第四堰堤
ペラスアイレス収容所 共和国協定千四百四十年新春
一旦は共和国軍に参加したものの、兵隊としての生活に嫌気をさした者が流れ着いて吹き溜まる土地としてのデカートはそれほど珍しい選択肢ではない。
手ごろに文明化された辺境都市というべきデカートとその周辺地域は大きく稼ぐことは難しかったが、地道に十年も働けばそこそこの畑のついた家を手に入れることは難しくなかったし、仕事の口も少なくはない。
食いぶちに逸れた元共和国軍兵士たちの成行きはさまざまだったが、共和国の軍政において兵隊稼業の苦労は知ったうえで、なお浮世の風の冷たさと虚しさに煽られ干されて、徴募官のささやかな愛国心の唆しに再び軍務に復帰を希望することはひどく自然な成り行きでもある。
しかし戦火が及ばないデカートが彼らにとって楽園というわけではない。
共和国での後備役は各州駐屯の聯隊所属が原則だったから、デカートがまともな意味で聯隊配置を求めていなかった事情もあって、せいぜいが連絡所の事務職と庶務雑用くらいしか配置がなく、デカートにおいて元共和国軍人という経歴は何ら恥じるところではないものの、空威張りが虚しく効かない肩身の狭い経歴の一つだった。
もちろん旅慣れた人物というものを多くの商会が常に欲しがっていたから、デカートにいる退役軍人のだれもかれもが不遇をかこっているというわけではないが、デカートでは士官までもが流民同然の風来の生活をしていることはままあった。
デカートのように季節労働者を廉価な労働資源としてとらえている治安安定したにおいて、兵隊として使えるような人間がいるなら畑仕事をあてがいたい、という市井の風潮もあった。
それが変化したのは義勇兵旅団として一万人ほどの兵隊を送り出したのちだった。そろそろ三年になる。
ここしばらくの戦争の成行きがデカートの共和国軍に対する雰囲気を変えていた。かなり大規模な輜重が定期的に往来するようになり、少なくとも流民であっても飢えるということだけはなくなったし、退役した兵士が徴募官に自分から再徴募を申し出てもすげなく追い返されるということはなくなった。
それどころか多少年齢や体にガタが来ていても兵隊の流儀が身に沁みついていれば、階級を一つ上げてあるいは下士官資格があれば特務士官として准士官扱いで現役復帰ということもあった。一般に現地徴用は軍需品倉庫制度の関連の法規に従い、現地自治体の責任で個々の兵士官に用品支給され、のちに大議会で決算されるという流れになるので、相応に現地行政が協力的でなければ兵員の徴募も積極的にはおこなわれない。
共和国軍は食料弾薬被服等の消耗品用品については軍需品倉庫制度によってかなり厳格に要求をおこなうが、個別の地域社会の保護と維持を優先することを目的に人員については強引な徴募をおこなっていない。州民市民として行政が管理をおこなっている人々について、権利を侵すような事件が起きると部署が丸ごと職務停止に追い込まれるような重大な問題として扱われる。共和国軍において扱いのあまりよくない共和国水軍と州公認私掠船の関係は一言では口にできないような複雑な駆け引きになることも多い。
デカートという土地は流民をさえ雇用関係を盾に原則市民としてあつかい、共和国軍による積極的な徴募活動を州内でおこなうことを拒絶していた。これまで百人を割り込むような士官とその従兵という名目で下士官を受け入れていただけだったが、遥か東部での戦争が本番になったことをデカートが受け入れてからは、この戦争での役割をデカート州自身が大きく変えていた。帝国との戦争に戦場から遠く離れたデカートがさえも本気になったということである。
デカート州に共和国軍大本営直轄駐屯地ができたことは驚くべきことではあったが、農地としては今一つ不便な丘がちな土地であったし、他人の私有地の話でもあったので、かなりの規模の兵隊が相当の数の四頭立ての軍用馬車を軍行李として仕立てていることに気が付くものは少なかった。だが、市井の景気として軍需が大きな風を吹かせていることは薄々誰もが気が付いていた。
