Episode 031 「似た者同士の相違点」
ピンとした背中を見送り、カウンセリングルームは再び三人だけの空間になる。
早川が穏やかに感想を呟いた。
「純朴で、根の優しい子だったわね」
「……そうですね」
返事をする智史は、何かを顧みるようだった。
その面持ちを早川がまじまじと見つめている。
「何か顔に付いてますか?」
「ううん、何も。ただ、わたしの出番がなくなっちゃったなーって思ってただけ」
「俺は別にそんなつもりじゃ」
「分かってる、冗談よ。……だけど意外だったなあ、和島くんがあんなふうに言えるなんて」
「思ったことを言ってみただけですよ。でも、結局はあの一年生次第で、俺は無責任な激励を送っただけになるのかもしれないし」
「それでも、彼にとっては確かに意味のある後押しだったと思うよ」
「だといいんですけど」
「それにしても、よくあんなアドバイスができたわね。他人の心配ができるほど人と関わった経験があるのかしら」
「ほっとけ。最近になってようやく友達ができたような奴に言われたくねえよ」
「私にだって味方になってくれた女友達の一人や二人、いた時くらいあるわ」
「そっか。過去形、なんだな……」
拗ねるように申し立てる様を前に、智史が思わず躊躇した。
その安易な同情を笹原は許さない。
「人の人生を、勝手に憐れむのはやめてちょうだい」
僅かな余地さえ拒絶する、苛烈な気迫が放たれる。
智史は誤魔化すように補足を加えた。
「憐れんでなんかいない。友達がいた時期があるってことに、驚いただけだ」
「由美奈、抑えて。和島くんもこう言ってるから」
「……そうね」
笹原は早川と視線を交わし、目を伏せた。深呼吸して怒気を吐き出していく。
「私だって最初から今みたいな言動を繰り返してたわけじゃない。さっきの一年生みたいに友達作りを真剣に考えてた頃もあったのよ? まあ、今の私じゃ彼のようには思えないけどね。自分から他人と関わろうとするだなんて」
「だけどあの子、槙野さんとはうまく行ってるんだろ? いつの間にか一緒に映画見るような仲になってるじゃん。お前も、友達だって認めてたし」
浮かんだ疑問を、智史はそのままの形で声にした。
「槙野さんは……何度か突き放しても、諦めずに関わろうとしてくれた珍しい部類だからよ。大抵の人は冷たい態度を向けるだけで去っていくんだけどね。……本当はまだ、あの子と友達関係を続けていいのかさえ、私は悩んでるっていうのに」
笹原は、槙野の存在を心から許せてはいないらしい。
その迷いはどこから現れたものなのか。何について慎重に案じているのか。人との繋がりは同時に様々な影響を周囲に与えることがある。
「俺は一度ここで顔を見ただけだけどさ、ちょっと押しが強いくらいで、問題のあるような奴には見えなかったけどな」
智史は、頭を抱えるような障害の存在を見極めることができなかった。
簡単に理解できるのなら、誰も苦労はしない。
「――違うの。私は、そんなことを気にしてるんじゃない……ッ!」
笹原の切実さが部屋の空気を叩いた。
余計な懸念を見過ごせない者は、必要以上の重さを伴うことになる。
その叫びこそが当人にとっての悩みの深刻さを体現していた。
「こんな我儘な私を肯定してくれる。受け入れようとしてくれる。槙野さんがいい子だってことは、一緒にいた私が一番知ってるのよ」
智史は黙ることしかできなかった。智史よりも長く接してきた早川ですらも、これほど取り乱す笹原を見るのは初めてだった。
「問題視してるのはそこじゃない。……恋愛をする気がない私には同性の敵が多いの。身勝手な嫉妬や敵意に晒されることも頻繁にある。私が何を言おうと見た目の違いがあるってだけで、連中には理解する気も、話を聞く気すらもない。人気のある男子からの告白を断れば、今まで普通に話してくれた相手とも敵対するしかなくなっちゃう。そうやって、失うの。気づけばみんな離れていくの」
怒涛の勢いで言葉が溢れ出す。
智史が初めて出会った日から、これまで過ごした時間の中で。
今日の笹原が最も弱く、何より
「こんな私と一緒にいたら、もしかしたら嫌がらせの対象になってしまうかもしれない。私の味方になるってことは、リスクにも繋がるから。事実中学の時もそうだった。女は気に入らないものに容赦なんてしない。だから私は、自分から友達が欲しいなんて言わないし、言えない。そんな立場には、もう立てないってことを知ってしまったから」
自分の中にあるはずの願いを捻じ曲げてでも、優先するべきものがあるのだと言う。
「敵対してる連中が私に何をするとしても、槙野さんを巻き込む結果にだけはしたくないの。余計な問題を起こすくらいなら、一人でもいい。傷を負わせてしまうくらいなら、独りでも構わない」
