ペラスアイレス収容所 共和国協定千四百三十九年小雪

 収容所の暴動のけが人を中心に二千五百人弱をローゼンヘン工業が引き取ったのは、収容所内の住居建築が計画からはずれ、予想通り芳しくない様子を経たからであった。雪が降るまえに二千は無理でも千は建て増したいと言っていた住宅は結局八百戸しか増えていなかった。

 もちろんそれを理由とした取引じみたあれやこれやもあった。

 現在の収容所内の怪我人の殆どは、直接の暴動のきっかけとはかかわりなく動いた者達の中核で、概ね事件の成り行きに対して説明を求める意図を持って混乱のまま押しかけた者達だった。謂わば愚かな善意の人たちであったことは、その後の調査でわかっていた。

 彼らにとって目の前で起きた事件は、揉みあい団子のようになった群衆の中心から銃弾が盲撃ちに放たれ、それに応射した看守の部隊がその後事態の整理も説明もなしに自らが撃った群衆の中にいたはずの味方を救うこともなしに無様に後退した姿であった。

 看守や人足を含めその瞬間お互いの火力に晒された者達の百名かそれ以上はあまりに密集していたことでまだ生存していた。だが彼らを救う手立ては収容所内になかったし、見殺しにすることは人の善意が許さないはずだった。

 彼らは彼らの正義に基づいて、敵味方を超えた事件の被害者たちを救うべく行動したと言ってもいい。

 看守の動きは、詩的な帝国軍士官には全く手強い竜巻や海の潮に例えられていた共和国軍のそれとは全く違うことにマククール男爵少佐は呆れ果て、練度信用ならぬ敵と当たることの身の危険を感じていた。

 部下を支える指揮官の立場からマククール男爵少佐は事件の後半に際して、暴動の中心に立たずに済んだが、彼の部下は半数以上が負傷したし、少佐自身も暴動の余波の喧嘩で額を割る傷を負った。

 事件の衝撃を知る当事者として様々の困難状況を鑑みても、戦場をしる軍事指導者としてみた捕虜収容所の看守体制は極めて脆弱であった。

 その武装や応援体制に見るべきものがなかったわけではないが、圧倒的に現場の員数と訓練が足りていないことは明らかで、結果として起った暴動の死傷者は必然であった。

 体制の大きな見直しがなければ、当然に再び起こることが予見できる事件でもある。

 ホムラ男爵が強力で英明な指導者である片鱗はマククール男爵少佐は認めていたが、収容所内の捕虜たちを一丸とするほどの権威も実力もなく、むしろ彼自身の存在がある意味で危険な派閥を発生させる原因にもなりかねなかった。

 マククール男爵少佐は事件の経緯を司法当局に取り調べを受ける過程で投げかけられた皮肉、なぜ自分が撃ち殺されずにすんだか、をその後考えるに自身が無意識のまま収容所内の派閥争いの中にいたことに思い至った。

 マククール男爵はこのままでは冬を越すことが危険な状態に陥ることを、全く常識的な判断として収容所内の建築や配給の体制についての整理に尽力していたつもりだったが、単に帝国臣民というだけで押し込められた者達の常識はそれぞれ全く異なっていたし、そもそも全員にマククール男爵の意図が通じてもいなかった。

 二万という人々を権威も規則もないままに統制することはマククール男爵には不可能だった。軍人として自らの配下を頼りとしていたマククール男爵少佐は事件の発生を振り返って、看守の体制の不備のほかにも事件の必然を発見していた。

 捕虜の殆どは単なる開拓者で身分も経緯も様々な組織と縁のない者達の群れでしかなかった。

 マククール男爵少佐は当局に話したこと後に気付いたことを含め、亡命希望を含めた労務者募集に訪れていたマジンに説明し、警備体制の刷新と部下を含め同心掌握できたと思える者たちを引き連れる形で別の施設に収監してほしいと訴えた。

 もちろん全員が亡命を希望しているわけでもないが、今回の暴動の契機はあまりにも多くの雑多な経緯の捕虜を少数の看守で管理しようとしたことであるというマククール男爵少佐の事件の説明は納得しやすいスジが通っていた。

 実のところを言えばローゼンヘン館でも似たような意見はあって、暴動が必然として引き起こされたと考える論もあった。

 例えば仮に、誰かが脱走を企てるとして看守の目を全て別の何かに惹きつけることは基本でもあった。そして企てを知っているものが皆死ぬのは逃げ出す者にとって都合がいい。とファラリエラは事件を説明した。

