番外編.箱庭に住む人のそれぞれ その5



 リトジアは穏やかな心持こころもちで、大きな焚き火を眺めていた。

 不思議なほど、心が凪いでいる。あんなにも恐ろしいと思っていた火が、その勢力を損なう素振りも見せず、天高く燃え盛っているのに。火特有の肌を舐めるような熱気もあるのに。赤や橙、黄色と僅かに光を帯びながら、色を変えて揺らめいているのに。燃え尽きた薪が、力を失うようにからりと崩れているのに。

 怖いと思う気持ちは不思議と感じられず、ぞわぞわと背筋が粟立つ事もない。

 ルイから葬式に誘われた時は、悪意あるものではないとわかったから頷けた。側にいるのがつらいと少しでも感じたら離れればいいと、ルイも気遣ってくれていたし。まあ克復の練習にはなるだろうと思っていたのだが……こんなにも、顕著にわかるほど、平気であるものだろうか。

 もう寝落ちてしまったのでルイは見る事が出来なかったが、雲一つない空にはそれぞれ存在を主張する月達が輝いている。リトジアはしばらくそれらに焦点を当て、そしてまた焚き火に目線を戻した。

 やはり、怖くはない。震える事ない肩を、何ともなしに撫でる。

 ぱちっと小さく木が爆ぜる音。肌に寄る熱気。空気の焦げる匂い。何故だか、それらが心地よく感じられてきた。

 ルイが火をつけたから? 生命の輝きを思い起こさせる、ルイの火で。

 私の恐怖は、あの時感じた恐ろしさは、恨みは。点ける者が変わるだけで平気になってしまえるような、そんな単純なものだったのだろうか。


<いいや、とても根深いよ。表に出てこないだけだ>


 テクトの声がするりと脳内に響く。

 ルイを運ぶヒューの足元を照らすため、ランプを持って付き添ったテクトは、焚き火の前にはいない。いつものテレパスだ。

 リトジアは顔を上げて、寝室へと振り向いた。部屋の明かりがついている。入室してしばらく経っているのに出てこないのは、おそらく先に寝ていたキースの様子を見ているからだろう。幼子は夜中、いつ目が覚めるかもわからないらしい。


<そう……ですね。今でも、森を焼いた輩の事を思い出すと……気が、高ぶります。ええ、あの日の夢を見ないわけでもない……>

<客観的に見えるから、僕もこうやって口に出せるけれどね。ここは俗世と離れているから、うまく蓋が出来ているのかもしれない>

<私も、そう思います……>


 ヒューは事前に聖樹様の話を聞いていたから、いいや、明らかに被害者だったから会っても平気だった。キースは森の中に存在しえない、初めて見る生き物だから大丈夫だった。リトジアはそう自己判断している。

 もし、外に出た時に会った人が、森を焼いた輩達と同じような人に見えてしまったら。自分はどうなってしまうのだろうか。それがわからなくて、リトジアはまだ外には出たくなかった。

 引き止めてくれた彼や、人生の楽しみ方を教えてくれるルイを裏切るような、災厄へと身を堕とす可能性があるのなら……抑える自信がないのなら、行動は起こすべきではないのだ。


<うん、ゆっくりでいいよ。時間はたっぷりあるからね>

<はい……>

<それから焚き火の事だけど。僕がリトジアの無意識から読み取れたのは、葬式という儀式に肯定的な気持ちと……自分もやればよかったという羨望の欠片だね>


 え。と思わず口から声が漏れる。リトジアは目を瞬かせて、そうして首を傾げた。


<私は……ヒューをうらやんでいたのですか?>

<あくまで僕は、君の心を見ただけだ>

<……そう、ですか> 


 私は、ただヒューが故人を見送りたいと……心に整理をつけたいと言った事に、納得をしただけのはずだった。ルイから話を聞いた時は、そう思っていたはずだ。

 でも、納得しただけ? 本当に? 私は、すでに心の整理ができていた? そんなはずがない。いつ爆発するともしれない殺意に蓋をしているだけだと、今さっき、テクト様と話していたというのに。

 そこで、思い至る。

 私は引き止めてくれた人の最期まで一緒に寄り添う事ができたけれど……きちんとお別れはできただろうか。ヒューのように、ルイやテクト様へ彼の事を話せた日があっただろうか。

