番外編.暗躍のお時間



まるで絵画から出てきたかのような、美しい男だった。

烏の濡れ羽色の髪。動物のそれを思わせる滑らかな角。細い顎に沿うように切り揃えられた髪が夜風になびき、暗い中光る赤い目をちらちらと隠す。その男の神秘性を殊更際立たせるようで、ぞわりと背筋が粟立った。

あれは人類か?自分と同じ規格にしていい人なのか?一瞬の疑問が頭を支配して、駆けていた足が動かなくなる。立ち止まってしまった事に、頭上の神秘を注視して気付けない。

細身の体躯で2階屋根から軽々と飛び降り、雨上がりの水貯まりを弾き飛ばす事無く静かに着地する。まるで羽根が触れたかのように、緩やかな波紋が広がった。

屋根の上よりもずっと近くなったため、差し込む月明かりに照らされて、造形物を思わせるほど整っている顔が、本来なら闇に溶けてしまいそうな黒髪が輪郭を持って艶めいているのが、よく見える。男は切れ長な目を細め、口端を釣り上げ……腕を上げた。細長い人差し指だけが伸びている。自分を、指している。

何だ。この人は。背を這う痺れは増すばかりだ。

赤い。彼の目は、まるで血のように暗い。


「どうした。ぼうっとして」


薄い唇から、柔らかな声が漏れた。自分が問いかけられているとは思えずに、その口へと視線を固定する。あの場所から、美しい声が出てきたのだ。もう一度聞けないだろうか。耳から脳へ、まるで極上の音楽が如く、するりと入り込むあの声を。

神秘の男は愉快そうに笑う。その音も、また……


「もう一度、聞こう。


どうした?何が、どうした?自分は何をしていた、か?

その時になってようやく、己が逃げていた事を思い出す。体が震え、目が幾度も瞬いた。

路地の先に、神秘の塊のような男が立ち塞がる現状に慄き、そして。


「逃げるのは止めたの?」


背後から、カツリと足音がする。追いつかれたと察した。しっとりと重たい宵闇に相応しくないほど、のんびりとした口調。間違いなく、自分を追っていた男の声だった。

しくじった。もう、奴はここまで。これ以上神秘を見続けていられないのは口惜しいが、背後の男に捕まっては意味がない。前の男を押しのけて逃げよう。自分を追ってきた男はこの街で見た事がない顔だった。最近来た旅の者だろう。ならば地の利はこちらにある。このまま先へ、迷路が如く路地へと逃げ込めば。

再度目の前の男を見る。あの暗い目と目を、合わせてしまった。



一瞬で、意識が掻き消える。


「にげ……?……?」

「どうした。それとも、

「はなす……話す?何を?」

「ふむ、そうだな。まずはお前が何故この街へ来たのか。どのような任務を負っているのか、洗いざらい話してもらおうか」

「ああ」


心地よいオーケストラを聴いている夢を見た。良い夢だ。

だというのに、朝、何故か狭い路地で目を覚ました。体がギシギシと悲鳴を上げている。酒に強いとはいえ何杯も呷る場合は水も含むべきだなと反省し、起き上がった。

昨日はこの街の情報通だと話していた老人と、親交を深めるため互いに酒を呑み下しては笑い合い……それからの記憶がない。まさか正気を失うほど酔っていたとは。それなりの訓練を受けている自分が、不覚である。

大通りへ出て、借家へと向かう。人はまばらだった。もうすぐ朝日が昇る。通りの人々はこれから増えるだろう。

まずは身支度を整え、それから朝食を。この街に馴染むため就職した職場から、直接酒場へと行くか。どうせあの老人はまた酒を呷っている事だろう。

予定を立てながら歩を進めていると、件の老人とかち合った。彼は陽気に笑って片手を上げる。


「よお、昨日ぶり」

「ああ、おはようじいさん」

「なんだいお前、借家は向こうだろ?それとも何か?じじいとたらふく呑んだ後に可愛い彼女の部屋でも転がり込んだのかい?」

「深夜に酒くせぇ彼氏を快く迎え入れてくれる彼女なんていねぇよ。情報通だって言うじいさんなら、知ってるだろ」

「はっはっは。悪い悪い。どうもこの手のからかいは止められねぇんでね。お前さん、どうやらそこの小道で寝こけてたらしいじゃねぇか。角のババアがぶつくさ文句言ってたぞ」

「うげ……見られてたのか」

「あそこのババアは夕日が沈む前に寝て深夜に起きだすからな。やれ酔っぱらいがうるさいだの何だの、気分がいい所に水を差して楽しみやがる。お前が寝てりゃあ問題ねぇだろうがって話だ」