 周囲に監視塔が存在しているのは看守をそこから動けなくして持ち場に穴があかなくするための工夫でもあるのだが、監視塔があっても目の数以上の物事を探すことはできないし、大きな騒ぎがあればそこに目が向くのは必然だった。

 結果として六人逃げ出して四人は遺体で見つかっていた。

 逃げ出した一人はアリアルダガズギィ。彼女はマジンが油井から館に帰る道の途中で拾った。

 収容所の壁の周辺をウロウロとしていた彼女は騒ぎに動いた看守の隙を面白半分でつくようにしたところあっさりと電気柵の外に至ったものの、準備もないままに文字通りの不毛の荒れ野で行き倒れていた。生きていても死んでいても扱いが面倒だったので、そのままローゼンヘン館においている。幸いな事にあまり模範的な帝国臣民でない彼女は家事や家畜の世話くらいはできる様子で今のところあまり面倒なく身分ないまま労働している。

 いっそ彼女がすさまじい肉体能力を示すほどであればともかくも、全く標準的な女性である彼女を警備本部からそれほど離れていない地点で発見した事を考えれば、看守の体制に全く信用も余裕もないことは明らかだった。

 もう一人はまだわかっていない。

 事件で死亡した捕虜の名前も全員がわかっているわけではなかった。

 配給用の識別票ドッグタグを全員が手首か足首につけることになっていたが、配給を目的にしばしば捕虜の間での盗難の対象にもなっていて死亡した者達の遺体からも幾つかが盗まれていた。

 遺体の状況も死者の人数を人物を確かめることが簡単ではない状態になっていた。

 シュテルツメンドーサと云う人物が行方不明の中に含まれている様子でもあったが、ドッグタグでの配給受領があり、二万人の中から一人を即座に探しだすような体制にはなっていなかった。

 うがったことを考えればシュテルツ某が脱走に際して不要になり危険でもあるドッグタグをさっさと他人に投げてくれてやり、代わりに道具なりを受け取っている可能性は十分にあった。

 六人目の脱走者の存在を示唆させたのは域外測量の訓練のために野営と行軍訓練を兼ねて収容所周辺を測量していたローゼンヘン工業の者達だった。

 彼らは測量に際しての遠征野営を実地で学ぶために軍都から訪れた退役軍人を中心に、不毛地での身の処し方についての研修訓練をおこなっていた。測量技師を志す者達の多くは旅そのものの心得はあったが、あくまでそれは街道沿い人家の期待できる集落近辺におけるもので文字通りの荒野を進む必要も経験も多くの場合なかった。

 軍隊においても本隊をはぐれ単身荒野を抜ける者は殆どいなかったが、散兵経験者はしばしば部隊の位置を見失うことを前提に行動を求められていた。また実際に幾割かの散兵が部隊から見捨てられ、生き残り或いは死んでいた。

 散兵経験のある猟兵は階級に応じた年齢制限による任期満了して退役ということは極めて珍しいものであったが、彼らの多くが階級とは無縁であることで退役後の扱いはしばしば不遇でもあった。

 もともと警備部を指導させようかと思っていたトーマフィン退役曹長は小柄ながらその軍歴の殆どを散兵として過ごした強者であった。どこでも生きて行ける、と放言するものの慎重な人物でもある彼は、測量技術者のたまごたちを部隊に配属されたばかりの新品少尉のように厳しく丁寧に扱った。

 そして研修に際して研修生の不注意を叱るように、不審な焚き火の跡と灌木を使った罠の後を発見した。確かめるように収容所の外縁を探れば、小便の後と思しき不自然な苔を発見した。元からの水源であれば枯れるはずもなく、雨の降った後の水たまりにしては緑濃く小さな枯れかけの苔は人か大きめの獣の小便の跡に違いなかった。そして周辺を探せば平たく堅く靴の爪先が蹴ったあとがあった。

 既に事件からふたつきあまりが過ぎていて、追跡はほぼ不可能な状態であったが、ともかく最低一人かそれ以上の収容所からの脱走者が荒れ野を東に抜けようとしたことは間違いなかった。南に川を目指しても北に線路を目指しても十数リーグはあるが、健康なものであればどちらかにたどり着くために必要な物はただ意志の力だけで良いはずだったし、最低限の荒れ野の作法を心得ている事を考えれば、行き倒れていると考えるよりは生きていると期待するほうが分のある賭けになる。