――由美奈はこう見えても、優しくていい子なのよ。
――由美奈は他人を簡単に許すことができないの。さっきの子みたいに同性であっても例外じゃない。自分の中にあるもの以外を、信用することが難しいから。
智史は数週間前に聞かされた早川の言葉を思い出す。
仮に、それらのことが本当であるとしても、問わずにはいられないことがあった。
「それで、いいのか」
「仕方ないことなの。私一人の問題じゃないんだから。もし槙野さんが保身のために私を見捨てたとしても、文句なんて言わない。自分が可愛いのは当たり前よ。この考え方だけはずっと変わらない。槙野さんに火の粉が掛かるくらいなら、嫌われて離れるほうが、よっぽどいいに決まってる」
「……お前はそれで納得できるのかよ?」
「一緒にいたって、傷が一人分増えるだけだもの」
なんでもないことのように、笹原は言う。
なんでもないことのように、言えてしまう。
何も感じていないなんてことが、あるはずもないのに。
「でも、そんなのって――」
「なら君は、私と一緒に虐められてくれるの?」
決して涙は見せず。
けれど今にも泣きそうな女の子は。
デートにでも誘うように、乾いた笑みを
一人の男の子へ、そう問いかけた。
早川によれば、二人は似た者同士であるらしい。
正しく見比べていけば共通点も少なくはないのだろう。
しかし。だからこそ。
除くことのできない相違点も、確実に存在しているのだ。
繊細で不器用な少年少女、和島智史と笹原由美奈の間には決定的な隔たりがある。
「そういう考え方――大っ嫌いだ」
笹原が許せないように、智史もまた、それを許せない。
大切な相手だからこそ切り離すという彼女の選択を、肯定することができない。
二人の在り方は根幹の部分で相反している。
虚ろに揺れていた笹原が、くすりと笑った。
「……私、面と向かって男子に嫌いって言われたの、初めてかもしれない」
異性から好意的な告白を何度も受けてきた笹原にとって、それは未だ経験したことのない唯一の体験だった。何よりも、貴重なことだった。
強張っていた表情は緩み、少しの余裕が生じている。
智史は本気の意思表示をしたのだ。冗談を披露したのではない。
「なんだそのセリフ、他の女子が聞いたらブチギレしそうだな」
「ええ、実際その通りだったわ。『男の子に嫌われることなんて滅多にないわね』って教えてあげた途端、ビンタされたことがあるの。女って怖い生き物よね」
「……本当に言ったのかよ。お前のほうがよっぽど恐ろしいわ」
無視することのできない完全な対立を演じた二人が。
けれども今は、それを忘れてしまったかように会話をしていた。
反発し合うことが当たり前になっているからこそ、ただ意見が決裂するだけでは、この関係性は崩れないのかもしれない。
気が気でない思いだった早川は人知れず胸を撫で下ろす。
「男子にも女子にも言えることだけどさ、誰もがさっきの彼みたいに温厚で、言動に裏表がなかったら良かったのに。もしそうだったら、こっちの気も随分楽なんだけどなあ。面倒な連中が多いこと多いこと」
笹原が智史のほうを見遣る。お前も面倒な人間の一人だと言わんばかりに。
「屈折した性格の持ち主が何を言っているのやら」
「君こそ素直になることを多少は学んだらどうかしら。今の偏屈な君のままじゃ、さぞ世の中が生きにくいでしょう?」
「馬鹿だな。正面から物事に向き合っているからこそ、本人を相手に面と向かって敵意をぶつけられるんじゃないか」
「……口喧嘩もそろそろ飽きてきたわね。この辺りで手も足も出せる本気の喧嘩でもしてみない? 絶対スッキリすると思うわよ?」
「なるほど……。それで俺が一度でも反撃してお前に
「ちっ。よくもまあ頭が回るものね。うまく事が運べなくて残念だわ」
「本人に可愛げがないから、余計に敵を生む結果になるんだろうな」
「君を筆頭にね」
「それは何よりだ」
「わたしは可愛いと思ってるわよ? 二人のこと」
内情の整理を終えた早川が、自身の率直な気持ちを明言する。
隠そうとしない純然な好意の眼差しを向けられて、智史は黙り込んでしまった。
片や笹原は得意げに傲慢な態度を取る。
「仮に私がそうだったとしても、可愛いのは二人じゃなくて一人の間違いでしょ?」
誰のことを省いたのかは火を見るより明らかである。
除外された男子は強く思う。我儘な女子の姿は果たして魅力的なのかどうかを。
「家に帰ったら『可愛い』を辞書で調べよう。赤線引こう、そうしよう」
智史は放課後の予定を一つ追加したのだった。
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