アペルディラ 共和国協定千四百三十八年蒙霧升降

 アペルディラは奇妙な街だった。

 伝統と近代が入り混じった、といえば聞こえも響きも良いが、華美と混沌の境界線に位置する町並みが、今時珍しい高さ三十キュビットあまりの石組みの見事な城壁の内側に広がっていた。

 城壁はかつて街を外敵から守るものとしてどこの街でも当たり前にあったが、大砲の威力が世界に浸透するに従って、陽の光を遮り水路や街路を塞ぎ、町の広がりを阻むものとして、今や多くの街で嫌われ取り壊されている。

 銃兵や騎兵を押しとどめるには、高さ数キュビットの防塁や塹壕で十分だったし、高さを求める砲兵の観測も、崩れて巻き添えを増やす大掛かりな建物よりは、簡素で建て替えも素早い破壊されても痛手の小さな、帆船の帆柱のような櫓の方が好まれるようになっていた。

 起伏や森林のある陸地では、城壁の石積みが積み上げられるような高さでの見通しではたかが知れていたし、大口径の大砲はその弾丸の重さから前に飛ばすよりも上に放り上げるような造りをしていたから、人が見上げるほどに高い城壁の殆ども歩兵の小銃弾を止める役割しかなかった。

 中口径の大砲にしたところで適切な仰角をつければ百キュビットの丘を半リーグも越えるのが当たり前になった今の時代、たかだか数十キュビットの高さなど物の数でもなく飛び抜けて、奇妙な必然として城壁よりも背の高い、より重要な施設に被害をもたらした。

 結果として多くの町では、戦争における効果と日常における不便とを勘案して、塹壕や防柵と櫓を組み合わせた簡素な防塁を緩やかに配することで、城壁の代わりとするようになっていた。

 勃興期中興期と城壁を持たず、軍組織の規模と体制で対応したデカートは、その特徴的な天蓋の遺構の存在による極端な例外であったとしても、アペルディラほどに城構えの堅牢を美しさとして今に誇る町は、今や少なかった。

 戦争機構戦闘装置としての必然から、要衝に城壁を設けている軍事施設はこの時代にも多く残っていたが、千を超える兵の動いた試しのないこの地域の数世紀にあって、席数を増やせないアペルディラの市場の座の割当は常に問題になっていたし、城壁の補修はジリジリと財政を圧迫し続けていた。

 あまりに堅牢な城壁に、アペルディラの町は窮屈さを感じている様子だった。

 それでも共和国の時計産業の聖地であるアペルディラは、財政豊かな街だった。

 アペルディラの城門の外側には門前町が広がっていた。門内のあまり広くない町並みでは馬は通行税をとられるようで、城壁の外側には馬留や馬宿が立ち並び、多くの荷車が人力の小さなものに分割されていた。地場の労務者が小分けされた荷車を馬の代わりに引き、隊商の通行税を安く抑える一方で、隊商の馬匹の世話で日銭を稼いでいた。

 城門の係員はどうやら機関車を見たことがあるらしく、なかなかいい色だ、と誉めた以上には感想もないらしかった。民間用にも都合五百両くらいは販売していたから、そこは不思議もなかったが、それっきり詮索されないことは本当に豊かな町であるようだった。

 時計と組み合わされた街灯が僅かな日陰を照らし、町のあちこちには振り子仕掛けゼンマイ仕掛けの看板が軽い金の当たる音と共に動いていた。それぞれ一つ一つは全くちゃちな子供だましだったが、そのまま全くちゃちな子供だましとして扱われているところが、アペルディラの豊かなところだった。

 アペルディラの広くない街路では、馬が牽かない機関車はもう少し人目を引くものかと思ったが、意外とそうでも無いようだった。

 マジンがこしらえた安全自転車とは多少つくりは違うが、チェーン・スプロケット式の足踏み三輪車があちこちを走っていた。よく整備された町中であれば木製車輪でも特に面倒はないらしく、軽快な様子だった。