 マジンはマククール男爵少佐の訴えの内容を鑑みた上で、ローゼンヘン館の北側の山地の麓の一角を用地として森林の伐採と開墾を収容所外労務として課すことにした。

 ローゼンヘン館の北側は私有地であるものの全く未開拓の原生林で、アルジェンとアウムルが軍学校に入営してからは狩りに足を赴けるものもいない未開の土地だった。はっきりとした理由があったわけではなく館からの小道沿いの行方には鉄橋があり、クラウク村があった。線路側には直接ゲリエ村が広がっていたことでなんとなく東に用事があるときに猟銃を携えるという習慣が薄かったというだけである。

 二三千という規模の兵隊を引き取ることは単純に土地という意味ではそれほど難しくなかった。

 信頼関係の醸成に至っていないことは、客観的な観測を待つまでもなくお互いにわかってもいた。それでもなお鑑別による保護が必要だった。

 捕虜収容所の再び起こっている不穏な空気を醸している中、帝国軍軍人が捕虜収容所で最大派閥でありその多くが負傷している、という状況は次の標的が何者になるかを今や捕虜である軍人たちに直感させていた。

 それが単なる被害妄想でないことは現場の者にとっては容易に理解できる事柄だった。

 開拓民の多くは帝国軍の敗走に取り残される形で捕虜になったという経緯の理解があって、様々な不満が向けられやすい素地はあった。

 だが組織的な行動に慣れていた軍人たちは共通の常識と一定の規律を以って行動していたことでそれぞれに隙を見せていなかった。

 それが立場上事件の前面中核にいることをよしとする一種の職業的本能によって、暴動に際し多くの者が怪我を負うことになった。日頃の憂さ晴らしのドサクサに狙われた者達も多い。

 彼らの危機は最大派閥の軍人が「働かなかったことによって」冬越しのための住宅の整備がおこなえないという理解が捕虜の中に蔓延したことによる。

 現実問題としてはそもそもに暴動以前から収容所内の労働効率は極めて低かった。

 看守による直感的な予想によっても、統計的な結果を延長してみても暴動事件が起きる前から十分な量の住宅建設がおこなえる公算は低かった。

 労働に積極的だった者達、労務内容に明るい者達、労働の指導に慣れた者達の多くは全くあっさりと収容所外の労務に家族とともに参加していた。

 労働の成果を人生の喜びと感じる者達、働き者と賞賛される者達の多くは、皇帝陛下の威光も意志もありえない泥のような収容所内の空気に疲れ果て、忠誠と報恩を理由に墓穴に籠ることを選んだモグラ共に付き合うことを拒否して去っていた。

 彼らのことを知る数千の人々は、ある種の怒りと恨みを胸に新たに訪れた若き指導者によって立つことで帝国臣民の誇りを抱きこの苦節を乗り越えんとしていた。

 だが、実現した事実として物資は請求量供給され積み上がるばかりで、肝心の住宅は建設が進んでいなかった。

 理由は幾つもあるが、ホムラ男爵とその取り巻きが頑なに軍人の幹部としての登用を拒んだことに分かりやすい理由のひとつがある。

 当初においては軍人たちが労務に耐えない状態だったということが大きく、後においては軍人たちが労務に積極的に参加することで作業の功績が明らかになることを恐れての事だった。

 下士官以下の兵についてはひたすらにバカバカしいことであったが、多くの士官にとってはバカバカしいといえるほど気楽な問題ではなかった。

 アンディグアバブーダ中佐がマククール男爵少佐と図って、自分の聯隊の生き残りもろとも鑑別を希望したことは生命の危機を感じたからでもあった。

 敗残の兵にとっては守れなかった民衆こそが最悪の敵であり永遠の咎である、と云う一般論が改めて示された。

 分かりやすい地獄の巷を垣間見せられた軍人たちは即座に亡命に飛びつくことは潔しと出来なかったものの、ともかく直接的な帝国臣民の敵意から救ってくれたことに感謝を述べ、自分の身を守る以上の怠慢狼藉を働かないことを新たに誓い、鑑別所における収監労務に就くことになった。

 暴動後半における負傷者の多くは骨折や重度の打撲捻挫など様々だったが、従軍経験者にとっては応急措置で大方が対処可能で、ローゼンヘン館北の鑑別所に移送されてからはゲリエ村の養生院による手当手術などが比較的簡単におこなえたことで、精神状態を含めた経過は概ね良好であった。

 暴動によって停止されていた士官の拳銃や刀剣の武装も収監労務の監督を条件として権利として回復していたことで、組織としての体面を整えた帝国軍捕虜たちは様々な不安や思惑をさておいて冬越しのための支度を一足飛びに整えていった。

