マリール十九才 2

 なんとなくそれなりに奴隷上がりの老人たちの扱いになれた頃、荒れ野側からマリールアシュレイ少尉が現れた。毛艶の良かった馬がかなりやせ細っていて道中の無理を感じさせる様子だったが、アシュレイ少尉本人は砂塵に塗れ薄汚れてはいたものの至って元気そうだった。彼女は流れの太いザブバル川の支流の向こう側で渡りあぐねているところを作業をしている者達に発見された。

 村の整備の差配にいあわせたマジンが曳船を渡しに使って迎えにゆくと、マジンは涙ながらに抱きつかれた。

 ゲリエ村の整備はひとまず済んだと言ってもまだ様々に工事の差配が必要だった。

 人手の入っていない土地にいきなり千にかすめる数百の人間を受け入れるとなると、どうしても手間がかかる。

 そして、ザブバル川のゲリエ村の対岸の荒れ野は開墾に貪欲なソイルの人々も手をこまねいているほどに枯れた土地で馬が食って腹をこわす程に苦い草が生い茂る土地だった。

 この辺りからフラムのあたりで渡しを使ったなら単純な距離でもざっと六十リーグかもっとはあるはずで、少し岸を離れて野に入れば瘴気湿地と呼ばれる十リーグ弱の汚泥の底なし沼があったりとかで馬が死ななかったことのほうが奇跡に近い。

 聞けばフラムで脅かされたせいで飼葉は余計に持っていたが、一日歩いた辺りで水源が見当たらず川岸に戻った。まっすぐ戻ればいいものを同じ道を戻るのは業腹と南に進んで二日かかり、そこから川沿いを進んで途中親切な集落や民家で道と飼葉を分けてもらい結局十日かかった。

 その寄り道の御蔭でバクリールの商隊と鉢合わせにならなかったと思えばついていたとも言えるが、馬の様子のほうが心配だった。

 とりあえず船小屋の馬舎で馬を休ませてやると馬具を解いたところでフラフラと馬は倒れこむように眠った。

 荒れ野を渡ってきたという馬の体を磨いてやるように若者二人に命じ、マジンは鉄道でマリールを館に案内した。




 今は常時百人乗りの客車と半チャージ長積の貨車が一両づつつながっている鉄道は屋敷からの資材を下ろすと人足たちと二人を載せて走り始めた。

「物寂しいところだと聞いていたのに、随分と領民の方々がいらっしゃるのですね」

 つい半月あまり前にあったことを忘れたふうにマリールは言った。

「ヴィンゼからだけでは足りなかったので遠方からもヒトを雇ってます」

「あの方々は奴隷でして」

 経緯に覚えのあるマリールはいたずらっぽく笑った。

「ボクはそんな面倒くさいもの使いません。彼らがどこなりと去るというなら喜んで送り出しますよ。別に家伝の家臣たちというわけでもない、ただの賃金払いの合力ですよ。多くは往く宛がないと云うから行き掛りと世間体で置いているだけです」

 嫌味と云うつもりもなくマジンとしてはそう言った。

 来年中にデカートにたどり着く目算を示してやらないと雇い人たちの元気は失せるだろう。

 なんとなくマジンはそう感じていた。

 デカートまでの道のり百十五リーグという距離は近くないし、三年という時間も先を見れば遠い未来だ。

 実のところ、事業がダメとなればさっさとどこかに散ってもらったほうが面倒も少ないくらいだから、宿舎集落として村の形は整えたが、領民とか奴隷とかそういう管理資産としての人間の価値をマジンは全く認めていなかった。




「やぁ、マリール。目覚めたって話は聞いていたが、すっかり元気そうじゃないか」

 駅で資材とともに列車を待ち受けていたセラムが、マリールを見つけて快活に挨拶をした。

「これはマークス大尉殿。目を失ったって聞いてましたけれど、その後お加減はよろしいの」

「今は休暇中でこちらの厄介になっている。軍務というわけでもない。セラムでいいよ。目の方はご主人に頂いた。中で少し動くようでかなり気に入っている」

 そう言って今は眼帯を外したセラムはマリールに顔を向けて首を左右に軽くかしげてみせた。

「本当。光線の加減で少し動いて見える。義眼ですのよね。それ。素敵な色」

 マリールは煤けた軍服のまま、外出向けの細身のスカートのセラムに近づいて顔を覗き込むようにした。

「うん。毎朝鏡を見て少し位置を直すんだが、首の傾きなんかで少し物を追っているみたいに動くんだ。なかなか良く出来ている」

 セラムはそう言いながら、少し得意気に首を傾げたり捻ったりしてみせる。

 そんな機能をつけた覚えはないんだが、と思ってマジンが覗くとなるほど瞳の位置が瞼や首の動きでかすかに動いている気もする。正面からの瞳像の計算はしたが角度を変えた時の計算はした覚えがない。

