デカート 共和国協定千四百四十年夏

 ローゼンヘン工業の業務見直しはローゼンヘン工業の作業進捗に大きく影響を及ぼしたが、実はそれ以上にデカートの工房や商会に混乱を起こしていた。

 自分たちのおこなっていたことが間違っていたのか、という衝撃である。

 社内の実態としては、工程作業の整理と道理を知らない素人が生半可なことをすることへの注意、という程度の問題が一斉に警告通知されただけでその量が膨大だったことで業務が停滞した。

 だが事態を知らぬものから見たとき、腕を信じて送り出した職人たちが技を盗むどころかダメ出し食らって仕事を止めた、という印象を元の商会や工房などの職場に与えた。

 ローゼンヘン工業で実施された昇給試験なる業務確認試験も内容が様々に漏れ伝えられ、意味がわかるものからわからないものまで物議を醸すことになった。

 右でも左でも良いだろうというものも多く、右回し左回しのようなどちらの腕で操作するかのようなものもある。

 概ね流儀であって定まっていれば良い、というものであったが、とかく職人たちは前職馴れた流儀でおこないたがるクセがあり、そのクセが新人素人にうつるという事を嫌っての試験であった。

 だが社内での経緯を理解できない人々にとっては正誤の問題であるように捉えられていた。

 またセントーラの出奔が致命的にマジンの時間を削っていたことも、ローゼンヘン工業の様々の進捗計画の遅れにつながっていて、業務割り振りの編制が一段落するまでほとんどの行事にマジンが出席していなかったこともローゼンヘン工業の混乱を印象づけていた。

 とはいえ、ローゼンヘン工業が仕事を止めていたというわけではない。多少の遅れがあったとはいえストーン商会の自動骸炭窯の初号機が完成していて、ストーン商会がとうとう硝石を使わない火薬の製造に踏み切るという出来事があった。

 また鉄道建設はマシオンまで至っていた。大方の予想ではそのまま東に向かうと考えられていたが、年内冬のうちにセウジエムルまで一気に伸びると発表された。

 ヴァルタへの線路は秋のうちには港口を抜け中心地まで伸びる都合がついていたし、更に高台の荘園の多い地域に伸びる予定もあった。

 フラムでは街道に幾つかの巨大なトンネルが掘られていた。

 トンネルといえば騎乗のまま通ることが厄介な高さのものであるのが通り相場だったが、六駢ということもたまにある大木や大石を運ぶ馬車が遠回りをせずとも街道を上り下りできるようになるほどの大きなトンネルだった。最近の話題としてはストーン商会の蒸気圧機関を使った大掛かりな機械の搬送が六駢の長い馬列を必要とする大荷物だった。

 そういう便利なトンネルの工期は長いものでも短いものでもだいたい一ヶ月であったからあちこちの鉱山主たちは鉱山組合に街道の付け直しや整理を希望し始めていた。

 とはいえ、機械そのものは鉱山組合のものではなくローゼンヘン工業の鉄道部の持ち物で予算と工期の調整や、直径十八キュビットの大穴をえぐる機械を運ぶその街道を整備することのほうが鉱山組合にとって一大事であった。

 一大事といえばフラムでは長らく一大事と言われ続けていたカシウス湖の堰堤問題を巨大な社債の引受けを前提におこなうという話で持ちきりになっていた。鉄道やその他の様々の資金調達のついでに抱き合わせで堰堤をなんとかしてしまうという剛毅な計画であるということで、デカートの予算ほどの利息を払う計画とされていた。

 そしてその工事のための線路が敷かれ始めていた。どうも訳ありで武張った感じの人々が働いているということが噂になっていた。

 訳ありの大転換として電話や電灯の普及も急速で秋口には電話を敷く予定はないというような話だったデカートの各政庁が一転春には電話を敷いていたり、一体ローゼンヘン工業が様々を先延ばしにしているという話は何だったのか、と疑わせるほどにキリキリとデカートの様子は変わっていた。

 去年から様々に不祥事がローゼンヘン工業を襲っていたという噂は絶えず、確かに事業の見直しは多く噂されていたが、契機収益自体は陰りもない様子でデカートの川祭りにミョルナの人々を顎足付きで招待したりということもおこなっていた。

