Episode 050 「切望の末に」
自主的に由美奈個人が特別な何かをしたことはない。
けれど、集団の中では重要人物のように扱われることが頻繁に起こる。本人の意思に関わらず、周りの人間はそうあることを求めていたのである。
目を引くから。注目に値するから。
誰もが美人であることを特別視する。
由美奈はそういった空気が嫌いだった。物事の中心に立ちたいと望んだことはなかった。普通の学校生活を過ごせるだけで良かったのだ。
その意に反して、クラスメイトたちは勝手な理想を外見に押し付けた。思い込みやお節介が先行した。前置きの言葉は
『ホント、笹原は綺麗だから』
『やっぱり、笹原さんって美人だし』
分かりやすい形容が外側を掠め、内側に触れようともしなかった。
そうやって担ぎ上げ、印象とは違う性質を知ると、途端に裏切られたと言わんばかりの中傷を吐き捨てる。
『あなたはいいよね。どうせ男子から好かれるんだから』
『人に嫌われることなんて早々ないでしょ?』
降りかかるのは一方的な偏見の数々。
けれど、歪められた認識に異議を唱える者はいない。
いつの日も、そうなのである。
笹原由美奈という人物の評価は容姿によって左右される。
それは着ぐるみで生活しているような感覚だった。
月日が流れ、文化祭の季節が訪れる。
この学校行事を機に、距離を詰めようとしている男子生徒が数名いた。暗に接点を作ろうとする彼らに対して、由美奈はあくまでも穏便な応答に努め、受け流すようなその場凌ぎを繰り返していた。
普段よりも気を遣っていたのである。些細な言動が気に障り、苛立つことが増えていた。知らぬ間にストレスが溜まっていたのだ。
重なるように、とある事実が発覚する。
一週間後に文化祭を控えた学校の朝。ホームルームを終えた教室の中で、由美奈は文句を口にした。
『勝手なことしないでよ。どうして確認も取らずにそういうことをするの?』
『まあまあ、これくらい別にいいじゃん。笹原さんなら絶対優勝できるよ。出なきゃ損だって!』
文化祭の企画の一つにコスプレコンテストというものがある。学年ごとに各クラスから参加者を男女一名ずつ募り、様々な仮装で人気を集め、順位付けをするイベントだ。だが、実際のそれは仮装の出来栄えを競うことよりも、校内の美男美女を決めるという方向に傾倒していた。
このコンテストに、由美奈が出場することになっていたのである。
ゴーサインをしたのは、実行委員を務めるクラスの中心人物だった。彼女は派手な催事を好む。周りを巻き込んで士気を高めていく才能は一部の生徒から好評されている。同様に、騒ぐことを嫌う一部の生徒は苦手意識を有していた。強引な振る舞いに対して愚痴を零す者も少なくない。
誰もが一丸となって取り組み楽しむことができたなら、何も問題はなかっただろう。
『私、こんなのには出ないから』
『心配しなくても大丈夫だよ。わたしたちが全力でバックアップするから。ね?』
『別に、そういう話をしてるんじゃない』
『どうして? 高校生活は短いんだから、笹原さんも色んなことやって思い出作ってさ、もっと有意義に――』
耳を貸そうともしない態度が神経を逆撫でする。
平気だと言い聞かせ、押し殺してきたはずの不満が爆発する。
『私は見せ物じゃないの! あなたたちの道楽に、無関係な私を巻き込まないでよ!』
失言であったと気づいた時には、すべてが遅い。
たった一度の感情の表出があらゆるものを台無しにする。
冷静さを取り戻した由美奈の目前に、修復不可能な現実が広がった。
その瞬間からクラスメイトとの隔たりが確定的なものへ変わる。
女子も男子も、揃って一定の距離を置いた。
重たい雰囲気を引きずったまま午前の授業が終わると、由美奈は足早に昼休みの教室を抜け出していた。逃げるように居心地の良い空間を探す。だが、気を休められる場所は見つからなかった。
悪意がどこに潜んでいるか分からない。敵味方の区別ができない。許される立ち位置が定められない。自分を信じることが正しいのか判断できない。頼れるものが何もない。
親しい友人を作らないというのは、そういうことだ。
呆然としながら、由美奈は喧騒を遠ざけた。一人になれる静かな環境を求め廊下を歩いていると、馴染みのない表札が目に留まる。それが存在することを知識として把握していても、実際に利用したことは一度もなかった。
逡巡を経て、由美奈はその部屋のドアを叩く。
大人の女性の優しい声が出迎えた。
『あらあら、随分と暗い顔をしてるわね。何かあったの?』
『えっと、その、私……は』
入室の決意は固まっていたが、それに続く語句は用意できていなかった。
口籠る生徒を前に、ゆったりとした口調が歩み寄る。
『大丈夫よ。話したいことがあるなら、焦らないで一つずつ言葉にしてくれればいい。わたしがちゃんと、あなたの気持ちを受け止めてあげるから。だから……おいで?』
スクールカウンセラーは気を落としていた女子高校生の手を取る。
悩み苦しむ子供を導くように、柔らかい温もりが由美奈を部屋の中へ招き入れた。
この悩みは贅沢が過ぎるのか。
寛容であれば摩擦は起こらなかったのか。
絶えず自問自答を繰り返していた。
何度も繰り返した結果、ただただ繰り返されただけだった。
クラスメイトが由美奈を見捨てたとしても、由美奈当人は自分を捨てられない。どうしようもなく、自分は自分でしかない。
他人に成り代わることなど不可能なのだから。
できることは、偽りのない本心を言葉に変えることだけ。
『私は毎日を普通に過ごしてるだけだった。
必要以上のものを手に入れたいと思ったことなんてなかった。