 霜が降り始めた頃には常緑樹の枝葉の上に板を敷いて支えの柱に毛布と板を寄りかからせた掘っ立て小屋だったものが、雪が降るまえには合板の壁の支えに土を厚く寄りかからせ窓はろくにないものの竈の火を床下の風に巡らせることでとりあえずの暖の取れる薄暗い建物を多数揃えていた。

 イノクマユーゴ大尉が配下大隊とともに八百七十名の部下とともに送致されてきた際には、丸太と合板で簡易的な二重壁を作れ寝台に多少の余裕ができる体制も鑑別所にはできていた。

 分かりやすい派閥を作っていた軍人が部隊ごと消えた後も一種の軍人狩りは収容所内で続いていて、次第に手段を選ばない形で陰惨なものになり年が変わる前に死者も出た。

 送致当初は帝国臣民の結束を信じていたイノク大尉も想像以上に荒んでいる捕虜収容所の自治状態に鑑別所での収容所外労務に就くことに同意した。

 身分を伏せていた軍人たちも次第に狂気の色を帯びている帝国臣民による軍人狩りに恐怖を覚え保護を求めるようになっていた。

 結局、三千八百余名の帝国軍軍人捕虜をローゼンヘン館の北側ザブバル川に注ぎ込む沢に面した山肌の一角に置くことになったのは全く不本意だったが、そのうち千二百名が戦争終結まで収監所監督以外の労務につかないことを条件に亡命を決意したことは、ひとつの妥結点だった。



 わずか一日で捕虜五千名を殺し、看守百十名労務者九十八名を失うことになったデカート元老院を震撼させた捕虜収容所での事件は共和国軍をも震撼させた。

 シェンケル卿をめぐる不穏な動きも体調の不良を理由にした引退辞職ということになっていて気になるところだったが、軍都に何かが届く前にデンジュウル大議員の口から直接デカートの捕虜収容所で起きた暴動の悲劇の報告と共和国軍の条件不履行についての糾弾が始まった。

 詳細の殆どがデカート政庁によって報告されたものしかない状態で軍として様々に特にデカートに軍令本部から派遣されている参謀たちに事態の確認を求める連絡が飛び、遠話による連絡も部分的におこなわれたが、速さよりも量密度を必要とする政治的情報の扱いは遠話による魔導連絡が向かないもののひとつであった。

 それに事件が起きてしばらく、捕虜の後送が完了するまでの間、マジンはデカートに足を向けなかったから、引っ張り突かれるようにデカートの軍連絡室に半ば監禁状態だった愛人たちに状況をゆっくり説明する暇もなかった。

 もちろん元老という立場上説明を求められてもしなかっただろう。電話は居留守を使うか実際に席をたっていた。また、面倒を避けるために収容所内にはマジンが直接一人で出向いていた。

 軍令本部でも兵站本部でもデカートに向けた舌打ちがひっきりなしに響いていたが虚しいことだった。

 事の起こりとして、捕虜の後送に際して繰り返し希望していた後備聯隊の編制が遅々として進んでいなかったことが警備人員の不足につながり、結果として捕虜に暴動という手段を決断させたというデンジュウル大議員の指摘は、結果だけ形だけみれば十分にスジのつながりがあることであった。そしてデカート州は州としては中堅規模の人口に余裕のある大州というわけでないことは大議会の中では常識であった。

 一度にふたつのことができないデカート州本国の非力を嘆きつつ、このままでは戦争協力に支障をきたしてしまう、現に本国デカートでは義勇兵を引き戻すべきだという論調が力を強めている。と訴えるチルソニアデンジュウル大議員の舞台の光を受ける役者のような訴えはデカートで起きた物事の大方の責任を押し流す衝撃を大議会に与えた。

 統計資料上の人口で公称三十五万うがってみても五十万はいないだろうデカートの人口を考えれば、一万を超える兵員と輜重等の労務者を五百リーグ彼方の戦地に送り込んでいるデカート州の戦争協力は、常軌を逸したというほどではないにせよかなりの情熱を持っておこなわれたものであることは確実だったし、装備練度ともに義勇兵と侮れる水準はゆうに超えていた。

 すべての州がデカートと同じ努力を果たせば、ギゼンヌには義勇兵だけで三十万の軍勢が揃っているはずだった。元から居たギゼンヌの軍団兵や共和国師団を含め十八万しかいない。

 しかし各地の派兵の遅れが戦況の問題になるわけではなかった。

 次第に食料や宿営に係る事情が悪化する中で仮に三十万もの軍勢がいれば、街道の往来も困難なほどになっているだろう。五十万もの兵を支えられるような兵站連絡能力はギゼンヌからアタンズまでの地域とそれをつなぐ街道の往来にはなかった。