「リョウやファラも旅先で我が君とご一緒だったけれど、彼女たちも休暇中なのかしら。それにしては忙しそうだったけど」

「ご主人はなかなかに人使いが荒い御仁だからね。休暇でお情けがもらえるという戦傷療養のつもりが、連日職工の如くに小銃を組み立てたり、こうやって資材の運び出しの指示をしたりしているよ」

「それもゴルデベルグ中尉殿のご案内、かしら」

「キミもだろう。まぁなんてか、彼女、悪意もなく最善と信じているからな。気の毒でしょうがない」

 セラムがそう言うのにマリールはニヤリと笑った。

「いえ。私は絶好の機会と思っていますわ。こんな物語の悪魔のような殿方と巡り会うなんて、望んでそうそう得られるものじゃありませんわ。リザ様には悪いですけど、私、婚約破棄され邦では鬼籍に入った身の上ですから、好きにさせていただいても誰にも迷惑がかからなくなったところですのよ」

 マリールがそういった言葉に何やら面倒臭気な厄介ごとの匂いを感じ取り、マジンはセラムに目を向ける。

「ん。マークス大尉。いや、セラム。むう、ああ……。アシュレイ少尉に風呂の使い方を教えてあげてくれ。ボクは船渠に戻って作業の続きをする。アシュレイ少尉、荒れ野の埃は肌に悪い。旅の汗を流してさっぱりして夕食で会おう」

 マジンは奇妙にぎこちなく固く云って、二人の会話から逃げるように線路の脇の小道を川に向かって走った。

 面倒くさいというのは事実だが、本当に作業が急いているのも事実だった。

 ヒトが増えたことで工数の進みが早くなり、マジンの点検が必要な頻度が上がった。

 一方でマジンの作業そのものは減って工員人夫の現場の今の練度に合わせて計画の進度もゆっくりになっているが、マジンは却って忙しくなっていた。

 マジンが当初に人を雇うのを厭うていた理由でもあったが、大陸を横断するほどに事業の規模を広げるためには乗り越えるべき試練であった。

 計画の上で織り込まれた不可避の時間投資であるが、それだけにすみやかに滞り無く乗り越えたい時期だった。

 実際、用人が増えてマジンが直接、軍への納入に付き合う必要も減ったが、やるべき作業そのものは増えていた。

 マジンが直接手と目をかけないで良いための手はずのために、マジンは連日夜半をとうにすぎるまで手配の指図を認めていた。



 その日、閨に忍んできたマリールは、先に予め忍んでいたセラムと鉢合わせた。

「最近ご主人はこんな感じでね。昼も夜もなく働いている。鉄は熱いうちに鍛えよとか、楽しい時間というのはすぐに過ぎるというし、彼自身も自身の身の上についてはわかっている様子だから無理をしているようには感じないが、凡俗の不出来を歯がゆく一人寝をする有様さ。いっそ表で力仕事をしているファラとリョウが羨ましい」

 セラムは左目に戸口の明りを返しながら笑って言った。

「セラム様はこちらでなにをお仕事としているので」

 マリールは主のいない寝床に潜りこみながら尋ねた。

「主に来客の整理と課業時間の確認。ラッパ手のようなものかな。実際の仕切りは家令のセントーラ女史だ。来客は私が一応全員会って見ることになっている。怪我人や事故が起きたときに指揮をするのも役分のうちだが、幸いそこまでの大事になったのは一回きりだ」

 マジンの留守中、伐採した倒木に巻き込まれ一人が骨折をした。町から医者を呼び、命に別状なかったが、その場で三ヶ月分の給金を払って家に返した。それくらいだった。

 マジンもセントーラもいない中で給金を払う判断はつきかねていた。骨折そのものはひと月半ということだったが、敢えて給金を倍出したのもセラムの判断だった。

「なかなか信用いただかれてらっしゃいますのね」

「そう言ってもらえるとありがたいがね。言った通り、なにかとくに出来ているわけではない。何かあるようでは到底手に負えないし、暇であってくれと祈るばかりで、暇であれば無聊を嘆くばかりさ」