だけどみんなは私を見てくれない。
私の価値観を理解しようともしてくれない。
個人的な意見を口にするたびに離れてく。
言うべきことを主張するたびに遠ざかる。
自分に素直でいることがそんなに悪いことなのかな。
自惚れない誠実な人であろうとしただけなのに。
積極的に誰かを騙したり
それなのに誤解や悪評ばかりが広まっちゃう。
私だけが考え方を改めたって周りは変わってくれないんだ。
いつも他人の先入観や思い込みに何度も振り回される。
私のことを大して知りもしないくせに。
目の前しか見えてない頭でどれほどのことが分かるのよ。
恋愛がそんなに大事なの。
外見がそんなに重要なの。
綺麗だからって特別扱いしないでよ。
美人だからって優劣をつけないでよ。
汚いものばかりで嫌になる。
少しは下心を隠せるようになりなさいよ。
嫉妬するくらいなら自分の努力をしなさいよ。
なんで私だけに原因を押し付けるの。
どうして周りが被害者みたいな顔をするの。
こんな酷い状況でどうしろって言うのよ。
男の子を好きになることもできないじゃない。
女の子と仲良くすることもできないじゃない。
普通の学校生活を送るのに必要なものが多すぎる。
もう一人になることしか選べなくなっちゃう。
私は差別も優遇もして欲しくないのに。
注目されるような偉い人間なんかじゃないのに。
他人の顔色や言動にばかり過剰な期待して。
自分が望んだ結果にならなったら勝手に失望して。
なのに私の生き方は誰も認めてくれないんだ。
眼に映ってるはずなのに何も見えてない。
真剣に私のことが好きなら私の気持ちも考えてよ。
純粋に私のことが嫌いなら私に怒りをぶつけてよ。
何がそんなに気に入らないわけ。
お願いだから周りの人を巻き込まないで。
お願いだから友達を傷つけたりしないで。
失うことに慣れてしまいたくない。
独りでいるのにも限界がある。
もうこれ以上苦しいのは耐えられないよ。
私は楽しく笑っていられたらそれだけで良かった。
みんなもそうなんじゃないの。
そう思ってるのは私だけだったの。
もう分かんないや。
どうやったらうまくいったんだろう。
この先も似たようなことが続いていくのかな。
今の私のままじゃ幸せになんてなれないのかな。
全部投げ捨ててしまったほうが――いっそ楽になれるのかな?』
長い、長い独白だった。
誰に打ち明けることもなかった、奥底にある心が顔を出す。
話を黙って聞いていた早川は、様子を見て、ティッシュの箱とゴミ入れを由美奈の傍へと移す。嗚咽と涙が止まるまで、二人は噛み締めるように発露の余韻を共有した。
時間をかけて、各々が感情や思考を整理する。
『早川さん。私もう、疲れちゃった……』
由美奈は独り言のような溜め息を吐いた。
それは、人に伝えるための言葉ではなかった。情緒を刺激する出来事が重なり、隠し続けてきた自分を誤魔化すことさえできなくなっていた。
今日、初めて最深部に潜んでいた本心を表に晒したのである。自室であっても、一人になったとしても、これほどまで精神を乱したことは一度もなかった。
特筆すべきは、耳を傾けてくれる相手が存在するということ。
カウンセラーがどのような態度で臨むのか。
傷心気味の由美奈は希望のない答えを待っていた。微かな可能性を信じることもしなかった。現実に抗う術はないと断言されたほうが楽だった。絶えず求めてきた綺麗な何かを、探すことに飽いていた。
一思いに諦める腹積もりだったのだ。
それなのに。
『あなたは、本当に純粋なのね。だからこそ、こんなに悩んでしまうくらい、不器用な生き方しかできなかったのかもしれないけど』
『私は純粋なんかじゃない。他人の気持ちを疑ってばかりだもの』
『だけど、そうやって確かめようとするってことは、心から信じられるものを見つけたいっていう思いがある、そうでしょう?』
『本気でそう考えてたとしたら、馬鹿みたいですよね。あるはずもないものを、一途に追いかけていたんですから』
『そんなことないわ。むしろ好きよ。そういう考え方も、あなたみたいな子も』
『…………っ』
大人の力強い断言に、由美奈は狼狽した。
不安定な状態だった精神が再び決壊しそうになる。
『好きなら好き、嫌いなら嫌いって気持ちを、嘘にしないで大切にして欲しい。思ったままでいいの。無理に何かを受け入れたり拒絶したりする必要なんてない。感じたままの自分を、あなたは主張していいんだよ』
相手を非難するわけでも、意見を押し付けるわけでもない、諭すような優しい言い回しだった。ゆっくりと染み入るようにして、早川の助言が由美奈の心に溶けていく。傷を負い、冷え切った心身が熱を思い出す。目許から流れ落ちていく滴は、一人では得られない温もりで溢れている。
今までは含みのある好意ばかりを向けられてきた。優しい言動には複雑な意図が込められていることも多かった。だから由美奈は、真っ直ぐな好意というものに慣れていない。零れる感情をどう処理すべきなのか、見当もつかない。
声も涙も、今ある本当の自分を表現できずにいる。
それを見透かすように、早川は笑った。
ソファから立ち上がり由美奈の隣に移動すると、頭を撫で、そっと体を抱き寄せた。
『私……私は…………』
『あなただって泣いていいのよ。今までずっと頑張ってきたんだから。だから少しくらい、自分の弱さも大切にしてあげて』
由美奈は今度こそ、全力で泣いた。
我慢を続ける理由はもうどこにもなかった。
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