 アペルディラ政庁は美術館博物館じみた建物だった。

 歴代当代の様々な細工が並び展示されていて、それぞれに特徴的な工夫をなされた様々は、百五十年ほど前に突然今の懐中時計の形で一つの完成究極に至る。

 その後はゼンマイを長持ちさせたり、精度を上げたり、振動に対して堅牢丈夫になったりと、持ち歩く日用品が当然に備えているべき利便性や耐久性を備えるに至るのだが、ともかく砲兵が戦場で持ち歩くに足る装備になったのは懐中時計が完成に至る少し前、二百五十年ほど前のことであるらしい。

 それはゼンマイは大きなネジで文字盤にガラスの天蓋はなく鉄の蓋で回転部分を保護してあったが、一日に何度か時間を合せる必要があり、戦場から帰れば調整が必要なものだった。

 いかにも色々足りていない雰囲気だったが、とりあえずも脈拍よりは安定して時を刻み、その刻みの音を耳に押し付け勘定することで、アペルディラの砲兵は見えない帝国軍を押し返すことに成功した。

 そう展示には説明があったが、リザの説明によればちょっと違うらしい。

 アペルディラ旅団長ボーンナウルパールが、戦場に時計を持って行ったのは事実らしいが、砲術と測量が技術として結合整備されたのが百年余前で、それ以前は間接砲撃をおこなえるほどには大砲の射程も性能も良くなかったという。

 軍での時計が当時果たした役割の理解としては、丘の向こうで始まった戦いの主戦場がどのくらいの距離にあるかという見当をつけ、援軍として適切な配置をおこなう助けになった。というものだった。

 とはいえ、今となっては時計は重要な測量機器の一部で、アペルディラの質の揃った時計は共和国軍の砲兵士官ならば、一つは持っているべきものとして扱われている。

 共和国軍全体で、砲兵士官は下士官含みで約二万五千人いることになっている。砲兵でなくとも、現役士官なら時計の重要性は理解していて、拳銃と並んで所持率は高い私物で、共和国軍の士官はざっと十八万人ほどいるので、軍はバカにならない規模のお得意様であるといえた。

 アペルディラで土地の取得の可能性を確認するために、入植局に相談を頼むと、その広大さから怪訝な顔をされたが、やがて相談に訪れた人物が、ゲリエマキシマジンその人本人である、ということで小さくない騒ぎになった。製氷庫や機関車という奇妙な実用品を次々と生み出す人物が、精妙な職人の集うアペルディラを頼って工房を建てるのか、と思われたらしい。

 それほどに遠くない町で三四年も事業をしていれば、そういう評判も立つかと軽く考えないでもなかったが、こうも興奮気味の歓待を受けるとなんというべきか当惑する。

 入植管理官の言葉は、自分の技に意気地をかける職人に向けたものとは思えない、歴史や伝統をいかにも軽薄に誇り笠に着る内容で、ひとたび人の目の届かない森や荒れ野に自らの思いついた某かを吹き出させて形にすることの楽しさを知ったマジンに向ける言葉としては、全くどうでもよいものだったが、アペルディラが郊外の未開拓の土地について全く頓着しないことは、マジンにとってとてつもない僥倖と言えた。

 町の内側、農地の広がりのある土地は全く手にできなかったので、いかにも辺鄙な土地ばかりであったが、道のりで四リーグほど半日もあれば街道に通じる、城門の門前町に出られる城下の宿場の辻の南側に広く土地が抑えられたので、そこは問題がなかった。

 測量した地域、三十七リーグ半を二千七百三十万タレルで買い上げる証文を切った。他にザブバル川流域に接続する未測量地域十八リーグあまりについても申請すると実にあっさりと取得が受け入れられた。

 合わせて太陽金貨四十一枚という金額が多いのか少ないのか、或いは水の便や土地の質に頓着しない土地が、価値が有るのかないのかという問いはさておいて、積み重ねられた太陽金貨の数に入植管理官は驚いていたが、拍子抜けするほどの簡単さで土地の権利を獲得した。

 マリンカーの外側とロイターまでの途中も取得は容易だったが、こちらは実地が全く不明だったのでひとまず見送ることにした。

 河川水路街道を横断する土地利用については、利用往来を塞がないことという条件はあったが、その方法については特に定めたところがない様子である。ただ過去の例として橋をかけることが一般的で期待されていた。仮に住宅の頭上に橋をかければ隧道と変わらず、相応に暗い狭いものになるはずであった。そのことを確認すると実際に市内では苦情からの裁判例もあり、概ね先住優先の原則で改修命令の受け入れか土地利用の禁止没収ということになるという。だが、今回の土地ではそういったことはないだろう、とアペルディラの入植管理官は軽い調子で口にした。

