ホワイトフォレストと小さなドラゴン

野々宮くり

第1話

 どくん

 心臓が跳ねて目が覚めた。

 ・・・まただ。

大きく脈うつ鼓動に乗って、血管の中を氷の針が伸びていくようなこの感覚。

落ち着け・・・お願いだから、落ち着いて・・・。

浅い呼吸を繰り返して、ただひたすら祈った。

この頃では気を抜くと、すぐに氷の針は現れる。

するすると伸びていく針を止めようと、もがき続ける日々が続いていた。

身体が変わりたがっているのが自分で解る。

抗う私を振りほどこうと、体中の血が冷たく沸騰し暴れまわっている。

うっすらと目を開けると辺りはうす暗い。

夜明けまではまだ時間があるのだろう。

涙で霞む視界の中に彼の顔が見えた。

長いまつげを伏せ、小さな寝息を立てて眠っている。

あぁ、いつまで私はこのままでいられるだろう。

いつまで私は、あなたの側に・・・。


「そろそろかな?」

「なんかこっちまで緊張するわね・・・。」

アイボリー基調の落ち着いた居間で、イライザたちはもじもじと身体を動かしていた。

「だいじょうぶさ、フィリップが付いてるんだろう?」

火の精ピット夫人は、持ち場である暖炉の中でゆったりと薪を抱いている。

季節も移り、オリビアはめっきり冷え込むようになったが、夫人のおかげで居間はほんわり暖かい。

イライザの母マーガレットが入れてくれたココアを手に、めいめいが暖炉のそばに置かれた大きな鏡の前に座っていた。

「あちちち・・・。」

声を上げたのは狼のジノだ。

最も彼は今人型を取っているので、顎より少し下で切り揃えた金髪と彫りの深いすっと通った鼻筋、くりくりした黒目がちな瞳がアンバランスな美青年である。

だが、彼から異常なまでに溺愛されているイライザにとっては、まとわりつかれるわ嫁宣言されるわで、だいぶん迷惑なただの大きな犬で、何故か黒しか着ないただの青年だ。

ちなみに狼の時はたいそう立派な銀狼なので、

昔みたいに、ずっと狼でいればいいのに。

羊のカンナから取った羊毛で編まれた膝かけを掛けたイライザは、マグカップ片手にぼんやり思っていた。

寒がりのイライザにとって、ジノの尻尾や身体はとても温かいのだ。

しかし狼のジノが人型でいるのもまた、人間であるイライザに気に入られたい一心からなので、二人の想いはちょっとずつズレている。

ごくごくたまにいい感じになるのだが、結局ペットと飼い主のままなのだ。しかもイライザ的には犬扱いだからひどい。

尻尾をひざ掛けにして、大きな身体にもたれられるのに。

イライザにまとわりつきたいジノがこれを聞けば、まばたき一つで本性に戻るが、イライザは決してそれを口にしないので、今日もまた二人はズレている。

「あ!始まりましたよ!」

小さな炎獣を膝に乗せたセシルが、細くて長い尻尾を振った。

野ねずみの少女セシルは、今日も襟と袖口が白い濃い紺色のワンピースに、フリルの付いたホワイトブリムとエプロン、焦げ茶の編み上げブーツを履いている。

セシルは毛足の長いカーペットの上に座り込み、白いフリルの脇から出た大きな耳をヒクヒクさせて、鏡に映し出された映像を、真剣な表情で見つめていた。

セシルの膝に乗っているのは、ニワトリの卵ほどの狐に似た白い炎獣だ。

名を紅蓮。月白色の見事な毛並みに、溶けたガラスのように艶やかな紅い玉を首からぶら下げている。

そして玉と同じ、紅くて大きな丸い瞳。

耳も大きめでぴんと尖っている。

ふさりとした紅蓮の尾には、鮮やかな黄緑色をした、そら豆ほどのカメレオンがしがみついていた。

祖父エドワードが連れてきた、イライザの親友ジョジョだ。

もっとも今は、みんなの親友だけどね。

暖かいのだろう。尾に巻かれて白目を剥いている。

ジョジョ、いいな。

ちらとジノに目をやるが、こちらは自慢の毛並みを封印し、ぺらぺらの黒シャツとパンツ姿で、フーフー息を吹きかけながらココアと格闘している。

嬉しいと勝手に飛び出す尻尾も、何故か今は出ていない。

ふん。

鈍感な犬は放っておいて、イライザは鏡の映像に目を戻すことにした。


鏡の中は、大勢の人でごったがえしていた。

所狭しと並べられた水槽に、たくさんの金魚が泳いでいる。

長い尾を揺らめかせたものや、短い尾を振るもの。

番号札が貼られた水槽を泳ぐ、赤・白・黒・斑と色鮮やかな金魚たち。

審査員らしき男達が順に回って、手にしたカードに何か書き込んでいる。品評会だ。

イライザたちが次々に映し出される金魚に見入っていると、

「あ!あそこ!」

頭一つ抜けた背の高い男性が写りこんだのを、目ざとく見つけたセシルが指をさした。

