Episode 030 「眼差しの行方」

 部屋のドアがノックされたのは、まさにその時だった。



 控えめに鳴らされた音を聞いて、早川が大きめの声で呼びかける。


「どうぞ、入ってきていいわよ」


 智史と笹原は残り少ない弁当の中身を急いで空にした。

 それだけの猶予があったのだ。

 躊躇われるような数秒を経て、廊下の外に立っていた人物が部屋の中に入ってくる。

 及び腰になりながら姿を見せたのは、気の弱そうな一人の男子生徒だった。


「あ、ええと……その、失礼します。今、大丈夫ですか?」

「もちろん大丈夫よ」

「相談、したいことがあって来たんですけど……、……」


 十秒ほどが経過する。

 彼は目線を彷徨わせながら瞬きをするばかりで、続きを口にしなかった。

 早川が先導するように少年を気遣う。


「もしかして、人にはあまり聞かれたくない内容だったりするのかな?」


 目を合わせて喋れないらしい彼は、肩をびくりと震わせた。


「違っ、そうじゃなくて……まあ話しやすいことでも、ないんですけど」

「今は思ってることを、素直に口にするだけでいいのよ。安心して。誰もあなたを責めたりしないんだから」


 丁寧に選ばれた言葉が、張り詰めている心を徐々にほぐしていく。


「あ、あの、綺麗な人だなって。だから……ちょっと、緊張する。みたいな」


 元々人と話すことが苦手なのかもしれない。その上この部屋には、容姿に恵まれている笹原と柔和に笑う早川がいる。免疫のなかった男子生徒には少々厳しい状況のようだ。


「そっか。異性に慣れてないから萎縮しちゃったのね。気づけなくてごめんなさい」

「いえいえ、ぼくこそすいません。……優しい人なんですね。そう言ってくれるだけで、充分ですから」


 決して早川に非があるわけではないが、そう口にすることで少しずつ、少年の肩の荷を下ろしていく。より良い環境を整えるために、カウンセラーは加えて提案をした。


「もし良かったら、ここにいる二人も同席させていいかしら? 男子が一人隣にいるだけでも多少は気が楽になると思うんだけど、どうかな?」

「え、その……」


 困惑している彼の様子を見て、智史が異を唱える。


「そうするんだったら、笹原を追い出したほうが良くないですか?」

「君への文句は後回しにするけど、無理に残って話が進まなくなるくらいなら、私は退室したって構わないのよ?」

「いいの。由美奈はここにいて。きっとうまく行くから」


 何か確証でもあるのか、早川は二人の進言よりも自分の予想を優先させた。


「二人は人の悩みを馬鹿にしたり、無責任な発言をするような人じゃないの。それだけは保証するわ。あなたの助けにもなると思う。近い年代同士なら感覚も合うと思うし、意見が多いほど選択の幅は広がるはずよ。どうかしら?」


 初対面の相手がいる空間で堂々と発せられた信頼の言葉。それを耳にした智史と笹原はこそばゆい思いを抱いていた。

 気を配る大人の澄んだ瞳が、揺れる少年の心身を優しく捉える。


「そういうことなら……。はい、別に、大丈夫です」


 承諾を得られた早川は、一つ息を吐くと智史に頼み事をした。


「和島くん。彼をソファに座らせてあげてくれない?」

「え? いい、ですけど」


 意図を汲みきれなかったが、笑顔に押されて智史は彼の傍へと歩み寄る。

 こめかみ辺りを指先で掻きながら、智史はどう対応すべきかを考えた。考えたものの、最後には繕わず自然体であるべきだという結論に達する。


「まあ、取って食うわけじゃないんだから気楽にしなって。とりあえずは座りなよ。話はそれからだ」


 ポンと少年の肩を叩いて着席を促す。


「はい……。ごめんなさい、先輩を手間取らせてしまって」

「先輩? ああそうか。お前一年生か」


 制服の襟元にある学年章や上履きのカラーリングは、各生徒の学年を示している。


「別にかしこまらなくていいぞ? 一年早いか遅いかだけの違いだし」

「でも、そういうわけには――」

「お前は俺のことを知らなくて、お前も俺のことを知らない。立場は同じだ。学年に差はあっても、それ以上の違いなんてないだろう? 誰に対しても頭を下げるっていう趣味があるなら別だけど、俺は無理に先輩扱いして欲しくはない」