 だが一方で仮に膨大な捕虜を戦区に抱えた状態でギゼンヌ戦区の警察軍の中核を支えるデカート州義勇兵が引き戻されるような事態になれば、間違いなく陣地線後方の兵站業務は混乱することが間違いなかった。

 それは風船を膨らましかけたまま指を緩めるようなもので、戦況がどこに飛んでゆくのかわからなくなる事態を引き起こす。そんなことは許せるはずもない。

 共和国軍大本営が本当に怯えたのはデカート州義勇兵の聯隊のひとつが後退の準備を始めたらしいという情報がギゼンヌからもたらされたからであった。

 そしてそれを問いただした軍令本部治安課課長へのデンジュウル大議員の答えは、当初任期の三十ヶ月を彼らは満了した勇者ですから、当然に故郷に帰る権利があります。と云う不思議そうなものだった。

「共和国協定の理想を共にした我らは当然に必要であれば義勇兵を幾度でも送る覚悟ですが、しかしそもそも軍においては如何に勝つかの算段がお在りなのか。

 そもそもの二年前の回天の勝利も軍令本部の指導ではなく、ひとえにワージン将軍の決死の決断の賜物、そしてそれに応えたフェルト将軍の昼夜を問わぬ行軍で辛くも間に合った救援によるものと聞いております。その間、なんと軍令本部では二人の将軍の戦区越境逸脱の譴責の検討がなされ、兵站本部ではワージン将軍が私費を費やして贖った武器の引き渡しの妨害工作をおこなっていたと聞き及んでおります。

 一部については既に大議会でも取り沙汰されました。

 あくまで情況証拠ながら、会議の日程や参加部局などの公開情報或いは経費の支払に充てられた軍票や受領書の期日と換金日などから幾つかの証言が裏付けられています。その際に現金での取引についての違法性が取り沙汰されたことは記憶に新しいですが、大事と小事を取り違えた噴飯物の議論であるという持論を引き下げるつもりはありません。

 戦場の勇猛と無謀は結果で取り沙汰されるものという一般論をさておいても、前線の将軍たちの各種の違反行為がなければ戦況を支えられない後方の運営体制というものは、無気力と無能を晒すことを望んでいるのか、と全く無礼を承知で問わねばなりません。

 なぜなら、来るべき戦争のために、まさにこの戦争のために我々は共和国協定を望み受け入れ支えて、そして常に問うているからです。

 共和国軍は本当に我々に勝利と平和をもたらしてくれるのかと、常に恐怖と期待とともに問うているからです」

 全く役者が詠うようにデンジュウル大議員の口から述べられた言葉は、この戦争の転換を演出したデカートにおいて悼むべき事態が起きたことで、デカートに疲れがあるかのような印象を与えた。

 国内の叩き合いの相手としてデカートを射的の的にしている人々にとっては全く胸すく報せであったし、戦争の遂行について先行きに不安戸惑いを感じている人々にとっては冬の雨にも等しい衝撃だった。

 しかしそのデカートの疲れの原因が軍の無能無気力にあるという指摘は重大なことだった。実のところを言えば、この戦争の当初奇襲による大損害を受けた時、更にはその前装備の切替を求めた時或いは様々に折に触れてのデカート選出代議士からの問いかけでもあった。

 それは端的に、軍に戦争を戦う目算はあるのか、という質問だった。

 戦争にとって軍隊にとって矛盾は飯の種だった。

 だが、それを飯の種とする信頼があってこそ許される矛盾であった。

 その後、大議会での成行きを受けて、そもそもデカート州後備聯隊の編制の計画として、デカート州にいる後備兵や無産階級の徴募を前提とした後備兵の編制がうまくゆかないことについて兵站本部内で論争が起きた。責任のなすり合いだった。

 既に年の頭にはデカート駐在の軍連絡室から徴募の困難として具体的な警告の報告があった。デカート義勇兵の出征と拡張を続けるローゼンヘン工業の人員募集、更にそれに引きずられる形で各商会が給与や条件の拡充を図り、季節農業従事者でさえ募集が困難な状態になっていた。

 ならば周辺からと言うのはそれなり筋が通るが、気がついた時には遅すぎた。

 電灯や電話で様々な小者として使われていた者たちが職を失ったはずだったが、そんなことはなかった。鉄道駅や港口などの人の流れがわかり易い場所を当て込んだ商売やこの後の拡張を当て込んで、商会商店の多くは小者の取り込み確保をおこなっていた。電灯や電話の登場で却って小者たちの多くが投げ銭稼ぎではなく定職持ち定給稼ぎになっていた。

