クラベ渓谷第四堰堤工事現場 共和国協定千四百四十一年秋

 森を枯らして農地を潰した土地であるワイルは瘴気荒野よりも起伏の少ない土地だったから、雨がふらなければどこを走っても同じような土地だった。雨が降ると農地だった土地は途端に由来を思い出すような泥濘になる。

 ソイルからヴィンゼへの人気商品が農地の土だという笑ってしまう事実は如何にもヴィンゼの貧しさを示す話だったが、それがローゼンヘン工業から卸している農薬と組み合わさって小麦や大豆の収量が四倍近くに伸びたという成果はヴィンゼの鉄道の成果で、さらにそれを受けヴィンゼでは農地組合が貨物車を二両買って農業の指導に当たるほどの利益をあげていた。原資を提供したのはローゼンヘン工業からの税収の拡大であったが、実際の運営にあたってはマイルズ保安官が組合の幹事理事として提案した。

 デカートでは予てから肥屋とか汲み取り屋と呼ばれる下水便所の管理の下請けをおこなう業者がいてそれがデカート田園やソイルに肥として汚穢を売っていた。デカートの環状線駅も付近の田園の用水に液肥として浄化沈殿槽の上澄みを流していたが、沈殿槽の管理は肥屋に任せていた。

 肥屋は農地との一種の専属で関係が成り立っていたから、土の質は肥屋次第だった。鉄道ができればどこかから水を運ぶことは難しくなく、土を運ぶこともこの土地であればそう難しくない。

 今ソイルから土を運んでいるが、そろそろソイルの農家たちもどういう意味があるかに気がついて渋るところが増え始めていた。

 ワイルの土は見た目の印象だが、水さえあれば農地にはしやすいのではないかと思えた。

 土などというつまらないどこにでもあるものが商売になる可能性がある。

 それに気がついたのは、第四堰堤の整地の過程でだった。第一鉄橋と第二鉄橋の間にできる堰堤の断水中軸構造を作るための廃土を分析した結果として特に材料として見るべきものがなかったことで不要となった廃土をクラウク村の農地の脇に捨てたことが原因だった。

 ひどく痩せた土地であるクラウク村は化学肥料の大量投入と住民たちの屎尿などでなんとかそれらしい収穫に至っていたが、伝来の土地に比べて作物の出来はかなり悪かった。それでも死ぬよりはマシ。と諦めていたが、その畑に鉄道の整地工事で出た他所から剥がしてきた土を大量に流し込んだ。石混じりの土ではあったが、色合いといい湿り気といい荒れ野の土とは全く違うものであることは、それほどに知恵があるというわけでないと自認する者達にもわかった。

 一旦それらしく整った畑を再び瓦礫雑破拾いから始めるのかと、村を奪い村を与え沼に死んだ同胞を返した者と既に長たらしい称号がついていた自分たちの長を束ねる領主に、村人である亜人たちは文句を言ったが、村を奪い与え沼に死んだ同胞を返し畑の土を与えた者とマジンの称号がまた少し伸びた。

 それほどに山間の土はよく肥えていた。クラウク村の脇にできていた人の背丈ほどに盛られたいい加減な土塁の列は勢い畑に生まれ変わる事になり、芋やらキビやらを豊かに実らせていた。

 その話をヴィンゼでマイルズ保安官にすると早速彼は第四堰堤の工事で出る廃土を買った。

 買ったのは廃土というよりはその輸送機材の時間であったが、幾人かに話を通し山の土を村の家に受け入れさせた。

 広く散った農家は山の廃土を全て受け入れたが、少し物足りない風でもあったので、マイルズ保安官は元老としての伝手をポルカム卿に頼んで土を買い増した。

 ソイルは一般に豊かとはいえ、それでも家族の死を契機に廃農離散という不幸な家は少なくなく、借金の足しに土が売れるならという家もいくらもあった。

 ローゼンヘン工業が税収を膨らませたからといってヴィンゼが十分に豊かというわけではないが、軍監として勤めたマイルズ卿の資金は当座のヴィンゼの信用を支えるには十分だったし、ここしばらくの雰囲気で人々が新しいことを試してみるだけの希望と気概をもっていた。

 それが実績として成果を上げれば、面白く楽しくもなってくる。

 そういう陽気に浮かれたような景気をヴィンゼは迎えていた。

 独立した開拓農民であるヴィンゼの人々の多くはヴィンゼがゲリエの旦那によって牛耳られている急激に変化している事実に憤りを認めてはいたが、忙しくとも祭りと葬式には人をよこす良識ある誰かに恨みを向けるというよりは、うまくいかない土地と自分に歯噛みしていたから、誰かの入れ知恵ではあったがともかく自分の収穫が増えたことで自信を取り戻し喜んだ。

 マジンは鉄道があれば同じことを大規模にやれるという感触を掴んだ。

 早速ローゼンヘン工業はワイル進出の拠点整備のための計画立案に移った。



 第四堰堤工事現場クラベ峡谷での兌換券経済は捕虜労務者の精神にかなりの好展開を見せていた。基本的に通貨紙幣と同等の性質を持つ兌換券を捕虜の個人管理に任せることで、所有という概念を取り戻した捕虜労務者は、苦行にも等しい労務に分かりやすい報酬を手にすることで因果の吊り合いという希望を夢想するようになった。

 労働の報酬という業務成果に対する得点評価を得ることで、無意味な労務からの解放と労務を自分の意志でやっているという実感を得ることで、精神の切り替えの機会を得た。

 当然に業務成果や兌換券の運用の差によっていざこざがおき、ときに盗難などもおきてはいたが、兌換券の帳簿預かりや労務者の班管理の制度などや盗難賭博などの自治活動による警戒制限が機能し始めると、急速にクラベ谷の労務環境は都市社会化の様相を見せていた。