共和国軍の軍制に従った四頭立ての馬車は鉄の軸に楓の軸受けを求めていた。簡素だが手間のかかった仕立物で、デカート州全体で年に四千近くこの数年で一万両を優に超えるほど納められていた。軍用馬車に使う油を染ませた楓材の軸受けは相応の時間のかかる製品だったので、数百という数では新たに作って商売にするには割に合わないものなのだが、共和国軍からの十万を単位にした納品要求が既に二回デカート州を通じて市井を駆け巡っていた。軸受けを一両につき四から八個使うとして数万両の軍用馬車の需要に相当する。デカートを既に発した一万いくらかの他に予備をその倍ほども求めたということになる。デカートで新たに仕立てた馬車だけではなく、デカートに入ってきた馬車がそれだけの軸受けを求めていたということである。北街道を行き来する馬車がそれだけ増えたということだ。
純粋にデカート州を発する軍需としても、おおざっぱに毎月三千人ほどの兵隊が千五百頭の馬とともに三百両の馬車に積んだ百グレノルほどの荷物を運ぶためにデカートから北街道を東に向かっていた。いくらかは糧秣を消費して空荷としてデカートに帰ってくるが、ほぼ毎月それだけの荷物がデカート州を東に向かって出る。
つまり、毎年毎月それだけのカネが共和国軍からデカートの市井に純増し落ちていたということである。ごくおおざっぱに毎月三万ダカートあるいは三百万タレルほどの金額と見積もれる。ほかに兵隊が旅支度の不足を整えるだけ路銀を落としてゆくわけだ。戦争が続く限り大きく減ることはない。そう思えばデカートが多少の不便を天秤に乗せたとして、共和国軍に肩入れする理由として不思議はない。
一連の流れのついでのような形でデカート州で共和国軍後備聯隊が編成された。
輜重兵として徴募を受けたもののデカートにとどまった者は、多くは体力的な理由で長駆する行李の護衛に帯同することには多少不安があった兵たちで、後備役として戻ってみれば、やはりここでもお荷物扱いかと意気消沈するものも多かった。
後備聯隊というものの扱いは兵站本部の求めに応じた輜重隊の護衛か、山狩りや災害時の勢子というものが一般的で、少し悪ければ犯罪者人別のための鑑別所と変わらないありさまだったから、軍令本部直下の正規聯隊とは扱い自体が全く違う。
軍令本部から能力確かな中核人員が派遣され練成が進められる正規聯隊のほうが、戦力としては当然に信頼がおけるわけだが、地方自治政府としては必ずしも使い勝手はよくないし、民間の評判も必ずしも芳しくない。
だが、デカート州においては若干事情が異なっていた。
共和国がデカート州に協力を依頼した捕虜収監引き受けに際する治安任務がデカート州駐屯後備聯隊の主たる任務とされていた。
地方自治領域における警備治安任務であるから、前提として地方自治政府の協力要請を原則として拒否できない後備聯隊が配置されることになったし、装備や編成についても定数を整備することが定められている正規聯隊よりもローゼンヘン工業という事実上の兵廠を抱えているデカート州にとっては手間が少ないともいえる。
デカート州後備兵聯隊は共和国軍正規部隊が期待されるような共和国内の多彩な地形を数千リーグも踏破する体力を求められてはいなかったが、それは必ずしも劣後弱兵であるということではなかった。
それは幹部以外は本当の素人の寄せ集めであった鉄道警備隊から選抜された収容所警備隊との合同演習で明らかになっていった。
鉄道警備隊は治安警備あるいは安全保障という観点において、せいぜいが無様に悲鳴を上げる生きた鳴子の群れと何ら変わるところがない集団だった。実のところそれすらできないことが多い。警備隊と名を打ってはいるが、迷子と忘れ物落し物の検索補完預かりをおこなうことが関の山の、名の通りの積極的な警備活動などは考えるだに危険な未熟な組織だった。
それでも退役軍人を中核とした幹部が現場を把握するにしたがっていくらか状況の整理がおこなわれ環境が改善好転し、今年になって収容所警備隊の人員規模も千八百人に拡充されて、どうにか外部の労務者を収容所内に入れずとも収容所内の管理作業がおこなえるようになっていた。また明らかに訓練の不足な状態を鑑み、訓練教育の一環として後備聯隊と共同訓練がなされるようになっていた。
後備聯隊自体の訓練ということもあるが、ともかく建物や乗り物周辺を中心にした実践的な訓練形式を取り入れ、一部では機関小銃の発砲を伴った訓練をおこなっている。
