ペラスアイレス収容所 共和国協定千四百三十九年秋分

 一リーグ四方の土地は相応に草が茂る風土なら何の手配もなくとも馬千頭を囲っておける立派な牧場になるが、仲の悪い人間を三万も押し込んでおくには少々危険な広さの土地でもある。

 夏も終わり日の短さを次第に意識するようになって、荒れ野を遊ぶ埃風がすがしさより冷たさを感じさせるようになった時期にあって、収容所の住宅の建設は順調とはいえなかった。

 殺し合いには発展していないものの、喧嘩による怪我人は多く、面倒を嫌った看守は遠巻きに黙認するばかりで、暴れる者達の増長は著しかった。

 盗ったの盗らないのから、言葉が目つきが態度が気に入らないまで、酒場の喧嘩と変わらないわけだが、場をまとめる幹部や貴族がいないことが異様な雰囲気を作っていた。

 帝国の社会制度を無視した形で使えそうな連中だけを元老たちが引きぬき、その他を押し込めた結果として、捕虜たちは文字通り頭をもがれた鶏のような有様になっていた。

 労務についている者達は与えられた規律に嫌々ながら従っていたが、収容所の中では看守も面倒を嫌い、労務の監督も自主性に任せ、寒ければ自分で何とかするだろうと最低限の建材を含む資材は与えていたが、建設を指導するものはいない状態であった。

 せいぜいは既に建っていた建物に新たに板を貼り付け寄りかからせ、ひどい者なら力づくで家に押し込み寝床を奪い取り、ということがおこなわれていた。

 概ね同じことが前線近くの収容所で二年にわたって繰り広げられていたかと思えば、前線で悲鳴が上がるのは当然ともいえた。

 捕虜収容所はあちこちの街にある無産階級が住み着き無気力に腐れ果てた市街の陰鬱な病巣をそのまま荒野に晒したようになっていた。

 帝国貴族は資源財産の分配役であると同時に彼らの精神的機能的支柱或いは生活振興の調整役でもあった。

 父母を突然に失った子供たちがそうなるように、或いは教師のいない子供たちばかりの学舎がそうであるように、混乱が起り、その混乱が収まる前に次の捕虜がやってくる、ということが面倒がいつまでたっても止まない理由だった。

 同じ捕虜というだけで軍人やら各地の領民やらがひとところに押し込められているのも問題になっていた。

 帝国が事実上の放逐をおこなった原因のひとつは不穏地域の一掃という着眼もあって、住民同士の不和ももはや理由もしれず深いものだった。

 最低限この後の冬に対する備えが必要であることは明らかであったが、それを積極的に指導する者がいないことがさしあたっての問題だった。

 我が身恋しさにあっさりと労務に応じたと一部の捕虜には恨みさえ買っている、柵の中で豚のように転がって過ごすことを嫌った者たちは、その実相応に働き者で労務において指導的な役割を果たし収容所内の拡充にも積極的に動いていたから、労働の中核であった彼らが収容所内の空気を嫌い家族とともに所外の労務に就くことを決めてからは、より一層収容所内の雰囲気は退嬰していた。

 初期に捕虜として送致されてきた街の顔役は、成り行きはともかく帝国臣民として共和国のために働く気にはなれないと労務への協力は断固拒否していたが、さりとて収容所内での混乱を望んでいるわけではない、ということで事態の収拾の協力と善後策についての協議を望んでいた。

 彼らが何を望んでいるのかマジンには理解が難しかったが、つまるところ領主様貴族様の云うことなら聞いてやらぬこともないはずだ、と云う要求だった。

 捕虜の中には俘虜に落ちた段で既に大方の指導者が死んでいた集落の出身者も多く、それだけで決着がつくとも思えなかったが、貴族が亡命を決めたことを告げた途端に雪崩を打ったように従順に従い自らも亡命を希望するようになった者達もいたから、ラッパ吹きとしての貴族の機能は極めて重要であるということは理解できた。

