純粋な十代はもう過ぎた

霧谷進

Prologue

February : Days Later

Episode 001 「角砂糖をひとつ」

 新年は一ヶ月と半ばを過ぎた。

 二月も下旬を迎え、寒さの中に春の芽吹きを垣間見る季節となる。

 穏やかな空気が朝の校内を流れていく。

 先日のバレンタインが過ぎ去ったことで、浮き足立っていた生徒たちは落ち着きを取り戻していた。三年生は自由登校期間であり、新入生の加入を待つ運動部は、先輩が抜けたことで朝練に励む声も少ない。

 ゆっくりと動く時間が、五分前の予鈴のチャイムに急かされる。マイペースに歩く男子生徒の背中を、女子生徒が駆け足で追い越していった。

 誰にとっても代わり映えのない風景。これまでと同じように進む日常がある。


 その中に、教室とは違う場所を目指す影が一つ。

 廊下を行くその足取りに迷いはなかった。先生に呼び出されて職員室へ向かうわけでも、怪我をしたので保健室へ寄ろうとしているわけでもない。

 足音が止まる。そこは、とある一室の前だった。

 取り付けられた表札には『カウンセリングルーム』と記されている。

 ノックと挨拶を済ませ、男子生徒はドアを開けた。




「あら、おはよう智史さとしくん。今日の調子はどう? 元気にしてる?」


 女性の朗らかな声が出迎えた。

 後ろ手にドアを閉めながら、名前を呼ばれた生徒、和島わじま智史は皮肉混じりに応える。


「元気で問題もなかったら、毎日ここに来る必要はないんですけどね。……あと、いつも言ってますけど呼ぶ時は苗字でお願いできませんか? 思春期男子は簡単に勘違いしますよ、早川はやかわ先生」


 若干の照れを隠しながら文句をまくし立てた。

 不満を覚えた智史の目がその姿を捉える。

 この高校に常駐しているカウンセラー、早川綾乃あやのは、専用のデスクで書類を整理している最中だった。


「相変わらず堅いなあ。それを言うなら、スクールカウンセラーって厳密には教員じゃないんだから、先生って呼ばなくてもいいのよ?」


 書類が入ったファイルを棚に戻すと、早川はくるりと椅子の向きを変えて正しく来客の顔を確認する。背もたれに掛けられている白衣がはらりと揺れた。


「一回でもいいから『綾乃さん』って呼んでもらえると嬉しいんだけど」


 下から覗くような上目遣いが自制心を悪戯に刺激する。


「……親しくなるにしても、適切な距離感があるべきだと俺は思うんですが。先生」


 念を押すように智史は同じ呼称を繰り返した。


「もう……。和島くんは随分とお堅い思春期男子よね」


 つまらなそうな早川に、しかし不満が表れる様子はない。最初から名前で呼ぶことは難しいと分かっているのだ。このやり取りはすでに何度か行われている。二人の歳は一回りほど離れているのだが、年齢に相応しい接し方をしているのは果たしてどちらと言うべきか。

 あるいはこの親しみやすさこそが、生徒から人気を集める理由なのかもしれない。昼休みや放課後を問わず相談に訪れる者は多い。

 その側面が智史に対して最適であるかどうかは、微妙なところである。


「とりあえずはそうね……。朝のコーヒーはいかが?」


 椅子から立ち上がった早川がうかがいを立てる。


「じゃあ、お願いします」

「オッケー。座って待っててね」


 言われた通り、智史は出来上がりを待つことにした。

 カウンセリングルームは一般教室の半分ほどの広さがある。中央はパーテーションで仕切られており、ドア口から覗いた手前には応接用のテーブルとソファが揃っている。カウンセリングの際に生徒がより落ち着いて話ができるようにと用いられたものだ。そしてパーテーションを挟んだ奥には簡素な長机とパイプ椅子が並ぶ。場面や用途によって使い分けられている。


 手近なソファに智史は腰掛ける。

 早川は慣れた動きで準備を進めていた。

 この部屋には給湯用の器具を収めた簡易的な台も設置されている。お茶請けとして少々の菓子まで完備してあるのは、やはり生徒に対する気遣いの表れだろう。天然水とラベリングされているペットボトルをケトルに傾けて、早川はスイッチを入れた。インスタントコーヒーの容器や砂糖、マグカップを棚から取り出していく。


「角砂糖は一つでよろしかったですか、お客様?」

「それで頼みます」


 スムーズに準備を済ませ、残りはお湯が沸くのを待つだけのようだった。

 ソファの背もたれに体重を預け、智史はぼんやりと暇な時間を過ごす。


「――どう、あれから気持ちは落ち着いた?」


 問いかける早川の声は、今までの明るさと違っていた。

 怪我を撫でるかのように、穏やかで、優しい。

 ポコポコというお湯の弾ける音だけが話の合間を埋め合わせる。


「落ち着いていたとして、それで何かが変わりますか?」


 平静に。あつらえたように。

 智史の声色は平坦なものだった。

 まるで自身が傷ついたかのように、早川の表情がかげる。下がった目線の先はどこを捉え、何を思うのか。カウンセラーとしての顔は先程までの明るさを保てない。


「俺の気持ちなんて関係ないんです。今さら何をどうしたって……変わらない」


 すでに智史は、心の整理を終えている。

 もう――諦めているのだ。


「一箇所に多くの人間が集まれば、どんな形であれ問題は生まれる。ああいった出来事が一定数は起こってしまう。それは、先生が一番知っているんじゃないですか?」

「……そうね」


 否定はない。代わりに、続く言葉がある。


「だからわたしは、ここにいるの」


 沈痛な面持ちは息を潜めていた。口調は強い意思を帯びている。

 登校の際、教室ではなくカウンセリングルームに直接足を運んだ理由はそこにある。智史は一度、居場所を失った。その時、差し伸べる手がなければ不登校になっていたかもしれない。

 太陽を見上げるような眼差しを受けて、早川が微笑みを返した。気持ちを乱すまいとして智史は興味のない卓上カレンダーに意識を移す。そして声が届かないように毒づいた。こういうところが苦手なのだと。

 早川は沸いたお湯をマグカップに注ぎ、それらを小ぶりのトレイに乗せた。足音はテーブルを挟んだ正面で止まる。


「熱いから気をつけて」

「ありがとう、ございます」


 智史は差し出されたマグカップを受け取った。視線は変わらずカレンダーを捉えている。目を合わせずにいるのは、向かいに座る早川の表情を想像できてしまうからだ。

 静かに寄り添うような慈しみがある。

 素直になれない智史は、何かを誤魔化すようにスプーンでコーヒーを掻き混ぜた。

 そちらへと注意が向いている振りをした。

 単なる照れ隠しか、それとも。


 溶けていく砂糖の甘さは、どれだけの苦味を和らげてくれるだろうか。

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