 自嘲するようにセラムはそう言った。

「なんか、一夏の冒険のつもりできたのに、そう云うお気楽な雰囲気ではなさそうですわね」

 気軽そうに残念そうに云ったマリールの言葉にセラムは軽く笑う。

「冒険には違いないが、火遊びとしては火山や火事場で遊んでいるのと大差ない。火遊びの宛が外れた先達の一人としていっておこう。だがまぁ、これはこれで得難い休暇だと思っているよ。リザ嬢曰く我々はこの休暇のことを思い返して笑いながら悔やむことになると予言した。早くも彼女の予言のとおりにことが進んでいるような気がしているよ」

 セラムが達観するように云った言葉にマリールは嘆息した。

「せっかく我が身を捧げるつもりで来たのに、なんだかそういう甘い雰囲気を作るのは難しそう。好みの男性で私より強い方とはじめて巡りあったというのになかなか上手くゆかないものですわね」

 マリールはそう言った。

「まさか、もうご主人に喧嘩を売ったのか」

 セラムは驚くように尋ねた。

「喧嘩といいますか、本気の手合わせは願いましたわ。ただのボックス、素手ゴロ勝負でリザ様みたいな術策極める死合じゃなかったのが本当に残念なところですけど」

 マリールの思い出を噛み締めるような言葉にセラムは驚きを隠せない。

「――衆人環視の中でああも手もなく捻られるとは思いませんでしたわ。お互い手の内を知らない中での一度きりの素手ゴロ。私の初手が雑に過ぎたのは認めますけど、それだって手を抜いた結果ではなく、衆人を巻き込まない我が君の覚悟を感じた上では我が君が下がるも避けるもないと判断した上での全力でしたし、女の顔に蹴りを入れるのにまさかあそこまで正確に躊躇なく容赦なく対応されるとは思いもしませんでしたわ」

「キミ、彼に助けられたとかそういう話じゃなかったかね」

 セラムはマジンがそんなことを言っていたはずと確かめる。

「ええ。文字通り息を吹き込んでいただいたおかげで、黄泉路の塵の中から吹き上げ掬い上げていただきましたわ。奇妙なもので上か下かわからなくなったところを、こう大根が土から引き抜かれる時って云うのはああいうものかと思うような無慈悲な優しさを感じました」

「まぁ私も朦朧とした中で生き埋めから引っ張りだされた身としては、似たような感じは経験があるがね。命の恩人に殴り合いを挑むっていうのは些か奇妙なスジだね」

「本当に世の中奇妙なめぐり合わせで、私の喧嘩の売り買いしていた相手が急に我が君に喧嘩を転売しやがりまして」

 マリールが思い出して憤るように云った。

「間に入ったご主人に喧嘩をそのまま買わせたのか」

「なんと言いますか、こっちも臨検を宣した以上は軍の沽券にも関わりますし、一度我が君のお手並み拝見したかった手前もありますしで、トントンと」

「そりゃ気の毒に」

 命を助けた相手から喧嘩を売られるとは思いもしなかったろうとセラムは思った。

「本当ですよ。情けをかけられたのがわかるような、あんなみっともない負け方をしたのは、生まれて初めてですよ。そりゃ里じゃ兄姉たちに誂われるように捻られてたこともありますけど、それにしたってあそこまでっていうのはありません。後の先とられるってのは手の内を知らない相手ではよくあることで、先の先をとったら後の次を抑えるってのは、一の矢一の太刀とは別の極意心得なわけだけど、バッサリ一撃。仰向けに倒れるところを背中から支えていただいて、惨めなものでした」

 マリールが咬み合わないままに語る言葉にセラムは笑う。

「彼はああ見えてひどく荒事には向いているようだからね。マリカムで行李の取り合いに巻き込まれてひと暴れしてみせたらしい」

「それは気の毒に。ちなみにお相手はご存じですか」

「スバラ・カシーノ少佐とか言っていたかな」

 出世に興味のないマリールにはあまり興味のない名前かとセラムは思ったが、違ったようだった。

「ああ、カシーノ大尉殿。もう少佐ですか。肋はもうつながってるでしょうね。腕と肋と悩んで肋にしてさし上げたんですけど、手首のほうが良かったかもしれませんわね」

「もうキミも揉めていたのか」

「私の最初の赴任先の聯隊で馬匹の世話が遅いだの毛布や糧秣が多すぎるだのくだらないことを言い立てていた自分を能吏と勘違いした悪愚痴屋ですわ。ヒトの争いに馬を無理やり付きあわせているんだから、後方での糧秣ぐらい馬の好きに食べさせてやりたいと思いませんこと。今の口ぶりですと命を取るようなことはなさらなかったんでしょうね。お優しいこと。本当に悪魔のよう」