 元老たちは事態の深刻さを理解できていない様子で、捕虜たちの収容所の待遇改善要求か或いは使いものにならない三流の労働力を押し付けられたマジンの管理上の不満であろうと考えていた。

 もちろん実態としてはどちらも異なっていたが、現地を直接訪れることのない元老たちにとっては理解しやすい筋書きであったので、なにやら捕虜収容所に不穏の気配があるが、遠い土地の面倒事と考えていた。



 すぐに事態は急変をした。

 事態はデカートで起った元老レイナードシェンケルの子弟による捕虜に対する強姦騒ぎの後始末に困ったシェンケル卿が捕虜の暴力性を理由にして捕虜収容所に預かった捕虜を押し込んだことで一気に破裂した。

 その時点で二万五千ほどいた捕虜はいつもと同じように食料などの生活物資を運び込みに来たローゼンヘン工業の百人ほどの外注の労働者とその警備にあたっていた収容所の看守五十人を人質にしようと襲いかかり、止めようと応援に駆けつけた看守五十名と建築資材を材料とした槍などで交戦し、監視塔や警備兵の反撃の銃撃で三千名余りが死亡した。

 その後、収容所駅に待機していたローゼンヘン工業の駅警備隊が駆けつけ衝突、大きな武装のない駅警備隊側が車輌火災消火用消防車輌の放水で捕虜側に大量の水を浴びせることで暴動の士気が削がれ日没で抵抗を辞めたが、事件の一日でほぼ一万名の捕虜が怪我を負い五千名以上が死亡した。警備隊も現地にいた六百名の半数が怪我を負い、うち百十名が死亡した。

 捕虜の死亡の多くは威力の高すぎる機関小銃による貫通銃創の他に捕虜同士のどさくさ紛れの殺害などもあり、決着までの経緯の詳細は不明な点も多い。

 だが、貴族の不名誉の復仇とそれまでの不穏とが結びついた結果であることは明らかで、シェンケル卿の元老追放審議と子弟の逮捕と勾留がおこなわれることになった。最終的に不問。と決着はついたが、ローゼンヘン工業から元老院に充てた事件始末書の支払い請求はシェンケル卿が元老として安分することになった。元老院では誰ともない怨嗟の声が響き渡ったが、もちろん誰とて知る者もいない。

 収容所周辺に三段に張られていた電気柵に切断はなかったものの、数名の捕虜が行方不明になっていた。実のところ、電気柵とは長大な鳴子であって、一晩に何回かなることはあるが、トカゲや羽虫のような小さい生き物やタンブルウィードの類でも鳴るときはなるし、そういうものでもなければ殺せないような代物だったから、巡回のタイミングがよほどよくなければ何が引っ掛かったかまではわからないことの方が多い。

 事件にはもちろん箝口令が敷かれたが、捕虜の管理がひときわ難しくなってしまったことは言うまでもない。

 まして労働力として扱うことの危険が急激に増していた。

 ローゼンヘン工業では死亡した社員の家族に手厚い見舞金が出されたが、事件の詳細については二十年間説明ができないと社主直々に宣言された。二十年分の給与として金貨で二千枚ほどの見舞金を積まれた遺族は、事態の重さに口をつぐんだ。