 一つずつ、思い返そう。

 あの時の私は、精霊になれたというのに何も出来なくて、ただ泣き崩れるだけだったはず。ああそうだ。別れの言葉など吐露していない。黙って彼の死に顔を眺めて、縋って、地を這う炎に呑まれるだけだった。

 リトジアは愕然とした。

 生前の彼にも、死後の彼にも救われたくせに。自分が箱庭にいられるのも、彼が何の奇跡か神様へ直談判をしたからであって。そうでなければダァヴ様に見つけてもらう事もなく、もしかしたら……虚無を抱えたまま、どうしようもない気持ちを納めるため、彼を裏切り復讐に走っていたかもしれない。自暴自棄にその身を災いへと堕とし、誰彼構わず暴れまわっていた可能性は、きっとある。

 だというのに、いまだ彼の死を引きずり、別れも言えてなかったとは。


「偉そうに助言などしていたくせに……私の方が、二の足ばかりを踏んでいる……」

「え……どうしたの?」


 ちょうど戻ってきたヒューが、不思議そうな顔をしている。敷布へ腰を下ろし、楽な姿勢をとった。


「ヒュー」

「うん?」

「私、先達などと言っていましたが、申し訳ありません。私よりもヒューの方が、先達でした」

「え!? 急に何で?」

「私はとても未熟者だと、痛感していた所です」

「え、あ、ええ……??」

<まあまあ、リトジアの事はいいんだよ。ほら、ヒュー。焚き火はまだ衰えてない。村の話も途中だろう? 話してごらん。僕はいつまでも付き合えるからね>

「あ、うん……じゃあ、ありがたく……」


 ヒューの優しい声が、聞こえてくる。村人との別れをゆっくりと終わらせていく彼の表情は、穏やかだった。

 リトジアは目を閉じる。しばらくして開いた。鮮やかな火が揺らめいている。

 もう一つ、思い返そう。私は、箱庭の誰かに、森の皆の事を話した日があっただろうか。

 いいや、ない。自分を引き止めてくれた人がいたとほのめかした事はあるかもしれないが、明確に彼と、彼との懐かしき思い出を、口にした事はない。

 そうだ、この大きな焚き火を見て、ヒューの話を聞ききながら思っていた……私の中に残っているのは、炎に燃やし尽くされる恐怖の日だけじゃない。私だって森の皆との穏やかな思い出があるはずだと。

 ああ……なんて、ひどい精霊なのだろうか。森の生活を忘れ、恨みばかりに気を取られて。こうして縮こまっているだけだなんて。


<ひどいかな>

<ひどいです>

<僕はルイじゃないから、こうだろうと思って言うけどね。実行に移さなかっただけ、リトジアはすごいんだよ>


 すごい。私が?


<ヒューが復讐を諦めたのは、聖樹や僕らがいたのが主な理由だけど。自分にそれを完遂するだけの力がないのも、後押ししたんだ>

<まあ……彼はあまり、戦う事に向いてなさそうですし>

<でもリトジアは違うでしょ。やろうと思えば出来る。いつでも箱庭を飛び出して燃やした奴らを探して、殺す事が出来る。それだけの力がある>

<……はい>


 本気で、やろうと思えば。

 精霊の力を使って、出来ないわけではない。今は地道に鍛錬してレベル上げなどしているが、枷を外せば。あの日のように、感情に身を任せて高位の魔法を行使しようとすれば……

 ただそれは、己が厄災へと変貌する事を意味する。


<なりたくないから、理性で蓋をした。十分だと思うけどね、それで>

<でも……>

<今気付けたじゃない。このままでは駄目なんじゃないかって。ルイに言わせれば、大きな一歩だ>


 私のセリフを取らないでよって、わめかれそうだけどね。

 そう伝えて、テクトはテレパスを切った。ヒューの村人語りに頷き、ルイが用意した村人の好物だという食事を手に取って、口を大きく開けて食べていく。一番美味しいと思ったのは、山羊のミルクを練り込んだパンだった。濃厚なのにさっぱりとした味わいで、食感は固めだったが何度も噛むと甘さが増す。これはまた追加で買おうと心にとめた。