 ローゼンヘン工業の事業見直しの噂が起こると、セウジエムルの元老が直にローゼンヘン工業の苦境の原因について確認に来るような熱の入れようでマシオン駅の開設と同時に脇に軍駐屯地を再整備するという手早さだった。

 デカート北からマシオンの駐屯地まで馬車で概ね一週間鉄道でほぼ半日であったから、デカート北の兵站基地はほとんどの馬匹行李を輜重編制後マシオンに進めていった。

 軍が必要とする物資の殆どはデカート新港を集積地の一端としていてデカート北の兵站基地は馬匹行李のための集積が主だったから、マシオンが駐屯地を整備するとなれば一週間の日にちを稼ぐために進出するのはむしろ当然だった。そしてセウジエムルは北街道と南街道のハシゴのような結線でもあったから面倒が少ないだけのデカートの北に大量の人馬を集めておく意味もなくなっていた。

 とはいえ馬匹の生産地としてのデカートは周辺では非常に数の読みやすい計画の立てやすい土地でもあったので駐屯地そのものを手放す意志は兵站本部にはなかった。



 デカート軍連絡室にラジコルマキス大佐が着任したのはデカート駐留後備兵聯隊が活動を初めて九ヶ月経った頃だった。

 統帥権としての軍票発行を許さない形で物資調達をおこなう組織として規定されていたから、現地判断で編制を裁定する権限として聯隊格が与えられていた。

 そういうわけで多くの軍連絡室は大佐が室長であることが多かったし、兵站本部の所管であることが多かった。ラジコル大佐が異例だったのは彼が軍令部から出向してきたからだった。

 軍令本部が何かを注目しているということはさておき兵站本部が所管を手放すということは全く異例で意図なり取引なりがあるはずだったが、本部の戦務参謀であるゴルデベルグ少佐にも通達なり命令なりが出ていなかった。

 組織の理論として表面上ゴルデベルグ少佐の任務は継続で、ラジコル大佐の直接の命令系統に組み込まれる必要はない。ということになる。

 しかし、軍令本部が二つの意志を持ってデカートに人員を送り込んでいる、ということは場合によってはひどく厄介なことを引き起こすことは間違いない。

 はっきり面倒が起こりそうなのは瘴気荒野の後備兵聯隊だった。

 聯隊には統帥権が存在しない。一般にそれは問題にならないのだが、ここで軍令本部付きの大佐が軍連絡室にいることが問題になる。

 後備兵聯隊と軍連絡室の軍令本部への順列が逆転してしまう可能性がある。

 問題は可能性だということで、責任ではないという点がこの場合重要になる。

 ゴルデベルグ少佐の愛人であるゲリエ卿は元老としてデカートを私することを求められた公人であったから、しばしばその責務として要請の形で軍令に干渉していたし、後備兵聯隊は任務として州の要請に応えるべく軍令を発していた。

 指揮権干渉の根拠が責任でないままに判断を左右させかねない。

 ようやく安定方向に向かいつつある捕虜収容所の運営協力が、立場曖昧な二人の大佐の間での綱引きやデカートの要請の宛先で事態が悪化する可能性があるということだった。

 デカートで起きた様々な不祥事は共和国軍とデカートとそれぞれに瑕瑾があり、渦中にゲリエ卿がいたことが彼の事業の進捗を見直すことになった。

 後から鑑みて様々に手のうちようがあったことはゴルデベルグ少佐にとっては痛恨事であった。

 辛うじてリザが不審を顔に出さないで済んだのは、ラジコル大佐は確かに軍連絡室に着任したが、室長に着任したわけではないということがわかったからだった。

 だが、それはそれで全く意味がわからないことだった。

 大佐参謀が何故に前線でもないデカートに足を運んだのか、その理由が全くわからなかった。

 ローゼンヘン工業絡みであればまず間違いなく本部からゴルデベルグ少佐宛てに通達や命令があるはずであったが、どこかで追いぬかれたにせよ連絡がなかった。

 ラジコル大佐はデカートの各所を従兵とともに巡っていて、特にゴルデベルグ少佐との打ち合わせを求めなかった。

 そのことが却って彼女には不安だった。



 夏の学会発表の論文内容は、空中電位の振幅変調とその波形利用による共振通信、というものだった。

 無線通信の基礎概念で、話題としては一昨年の論文の延長だった。

 概念としては例えば同じ樹の枝にぶら下がっている同じ長さの複数の振り子の一つを揺すると直接振り子同士が触れなくとも振動が伝わり他の振り子も揺れだすというものだった。