 既に前線からの報告で密集した中での機関小銃機関銃の殺傷力はあまりに過大で、治安鎮圧には全く向かないと報告されていた。

 だが、事件の前に青弾と呼ばれる暴徒鎮圧や訓練を目的とした非殺傷性の弾丸は第四路線警備課への配備と同時に収容所警備隊にも提案していたものの拒否されていた。

 殺さない弾丸という矛盾した価値も理解されなかったし、それまでの銃弾に比べ射程が短く弾道も逸れ易かった。

 一方で数合わせの思いつきとはいえ、駅警備隊の暴徒群集に対する放水という判断には高い評価があった。

 だが問題はそういう瑣末な装備取得や運用の体制の問題ではなかった。

 各々の元老が全く個人的裁量として捕虜を扱っていることに重大な問題があった。

 全く群盲象を撫でる、という有様の元老院を投げ打ってマジンは個人的な判断で直接捕虜収容所に出向くことにした。



 事件の一方の当事者であるラディゥホムラ男爵は当年十四歳の美少年であった。

 嵩にかかったガラの悪い子供の遊びとしての暴行行為としてシェンケル卿の子弟とその家臣子弟が自らを侮蔑暴行強姦に及んだことは虜囚の常として許せたが、ホムラ男爵の身の回りの世話をおこなっていた家令に手が及んでいることを知ったときにホムラ男爵の我慢の限界を超え、油断していた数名を手に掛けたという。

 シェンケル家の寝台の脇の燭台は実に手頃な重みと切れ味のある武器であった。と苦々しげに男爵は語った。

 男爵は事件から数日のうち、ふつふつと胸の怒り憤りをぶち撒けていた。

 それは全く暴力を伴うものでも示唆するものでもなかったが、まさに帝国臣民が望み心に描く若き君主の怒り憤りの図として、全てを取り上げられ不安と不満で胸を燻らせている者達に怒りの炎を一気に巡らせる種火となった。

 勝算も準備も不足していた脱走計画や暴動計画或いは武装蜂起計画と云った胸にたたんでいた様々の準備がおこなわれていたことも警備隊は把握していた。

 しかし把握する限りにおいて警備は万全で、直接の規制取り締まりはむしろ娯楽の少ない中では無為な絶望、無益な挑発につながるとして何らかの資材の要求が捕虜側からおこなわれるまでは無視する構えだった。

 警備隊側が心配するほどに、収監されている捕虜たちの無気力ぶりや冬に対する備えの不足は明らかだったし、危険でもあった。



 実のところ、なぜその日だったのかは捕虜たちにも全くわかっていない。

 収容所の中ではそこそこに作りの良い住み心地の家をあてがわれたホムラ男爵は家臣たちと先の見えない状況についての話合いをしていて、最低限の住宅が不足している状況について、幾人かの先住の捕虜から相談を受けていた。

 資材についてはある程度の余裕があって、作業進捗に応じて相談にのる、という収容所側の申し出もあるが、人員の掌握がおこなえないままに捕虜が送り込まれる状態で、労務の割当が困難で作業が行えない、と云う説明を受けていた。

 男爵とすれば一種の言い訳じみた無能と感じられたが、すでに家臣たちから幾つかの派閥が出来上がってしまっていて、無益な牽制と退屈しのぎの抗争が起きていることは訴えられていて、状況は容易にしれた。

 概ね旧領と同じことがここでも起きていることを男爵は僅かな時間で看破していた。

 男爵は我が身と家臣に起きた出来事への鬱屈を漏らす間にも、貴族の責務として虜囚の臣民の扶けとなるべく、状況について様々に尋ねていた。年若い男爵は人々の同情を共感として胸の内を知る機会を無為にする愚かは重ねていなかった。

 さりとて、簡単にそれを撃ちぬく方法も材料もない、と建物の中で十名ほどの大人たちとともに唸っていると表で大きな騒ぎが起きていた。

 戦場で聞いた連続的な銃声で何がおこったかは想像がついたが、事態を目にしたところで既に彼に何ができるという状況段階ではなかった。

 ともかく子供たちを遠くに家に匿うようにだけ指示して事態の確認にあたったが、遠巻きにしていた者達は事態を理解していないし、事態の初動を知っていたと思しき者達は既にもろとも血の海に沈んでいた。