 鏡野盆地について土地利用を尋ねると、件の噂通りアペルディラ当局の関知する土地ではないと云うことだった。

 犯罪の存在についても噂としては把握しているが、やはり当局の関知するものではないという答だった。

 アペルディラの土地に頓着しない行政は、全く意味がわからないものだったが、そういうことであれば政治取引のために土地を切り離したり、辺境域外での不穏状態を見過ごすことは、自然なことなのかもしれないと思い直した。

 当然に国土を守る防人として、リザは釈然としない複雑な思いだったろうし、不毛への挑戦と開拓の精神こそが技術の開発の根幹であると思えば、アペルディラの腐敗はかなり深刻と言えた。

 しかし一方でアペルディラが盲目的に自らの技術を頼るのであれば、一つの究極の必然として、未開を切り捨てる、という判断は相応の効率を持って正しいと判断できるとも言えた。

 いずれにせよ、領域境界での犯罪を見過ごすアペルディラの姿勢は、金と書類が揃えば土地を無制限に自由に売り渡す姿勢にも現れていて、荒野や無人の野での犯罪が必然であるとしても、当局がそれに目を背けるような態度は、全く国家存亡を揺るがす態度であり、極めて危険だと言える。

 アペルディラ当局は市民に被害が出ていない、と判断しているようだったが、技術の先取先進を気取る土地としては、全く不愉快なまでに無責任で退嬰的な対応であると、マジンには感じられた。

 一方で金があれば土地を手に入れやすいという意味では、必ずしも悪いことばかりでもない。

 軽薄に過ぎるとも感じられるアペルディラ当局の対応の先行きに不安はあるものの、ただともかくもマジンの事業としては好都合に、鉄道事業におけるアペルディラ領域内のひとまずの土地の取得はおこなえた。

 アペルディラの軽薄の不安定さが鉄道事業に降りかからなければいい、と願うしかなかったが、とりあえずも測量旅行の目的は果たしたと言えた。

 とりあえずの仕事を終えてのアペルディラは、豊かだが奇怪なサーカス小屋のような雰囲気を持った街だった。

 服装も街の明かりに映える色合いで、泥に汚れて日々の洗濯が間に合わない人々であっても、布の色合いは鮮やかだった。

 豊かさ故といってもいい。

 豊かさがなければ、これほどに装飾にこだわりもしないだろう。それにその装飾がいちいち動いたりもしないだろう。

 ともかく視界の中に必ず無意味に勝手に大きく動くものがある、ということがこれほど忙しないものだろうかと感じるような街だった。

 基本的には、仕掛け時計の機構を畸形的に発展させたものであった。

 町中でいくらか見かける、馬を使わない車輌のいくらかは、ゼンマイを使った三輪車も振り子と調速機や人力に合わせた細かな接軸器を使い、スプロケットからの動力や斜面の慣性を均等化することで、城壁内に存在する緩やかな斜面の上り下りで苦労が少ないように作られていた。

 車輪と同じ程の直径の正逆転双方向のカウンターウェイトとそれを支える二系統のゼンマイ機構は、整備維持が困難だろうとも思えたが、ともかく登場から三年ほどの間、機関車よりはやや安い値段で販売され、馬が走るのと同じくらいの速度を町中で出せるということで、そこそこに普及している。

 製造から三年ほどで様々な事故や故障がないわけではないが、アペルディラ城内の通行税や高い飼葉を考えれば、日々の面倒は少ない部類で、デカートから持ち込まれた二輪車を一旦分解して組み替えたものが人気であるという。

 ヴェロチペードに若干の機械構造を付け加えた足踏み二輪車いわゆる安全自転車は、必ずしもマジンの思いつきというわけではない。

 車輪と足踏み機構の位置をずらすことで、体勢を楽にする思いつきは前からあったし、足踏み側の軸に空転機能をつけたり車輪と並行した回転体を挟み込み摩擦で減速させ減速機に直接触れる必要をなくした構造でさえも、構想についての文献がある。頻繁に文明崩壊の危機に瀕していたとは云え文明そのものが完全な形で消失したというわけではない。