 手の札を宙に投げるような仕草をしてマリールが言った。

「――それにしても、今日はお戻りにならないのかしら」

「さあ、どうだろう。朝方着替えに戻ってくるとは思うけどね」

 セラムは軍隊生活で身についた洗練された素っ気なさで布団にくるまりマリールに背を向けた。



 そうしてセラムが眠りについてしばらくして、事件が起きた。

 眠っていたセラムが飛び起きるほどの鈍い音がして、慌ててサイドボードの電灯の明かりをまさぐると、裸のマジンが失神したマリールに馬乗りになっていた。

「すまん。まさか、こういうことになっているとは気が付かず、キミだと思って痴漢行為に及んだ。いきなり刺されるとは思わなかったが、脇腹でよかった。これだけ思い切り良くやられたら急所だったら死んでいた」

 見ればマリールの髪飾りが百シリカほども食い込んでマジンの左脇腹に突き立っていた。

「医者を呼ぶ。メイビルはこういうのは得意だろう。マリールはどうしたんだ」

 セラムが外を出歩ける格好に身姿を整えながら確認した。

「右腕は多分肘と手首を捻挫している。ちょっと強くぶん殴った。肋は折れてるかもしれないけど、息はある。ボクは下の小さい風呂場に行って待ってる。メイビルを呼んできてくれ」

 メイビルは傷を五十シリカばかり広げて中の様子を覗き込み、十針ばかり縫い合わせて、二三日安静にして内出血がないようなら問題無いだろうと言った。

 マリールは右手の前腕橈骨が単純骨折していた。ほねつぎで添え木をあて肘から先を重く厚く石膏で固定されたマリールは、肋も折れていてそれはコルセットをするしかなかったが奇妙に嬉しそうだった。

 とはいえ、力仕事をしなくとも外で働くことがなくともマジンの仕事がなくなるわけでは決してなかった。

 これまで夜の間は止めていた機械類が五日十日の整備だけで良くなったのは、老人たちが意外と勤勉に速やかに工房の仕組みに慣れ、彼らの車いすのせいで動線が確保され、それが出来るだけの労働力を提供している若者たちがいたからだった。

 実のところマジンが直接に若者たちに指導する機会は少なかったが、そうは云っても様々な工作機械群の機能や危険を示すためには相応の説明が必要で、体力的には全く信用ならない役に立たない老人たちが、過去の経験を元になにをやっているかの推論の骨組みを若者たちに提供し、それを元にマジンに確認し修正するという、循環的な関係ができ始めていた。

 結果として、工房に今あるものを話題にしている以上、それはマジンがなにをしていたかの実績の説明にほかならず、それは工業工作工学的な秘儀そのものではありえなかったけれども、その一端ではあった。

 これまではウェッソンとリチャーズの手を借り説明をしながら拡張していた結果として細かな使い方についての様々はほとんどその場の口頭だけだったが、人数が増えるとそういうわけにもいかなくなり始めていた。

 転がり込むようにしてやってきた割に未だに使い道の分からないマレリウヌとゴシュルを小突くようにして論文のタイプ打ちをさせ、自身の発表論文である熱と圧力と温度と体積の相関についての論文作成をマジンはおこなっていた。

 ここしばらくのローゼンヘン館の産物の過半の大筋はこの論文で説明ができ、残りは電磁気、残りは分子の構造と化学変化などの材料の特性の話題となるわけで、二つ目と三つ目は機能や構造上の蓄積はおこなえているが、他人に説明できるほどの論にはなっていなかった。