 彼に出来たことは人々に家に入れ、静かにしろと怒鳴ることだけだったが、顔も知らない子供の言葉に耳を傾けるものはいなかった。

 その後暴動の必然として無謀な脱走を試みる者や僅かに手に入れた銃器を手に反撃を試みる者などの流れ弾で多くの者たちが怪我を負い命を落とした。



 男女を問わず死亡者が出た事件で憤りを感じないわけにはいかなかったが、自分より年若い子供が死ななかったことだけが幸いだった。とホムラ男爵は事件について口にした。

「わざわざのお越しの件は重ねての事情聴取ではなく善後策について、とお見受けいたしますが、どういった内容でしょうか」

 問われるままに当時の状況を振り返ったホムラ男爵はマジンに尋ねた。

 この一ヶ月ほどで入れ代わり立ち代わり様々に当局の人員が調査に訪れていた。特に新しい内容に思い至らないまま繰り返し語ることで、事件の熱は砂粒のような硬さを残して冷えていった。

 当然にマジンが調査報告書に目を通す立場にあることは年若い男爵は既に知っていたから、当然の質問でもあった。

 マジンは子供への土産にキャラメルとマシュマロを持参するくらいの気配りを示したが、安い宣撫に気を許すほどに大人たちは事件を忘れてはいなかったし、事件の直接の原因でないことは承知していたが、帝国臣民の結束を切り崩す最悪の敵の首魁としてマジンは認知されていた。

 ホムラ男爵に意図を尋ねられてマジンはさらりと来訪意図について説明した。

 マジンの来訪意図は大きく五つだった。



 暴動事件の負傷者の現在の状況について。

 冬越しの住宅の建設の計画と進捗程度の確認。

 収容所内における労務計画について。

 亡命を含む収容所外での労務参加希望者の受け入れについて。

 今後の前線からの捕虜送致計画について。

 負傷者の状況については皮肉なものだった。彼らのほとんどが捕虜の熱狂による暴力による負傷だった。

 事情聴取には様々な矛盾があったし、ホムラ男爵の語ったことにも矛盾があったが、ほとんど瞬間的に起こった混乱のままの短時間の発砲によってその場にいた二千人余りが死んだ後は一瞬互いが冷静に戻ったはずだった。

 一番最初に現場にいた護衛の看守もローゼンヘン工業の労務者も慌てて駆けつけた警備隊の一部も、ほとんどが機関小銃の弾丸で同士討ちのように死んでいたことがわかっている。

 その渦を作ることになった暴発のきっかけの捕虜も同様に機関小銃の掃射でちぎられるように死んでいた。

 もみ合いで最初に殴られ気絶した看守と労務者数名を除いて、配給の物資を求めて我先にと集まっていた人々の中で生き残れたものはごく僅かだった。

 事態の急変を察して現場の混乱を目にした後続の看守が、群がる群衆の中から突然の銃撃に反撃したことで、事態はより深刻になった。

 一丁あたりわずか二十発。合計でも二千発の弾丸は全く効果的にその場にあった弾丸の総数以上の人々を殺していた。

 その瞬間は生きていたが、適切な医療措置をとることが難しい軽量高速銃弾の銃創はそもそも収容所の人々の医療技術では対処ができないものだった。

 機関小銃にさらされることが多い帝国軍では傷口にロウソクを詰めて止血していた。

 医者が湯で緩めたロウソクを傷に突っ込んでそれで止血できるなら生きられる見込みはそこそこにあった。

 ロウソクが中でふらふら動くような大穴があれば生きる見込みは殆ど無かった。

 ひどく乱暴な方法だがそこそこに効果があって帝国軍では何種類かの止血に使いやすいロウソクというものが準備されていた。

 そういう大雑把な知識があるものもいたが、虜囚の身にそれほどの備えがあるはずもなかった。

 事件の発端を押し流すように銃弾が決着をつけた後は、我に返った看守たちの腰が引けたことで数にまさる捕虜暴徒側の勢いを食い止めるすべはなかった。

 だが、無理に押しとどめようとすれば、皆殺し以外の方法はありえなかった。

 現場の判断対処能力を超えた事態に応援を求める連絡をおこない、空堀の跳ね橋を上げた後は僅かに抜けてくる者達を銃器なしに対処できていた。

 序盤の混乱の衝撃を乗り越えた収容所警備隊は、このとき自分の任務について概ね正確に対処していた。収容者の側も大きく混乱しており、数を頼みに脱走に向けた動きを決することも出来ない状態だった。