 枝を空中の電位に、音声を振り子に展開して共振現象を利用して通信をおこなう。

 その信号の強さは距離の自乗に反比例する。ただし、特定周波数については上空や地形での反射が存在し、反射との焦点をなす地域では信号は位相により補強され或いは減衰する。

 音響通信技術としての無線電話であるが、音声周波数以下の信号の場合、その手前に音声の符号化や信号の分散と統合処理を加える事で必ずしも音速にこだわる信号送信である必要はない。

 更に高速化すると音声の符号化を通して再び形示通信の機能が拡大される。

 音声の符号化と復号化は即時性を求めなければ必ずしも困難ではない。

 例えばそれは楽譜の記譜が音楽演奏そのものと速度を合わせる必要がないのに概念上は似ている。記譜をする作業者の中では同期しない場合には欠落した部分から補填を行いつつ作業が完了するまで繰り返すことになる。

 符号化した場合、復号作業において誤りを確認することは原則として不可能である。ただし公開交換符号のような同時性の符号化復号作業の場合には送信者が受信者の誤りを確認することができることもある。

 云々。

 符号化そのものの作業は周波数帯が適切な場合ごく簡単で、空中への送電機と、空中電位の検電器によって成り立り、検電器の検出信号を拾い出してみるとこうなる、と机の上に長い針のついた少し大きめの機械二台示した。

 針を指で動かすことで、反対側の機械の針が振れる。

 最初、机の上の機械はそれだけだった。

 次に、指で操作していた機械に生えたラッパのようなものに言葉を吹き込むと針は細かく震えた。

 最後に、機械から針に合わせて音が出ることを示した。

 台車の上に不格好な時計のような機械が乗せられ演台の列の前方を助手が押しながらなにが起こっているのかを示した。

 まるで手品のような有様だったが、手品と違ってなにが起こっているのかを示した説明としてこうなっていた。説明をされて流れまでわかっていながらなぜそうなるのかわからないことに聴衆の多くは苦しんだ。

 聴衆いっぱいの階段を手を滑らせたら怪我をしそうな重さの機械が音を立てながら針をふらせながら、講演の言葉をそこから響かせながら聴衆の手を渡ってゆくのをマジンは満足とともに見送った。

 説明は聞いた。

 数式は追った。

 構造は見た。

 だが、なぜそこに至ったのか、全くわからず、聴衆の多くは苦しんだ。

 だが、かねてから魔法の呪符と云うにはやや大掛かりな二人一組で扱う無線通話機をあちこちの作業の現場に配している事実は知られていた。

 それは有線でもつかえるが、無線でも使えて山岳や河川などでの往来の厳しい工事の先端部分では無線のまま使われていた。

 無線通信機は無線の便利さの代償に様々な不便もあったが、ともかく扱う者達の魔導に頼らず仲間内の会話を支える装置だったから、簡単な状況のやり取り説明に使われていた。

 機械の構造自体は半導体回路の生産技術の蓄積によって生産歩留まりの向上とともにますます簡素化が進んでいて、機械そのものの単純化が進んだ結果として壊れにくく扱いやすくはなっていたが、電源や発信受信回路の寸法そのものを縮小することはなかなかに難しかった。

 見通しの悪い一二リーグという距離の会話をつなぐためにはそれなりの出力と信号増幅可能な受信部が必要で、それを支えるための電源を小さくすることは難しかった。

 送受信回路の一部を共用とすることで回路そのものの小型化、大きくなりがちな空中線部分とそこへの発振増幅回路の電源を整理共用することで小型化した筐体がコゲるほどの熱は出なくなったが、電池の消費を抑えることはできず、装置重量は電池込みで半ストンを僅かに超えるものになっていた。