 機械を必要とするようになり始めた新港での港湾作業の殆どは港湾組合に名前を連ねるようになった個人営業主によっておこなわれていた。実態としてはかつての日雇いと変わらなかったが、組合の貨物機械を預って動かすことで専門性や手際の差が際立って上がっていて、腕や信用の良し悪しという意味でも全く違っていた。

 組合が機械を所有し組合に登録した個人営業主がそれを操作するという形態はフラムで始まったものだったが、当分あまり安くなりそうもない機械を必要がある人達が共有して有料で借りて動かす、という一種の相互補完で機能していた。

 デカートの好景気に引き寄せられ人々がジリジリと集まってきてものの、デカートで人手が余り始めたのは秋の収穫を控え街場に人手が足りないことに気がついた農家や穀物を主に扱う商会が周辺の街に応援を頼み、その人手が収穫の終わりと次の種まきが終わったところで冬の休みを経るようになってからだった。

 そうなってさえカネを握ったばかりの労働者は自ら兵になろうとは思わなかったし、草を刈るような網に追い込むような徴兵がおこなえるほどデカートの市政は軍の自由を認めてはいなかった。軍がしばしば乱暴な徴兵をおこなえたのはあくまでも無産階級による治安の悪化を恐れたからであって、小なりとはいえカネを握った商店の客を野犬と同じく扱うことは市井が許さなかった。



 何故に共和国軍がデカートでの動きの変化がきちんと把握できなかったかという理由は様々にあるが、共和国軍におけるデカートの政治的位置優先順位の低さというものがある。

 北街道のほぼ終端部にあるデカートは地図上でこそ共和国の中央部であったが、流通経路としては辺境で大規模な人口密集地というわけでもなかった。

 ごく豊かな辺境として自律安定した運営がなされていたデカートは大規模な軍事的脅威に直接さらされてもおらず、経済的に致命的重要な貢献もしておらず、内政治安が安定していて、軍が求め収めるべき軍需品は供給し、分別の利いた文句を言う。共和国にとってそして共和国軍にとって物分りの良い面倒の少ない州だった。デカートにおいては自律を求め干渉を嫌い軍を受け入れていない、そういう説明になっているが、常に予算や管理上の問題で混乱している軍の立場からすれば、敢えて配置を求めず軍需品の協力をおこなうデカートは小遣いをくれる気取ったおじさんのような存在だった。

 たとえ一二年重要な働きをしたからといって軍の体制が切り替わるほどに小回りがきくわけもなく、それほどに気の利いた組織であれば、とうの昔に戦争を終えるための算段が整っている。周囲から様々に理不尽を投げつけられた兵站本部とデカート軍連絡室では互いをそう罵っていたが、図らずも問題を的確に理解表現していた。

 そもそもに軍都から各地への連絡の鈍さというものは特殊な政治的調査報告に限ったものではない。しばしば勘違いをされることになり、おこなうものも勘違いに巻き込まれるのだが、遠話の技術的限界というものは情報の具体性の乏しさ記録の困難にある。第三者を交えることの難しさによって井戸端会議よりも更に一段具体性について怪しいと言ってよい。

 共和国軍連絡参謀制度の主眼とする目的は、作戦的戦術的判断を感情の反射としておこなえる軍事的常識を備えた魔道士を部隊の中枢参謀と置くことで戦術作戦レベルにおける現場判断の統合を素早くすることにある。

 それは比喩としてのみでなく部隊の痛み恐怖という感覚情報を共有することであって、必ずしも理性に根ざした状況情報を共有送致するものではない。感覚の性質は程度を含むので状況の把握が皆無というわけではないが、狼煙や形示通信連絡による短文送信と意味の上では変わらず、兵站連絡という意味ではほんの些細な一芸を研ぎすませたものにすぎない。

 口汚い将官の弁によれば、連絡参謀の報告なぞせいぜいが地図の上で跳ねている蜘蛛を使った占いようなものだった。

 結局、戦略的或いは政治的判断は直接の体感以外の材料を文書に頼ることになる。

 遠話による有利不利を理解したうえで自動筆記、遠隔筆記という魔導体系の研究を逓信院は続けているが、せいぜい三四千という軍人魔道士を新たな配置につけるだけの余裕は今のところない。共和国全体でも魔導の素養がある者は五万に足らないだろうと言われている。大雑把に千人に一人くらいいるだろうという期待と実際にはそれほどいないかもしれないという実態の作った意味のあやふやな曖昧な数字だった。ともかく富くじよりも探しにくいということであれば、士官全てに魔術的素養を与える護符の研究、というものの方が予算要請が出しやすいものであった。