 しかし本部からの応援は鈍いものだった。

 そもそも鉄道は接続していたが、鉄道運営はローゼンヘン工業に一任されていたし、そこに至る連絡経路の途中に電話を繋いでいない政庁部局があった。

 デカート政庁の多くはこの時期に至っても電話電灯の接続を様々な理由で拒んでいた。

 治安行政当局はようやく電話の価値の重要性について現場からの苦情を受けることになったが、ともかくも直近の話題としてデカート当局の対応は全く宛てにできないものだった。

 応援要請の連絡を受けた、あくまでも火災の緊急応援と云う名目で駆けつけた駅警備隊の放水が始まるまで大きな動きがないまま、大きな被害は双方に出ていなかった。

 最初は塀を乗り越えようとする者達に向けた放水で始まっていた。

 次第に効果があることがわかると、収容所警備隊は駅警備隊と共同してより積極的に反撃に転じた。

 双方が自身の発案としていたが、マジンの判断としてはいずれにせよ軽率な行為だったと考えている。

 跳ね橋を再び下ろし、放水が始まると押し合いになった暴徒たち自身の圧力で大量のけが人が発生し踏み潰される者が数多く出たことで二度目の死亡者の大量発生が起きた。

 幾人かは放水をおこなっていた消防車による死者だが、直接の死因の大多数は放水に驚き我先に逃げ散る過程で引き倒され踏み殺されていた。

 或いは暴徒が手に携えていた得物によるものだった。

 結果としてさらに一万人あまりの重軽傷者が出たが、その中に銃創によるものはわずか二十五名だった。だが死者は二千を数えた。

 銃撃を受けた者達の多くは全員出血によって五日と保たず死んだ。

 二万五千を少々超えた程の捕虜のうち、午後の半日の事件で六千人に迫る死者が出て、残りの過半数が何かしらの負傷を負った。

 それは責任を何処に置くにせよ、あまりに重大な事件だった。

 ともかくも物事のきっかけを知るものが粗方死んだという事実は真実を求める者には面倒もあったが、新たな関係を模索する者にとっては一つの契機でもあった。

「収容所内で手に負えない負傷者について転送の希望があれば受け付ける」

 とマジンが口にした瞬間のホムラ男爵の表情の複雑な変化は、彼が僅かな間に意味を察したことを伝えていた。

 ホムラ男爵は礼儀正しく、支援のご高配に感謝する、折を見てご相談申し上げたい、と述べるにとどめた。

 冬越しの住宅の建設については、収容所内での直接の不安にもつながっていた。

 一方で全く皮肉なことではあるが、多くの死者や怪我人が出たことで無意味な派閥争いの根幹が吹き飛んでいたことで、不足の程度が分かりやすくなっていた。

 獣の餌場争いにも似た構造の配給物資を巡っての競争や、縄張り争いにも似た住宅の争奪の原因であった先鋭的な直接的な暴力に長けた複数のグループが一連の暴動によって中核を失い、混乱に動揺しやすい煽動に弱い者たちの多くが負傷していることで、収容所内の意見の集約をホムラ男爵がおこないやすくなっていた。

 八グレノルの建物を二千戸程も建てたい希望があったが、作業見積りとしては千二三百戸にとどまるだろうという見積りに留まる。合計して五千戸を目指していることになる。

 建物の容積として一グレノルというのは独房の大きさとして規則で定められた物で人数を考えれば計画戸数は多少余裕が有るかとも思えたが、生活を考えれば贅沢なものではない。そして作業実績から見積りを考えれば、ほとんどギリギリだろうと言う数であった。