 体力的に一人で扱うことは難しかった。

 しかし、無線通信機は戸外での班活動の連携信頼を支える重要な機器であることは物珍しさを上回ってすぐに知れたし、運用が洗練されるに従って今まで良くも無しでおこなえたと思うような作業上重要な機器になった。

 大きさの問題も対策が皆無というわけではなかった。

 親機と子機という階層化をおこない子機同士の通信距離の制限を認め、それぞれの回路出力を小さくすることで電池の消耗を抑え、或いは親機による信号中継によって送信範囲を拡大することで送信出力に電源を回す必要を減らすことはできた。

 これによって機能の一部を親機に仮託することで子機の寸法を抑えることはできた。

 手法としては電話機電話交換機の関係にほぼ等しい。

 現在、瘴気荒野の収容所警備隊は監視塔などの拠点に複数周波数帯の親機を置き、巡回部隊に子機を配することで散兵的な連絡体制の整備を試験していた。

 また、その試験には共和国軍の後備兵聯隊も協力している。

 装置理論と実際までは単に不思議に対する興味と疑問であったが、運用の話になると全く別のざわつきが起っていた。

「どういう協力だろうか」

 講演に割りこむような硬い声が講堂に響いた。軍人だった。

「個人的な信頼関係における私的財産の貸与です。出来の良い文房具を手に入れたので、友人に書き味を自慢して試してもらっている程度のことで、協力の内容は先方に一任しています。今のところ壊したり失くしたりということはない様子ですので、詳細は教えてもらっていません。偶に感想を聞きますが、喜んでくれている様子です」

 不正規な質問はそれきりで、講堂内ではすでに実物が存在している物品に対する興味と話題がその後の質疑応答で交わされることになった。

 例年は論文の印刷などの話題が多かったが、今回は現物が会場にあるということで部品や製造方法に話題が集まっていた。

 毎年数百ページに渡る論文をその場で読み下せるはずもなく大抵は論文そのものと関係ないせいぜい講演で触れた部分の質問が多いのだが、今回は一昨年の電話交換機の話題に触れた質問が多く、今回前回と端し折った部分についての確認や質問も多かった。

 全体の雰囲気として浸透し始めた電灯や電話の意味や性質について理解を求める空気があって去年の元素原子論の唐突よりは相当に受け入れられていることがわかった。



「アナタ、たぶん軍に疑われているわよ」

 春風荘での朝の食事の席でリザが唐突に言った。

 マジンの愛人たち、エリスの兄弟の母親たちはデカートでの勤務中船宿部分に、新港に船員たちの新しい寮が出来たことで空いた部屋にすまわっていた。

 まるでその風景は出陣前の騎士のようでもあった。

 だが雰囲気自体はどちらかと言えば朝の倦怠を感じさせるもので、子供たちもいたし殺伐とした緊張というものではなかった。

 軍服を着込んだ母親たちはその上に合成皮革製の色とりどりの防具を身に着けていた。

 頻繁に車輌と防具を壊すことで試験中の色違いをあてがわれているファラリエラなぞ、どこの切り込み隊長かと云うような派手な目立つ色合いと甲虫のような艶と首肩と腰を膨らませた威圧感のある姿のまま食事をしていた。実際彼女の装備は背面からマスケット銃で撃たれてもあらかたの弾丸が止まるだけの強度を持っている。セラムの防具は彼女の騎兵装具よりも防具としては確実に優れた作りをしていた。

 環状線の外側の春風荘から軍連絡室まではデカートの中で特段近いということもないが、彼女たちがここしばらく馬の代わりに愛用している二輪自動車にとってみれば、軽く機関が温まって気分が切り替わった頃に職場につくという距離で馬車や馬ほどの手間がかかるものでもなかった。

 環状線の暴走車輌の話は学志館でも話題になっていて、金持ち連中のご無体な乱行には眉をひそめる事件も多かったが、今はまだそれほどの騒ぎというわけでもなかった。

 強いてあげれば電灯と電話が敷かれたことで夜ッピで様々に使われているロゼッタが自転車よりも自動車で出向いたほうが相手の応対が早いことで、面倒を承知で自動車に乗るようになったことがここしばらくの変化だろうか。