 軍の組織は各々役分に相応に後ろ暗いことに手を染めているものだが、逓信院も例外ではなく不定期に実体を伴う不穏な噂が流れ、組織自体が大きく揺れていた。大本営の組織は大議会や大元帥統帥本部を含めて、他組織からの類難を恐れて防火水路や卯建のような意味合いで切り分けられていた。

 組織が増える度に予算の効率は落ち、話の流れは悪くなり、資源や人材の融通は困難になり、執務の量は増えていたが、軍都が醜聞で丸焼けになるよりは良かった。

 歴史の上ではつい先ごろと云って良い時期にも逓信院は文字通りの鏖殺になりかけた。

 組織の性質や規模を考えれば無理もできなかったが、事情を知らない外部からすれば物足りなくも感じ始めていることが伝わっている逓信院の舵取りは極めて微妙なものを求められていた。

 電話に関する見積り調査報告書を受ける形で非公式な仄聞と云う形で兵站本部が逓信院に接触をとったのは、既に密かに争いになっている電話設備の管理に関する権限の研究をどのようにまとめるかという一翼に、逓信院を主として兵站本部を従とする管理権限上の配分案を加える余地があるかというと云う話題であった。

 なぜに逓信院を主とするか、という疑問も沸き立ったが、電話というものの性質を考えれば、軍令兵站憲兵各本部でそれぞれに取り合いが起こるのは間違いなく、需要からすれば大議会や統帥本部を経由して各地州官庁当局にも接続が求められ結果、参謀本部に至るという構図は明らかになっている。

 話の流れが悪ければ各地州当局から参謀本部に要求が上がりと云う構図もあり得るが、一旦参謀本部にまで飛び火をすると各所と関係は深く権限のない組織であるだけに却って収集がつかなくなることは間違いなかった。

 つまりは大本営内各本部と密接な連携を求められしかし独立した、権威権力の極めて小さな表面上組織構造上中立性の期待されている組織として、機能怪しげなしかして便利そうな玩具を扱わないかという申し出であった。

 このことを兵站本部が申し出た意味も大きかった。

 彼らは予算上の譲歩をする用意があるということだった。

 無論確約ではないが、運用上の共同管理を分担するということは何らかの形で手と名前を出すつもりで、そうある以上は予算が発生する。

 新しい部門ができても一方的に予算は減らさない。ということだった。

 現状の運営及び研究事項に影響がない人員予算の純増があるならば検討の余地があると考える、という全く正直な逓信院総務課長の言葉に兵站本部総務課長は頷いた。

 遠話の他にも飛脚早馬或いは煙台形示通信などさまざまに連絡技術はあったが距離と速さにおいて遠話にまさるものは今のところなかった。とはいえ将来に渡ってないわけではなく遠話の弱点不満点は各所から知られていて、逓信院として情報連絡技術の動向は文字通りの死活であったから兵站本部が注目している電話技術の共同管理を提案するというならば、条件の折衝は逓信院の求めるところであった。

 捕虜収容所の暴動に関するデンジュウル大議員の報告は共和国軍の各所を揺さぶったらしく、年が変わる直前年の暮れにもかかわらず、後備一個聯隊が整えられて荒れ野に新しい駐屯地を設定した。さすがに短期間で冬越を整えることは困難で、鉄道貨車の車台に乗っている巨大な木箱コンテナ部にストーブを組み込んだ簡素な住宅だったが、軍が越冬に備えて準備した質の良い毛布と帆布の天幕を組み合わせ、臨時の宿営地としては異例の速さと設備を整えることに成功した。見栄えそのものはよくないが、櫓以外に外側に窓がない木の建物で囲われた宿営地は却ってそれらしく見えた。

 二十両の一グレノル半積み貨物車を準備したことで七百人ばかりの車輌輸送力を得た後備聯隊は常時千二百名ほどの人員を収容所に貼り付け、即応で七百名の人員を応援に回せる体制を準備していた。無線通話装置を百台装備したことで小隊あたり二つ行き渡り、装備の上では前線の部隊よりも充実しているとも言えた。

 一旦退役して様々に過ごしていた後備兵たちは新たに与えられ或いは臨時に組み込まれた装備について物珍しげにしていたが、聯隊長が事件のあらましや捕虜収容所の状況或いは部隊運営方針などの説明を進めるに連れなかなかに抜き差しならぬ状況であることを察し、贅沢な装備を与えられた理由などにも理解が及んできた。冬場だというのに展開中の大隊と即応大隊の他の大隊一つが常に訓練に指定されているというのは、前線にいない後備聯隊としては全く異例で待機の大隊も完全非番は半分の中隊だけで大隊本部四つは常に連絡待機というのも張り切り過ぎだと言えた。