 夏にセミの如き無軌道を楽しんだ苦しみ、という言い方もできたが、それは年若い指導者に投げかける皮肉の言葉としてはあまりに幼稚だった。

 資材については約束をする旨を伝えるに留めた。

 収容所内での労務に関しては今のところ住宅の建設をおこなう過程で必要を報告したいという。

 いま多少の問題になり始めていることとして、屎尿の処理について溝掘りを行う必要を感じているが好きに行ってよいか、という確認だった。

 井戸の問題や脱走のための坑道と云う問題にも繋がるのだが、四万人の街区計画などというものは流石にたてる時間がなかったことが今回の顛末のひとつでもあるので、好きにおこなってもらうしかなかった。

 理想を言えば、整然と整った空っぽの住宅一万戸ほどを捕虜に投げ与える位の事をして見せればよかったわけだが、せいぜいが空堀と塀で囲まれた土地に合板資材を準備しておくくらいが関の山だった。

 亡命を含む収容所外での労務参加希望者の受け入れについては、それぞれに改めて判断を求めることで、この場で代表して応えるような性質のものではない。とホムラ男爵は自分の立場を改めて明らかにした。

 自身の立場についても同様で、いずれ亡命の必要を我が身に感じたとして、個々人の問題としてであって包括的な収容所の話題の場としてはふさわしくない、と拒絶した。

 その上で収容所外での労務参加について組織だった何かを必要とする事業があるのか、あるとしてどういう種類のものであるのかを尋ねられた。



 鉱山農場工房など多くの労務があり、一般に余録として酒タバコ茶やコーヒーなど多少の嗜好品の入手の権利が与えられる。

 説明を口にしたマジンの言葉に、酒や煙草に飢えているらしい男たちがピクリとした。

 塹壕陣地で踏みとどまるのにその二つが切れると食事よりも士気に関わるというそれは、嫌いな人は蛇蝎のように嫌うが、好む人は杖や眼鏡のように手放さない。

 機能としてはコーヒーや茶に似ているが、コーヒーや茶が多くは材料の形で供給され調理の手間が必要であるのに比して、煙草と酒は完成品として流通しているために手間が少ない。

 多くの兵隊は水を沸かす時間や道具材料を使う自由が与えられていない。

 そういうわけで酒と煙草は兵隊にとっては重要な嗜好品だった。

 タバコはたいてい油紙の袋に入っているもので、ちょっと高級品だと木箱や真鍮ブリキの箱に入っている。

 日用品としては刻み煙草や噛み煙草の方が野営の虫よけにランタンにこぼしたり脱いだ靴の中に紙と一緒に入れたりと、直接吸わなくとも葉巻よりは使い途が多い。

 吸おうが吸うまいが気の利いた兵隊なら煙草の一缶くらいは荷物の小物に持っているもので、持っているうちにいつの間にか紙巻きを自分で作って吸うようになる。

 兵隊にとって煙草とはそういうものだった。

 収容所内には茶の配給はあるが、酒コーヒー煙草は原則としてなかった。

 煙草は火口の管理を考えれば面倒だったし、コーヒーは高すぎた。

 酒については当局から停止されていた。

 とはいえ、今の状況を考えれば何らかの嗜好品の配給緩和は考える必要があったから、そういう意味で酒を配給することはホムラ男爵を支援することになる。

「住宅建設の労務に際して燃料が必要ということであれば、酒精類を管理当局に用意するように交渉することは吝かではない。煙草については失火等の管理が困難であることから個々人の資質を判断する必要があるが、管理可能な人物であるなら配給することも検討させる」

 マジンの言葉は概ね会談に臨んだ人々の予想の範囲での妥協を求めていることは明らかだった。

 送致計画は現在既に進んでいる三千名の受け入れ後、年明けまで一時停止する。

 というこの場に居合わせた者たちが一番聞きたかった言葉は居合わせた者達を露骨に弛緩させた。

 事件の主な当事者としてホムラ男爵に注目したことは必然でもあったが、結論から言えば既に彼は事件の中心人物というわけではなくなり始めていた。

 そのことにホムラ男爵自身が気付くわけもなく、収容所の外から知るのは更に難しかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る