 軍服の上から付けられる自動二輪車用の防具は騎士の甲冑のような大仰なものであったが、骨格に樹脂の肉を盛ったもので見た目の大きさに比べて重さはひどく軽く、せいぜい冬季行軍に使うの中外套ほどの重さだった。ただ重さはそれほどでもないがあちこち固められていてぎくしゃくと動きにくい。

 立派な角のあるマリールは顔を角の先から首まで覆うカブトを嫌がったが、せっかくの専用設計だからというと、「せんようせっけい」と目を輝かせてニヤニヤと面頬やら薄く色をつけた二枚の目庇やらを玩具のように開け閉めしていた。

 二輪自動車の速度で裸のまま補線路上で転べば、一瞬で鶏のつみれのような状態になることは間違いなく、丈夫なツノがあるマリールの頭蓋骨にしたところでボルシチに使う蕪の裏ごしよりも見事に卸され潰れることは間違いなかった。

 自動二輪車をかなり気に入って乗り回しているファラリエラが二度ほど派手に転び、防具の外殻に大穴を開け、かろうじて骨格材と緩衝材で守られ、なお擦り傷をつけて帰ってきたことで、その時の防具の写真と実物がローゼンヘン館のみならずローゼンヘン工業の安全喚起の教材になっていた。

 そういうわけで通勤前のお食事中のお母様方はいさましげな騎士もかくやという姿で子供たちの世話をしながら食事をとっていた。子供たちも二歳になると自分で食器を使って暴れるように食事をするわけで、今日は非番のマリールが四人の手のかかる子供たちの面倒を見ながらその脇で出勤の母親たちが身支度を整えた姿で食事をしていた。

 学志館はすでに授業が始まっている時間で寮の子供たちはすでに出ており、食堂は母親たちがその子供たちといるだけだった。

「それ、ボクに言っていいことなのか」

「そりゃ、アナタに聞かせてるんだもの」

 一応の確認にリザがバカバカしいと言わんばかりに言った。

「説明を」

「情況証拠だけだからナニってことはわからないけど、アナタここのところ後備聯隊にやたらと装備を貸与しているでしょ。部隊名義でなく聯隊長個人に直接」

「必要だからな。部隊が来たとき連中、機関小銃の配備も受けてなかった。話を聞いたら共和国軍ご自慢の連絡参謀も三人しかつけていないっていうじゃないか」

「ま、後備兵だからね。それでも聯隊に三人ってのは少ないけど」

 防具のせいで肩をうまくすくめられずにリザが言った。

「軍がやる気がなさすぎるから、ボクがせめて道具だてだけでも揃えてやるってのは、そんなにおかしいかね」

「ま、やる気がありすぎておかしくはあるわね。隣の家の犬が痩せてて気の毒だからエサやりましたってくらいには」

 リザの言葉にマジンは首をひねる。

「つまりなんだ、軍の規律に違反したということかな。レオピン大佐は消耗品費用が彼の俸給を超えない範囲でなら細目なしの経費も認められると言っていたが」

「そういう、分かりやすいのならいいのだけど、色々あるのよ。高級退役士官を狙って軍に取り入ろうとしてみたり、政治的な工作をしてみたり、逆に軍人が地方の会社にタカってみたり、軍が予算をせびってみたりと」

 レオピン大佐の人となりを思い出して見るに、そういう目端の聞く人物ではなさそうな雰囲気だった。無能というわけではないが、主流を離れた管理者特有のどこか長閑な雰囲気さえある人物だった。

「なんだかよくわからないが、軍が心配するような人物に思えないんだが」

「レオピン大佐は、軍が、心配するような人物じゃなくても、アナタは軍に心配されるような人物なのよ」

「よくわからないな。それがどういう問題になっているんだ」

「あっさりわかれば、それはもう手遅れよ。だから気をつけなさいって言っているの。アナタ前に電話絡みで余計なこと言ったでしょ。ストレイク大佐は研究としては面白いとおっしゃっていらしたわ。逓信院は予算都合上も人員監査上も比較的透明度の高い組織ってことになっているしね。でも、そこによその組織が関わったりすることは、透明性を損なうし、第一個人営業の民間組織では永続性を担保できないとおっしゃっていらした」

