○ クルーザー
かっこいいクルーザーであった。船首が鋭く尖っていて、いかにも速そうだ。進水したばかりなのだろう。真っ白のボディにはフジツボ一つついていない。
船室のドアが開き、七三分けで眼鏡をかけた中年男が出てきた。服はポロシャツとチノパンである。
「昔からクルーザーが欲しくて、私」と、男が言った。「一生懸命働きました。雨の日も風の日も、身を粉にして働きました。上司の暴言に耐え、同期の嘲笑をやり過ごし、恥をしのんで新人に機械の使い方を教わり、心の慰めにと飼い始めた小鳥には全然なつかれず、それでも地道にこつこつと、実に四十年間、無遅刻無欠勤で勤め上げてまいりました」
蓮太郎と歴史研究家と鬼が拍手をした。
大工と釣り人はそれぞれの仕事で手が離せない。
「結婚はしておりません。見合いは二度で心が折れました。構うものですか。私が欲しかったのは愛よりもクルーザーだったのですから。酒も煙草もやりません。一所懸命、真実一路、馬車馬の如く働き続け、そして今遂に画竜点睛、最高級クルーザーを我が物としたのであります。無論、船舶免許も取得済みです」
男の目から涙が溢れた。
「長年の夢が叶いました。しかし頬を伝うこの涙は、喜びの涙ではないのです。ずばり、淋しさの涙なのです。淋しくて淋しくてたまらないのです」
歴史研究家が嗚咽を漏らした。
「見合いを二度で諦めず、三度四度と頑張るべきだったのでしょうか。いえ、家庭は持てずとも、人付き合いをもうちょっとなんかこううまくやるべきだったのでしょうか。でもね、飲みたくもないお酒を飲むより、私はクルーザーの為に貯金をしたかったのです。孤独を辛いとは思いませんでした――このクルーザーを買うまでは」
男の七三分けがそよ風に揺れている。
「ああ、なんと虚しい人生でしょう。どうかこの憐れな中年男のことは、悪い手本として記憶の片隅にお残し下さい。ご清聴ありがとうございました。それでは」
エンジン音が響き、クルーザーが動き出した。
船室に戻ろうとする男に、蓮太郎は「かっこいい船ですね」と言った。
男は涙をどばっと溢れさせながら、「ありがとう」と言って船室に消えた。
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