びの場であることも、今ではそれが形式的なものだということも承知している。

「国外からの参加者も多いでしょう。下心あってあなたに取り入ろうとする人もたくさんいるはずよ。ある程度、アデリルの中で候補を絞っていれば、と思ったんだけど」

 正式に王室の一員となることは、成人したと認められることだ。招待客の中から誰かを選んですぐに結婚というわけではなくても、式の日から婿探しが始まることは、アデリルも知る事実だった。

 なにより、式典の中にその名残が色濃く残っている。一日目、二日目の夜に催される舞踏会を経て、三日目の最終日に客の中からしばらくの間、アトレイに滞在してもらう客、つまり暗黙の了解で、王女の婿候補となる男性を数名選ぶことになっていた。

 それはアトラントが女王の国であることに由来する。結婚は必然的に婿取りになるため、選ばれた男が王室に相応しいかどうか、滞在中に密やかにだが公然と、審査されるのだ。

 最もすでに五、六名は決まっている。普段からアトレイ王室と関係が深く、外交上引き留めるに相応しいとされている若い客たちで、彼らの方もそれは承知の上だ。彼らには女王の夫となる以外の利害関係がある。だからアデリルは気にしなくてもよかった。

 問題は、アデリル自身が選ばなくてはならない、残りのひとりかふたりだ。王室の選んだ人物だけではあからさますぎるので、彼女自身が選んだ相手が必要だった。

 それをわかった上でアデリルは、わざと企みがありそうに笑って見せる。

「トライサお姉様、私はただでさえ年の近い女官を置かず、見目麗しい若い男の臣下を何人も抱え込んだ男好きの殿下と噂されているんですよ。肖像画を眺めたくらいで、そんなに簡単にひとりふたりに絞れないわ」

「その華やかな噂が事実だったらいいんですけどね。自分好みの男性を、殿下はよくご存じだろうから。私が余計なことを言わなくても、三日の間にご自分でお選びになるでしょう。陛下たちはなんて?」

「実は名簿はもうできてるの。誰もいなかったらその中から選びなさいって。それでも二十人くらい名前があるんだけど」

 アデリルは本当に、肖像画と名前を一致させることに必死で、その中で誰が自分に相応しいかなどと考える余裕などなかった。トライサがわずかに顔を曇らせる。

「結婚を強く勧められてるわけじゃないのよね?」

「もちろんです。この式典で選ぶ必要も、今すぐする必要もないって。でも、したい相手がいるならそれでも良いって言ってるの。噂どおり臣下から選んでも良いし、市民から選んだとしても、身分にこだわらず分け隔てしない女王に見えるだろうから悪くないって。まあ、私の好きにしろってことね」

 国王夫妻は一人娘に対して愛情を持っているので、アデリルを政治の道具にしようとはしていない。ただ、彼らは両親だがアトラントの統治者でもある。娘が結婚を望む相手の身分や環境が内政や外交上で役に立つのなら、それにこしたことはないと考えているのだ。

「姉として、チャコールはおすすめしないわ。優しいけどわがままだもの。アデリル、一応聞いておくけど、本当に今、アデリルが心に懸ける方はいないの?」

 アデリルが答える前に、フリアナがそっと背後に近づいた。そして耳元で囁く。

「アデリル様、お客様です」

「誰? 客には会わないって言ったはずよ」

 式典の準備で慌ただしさが続く中、久しぶりに会うトライサと過ごす時間は、誰にも邪魔されたくなかった。だから前もって誰もいれるなと言ってあったのに。

「レンデム様です。挨拶したいと」

「レンデム?」

 アデリルは驚いた声を上げ、続けて表情を固くした。それからトライサに顔を向ける。彼女が微笑んで頷いたので、アデリルはフリアナに、

「通して」と、言った。 

「アデリル、突然すまない」

 帽子を手にして部屋に入って来た従兄のレンデムは、いかにも今着いたばかりという出で立ちだった。アデリルとトライサは立ち上がり、彼を迎える。

 レンデムは父の兄の息子で、アデリルには従兄にあたる。十歳離れているが、一番年齢の近い親族だ。容貌は父方にあまり似ていない。背丈はそれほど高くないが、背筋の伸びた歩き方で、品がある。彼はアデリルの前に進み出た。暗褐色の髪に、紅茶色の目。一見人の良さそうな顔つきは、黙ると隙なく、近寄りがたく見えることがある。それは自分だけが感じていることかも知れないけど、と思いながら、アデリルは注意深く、久しぶりに会う従兄を眺めた。