「まぁ、言いたいことはわかるよ。今の状態でボクが死んだら、すべての事業は三年と保たずに崩壊する。カネの問題を抜きにしてもね。二百人ばかりはそこそこに先が見える連中がいるはずだが、それにしても十分ってほどじゃないし、その連中が良かれと思って好きにやれば馭者も軛も轡もないままになる」

 ローゼンヘン工業内では様々な文脈でときたま社主自らが口にすることであった。

「他にもあるのよ。アナタ帝国軍人を個人的に六千ばかり手元にとどめているでしょ」

「そんなの連中がどこにいたって危ないことは変わりないじゃないか」

「軍事工廠の鍵を握っている人の言う言葉じゃないわね」

「ん。ああ。そういうことですか」

 ファラリエラが話の流れに思いついたように言った。

「ファラ。わかったことがあるなら説明を頼む。いまいちボクにはわからん。ボクの命が狙われているってことかな」

 マジンがさじを投げたように言ったのにファラリエラが応えた。

「旦那様はすでに六万の兵を好きに使える立場だということですね。中核は質の低い後備兵だけど、武装の程度を考えれば十分に強力で、しかも荒レ野の看守や後備聯隊の訓練経緯や程度を考えれば、すぐに前線に立てる程度の戦力を作れてしまう。その実験もすんだといえるわけです。なにせここには貨物車や銃器の製造工場があって、他に基礎的な産業の全てと、軍事組織を編成するとしてそれを指導可能な帝国軍人としてそこそこ以上に優秀な士官たちがいる。六万の兵を担保にデカートを席巻すれば道すがら整備して十万の兵でリザールやその他を目指して押し上げて、デカート十万の再現ですね。バンザイとともに軍都を制圧すれば救国の英雄兼国家支配者の独裁者の誕生ですか。こんな感じでいいですかね。リザ姉様」

「ま、だいたいそんな感じが危惧されている流れだと思う。軍令本部から大佐級が出張ってくるってことは、それなりに直接的な軍事的な意義がある興味じゃなければありえないわ。参謀本部みたいに絵日記描くのが仕事じゃないもの。将来の話じゃなくて今の話でデカートをいろいろ調査しているのは間違いないわ」

「いっそそういう感じで皇帝になっちゃうのもいいと思いますよ。帝国対帝国暁の決闘、滅ぶのはどっちだ。って拳闘の興業みたいな感じで大議会で一席ぶってみて」

 ファラリエラが笑顔で言った。

「お前ほんとうに笑顔のまま怖いこと云うね」

「まぁ、たしかにご主人は強力な統帥権を発揮して、直接に兵站指導に当たるのが得意な人物だから、共和国の師団よりは帝国の元帥みたいな大戦力を扱った方がいいし、それができる様々も準備できる。自動車や機関船みたいな輸送機械や有線無線の電話という通信連絡機械は銃器の性能や戦術がどうこうという範疇を超えた国家戦略的な転換をおこなうことになるし、鉄道が定期的な連絡計画を支えるようになれば尚の事だ。現実問題として装備を準備提供可能な補給能力があって基幹的な運用の構想があって、更に人員が調達維持できるとなれば、それは兵站能力の全てがあるということだね。統帥権の要素を考えるならあとは指導の意志の問題だけだ。……なるほどに危険と不安の種があるね。萌芽する条件については様々にありえるし、萌芽する先も様々にありえる。帝国対帝国なんてのはそのうちじゃ平凡穏当な方だ。もちろん中短期的な作戦戦術能力は未知数だから同数或いは劣勢で当たるような流動局面でどういう対処になるか、とか実際の戦争指導はわからないけど、要素的優勢を積み重ねられる状況が今あるというのは事実だろうね。たしかに状況や精神状態をふくめた様々に疑いを持たれた、としてデカートを調査に訪れる理由にはなる。このあとは私達みたいな直接のお目付け兼人質以外にローゼンヘン工業に調査向けの人員を伏せて配置してきてもおかしくはないね」