訓練における青弾は確かに実弾と弾道のクセが異なっていて、実戦に向けた実弾射撃としては首をひねることになることは弾丸の説明や標的射撃などで明らかになっていたが、木片を蝋で固めた弾丸は興奮して走っていると背中から撃たれたことに気が付かない程度に害がなく、正面から掃射される音と光の圧力は害がないことを知っても思わず体が撃たれた衝撃に倒れるような性質のものだった。
警備に当たる者達は防具としての色メガネが配られ着用を求められた。雪原となったことで却って日中の遠目が効かなくなった荒れ野対策でもあるが、訓練弾が直接目に飛び込むことを防ぐための防具でもあった。
捕虜収容所の警備に直接あたる二つの部隊は、訓練の過程で実際に人間を標的とした模擬射撃を互いにおこなうことで急激に組織としての戦闘力を高めていた。
当初、意見交流を確保するための共同訓練が互いの練度戦力を意識する合戦形式を経たことで、後備兵警備兵としては殆ど例外的に急速に戦技を身に着けていた。それは技術としては看守に必要ない種類のものが多かったが、ともかく兵隊としての質を実感することで緊張や自信をみなぎらせることは悪いことばかりではなかった。
人員の数と訓練の自信に裏打ちされた挙動は、秋ごろの暴動の時期の部隊とは全く異なる体制であることを捕虜たちにも感じさせ、迂闊な挑戦をおこなうことをためらわせていた。実際に暴動以降も小規模な個人的な挑戦はおこなわれていたが、雪が雨で解かされ始める頃にはそれまで暴行からは逃げるばかりだった看守と搬入係が、毅然とした態度で組織的に暴漢の捕縛をおこなうようになっていた。
年越しは様々な報告や宴席でデカートの荘園で一月ほど過ごしたマイルズがヴィンゼにようやく帰ってきたのもその頃だった。
刑期と引き換えの刑務兵と治安行政と司法の官僚幹部の一部を現地に置いて、軍監の任にあったマイルズエカイン保安官がヴィンゼに帰ってきたのは二年八ヶ月ぶりだった。三年の任期の予定であったが、移動と報告を馬車の日程で組み込んでいた結果として数か月の早回しになった。
その間に故郷で起こっている様々にマイルズ保安官は仰天していたが、納得もしていた。ともかく行きは馬車や歩きで一ヶ月半気分の上では丸二ヶ月をかけた道程が、余り乗り心地上等と言えないものの十日足らずで戻ってこれたときから様々に変化を想像し覚悟もしていたが、デカートの風景はマイルズ卿の記憶の中のものとはだいぶ異なっていた。
ヴィンゼに至っては、それまで当たり前に感じていた我が家が急に百年も経ったかのように感じる様子だった。
マイルズ保安官は収容所の一件はデカートでの戦況報告のながれで詳細を聞いて知っていた。
ともかくも戦場では生き残り、前線の収容所では友好的とは云わないまでもそれなりに平和裏に過ごしていた人々が牙を剥き、収容所管理に際して一瞬で五千人を殺す判断になったことに驚いていたが、準備もなく知恵もないままに必要に追われ始められた捕虜収容事業と落ち着く間のない駆け足の送致事業を考えれば、混乱の冷めやらぬ捕虜が不安から暴動を起こし、備えのない看守が身を守るために殺す、ということは成り行きの必然でもあった。数や程度判断はともかく一般的な犯罪者を殺すことは共和国の司法行政の活動の上でしばしば起こる好ましからざる日常的な事件でもある。
或いはこの悶々とした気分こそが帝国軍のデカートに対する攻撃であるのかもしれない。
マイルズ保安官は保安官補として指名したジュールからこの二年半の街での事件のあらましを聞き、幾人かが死んで幾人かが増えた式の報告で町の人口が十倍になっていることと、税務収益が二百倍になっていることに仰天していた。だが、増加の大過半はローゼンヘン工業と館北の労務鑑別所での人口増であることを知ると、気が抜けたように笑った。
収容所での亡命希望者や保護対象者を鑑別している労務鑑別所は、帝国軍人軍属やその家族或いは正規の身分なくとも帝国軍に協力的な立場だった捕虜たちが、あたかも鶏のつつき合いのような様相で捕虜収容所から弾き出された者達を受け入れていた。
当初二千五百を受け入れ四千の心積りで準備していた様々が、雪解けの頃には六千超に至り消耗品の手配で不安になる有様だった。
冬の間は自らの敗残に憤りを我が事としていた帝国軍人たちも、我身に故あってのことと無能を噛みしめることで忠節を忍んでいたが、春になってもしばしば自ら望んで送られてくる無残な有様の同胞臣民たちの有様を見るに内情の訴えを聞くに、疑うことも恐れ多いことながら国体を支える摂政元勲ひいては玉体御自らの御聖断の経緯と過誤に疑念を生ずることになっていった。