 レンデムは三年前に港町のウェントワイトに赴任してから、数えるほどしかアトレイに戻っていない。去年の新年会にも戻らなかったから、会うのはいつぶりだろう。

 彼は従妹を抱擁しようと軽く両手を広げかけた。だが、アデリルはその前に右手を差し出す。それで彼は手の位置を変えて王女の手を取った。握手の後に、アデリルが言った。

「お久しぶりですね、レンデム様。式典には来ないと伺っていたので、驚きました」

「なんとか都合がついてね。大切な従妹のお披露目式だ」

「レンデム様、お変わりなく。結婚の時は、お祝いをありがとうございました」

「やあ、トライサか。今はスカイライト夫人かな」

「三年前のことですけどね。今日はトライサ・キリエールとして殿下のところに伺いました。キリエールを名乗っていた方が、式典中にアデリル殿下のそばにいられますもの」

 レンデムはトライサとも握手する。それから従妹の方へ向き直り、その姿を眺めた。

「しばらく会わないうちに、すっかり綺麗になったね。明日の式典の主役に相応しい」

 ありきたりの世辞は嬉しくもなんともなかったが、顔を会わせれば聞かされるアルセンの言葉との違いを思い浮かべて、アデリルはつい微笑んでしまった。

 それでレンデムは、従妹が気を良くしたのかと誤解する。

「式典に不安はない? 心配ごとや困ったことがあったら、いつでも言ってくれ」

 この言葉に、さすがにアデリルは笑顔を引っ込めた。

「その心配ごとや困ったことを今、トライサ様に相談していたんです。女同士で話したいことだったから。今はトライサ様と過ごす時間なんです。レンデム様のお気持ちも、来てくださったことも嬉しいけど、晩餐の時に会えるでしょう。今はお引き取りください」

 素っ気ない従妹の言葉に、レンデムは困ったような表情を浮かべ、助けを求めるようにトライサを見た。

「成長する従妹を見守る立場も辛いものだね。様子を見に来たら厄介者扱いだ」

「殿下は明日の式典のことで、今からとても緊張していらっしゃるんです。私もお役に立てればと思ってますけど、話す時間もなかなか取れなくて。殿下の不安も当然ですね」

「なんだか分が悪いな。これでもアデリルは小さい頃、僕のことをとても慕ってくれていたんだよ」

「お慕いする気持ちは今でも変わりません。でも今は、トライサ様とお話ししたいんです。フリアナ、レンデム様を」

 フリアナが傍に近づき、レンデムを部屋の外へ促した。

 再び部屋が女たちだけになり、アデリルとトライサは座り直す。肩で大きく息を吐いたアデリルを見て、トライサがわずかだが心配そうに尋ねた。

「少し態度が、冷たかったようだけど」

「今はお姉様と過ごす時間で、それを邪魔してきたのはレンデムよ。年に一回くらいしか会わない、しかも今日まで出席することも知らされてない従兄に、式典でお願いすることなんて、なにもないわ」

「アデリル、心配しすぎないで。あなたには堂々とした姿が求められてる。私だけじゃ頼りなくても、あなたの信頼する親衛隊は常にあなたの傍にいるし、宣誓式の時も署名式の時も、離れているけどチャコールも同じ場所にいる。それにあなたなら、たとえひとりでも立派にやれる。自信を持って」

 彼女はそう言ってテーブル越しにアデリルの手を握り、力を込めた。アデリルはトライサの顔を見る。彼女が結婚してからは、多くても年に二、三度顔を合わせるだけになってしまったが、アデリルは本当にキリエール姉弟が大好きだと思った。

「お姉様、もうひとりを忘れないで。式典の警備に当たるはずよ。チャコールの兄役も、男好きの王女のお気に入りなの」

「イオディンね。そう、彼もあなたのお気に入りだったわね。それで、さっきの話だけど」

 と、トライサは手を離しながら言った。

「アデリルには今、心に決めた人はいないのね?」

「いたとしたらこんなことで思い悩む必要ないでしょうね。歴代の女王様たちは、本当に式典中に将来の夫のことまで考えられたの? 私はダンスのステップを間違えて、三百人の前で転ばないかで頭がいっぱいなのに」

「今とは時代が違うもの。アデリルは良い出会いがあったら、くらいの軽い気持ちでいればいいのよ」

「長く顔を合わせてる弟さんにも、口説き上手な親衛隊の隊士にも、黒騎士隊の騎士様にも心ときめかない私が、たった三日の間で誰かを好きになると思う?」

「そうね、育ちの良い王女様は、海賊だとか下町のやくざ者に心奪われるものよね」

「トライサお姉様、またチャコールにからかわれますよ」

 アデリルは笑った。トライサは十代の頃、お気に入りの恋愛小説を侍女に見つかるのが恥ずかしくて、弟の部屋に隠していたのだ。

「今はもう堂々と、夫の部屋に置いてるわ」

「でも結局、お姉様が結婚したのは海賊でもやくざ者でもない立派な方でしょ。私は初日の舞踏会の最初の相手も教えてもらってないのに」

 舞踏会の踊りの相手はとても重要だ。本番は二日目の夜で、これはすでに踊る相手や順序がだいたい決まっている。それに比べると一日目は自由で顔合わせの要素が強いが、最初の相手だけは王女の婿選びの幕開けとして注目されるのだ。

 他のことでは入念な下準備が進んでいるのに、その相手がいつまでも決まらないことは気掛かりだった。

 けれど顔を曇らせたアデリルとは逆に、トライサは満足そうな笑顔を向ける。

「アデリル、そのことなら心配しないで。私が請け合うわ。チャコールもね」


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