 食事を終えたセラムがお茶を飲みながら言った。

「つまりなんだ。ボクが気が狂って共和国を支配するとか、そういうことを言い出すってことか」

 呆れたように言ったマジンをリザが溜息をつくように見た。

「それが気が狂ってるって思うような人物かどうか。ってところかしらね」

「どういうことだ。説明しろ」

 マジンがリザの溜息を睨みつけるように求めた。

「説明してあげて。ファラ」

「はぁい。つまりですね。旦那様の手持ちの様々を使えば、ボクがこの下らない戦争を指導してやるぅ~。と思うほうが自然かもしれないということです」

「そんなバカな」

 マジンはそう思ったが、この中で一番常識的であろうセラムにして判断はマジンとは違った。

「職務に則れば、まぁそういうご主人の反応が当然なんだけど、帝国軍の大戦略構想に見事に嵌った状態では共和国としてはなかなか苦しい状態にあるのは間違いないところだしね。デカートが無理して当初予定の捕虜引受数を四万から五万に拡大したこともその一つだし、南街道の通過地のバルジャンじゃ捕虜移送中の事故で大騒ぎが起きて集落一つが焼けて三つの州の管理にあった合計一万くらいの捕虜が行方知れず。奴隷商やら賞金稼ぎやらを公に募る事件になっているわ。あそこにはそこそこ大きな民兵団があるけど、それだけじゃ足りないみたい。デカートでも帰ってきた義勇兵聯隊を結局行政と治安の下部組織として取り込んで維持しているでしょう。大議会では公には議題としてまだ出てないけど軍令本部ではデカートの状態が落ち着き次第、この後も各地での捕虜受け入れの継続的な拡大が可能かどうか打診をおこなっているわ。人数は色々だけど、話は聞いていると思う。ともかくいろいろうまくいっていない。そういう状況で良し悪しの分別を離れれば、職務や常識にとらわれていれば解決も難しい、と考えるのも流れだと思わないかしら」

 捕虜の受け入れの追加が求められているという話は様々に出ていて、二三万から十万くらいまで規模は色々だったが思い当たることもある。セラムに言われれば、なるほどという思いにもなるが、そこまで言われてふと気がついた。

「お前ら、それって軍機じゃないのか」

「軍機っていうか、概況旬報の内容ね。一種の軍用の瓦版みたいな感じで暇つぶしに閲覧を求められるやつ。部外者は普通は読めないけど、見せても読んでも罰則はないわ。参謀本部いけば公開書庫に収められているから民間人も読める。あたしらみたいな士官は読んで閲覧記録埋めないと、任務状況の確認や悪くすると聴聞が入るけど、内容自体は軍連絡室から報告が上がった各地の瓦版や公文書の公開報告をまとめたもので大したものじゃないわ。記事自体が四半期遅れとか結構あるから情報源としては使えない」

 リザの言葉に従えば各地から集められる切り抜きを更によりぬいたものであるようだが、馬の速さより早いものがないとすれば、記事としてはかなり手遅れなものばかりという印象だ。

「それって、共和国全土の情報が載っているってことか」

「全土っていうのには抜けも多いけど、外国の話も偶に載っているわよ。帝国もそうだし、イボニアとかシレイルとかサイロンとか。記事は古くて伝言ゲーム臭くて単に地名の勉強にしかならないけど、士官にとっては地名を連想するための土地勘を養うための教材、って考えると無駄にならないかな。まぁそういう感じ」

「偶に旦那様の名前も載ってますよぉ」

 想像した内容を裏付ける形ではあったが、それが示す意味についてはその瞬間まで気がついていなかった。だから読まないほうがいい、と言ったマリールの言葉の意味がよくわからなかった。

「なんだって」

「我が君は読まれないほうが良いと思いますよ。お仕事の役に立たないし、この世の下らなさに本当に兵を起こしたくなるかもしれません」

「ま、そうかもしれないわね。基本的に軍が鈍いのは足の引っ張り合いってのが分かりやすいけど、その原因となるとホント世の中の下らなさのせいだから」

 時計を見て女達がドカドカと靴音高く出かけてしまうと食堂にはマリールと幼い子供たちがマジンと取り残されたが、様々に慌ただしいこの時期あまりのんびり乳繰り合うような時間もなかった。

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