「出た!」

「イライザ、おばけじゃないんだから。」

ジノは笑っているが、イライザは気が気ではない。

細くて柔らかそうな金髪とセルリアンブルーの瞳。

人懐っこそうな笑顔を浮かべるその男性は、黒い瞳が行き交う中で、それはそれは目立っていた。

「あぁもう!バレるんじゃないの!?」

イライザが悲鳴に似た声を上げる横で、

「あ。あの金魚可愛い。ほら黒いの。」

ジノはやっと冷めてきたココアを片手に落ち着いている。

彼は無類の黒好きである。

するとこちらの声が聞こえるのか、鏡は会場の人たちと身振り手振りで話すこの男性を、大写しにして追いかけ始めた。

「変なことしないでよ、お父さん!」

心配をよそに、父フィリップは満面の笑みを浮かべていた。

そしてその後ろには、小ぶりな木桶を抱えた男性がもう一人。

「ゲルクル様!」

セシルが飛び上がって手を叩く。

そうなのだ。

居心地悪そうに身をすくませ、フィリップの後ろに隠れ立つ細身の青年は、魔の森ブルーフォレストを統べる神、ブルードラゴン、ゲルクルである。

嫌がるゲルクルを人型へと変身させたフィリップが、魔法使いのイライザの祖父、エドワードに場所を繋げさせ無理やり引っ張ってきたのだ。

どうして神と知り合いなのかといえば、歩く好奇心、フィリップが掟を破ってフォレストに入ってしまったからだが、それを話すと長くなる。

今回は、品評会を偶然見つけたことを喋ってしまったのが、エドワードの、いやゲルクルの運の尽きだろう。

「絶対ゲルクル喜ぶから!」

言われるままエドワードは半信半疑でフォレストと会場を繋いだが、ゲルクルのこの表情を見たら、後悔して寝込んでしまうに違いない。

おじいちゃんがここにいなくて良かったわ。

イライザが苦笑いしていると鏡が声を拾い始めた。

この鏡は字幕付き最新機種なのでイライザ達にも理解できる。どうやらフィリップはゲルクルのためにと、人々を手当たり次第質問攻めにしているようだ。

水を司るブルードラゴンのゲルクルは、自分のフォレストで熱心に金魚を育てている、金魚の愛好家なのである。

しかし蒼いシャツを着たゲルクルは、少しも楽しそうにない。ずっとうつむいたままだし、緊張してるのか一言も発さない。

一刻も早く会場から立ち去りたそうだ。

セシルが心配そうに見つめていると、不安を紛らわせるように桶の中に目をやっていたゲルクルが、ふと顔をあげた。

そして切れ長の瞳を一瞬大きく揺らしたかと思うと、意を決したように桶を抱え直し、歩き始めたのである。

「え!?ちょっとどこ行くのさ、ゲルクル!」

フィリップが慌てて後を追う。

人ごみを掻き分けゲルクルが立ち止まった先には、温厚そうな一人の老人がいた。


 金魚を眺めていた老人は、人の気配を感じて振り返った。

この国ではめったに会うことのない、蒼い瞳の青年が緊張した面持ちで立っている。

「こんにちは。」

とりあえず挨拶したものの、言葉が通じないのか、何故か手に木桶を抱えた青年は、うつむいて突っ立ったままだ。

聞こえなかったのかと首をかしげ、もう一度挨拶しようとしたところへ、

「こんにちは!」

慌てて別の男性が割り込んで来て身振り手振りで話し始める。

「ごめんなさい、彼はまだこの国の言葉がちょっと。」

「あぁ、そうですか。構いませんよ。」

ごにょごにょ言い合っていた二人だったが、後から来た方が、

「え!?そうなの!?」

と言うと丁寧にお辞儀をした。

「すみません、私はフィリップ。彼はゲルクルと言います!」

仕草を真似、ぎこちなく頭を下げた青年が抱える木桶から、チラリと水草が見える。

「はい、こんにちは。私は成田と言います。見学ですか?」

今日の品評会は誰でも入れるし、購入も可能なのだ。

「え?えぇ!金魚が好きなもので。特に彼は!ほらゲルクル、せっかくなんだから何か聞きなよ。通訳してあげるから!」

ゲルクルは頭が真っ白になっていた。

この老人こそ、ゲルクルが金魚を知るきっかけになった人物なのだ。

随分老いたが間違いない。

毎日のように通っては天空から眺めていたのだから。

懐かしさと嬉しさの余り、ゲルクルはしばらく言葉が出なかったが、老人がにこにこと待ってくれていることに気付くと、思い切ってぼそぼそ話し始めた。


 成田は、この内気そうな青年の知識の豊富さに驚いた。

本当に金魚が好きらしい。

育て方のちょっとしたコツや好きな水草の種類など、思いがけず会話が弾んだ。

青年は他にも見ているだけでは解らなかったこと、経験則で行っていたことの確認など、細々した質問をいくつかした後でこんなことを聞いてきた。