後からやってきた者達の幾らかはもともと人品定かならぬ者共でもあり、帝国領内であっても碌でなしと言えるような、鑑別所の立ち上げに安息を求めた軍人たちが敵ながら衷心から亡命や解放を軽々におこなわないほうが良いとする者共でもあったが、残りの多くは様々な些細な疑いを煤のように振りかけられ、いつしか憎悪と悪罵を投げつけられることになった不遇の人々であった。
この理不尽な追い出しは組織だった意図を持っていることは間違いなく、或いは捕虜たちの一派の生活利益のためであることは疑いようもないわけだが、軍人たちの憤りをさておいても収容所内の自治が期待できない状態であることは容易に想像ができた。
ともあれ前線の負担を軽くするための収容所事業であったから投げ捨てることもできず、デンジュウル大議員による大上段の演説で共和国全土の度肝を抜いたことで一切合財が有耶無耶になっているが、初夏になるまでに義勇兵の交代補充と捕虜送致再開の目処を示すようにと年のかわらぬうち帰還の義勇兵の到着前から頻繁に軍都のデンジュウル大議員御自らの督促が送られていた。
一見軽薄な三流役者じみたところのあるデンジュウル大議員だったが、その実油断ならぬ俊才で元老であったものが、遠目早耳と鬼謀を疎まれて軍都に送り込まれた経緯がある。
国家の中枢にほど近い伏魔殿に住まうその立場を本人は甚く気に入っている様子で、祖国の為に尽力をしているが、気まぐれな人柄も本国では知られており、自身の要求を無為に反故にされたとすれば我慢をする努力もしない人物であった。
その人物が初夏までと云えば、状況は春のうちに何らかの決着の筋道をつける必要があった。
義勇兵の問題は様々な経緯もあり計画が建てられるくらいの、或いは予算の使い途があるくらいの計画が立てられた。
デカートの好景気が周辺に伝わり春先雪解けから労働者が職を求め訪れ始めたことがある。デカートの好景気の噂そのものは、風聞としての戦争の雰囲気空気の転換などで様々なかたちであちこち膾炙されることになっていたが、出向くまで保つものかと疑いを持たれていた。
ところがどうやら軍需と関わりがあるらしく、戦争はまだ長引きそうであるという観測がデカートに取引を持つ商会を中心に訳知り顔の人々の間で広がりだすと、ならばひょっとしてとデカートに足を向ける気になった訳知り顔の人々が増えてきた。
もともとデカートはそれなりにそろっていて流れ着き落ち着くにはいい土地であったから、季節労働を求めた人々がいつしか住み着くことで都市人口を増やし減らしとしていたが、義勇兵の出征やローゼンヘン工業の爆発的な人員拡大が無産階級を吹き溜まらせていた街区の入れ替えを進め、流れ者が居着く余地を増やしていたことも大きい。
デカートに流れ着いたものの先行きの宛もない者達を、土間の隅に溜まった埃を掃くようにして義勇兵が集められたのは、春の終わりの暖かな風が季節の入れ替わりのついでに様々な花を散らした頃であった。
そこに鑑別所に一旦保護され亡命の意志について確認され、軽薄な理由や相応の覚悟で亡命を希望した者たちが千人余り参加することになった。決心を試されると言っても義勇兵の任務の多くは治安維持や捕虜の看守という、直接祖国と銃火を交わさないでいい立場にあることが鬱屈した鑑別所の生活を脱出する機会と収監者たちには比較的気楽に考えられた。
様々な判断の結果として鑑別所全体の雰囲気の好転もあった。
雪解けから春の終わりまでの二ヶ月余りほどの訓練期間を他の義勇兵とともに荒れ野の後備聯隊との戦争ごっこに興じたことで、帝国軍の敗残兵が退役軍隊経験者としての自覚と自信を取り戻し、あからさまに素人の寄せ集めである義勇兵の中核として信頼と人望を実感することで、様々に落ち着きを取り戻していた。
元帝国軍の将兵たちにとって後備聯隊との訓練は物足りないものであったが、音を鳴らしフニャけたロウと木っ端を飛ばすだけの玩具であれ、ともかく銃声や風をきる弾の出る銃を握り丘を駆け野に伏し、敵情を探り取り付き殲滅する、というもはや死んだと思った軍人としての自分を取り戻す機会になった。
彼らは二度の大きな失敗を短期間に経験していたが、それは必ずしも彼らの責任ではないと彼らは無力ではないと感じさせる契機にもなった。