 マジンが作った二輪車はチェーン・スプロケットが足踏みクランクと車輪の回転系に対して最適であるような寸法に合せられ、歯数を違えたスプロケットを準備してそのための切り替え機構を準備するという装置だが、機関車や機関小銃向けの小型歯車装置が使われているために強度に余裕があり、高速運転に耐えるだけの精度もあった。それを二両を部品として一旦分解して動力補助装置を据えて組み直していた。

 部品の強度と精度を担保する素材は多くの工房で秘中の秘とされていて、汎用性の高い部品を使っている製品は部品取りに使われることも多い。

 マジンが子供たちのために作り幾らかをデカートの商会に向けて作った安全自転車は、わずか三年でアペルディラの地でもともとあった技術と結合し新たな機械へと変貌した。

 これこそがアペルディラの職人の力であり豊かさである。

 そういうことであった。

 そういう職人たちの間でストーン商会に卸している、大雑把な性能や用途を示した鋼線や鋼板はすぐに人気が出た。硬い柔らかいとか伸びる脆いとかといった幾つかの特性について、比較可能な数値表示が示されていることや実際である程度信用が積まれてゆくと、材料の選定で助けになるのは間違いなかった。

 アペルディラ市内の材料を扱う商会では、ローゼンヘン工業で扱っている規格記号を使った材料が品目に上り、マジンの下ろした覚えのない記号番号が増えていたりもする。

 聞くと単なる紛い物というわけではなく、規格材の間を埋めるような調整加工をしてあったり、製品につきもののクレームを通じて、多少のムラを揃えているということだった。

 マジンとしては、出荷時の製品にそこそこ以上の自信を持っているだけに不本意な話だったが、材料の色艶や肌地を見れば、出荷している材料とはちょっとばかり違う様子でもあった。

 手堅く揃っているが、流通普及に難のあるローゼンヘン工業の鉄材に似たものを、付近の製鉄所が作っているということである。

 ローゼンヘン工業製の軟鉄や薄いバネ鋼は地域ではこのしばらくで人気商材になったものの、輸送が割高で普及は進んでいなかった。

 山を南の背に控え輸送が不便であることが豊かな町であるアペルディラを、商業の町ではなく産業の街にしていたが、そのことがアペルディラの奇妙な雰囲気を千年にわたって醸していたと言ってもいい。

 アペルディラの細工物の工房は城内に集まっている。

 狭い地域に細工物師が集まっていることで、互いに奇妙な対抗心克己心を煽っているらしく、単なる工作精度や加工技術を超えた情念や発想を軸にした、話芸や演劇に似た役に立たないが、可愛い愛嬌のある動きをする玩具がたくさんあった。

 人形が時間に合わせて踊るくらいなら別に当たり前で、鳩時計の亜種がたくさんあって、豚牛や馬アヒル鶏が鳴く位なら可愛いもので、水しぶきを上げ魚が出てきたり時間に合わせて首が落ちて転がる時計とか、どういう部屋にこれを置けばいいのか悩むような時計もあった。

 実用性がないものばかりというわけではもちろんなく、粉挽き小屋の水車や風車の歯車を夜の間だけ外して機械が回らなくするようにしたり、風車が回りすぎて壊れる前に帆をたたんでしまう機械の展示などもあった。

 実用性と面白さ趣味性の狭間の製品に自動クッキメーカーというものもあり、作りたい枚数分だけ材料をボールに計量して落としてくれ、タネを枚数に均等に焼き皿に出してくれる機械というものもあったが、家庭で使うにはちょっとばかり大きすぎる様子だった。それに料理の面倒というのが、火加減をきちんと面倒見なければならないというところにあるのを忘れている。

 ゆで卵製造機のほうはそういう意味では一歩優っていて、湧いたお湯の中に卵を収めて横倒しに沈めると卵が好みの硬さになったところで起き上がるようになっていた。リザはひどく気に入っていたので、大きな鍋の中でちゃんと起きるのかはやはり怪しい感じもしたが、いくつか買ってみた。

 アペルディラの行政について思うところはマジンには多いが、優れた職人たちによる平和な文明の街であることは間違いない。

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