「成田さんも、まだ金魚を育てているのですか?」

「いやいや。少し前に引退しました。随分長くやっていたんだが、もう年ですしね。」

気付かなかったのか誤訳と思ったのか、フィリップが「まだ」と言ったことには触れず、成田は穏やかに微笑む。

それを聞いたゲルクルが、少し残念そうな表情をしたので、

「良い事もありますよ。長くやっていたもんだから、ほら。」

成田は手にしたカードと鉛筆を振って見せた。

「今は審査員です、金魚の。ところで、あなたがずっと大事そうに抱えているそれは金魚じゃないですか?ここで買ったの?」

木桶を指すと、ゲルクルは恥ずかしそうに頷いて、中を見せてくれた。

少しの石と水草の中に、小さな赤い和金が一匹、気持ち良さそうに泳いでいる。

「和金ですか。これは元気そうで色も良い。はて、こんな上物出てましたか?」

不思議そうに聞き返すと、

「いえ。これは彼の金魚です。育てたの。」

「あぁ、参加者でしたか。それは失礼。」

するとフィリップはおかしそうに笑いながら、ひらひらと手を振った。

「いやいや、そのつもりで来たんですけど。恥ずかしいからどうしても嫌だって、置いて側を離れるのも嫌だって言うんで、ただの金魚桶を持った外人です。」

「おやおや。桶持って珍しいなぁと思ってたんですよ。もしかしてガラスにしなかったのもワザとですか?」

「え?そうなの?」

ゲルクルが何を言われたのか解らず、きょとんとしていると、

「あ、そうか。ごめんよ。その桶ワザとなの?って。」

それを聞いて、ゲルクルはまた赤くなってうつむいた。

フィリップが耳を寄せ、小さな声を拾っていく。

「えぇと。手に持って移動するのに、木だと熱を通しにくいから金魚が安心するだろう、と思ったんだそうです。あと上から観る方が綺麗だからって。でもみなさんガラス鉢だから、自分の考えは間違ってたのかって。僕はてっきり、それで恥ずかしくなっちゃったんだと思ってましたけど。」

「驚いた。よく金魚を解っていなさる。その通りですよ。木は空気は通すが熱を通しにくい。金魚は熱を嫌いますから。例えば人の手なんて、金魚からしてみれば火傷する熱さだ。それに、ガラスが普及する前はみんなこうして木桶に入れたもんです。足元において縁側に座って、上から金魚を眺めながら桶につま先を入れたりして夕涼みするのが風流だ、粋だってね。」

ゲルクルは顔を真っ赤にして何度も頷いた。

「ふふふ。ゲルクルはね、いっぱい金魚飼ってるんです。大好きなの。それでね、この金魚は初めて飼った金魚なんですって。でもみなさん華やかなフリフリのだとか大きなのとか出品されてるでしょう?自分が持ってきたのは小さくて目立たない金魚だから、笑われたら金魚が可哀相だって言っちゃって。」

確かに木桶にいるのは、縁日でよく見る小さな和金一匹だ。

しかしこの桶のサイズでは妥当な数だし、控えめに入れられた水草や小石とのバランスも良い。

何より成田には、会場のどの金魚よりも、ゲルクルの金魚は幸せそうに見えた。

私も、この小さな和金から始めたんだったな。

見知らぬ青年に大切なことを教えてもらった気がする。

成田は改めて会場を見渡した。

「ここにいるのは、賞を貰うため、少しでも高く売るために作られた金魚ばかりなんですよ。大きな金魚や吹流し、ほらフリフリのやつなんかは人気がある。珍しいもの、色鮮やかなものは高く売れる。そのために違った品種を掛け合わせ、より美しい色を出すために鱗を剥いだり、改良に改良を重ねるのがこの業界なのです。あなたの目には、ここの金魚はどんな風に映りますか?」

一通り眺めて回ったが、どの金魚も一様に美しかった。

すぐ側の水槽にも大きな出目金が泳いでいる。

ゲルクルは手に持った小さな金魚に目をやると、

「私のところにもたくさんの金魚がいます。その中の幾つかは改良されたものであることも知りました。ただ、自分でどうこうしようとは思いません。私のところへやってきた金魚たちは、せめてそのままで、痛い思いや好かない相手と添わせるのではなく、ありのままに生きて欲しい。違う姿のものに恋をしたのならそれでいい。想いが届くなら一緒になればいい。」

そのためなら、とゲルクルは初めてまっすぐに成田の目を見て笑った。

「そのためなら、同じところに入れてやります。」


今年の品評会は、例年にない大盛況のうちに幕を閉じた。

そして数ある賞の中で審査員長特別賞を取ったのは、ふらりとどこからかやってきた、蒼い瞳の外国人だった。




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