 だが既に不祥事の起きた土地で応援に来た共和国軍が無様を晒すわけにはゆかず、それが少し兵隊としては気の抜けた後備兵であれば、兵隊稼業にネジを巻く必要もある。そう聯隊長が判断すれば、のんびり荒れ野の雪景色を楽しむわけにもゆかなかった。

 年をとったり鈍ったりで荒れ野をただ走るのも一苦労している後備兵たちだったが、訓練をするとすれば、収監者の脱走が困難な冬場のほうが都合がいいという事情がわからないほどのボンクラは流石に聯隊にいなかったから、給料取りも楽じゃないとぼやきながら白い息を吐きながら立ったり伏せたり走ったり伏せたりと以前には聞いたことも触ったこともない装備を自分の汗の匂いが染みこむまで使い込むことを求められる生活に励んだ。

 収容所周辺はデカート州管轄の収容所看守警備隊、共和国軍デカート駐屯後備聯隊、そしてローゼンヘン工業鉄道部警備隊の三つの武装組織が協同を前提に特に協定もなく存在していた。強いてあげれば装備や施設の提供などでローゼンヘン工業がしばしば仲介に入ることが多いが、本質的に命令系統や連絡系統が設定されておらず、かと言って最大勢力である共和国軍後備聯隊は着任浅く事実上の編制期間で状況の把握が終わっているとはいえず、互いに隣を眺めるような状況になっていた。

 収容所の看守警備隊長から前回の鎮圧で殆ど唯一効果のあった放水消防車を配備できないかと打診があったことからデカート連絡室のリザに装備や体制についての確認の連絡をつけたところで、電話の声が割れ、怒鳴ったリザ自身が電話を取り落とすほどの声で怒鳴りつけられた。

「おっそいわよ。そんなの駐屯地の整備やっている間に聞くことでしょ」

「しょうがないだろ、事業化されていないところは全部ボク一人なんだ。こっちで四千、向こうで四千とかそんなの全部やりきれるわけないだろ」

「鑑別所のことは様々にお気の毒だけど、そんなの知ったことじゃないわ。それで」

「それで、じゃないよ。聞きたいのはこっちだ。専門家の意見がほしい。とりあえず現場の対処の先頭はデカートがやるとして、その後の順番はどういうふうにすればいい」

「全部デカートがやれれば一番いい」

 木で鼻をくくったようなことをリザが言った。

「あのな」

「アナタ。間違ってるわよ」

「何をだ」

 リザの言葉はいつも説明が足りない。

「デカート州元老の立場か、ローゼンヘン工業社主の立場かしらないけど、アナタの出番じゃないわ。収容所の看守警備隊の親分はデカート州治安行政局でしょ。そっちに取り次いでくれればいいわ。あと鉄道警備隊の親分って警備部部長でしょ。同席させて。アナタは来ないほうがいいわ。却って色々面倒になる。ま、ともかく連絡くれたのは良かったわ。動きやすくなる。話通すのに一筆必要だから書面起こしておくわ。後で読んでサイン頂戴」

 翌日、リザがよこした文書は内容そのものは簡素なものだったが、デカート州治安行政局に対する事実上の命令書だった。

「デカート州管轄捕虜収容所の警備管理体制についてデカート州治安行政局と共和国軍軍令本部との間での折衝機会をゲリエ元老議員が設け、デカート州駐屯後備聯隊長と参謀の臨席を求める。

 治安行政局参事、捕虜収容所施設長、同施設警備責任者の出席を至当と認む。

 また民間協力者ローゼンヘン工業鉄道部警備課課長の傍聴を希望する」

 冬に入って多少肉のついた印象のセントーラに書面を見せて意見を求めた。

「多少は元老らしく威張ってみせることも偶にはしてみてもよろしいんじゃないでしょうか。私としては折角ですから治安行政局長に見届けをしていただくくらいしてもいいと思いますが」

 というと、セントーラは一文を付け足して公用箋にタイプ打ちすると差し出した。

 久しぶりにローゼンヘン館での夕食の席についたリザは公用箋の文章を見てセントーラを見やって鼻を鳴らした。

 翌日パトラクシェに書簡を届けさせるとその日のうちに治安行政局長から恐縮した様子の電話がかかってきた。

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