「違いない。現に俺は恥ずかしい姿を見られちまった」

「はっ。この俺に飲み比べを挑んで、そこらへんに寝る程度で収まったんだ。十分骨があるんだがね」

「お褒めいただき光栄だよ。これから仕事なんだ。もう行くよ」

「おう。今日も来るだろ?」

「もちろん。負けっぱなしは性に合わねぇ」

「ははっ。金は多めに持って来いよ」


昨日も人の金で呑んだくせして、どうやら今日も自分に勝つつもりらしい。上機嫌な老人と別れ、借家へ進む。

深夜の調査は角の家に気を付けて行おう。良い情報を得た、と内心頷く自分を赤と黒の目が見つめているとは、知る由もなかった。

すべては我らが神のため。神が望むものを、見つけるために。






















<スパイ全員に当たってみたが、ほとんど皆同じだったな>


グロースは大きな鶏肉を挟んだサンドイッチに、大きく開けた口で噛みついた。香ばしく歯ごたえのある厚いパンと、その厚みに負けないボリューミィな具から溢れる肉汁がじゅるりと口内に流れ込んできて大変美味だ。辛めのソースが噛むたびに甘くなっていく感じも、清涼感のある香味野菜が程よく味を締めてくれるのも、堪らない。

お勧めの店だと昼食に誘ったが、コウレンもアルファルドもお気に召したらしい。一言報告した後、むしゃむしゃと夢中になっている。ふふん、どうだ。そっちの卵サンド、フィッシュフライサンドも美味しいから是非食べるべし。

前より葉物は減ったが、ボイルしたもやしや、ポテトのペーストを挟むなどの工夫で客を飽きさせない店主の方針が好ましくて、グロースは弁当を頼まない日はこの店でよく食べている。テラス席もある人気のパン屋だ。

「お前が来る時は、必ず前日の昼頃までには言ってくれよ。絶対だぞ!」と切実な顔をした店主に言われた通り、今回も前日に伝えた。『結構食べる人が2人増える』とカンペを渡すと、店主は真っ青な顔をして厨房に翻った。その直後に布を切り裂くような悲鳴が聞こえた気がしたが、グロースは弁当を食べなければならなかったので放置した。ちゃんと前日の昼に言った。俺は約束を守ってる、の顔である。

しかし店側も、毎度美味しそうに食べる上に支払いを多めにしてくれるグロースのお願いを無下にはしない。その日の午後は店じまいをして、全力で仕込み、翌日には見事に作り終えるのである。さらに一般客用の商品も、普段よりは格段に少ないがちゃっかり作っているのだ。職人の本気はすごい。

予約しておいたテラス席は3つのテーブルをすべて連ねて、その上に所狭しとサンドイッチが置かれている。これがいつものグロース席だ。本日はさらにサンドイッチがなくなったら店側から足してくれる方式らしい。ちらちらとテーブル上を見張っている店内の店員を見て、コウレンは軽く手を振っておいた。いつも爆食魔人が世話になってるな、の微笑みである。何故か客の方が黄色い悲鳴を上げたが、グロースの顔に慣れた店員はどや顔で親指を立てたので問題ないのだろう。大変逞しくて好ましい。コウレンは深く頷いてこんがりと焼かれた青魚が挟まったサンドイッチを手に取った。ローストビーフのサンドイッチに舌鼓を打つアルファルドは、たっぷり挟まれている肉を満足げに咀嚼している。

グロースは口を動かしながら、2人へテレパスを送った。グロースより長く生きてる彼らもまた、テレパスを習得していた。聖獣よりは格段に劣るが、テレパスを持つ者同士で使うのならば、内緒話に問題はない。読心を事も無げにこなす聖獣がなのだ、と十分チートな魔王は思う。


<それで?収穫は?>

<ナヘルザークの戦争への意欲の有無、住民の意識調査、冒険者の実力観察、市場査察、軍備の調査、人口に異変がないか、などなど。これから戦争に参入しようと言うのだから、各国の主要都市に配備されているようだな。どこの誰が同業者なのかは、どうも本人達も知らないようだ>

<個々に上司がいるみたいだよ。この街にいるスパイは自分だけって思ってる奴も多い>

<それ統率取れてる?>

<上司らの総意は宗教による世界制覇みたいだがなぁ。それぞれ思惑があるんだろ>

<その上司達から、神が望むものがあるって教えられてるみたいだけど……どうも何かわからず探させられてるみたいだね。おそらくルイの事だと思う>

<邪法の詳細は国の上層部しか知らんだろうからな。だが問題は実在するかもわからん神とやらが、あるいはその上司達が何故、使、だ>

<俺達が長年かけて調べて、やっと知った事なのにね。ちょっと悔しいんでしょ、コウレン>

<むっ。そんな事は……あるか。ほんの少しな。今度フォルフローゲンに行くから、その時ついでに調べるさ>

<ん。怪しまれないようにマルセナの依頼はルイに通したけど、見張られてるなら派手な事は控えるか。程々に話しておく>

<商業の方のギルドマスターだな。今は野菜が少ないからなぁ。ルイの所で仕入れられるなら、そりゃあ喜んで飛びつくだろう。もう冒険者には売ったのか?>

<日本の総菜もね。彼女は空腹を訴える者には分け隔てなく施すから。冒険者達は世間知らずなルイが、欲深い奴らの目に留まらないように黙ってる。上の階層の奴らには、今の所ルイの話は全然広まってない。まだ自分達だけで独占していたい気持ちもあるんでしょ>