 智史の主張を、少年は不思議そうに聞いていた。


「……分かりました。努力します」

「ああ、よろしく。ほら、ソファに座りなって」

「はい。ありがとうございます」


 智史が誘導し、少年がそれに従う。

 緊張は徐々に緩和されているようだった。しかし、目の前に並んで座っている笹原と早川に対面すると、再び挙動が不安定になる。


「あ、ええと……。相談、相談しに来たんですよね、ぼく。……すいません。スムーズに行動できなくて」

「大丈夫よ。あなたのペースで伝えてくれればいいから」


 早川が優しく言い聞かせる。

 気を利かせて智史も助言をした。笹原を指差しながら。


「こいつのことは美術室の絵画だとでも思えばいいんだ。埃被ってるような古びたヤツな。絵の具で落書きしてやるってくらいの気持ちで臨むんだぞ」

「分かりま……え?」

「ちょっと、変なこと教えないでくれる? 彫刻刀でえぐるわよ」

「ほら、こういうところがこいつの本質なんだ。見た目に騙されるな? この性悪女を簡単に信用すると痛い目に遭うぞ。過去に何人もの人間を手玉に取ってるんだ」

「彼の言うことを間に受けちゃ駄目よ? 言ってること全部嘘なんだから。虚言を吐きすぎて友達の一人もいない、憐れで寂しい嫌われ者なの」

「おい性悪、訂正しろ。俺は嫌われるほど周りに馴染めてないし、そもそも虚言を吐く相手もいないんだよ言わせんな」

「分かったわ、じゃあ訂正する。嫌われるどころか誰も見向きしてくれない、根暗に生きる日陰者が君よ。これで構わないかしら?」

「……どうしよう。割とそれで完結している気がする。あれ? 間違いってどこだ?」

「それを自分で言っちゃうんだ。……残念な人」


 本筋を忘れ、勝手な会話が繰り広げられる。

 取り残され、それを端から見ていた少年は正直な感想を述べた。


「二人は、仲がいいんですね」

「良くない!」

「良くない!」


 タイミングが揃って重なった否定の叫び。

 それがおかしくて、少年は小さく笑った。ガチガチだった最初の様相から一転して、居住まいは比較的柔らかいものになっている。

 期待通りの展開を見届けた早川がようやく仲裁に入る。


「その辺にしときなさい、二人とも。口喧嘩なんていつでもできるんだから。今は聞かなきゃいけない話があるでしょう」


 決して無駄にはならなかったものの、益体のないやり取り自体は注意されてしまう。

 智史と笹原は気構えを改めた。

 早川も今一度、相談者と向き直る。


「じゃあ、そうね。最初からでいいから、順番に話してもらえるかな?」

「……分かりました。うまくまとめる自信はないですけど、初めから」


 目をつむって深呼吸をし、彼は抱えている内情を一つずつ吐露していく。


「ぼくはその……友達作りが得意じゃなくて、喋るのも苦手だから入学してから新しく友達ができなくて。中学時代の一番の友達が同じ学校を受験したことが、ぼくにとっては重要なことだったんです。だけどクラスは別々になってしまって。でも中学の頃から一緒にやってたテニス部に入ろうって話になって、一緒に入ることにしたんです。そうすれば、独りぼっちにはならないと思ったから」


 整理しきれていない言葉を組み合わせて、切実な思いは語られる。


「そこまでは良かったんです。だけど中学の時に比べて、ここのテニス部は練習が結構きつくて。いや、練習がっていうより、単純にぼくの体力が足りなかったんですよ。元々、本気でテニスがしたかったわけじゃなくて、その友達に誘われてなんとなく入っただけだったから。中学ではそれでも楽しくやれたので問題なかったんですけど、今はそういう具合には全然ならなくって。せめて入部してから一ヶ月は、頑張ろうって目標を決めたんです。友達も応援してくれたから続けなくちゃって、そう思えたから。けど……」


 順調に運べていた流れが、途切れる。


「大丈夫だよ。ゆっくり、自分のペースで話していいんだからね」


 カウンセラーの声音が優しい。

 喉につっかえている感情を急かしたり、強引に引き出そうとする者はいなかった。

 何度かの呼吸を終えて、再び少年は自分のことを言葉に変える。


「ゴールデンウィーク中の部活動が、ぼくにとっては凄くハードだったんです。湿布とかも貼ったけど、筋肉痛は中々抜けきらないし。連日だったから基礎練習だけでも息が切れてしまうようになって、グラウンドを走ってる時に、ぼく転んでしまったんですよ。傷は大したことない擦り傷で、別に支障はなかったんですけど……それでも」


 一拍の間を置いて、彼は言う。言う決意をする。


「それでも思ってしまったんです。ぼく、どうしてこの部活をやってるんだろうって」


 羞恥に身を震わせながら、偽れない気持ちを打ち明ける。


「甘えてるのは自覚してるんです。新しい友達を作れないから、今いる友達から離れられないってことは。そのくせ部活は辛いから辞めたいだなんて、言い出せなかった……。転んでできた傷を、部活が終わったら保健室で診てもらおうと思ったんですけど、休みの日って保健室開いてないんですよね。それを知らなくて。一人で廊下を歩いてたら、なんだか凄い惨めな気分になって」


 暗くなっていた表情に、僅かな明るさが射した。


「……その時なんです。見かけた掲示板の中にカウンセリングルームの張り紙があった。それで、家で前に貰ったチラシとかも見返したりして。ここでなら、何かを変えられるんじゃないかって、そんな気がしたから。そういうわけで、ここに来た……という感じです。一応、ぼくの現状についての説明は、これで終わりです」