 それからリトジアはヒューの話に相槌を打ち始めた。時々果実水を飲み、焚き火を眺め、頷く。悼む時間を、感じ取っていた。

 どれだけ時間が経っただろうか。火の勢いが衰え始めた。ヒューの思い出話も終わり、誰も声を発しない。ヒューは目をつむり、黙とうを捧げているようだった。テクトもリトジアも邪魔する気はないので、見下ろせる程小さくなってしまった焚き火を眺める。

 ふと。リトジアは思い出した。灰色の中に沈む赤。猟師達が温まるために、あるいは猛獣を避けるために扱っていた、焚き火。

 湖で仕留めた獲物を洗い、焼いて、糧にしていたあの火を。

 あれは間違いなく、命を繋ぐものだった。命を無作為に奪うものとは程遠い、森の中の灯だった。眼前にある火は、きっとそれに似ている。

 ヒューが目を開ける。黙とうが終わったらしい彼に、リトジアは声を掛けた。


「私の疑問に答えてくれますか、ヒュー」

「うん。僕がわかる事なら」

「今日の焚き火はバチバチと……激しい音が鳴りませんでしたね」

「ああ。ルイによく乾燥してるものを、頼んだからね。燃やす時に水分が残ってると、大きく爆ぜるんだ。そうすると、煙も多くなる」

「水分……」


 そうか、とリトジアは一人納得をした。

 森を燃やされた時は、そこら中で爆ぜた音がしていたけれど。黒々とした煙が視界を覆っていたけれど。

 あれは皆が、まだ水分を持っていたから……直前まで生きていた証だった。生き足掻いていたからこその、音と臭いだったのだ。

 この焚き火に不思議と恐怖を感じなかったのは、煙が少なく、音がささやかなお陰でもあるのかもしれない。

 鼻も痛くありませんし。そうひとりごちて、ヒューに続きを促した。


「薪は、木を切って形を整えたら出来るわけじゃなくて……その後、一年くらい乾かしておかないと、いけないんだ。安全に、長く燃やすために」

「……人の知恵ですね。ええ、そうしてくださった方が、木々も喜ぶでしょう」

「あ……精霊としては、木を切られたら、怒る、よね?」

「いいえ。そんな事はありません。あなたは生きるために、大地から水を吸い上げる草花を怒りますか? 木へ穴を開ける鳥や小動物を不快に思いますか?」

「そんな滅相もない。自然の事だよ」

「私も同じです。無闇矢鱈と木々を伐採すれば、許し難くもなりますが……ただ生活しているだけの方々に、精霊は何もいたしません」

「そっか……」


 森や木を汚すわけではないから……おとぎ話は本当だったんだ。

 ぼんやりと、ヒューの呟きが聞えた。それはおそらく、いつかの昔に起こった厄災を忘れぬように、人々が残した形の一つなのだろう。

 こうして、何代にも渡って自然と共存する人だっている。その形だって語り継がれ、残っている。

 同じ生き物なのだ。森を焼いた輩も、森を大切にする者も。

 同じ生き物なのに、リトジアは恨むし、共感したりする。


「……ままならぬものですね」


 ああ本当に……心というのはままならぬものだ。自分では整理が出来ていると思っていたのに。

 だけど。テクト様が言った通り、ルイならば笑顔で言ってくれるだろう。大きな一歩を踏み出したと。

 私は勝手にそう思うのだ。ルイが寝落ちる直前に呟いた事を、リトジアはしっかりと聞き止めていた。


「火が尽きるまで、まだ時間がありますが……ヒューは眠くはありませんか」

「まだ、大丈夫だよ。昼間はほとんど聖樹に埋められて、そのまま寝てたし」

「ええまったく。あなたはすぐ後ろ向きな考えに陥りますので、聖樹様も埋めがいがありましょう」


 ざああ。聖樹の声が聞こえる。

 リトジアは思わず首をすくめ、テクトは噴き出し、ヒューは目を丸くした。

 ざああ。もう一度、聖樹が囁く。


──リトジア。あなたも埋まりますか。私はいつでも、構いませんよ。


 聖樹の声を聞き取れる者には、そう聞こえたのだ。





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