立場が人を鋳出す、とすれば敗残に虜囚となり同胞に蹴り詰られることになった帝国軍人たちは、義勇兵という鋳型で少なくとも自らの地金の出来について信じるべきものを見出すことになった。錆金は肉を崩し痩せさせるが鋳熔かしなおせば、より良い材料にもなる。
初夏と言うにはやや早い春の終わり、まだ山に花が残る時期にデカート州義勇兵聯隊は交代分を見込んだ一回り大きな規模でギゼンヌに到着し旅団本部と合流した。既に着任から二年半を経ていた第二聯隊は徴募間もない新兵で構成されているはずの補充の第一聯隊の出来に肩を並べる同僚として相当の不安を持っていたが、思いの外精悍に見えることを驚き頼もしく感じていた。
速成というのも愚かしい、服を与えられて訓練代わりに徒歩でギゼンヌを目指すことで軍隊風味の集団に整えていたデカート州義勇兵旅団は、軍事的素養の最低限をそれなりに身につけた形で補強され麦の穂が青くなり始めたギゼンヌに帰ってきた。
二年半に渡って辛抱強く治安を支えてくれた軍監のマイルズ卿が交代したことは業績を頼もしく識るラトバイル大佐にとっては残念なことだったが、各州での捕虜受け入れが進み十八万ほどの捕虜が後送されたことで、前線の捕虜は二十万を割るほどになっていたことである程度努力の成果が見え始めてもいた。
ラトバイル大佐は既にデカートの収容所で起きた暴動が大議会での事件を引き起こした事について承知していて、六千の死亡者について残念に思っていたが、ギゼンヌで捕虜の死が毎年その程度出ている必然を受け入れてもいて、上手くゆかなかったことよりは先のことに目を向けるくらいには戦争の現場の事務向きに慣れ始めていた。
ともかく全く杓子定規に義勇兵を解放するために帰郷した義勇兵聯隊が、予定通りの日程で新規補充されたことの方が、前線の共和国軍にとって喜ばしい報せだった。
デカート州にとっての問題は捕虜の送致と管理の事業の方だった。
瘴気荒野の捕虜収容所の自治状態は好転の見込みが殆ど無かった。
事情は複雑だが理由として絡むところは、恐怖と暴力が統治における便利な通貨であるという点が大きい。
全く無産階級のつくる暗黒街の論理であるが、幸先の見通しも頼るべき根拠もない文明から見捨てられた人々にとっては当然の選択でもあったし、それ以外の選択が可能であるという根拠がないことが渦のように二万人を今や割り込んだ人々を自ら捕えていた。
それは全く成り行きとはいえ、自らの成立ちを思い出していた軍人たちとは対照的に先の見えない泥沼を作っていた。
収容所内の土地は痩せこけたものではあったが、二万からの人々の汚穢はそれなりの肥としてそれまでなかった苔の群生を作るくらいには土地を豊かにしていた。
しかし雪も消え、何処かから種をこぼした野草が花を咲かせても、かつての農民たちは農具を手に取ろうとはしなかった。
別に誰かが禁止していたわけではない。
だが、なんとなく労務を率先しておこなうことをためらわせる空気が充満し、実際に労務をおこなう者の忘恩を卑しむ風潮があった。
労務、と仮に云っても誰かに管理強制されたわけではないから、実のところそれは労務に当たらない趣味の運動のようなものであるが、生産活動全般に言外の禁忌を感じさせる空気が蔓延していた。
そして軍人が粗方消えたことで状況が好転したかと思いきや、今度は小作人が狩りの対象になり始めた。開拓者にお追従の奴隷根性はいらないということであるらしいが、きちがいの妄言であることは大方の者がわかっていてもそれを糺すことも難しい状態だった。
冬までの六ヶ月間で二万人の捕虜を送致すると云う計画の通達に訪れたマジンに、あまりの急展開に怯えたホムラ男爵が収容所内の自治状況を報告し対策を求めた。
対策と言っても思いつくところはなかった。
せいぜいがつかれるまで働かせて、夜寝かせるを繰り返し、無駄な体力を削るくらいの提案しかできない。
組織だった労務を収容所内の自治として自律的におこなうこと。
強制労働を自主的に率先しておこなうことを奨めた。
敵である共和国に従うなぞ帝国臣民として承服しかねるという側近面をした老人に肩をすくめ、ともかく要件としての視察と通告は完了したことでマジンはその場を去った。
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