<あの子の優しさは付け入りやすいからなあ……いやあ、この国の冒険者は心根の良い奴らが多くて素晴らしいな!今日もグロースの友人だからと声をかけられたぞ!伯父さんはグロースがちゃんと周囲に溶け込み働けてるようで嬉しい!>

<いきなりおっさん臭い事言うなじじい>

<それ結構急所だから止めてあげて>


突然項垂れたコウレンに、よもや喉でも詰まったのかと水の入ったピッチャーを慌てて持ってきた店員にお礼を言って、追加のサンドイッチを頼む。もはやテーブルの上にあったサンドイッチ達は半分以上駆逐されていた。魔族が3人揃えば在庫など消えるのだ。


「そういえば不思議なんだけど」


アルファルドが声に出した。つまりこれは、隠す話ではないという事だ。


「んー?」

「店の中にいる人達は何も食べてないようだけど、お客だよね?何してるの?」

「ああ……お前、それは、うーむ」


この古竜、かなり鈍い。頑強な鱗でほとんどの攻撃をや魔法を防ぎ、マグマさえちょっと熱い風呂だと豪語できるほど強い体を持つが、その頑丈さが仇となったのか。大分大雑把で、細かい事が苦手。そのついでに人の感情の機微も察しづらいようだ。さらに俗世へ出たのも100年以上ぶりとなれば、の空気にも慣れていない。

店内のパンはすでに売り切れ、席についている者は女性のみ、退席を促されないよう何がしかを飲みながら皆がテラス席を伺う。そして魂の色が、期待と興奮、色恋に明るく揺れる。

ここまで揃って察せられないのだから、この男の鈍さも筋金入りだなと伯父甥は揃って頷いた。


「見目麗しいものを好むのが女性というものだ。俺達はどうも、彼女らの好みに合う顔らしいな」

「つまり鑑賞されているんだね。コウレンが魅了をかけたわけでもなく」

<おっまえそれは口に出すなよ。魅了スキルは世間に内緒だぞ>

<そうだった。ごめんごめん>

<伯父さん、気に入った子がいても手加減してよ。魔王の魅了は人に強すぎる>

<俺は傍迷惑な節操なしじゃないし魅了のかけ方も手加減できるぞ!?ちゃんと後遺症が残ってないか事後確認も怠らなかったからな!?伯父さん疑われてショックなんだが!?>

<スパイには上手く使えたの?>

<もちろん!記憶操作もバッチリだ>


コウレンの真っ赤な瞳が怪しく光る。が、それも一瞬だ。誰にも影響を与える事無く、上手く隠される。


<俺もコウレンみたいに微調整が出来ればなぁ>

<アルが魅了使ってみろ。一瞬にしてここら一帯の人が意識奪われて骨抜きだぞ。底なし沼に頭から投げ込むようなものだ。間違っても使ってくれるなよ>

<わかってる。追いかけっこしかしてないから、俺は一体何の仕事をしてるんだろうって思っただけだよ>

<まあなあ。俺も魅了ばかりで疲れた。土産もある事だし、そろそろ帰るか。全力で飛んでいいぞ>

<やった。コウレン落とす気で行くね>

<そのくらいの加減はしろ>

「追加のサンドイッチお持ちしましたー!」

「おお、ありがたい!そうだ、ここのサンドイッチもいくつか持ち帰るか。皆喜ぶぞ。明日も予約は可能だろうか」


などと、コウレンが妙案とばかりに言うと。

テーブルへサンドイッチを置いていた店員がぴしりと固まった。震える手から転げ落ちたナポリタンサンドをアルファルドが掴む。

振り返れば、話を漏れ聞いた店長が真っ青な顔してテーブルに寄りかかっていた。心なしか、女性客の目も引き気味だ。

グロースはカンペにさらさらと文字を書き、このじじいも鈍感ドラゴンの事言えないな、と呟いた。心の中で3回ほど。


『俺でさえ連日利用は控えるよ。昨日からほとんど寝てない人達に酷な事言うな』

「そうだったのか!?すまなかったお店の方ー!!」

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