 強く息を吐き出して、少年は気を落ち着かせる。

 前提となる情報共有の次は、問題についての議論が始まる。


「つまりあなたは、退部するべきかどうか、退部したとして、人間関係をどうしていくべきかを悩んでるのね?」

「ざっくり言えばそうなります。……ぼくはどうすべきなんでしょうか」

「無理に続けるくらいなら辞めたほうがいいと思うけどね、部活」


 笹原が意見する。


「友達との繋がりを守りたい、その気持ちは分かる。確かに理解できるんだけど、部活ってあくまでも部活をするためにあるんだと思う。友達を失いたくないっていう理由だけじゃ、長続きはしない気がするわ」


 厳しい指摘になってしまうのかもしれないが、それを否定できる人間はいなかった。


「やっぱりそうですよね。辞めたほうがいいのかな。だけど……」


 早川が探っていない方向性を尋ねる。


「クラスメイトの中には、友達になれそうな子はいないの?」

「正直、その判断はまだできてないんです。だけどもう一ヶ月も経っちゃいましたし、その間は部活を優先してたんで、もう遅いのかなって。だからせめて、元からある繋がりだけは失いたくないんです」

「そっか。……大切な友達なんだね」

「ええ。ぼくは友達を作るのが下手だから、それでも、こんなぼくでも、仲良くしてくれたから……」


 彼はおそらく、過去の記憶、中学時代の出来事を思い返しているのだろう。今を不安に思うからこそ、長らく続いてきた確実性のあるものにすがろうとしているのだ。

 それはきっと、誰もが同じように抱く思いなのかもしれない。

 智史が呟いた。


「友達を失うのは、怖いよな」

「はい。それはもちろん。だから……独りになることが凄く、恐ろしいんです」


 深々と噛み締めるように、少年は過酷な未来を予想する。


「――でもさ、友達作りに関しては、そう悲観的になる必要はまだないんじゃないか?」


 それは沈もうとしていた雰囲気を吹き飛ばす、もう一人の、男子生徒の声だった。


「どうして、そう言えるんですか……?」

「確かにもう一ヶ月が過ぎてしまったのかもしれない。でも逆に考えれば、入学してからまだ一ヶ月しか経ってないんだ。二年生と違って、新一年生の場合は完全に初対面の相手も多いだろ? 教室の中には、お前と同じように悩んだりして、探り探りで過ごしてる連中もいると思うんだが?」

「……そうかも、ですね。まだ馴染み切れてない空気は残ってる気がします」

「だったら気の合う奴の一人や二人、見つかる可能性は充分ある。クラスには色んな人間がいるんだから。お前はクラスメイトの目の前で、何かやらかしたわけでもないんだろ?」


 第一の前提として、智史は問題がないことを確認する。


「それは、まあ。特別変な失敗はしてないつもりですけど」

「だったら、とりあえずは近場にいるクラスメイトから話しかけてみたらどうだ? ついていけない部活に専念し続けるよりは精神的にも肉体的にも楽だと思うぞ。それでもどうにもならなかったら、またここに来ればいい。相談ならいくらでも乗ってくれるよ。ここのカウンセラーは、馬鹿みたいにお人好しだから」


 突然の誤解を招くような発言に、早川は意義を申し立てた。


「馬鹿みたいって何よ。もう少し言い方なかったの?」

「なら、否定できるんですか」


 一考を経て、カウンセラーが答える。そのことを誇るようにしながら。


「そうね。自分でもたまにそう思うことがある。誰のことも、簡単には見捨てられないの。だから当然、あなたのことも見捨てたりしないわ」


 自他ともに認めるお人好しが、にこりと笑いかける。

 少年の表情が温かく歪む。

 それに似た様子を、智史はどこかで知っているような気がした。遠くない過去の光景が、現在の状況と重なるような錯覚を感じていた。

 けれど、二人は同一人物などではない。


「ぼく、もうちょっと……いえ、精一杯頑張ってみます。いつか、ぼくにも新しく友達ができたって、あいつに紹介できるように」


 気弱な態度は鳴りを潜め、腰の引けていた少年は一つの成長を遂げる。打って変わって背筋を伸ばし、立派に決意を表明した。語気や眼差しに欠けていた活力が宿っていた。


「困ったことがあったら遠慮せずここに来てね。アドバイスなら何度でもしてあげるから」

「その友達に、自慢できるといいわね」


 早川が協力の姿勢を示し、笹原も少年の行く末に期待を込める。


「頑張れよ。大丈夫さ。……お前はまだ、間に合う位置にいるんだから」


 頼りない誰かとそっくりだった背中を押すために、智史はそっと言い含めた。

 その言葉運びはまるで――二人の間に明確な違いが存在しているかのようだった。閉鎖的な在り方について知る早川は、隠れた位置で握り拳を作る。

 三人の激励を受けて、新一年生の男子生徒は元気に応えた。


「はい、ありがとうございます!」


 弾む声色が明るい未来を予感させる。

 可能性を残す者は、今一度スタートラインに足を乗せ、前へ進もうとしている。

 であれば、可能性を見出せなくなった者はどこに目を向けるのか。

 届かないものに焦がれるような瞳があることを、笹原は見逃さなかった。

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