 珪素金属の電線が持つ奇妙な性質についてマジンは早く誰かと共有がしたかったが、未だそれを街場の誰かに説明しても馬に例えばサトウキビの育て方を説明するのに似ていた。

 マリールは奇妙にマジンにベッタリと張り付くようにして朝晩の食事や清拭便所の世話まで要求していた。丸二日の我慢の後にマジンはマリールの脳天に手刀を入れた。

「ボクは本当に冗談じゃなく忙しいんだ。ボクの今やっている事業は共和国を三百年推し進める事業だ。邪魔するな」

 マリールは脳天を擦るようにしながら上目遣いでマジンをみた。

「ねぇ我が君、私にも何かお仕事くださらないかしら。こんな有様でなにができるってわけじゃないのだけど」

 片腕が石膏で固められた状態のマリールではかなり仕事が限られていた。

 少し考えて、川岸に出来た村の学校の教師をやってもらうことにした。

 大雑把に二百人もいる子供たちを数人の大人になりきれていない子供たちが面倒を見るのは如何にも無理だった。



 マリールは快く応じるとマレリウヌとゴシュルを従えて、村に向かった。

 マリールは生まれ日も定かならぬ子供たちの群れを颯爽と整理し、読み書き算盤の程度に分けて編成し、歌唱絵画といった年齢や教育にさほど関わりない班を足して、十二名の妊婦とこれまで子供たちと必死に向き合ってきた若者たち十五名とで手分けして幼年学舎らしきものを作り上げた。

 マリールが骨折にもかかわらず上機嫌な理由がわかったのは、少したってからだった。デカートの軍出張所に提出を頼まれた、肋骨前腕骨骨折の診断書と併せて提出された報告書で、不審な奴隷商の臨検に当たったところ逆撃をくらいゲリエ氏の保護のもと療養中の名目で、軍からローゼンヘン館での療養滞在が公式に認められていた。いくらかの時間的なずれはあるが、積極的な反証が立てられなければ、共和国士官の裁量は認められる。

 マリールは護衛の二人を道中で巻いて西に向かい、軍人会の宿や馬を使わず、自前の愛馬とともにローゼンヘン館に転がり込んできた。事実の時系列を整理するだけの根拠はどこにもなかった。そういうことだった。

 護衛の二人の下士官は、油断するな、の上官の言葉を十分に理解できていなかったし、憲兵本部警護課の上官自身も何に油断するななのか十分に理解して言葉を発していなかったが、監視警護対象がマリールであることが彼彼女たちの不幸であったといえる。

 マリールはキンカイザの北西にあるヨッテンという温泉地に往復四十日の療養にゆく予定だった。少なくとも彼女の休暇申請にはそう書かれている。優雅な日程と言えないこともないが、傷病明けの魔導猟兵ということであれば、勲章の代わりに休暇が余計に手当てされるということは慣例でもあった。まして彼女は今次の東部戦線帰りという強運の持ち主である。

 非公式の護衛を見つけたマリールのほうからヨッテンへの道案内を申し入れてきた雰囲気では、自分の腕には自信があるが世渡りには不得手な自覚のある典型的な魔導士官に見えた。それがキンカイザで馬の様子がおかしいと蹄鉄屋で馬の足を診てもらう間に街を一周といった隙に見事に巻かれてしまった。

 それとなく互いに知っているはずの警護対象がなぜ逃げ出すのか全く理由もわからないままに二人の護衛は本部から離れた土地で支援を十分に受けられず、キンカイザの当局が警護の二人の要請で動いた時にはマリールは既にキンカイザを脱していた。

 その後、実際にマリールが奴隷商を臨検した事実やその後の混乱で何者かに拉致された目撃もあり、物語の整合は半端に取られた形で経過報告が上がっていたところで、マリール本人からの負傷と所在の報告がおこなわれた、と云う運びになっていた。

 デカートから早馬で約十日のワイルの連絡部から逓信院に報告が入り、軍全体で二百人しかいない一等魔導猟兵を失う事態にならないでよかった、と関係者が胸をなでおろした。

 なぜキンカイザで警護の二人を巻いたのかという説明はなかったが、建前の上ではアシュレイ少尉は休暇中でとくに拘束対象ではなく警護課の二人は上司や部下ではなく、全くたまたま戸外訓練中偶然に同じ目的地同じ宿を使う、という筋書きなのでマリールに報告責任があるわけではない。

 普通の連絡参謀は警護がついていればありがたく受けとくもんなんだよ、と警護課課長は経過の報告で真っ青になった顔を今度は怒りで真赤にし、クズカゴを蹴りつけていたが、今のところ部隊任務配置のない休暇中の魔導猟兵に対する営舎での拘留は規定には含まれていないし、警護課による警護も名目上護衛訓練という形になっていた。

 警護につけた二人には気の毒な結果になったが、ともかく再訓練ということになる。

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