 事実上のクラベ峡谷開発組合が組織された。

 中心になったのは鑑別所の熟練労務者たちによる配給品目の多様化要求があった。

 タバコ酒以外の嗜好品食料品あるいは手ぬぐい手袋や靴下などの個人所有品の多様化。

 中には毛糸と編み棒を求めた者もいる。

 そういった、品目が増えた配給品を管理する兌換券とその銀行機能を管理事務所に設置したことが、一つのきっかけだった。

 危険物という意味では既に捕虜の手に重機を与える程には追い詰められていた堰堤建設計画だったので、その程度のことで安定が図れるならむしろ望むところであった。

 その後、第四路線整備課にもその制度が拡張された。

 第四路線整備課には銀行口座に相当する業務協力記録があったが、その一部を兌換券の形で所有管理を認めたことで、ローゼンヘン工業管理下の捕虜労務者に経済活動の自意識が生まれてきた。

 この春、捕虜収容所から三ヶ月有期で労務希望を新たに五千名つのり、作業を行わせたところ、労務の延長希望が三千名余りもでた。

 ただだらけて過ごしている生活に飽きていたというのもあるが、二年余りの収容所生活はあまりに澱みすぎていてもはや堪えられないと感じ始める者たちが出ていた。

 皇帝陛下の威光を信じるにはあまりにつらい同胞たちの惨状から目を背けたいと願うものが多くいた。

 三ヶ月を過ぎ収容所に戻った二千名ほどの者達はしばらく労務現場での物資で収容所内の顔役として良い気分をできたが、物資を使い果たすや気分は萎んでいった。

 三千弱の重機を使い一万人の労務者を投入しても作業そのものはかなりの難事業で、毎月幾人かが重傷を負い、治療の甲斐なく死んでいた。

 第三の鉄橋がひときわ高くなって、第一の鉄橋を覆いはじめたのに、その足元の堰堤は基礎をむき出しのまま次の資材が送られる様子がなかったことに労務者が不安を感じ始めていたのは、彼らにとって堰堤計画が単なる労務ではなく自分の労働成果となり、その先行きに不安を感じ始めたからでもあった。

 幾人かの管理者的な立場にある人員には搬入予定の資材の目録と日程が変更になったことも伝えられていた。

 刈るべき木が山肌から全て切り倒され運びだされ、五日の休日が言い渡されたとき、労務者たちのあいだにあったのは休息への喜びではなく、計画への先行きの不安だった。

 谷の外で何かあったということは、軍人として突然の作戦中止を聞かされた時の不安にも似て直感していた。

 撤退退却か。という言葉に誰もが失笑したが、その意味が元の収容所生活であるとすれば最悪だった。

 もう一度五日の休暇を告げられたとき、一種のパニックが労務者を襲った。

 五日単位で全域が休暇というのは、計画に文字通りの穴が空いたということを認めたということで、それが二度続くということは手当がつきようもないということだろう。



 二度目の通告があった日には流石に帝国軍人たちも対策を考える必要があった。

 工事の問題よりも労務者の不安を解消する方法が必要だった。

 誰かがいった、墓穴。という言葉にふと気がついた元中隊長が、今や一万の労務者をまとめていたマクマール男爵にとって聞き捨てならない想像を口にした。

 冬場の雪と春先の雪崩の手当が必要じゃないですか。

 去年も雪には困らされた。谷底であり、雪そのものの量が多く降り積もるというわけではないが、四方から押し寄せる雪が思わぬ形で壁を作って作業を止めた。

 春の雪解けの始まりの雪崩も危険なものだった。

 特に今年は山を禿げさせ、谷の出口を堰堤の基礎で埋めていた。太く本数のある鉄骨でできた鉄橋は強度は全く心配に当たらないが、それによって雪の流れる先が止められる。

「つまり我々はこのままだと雪に潰される。そういうことか」

 マクマール男爵の言葉に作業飯場の幹部会議、通称旅団本部の空気は新たな種類の困惑とざわめきに包まれた。

「急の作業停止を考えれば引き上げるかどうするかを後方本部が協議或いはすでに準備していると信じたいところですが、また或いは別の理由かもしれません。対策そのものは手元に重機資材ともにあるので休暇中に最低限を整えることは容易です」

 マクマール男爵少佐を鑑別所の先任と認めて敢えて身を引くことで混乱を避けたグアバブーダ中佐は意見を述べた。

「まぁ、ここにある機材があれば陣地構築は当然に楽だったと思うね」

「これだけのものが前線の我々にあればむざむざ捕虜になることもありませんでした」

 誰もが思っていることに会議の場に失笑が漏れる。

「冬将軍の包囲に耐える事はできるかな」

「後方本部が資材転用を拒否しなければ十分に。……計画と作業は任せて良いだろうか。イノク大尉」

「もちろん。ただ全員で当たる必要もないと思います。人選はどのように」

「元気すぎる者、日頃意見の多い者を中心に使え。必要な分だけ使って構わんが、怪我はさせないようにしろ。ここは医者も多く医薬品も足りているが、収容所に後送させることになると気の毒だ。人選はホムラ男爵にもご協力いただけ」

「わかりました」

 歯切れ良く答えるホムラ男爵も成長期の体を動かしているうちに健康を取り戻していた。

「それでは、哀れな虜囚めから恐れながらと看守様にご注進申し上げることとするか」

 動きが決まったことで幹部会議に先ほどとは違う失笑が漏れた。

 解散の声で立ち上がった者たちはともかくも自分の作業に移った。

 警備隊長はマクマール男爵少佐の見解とその続く意見を聞くと直ちに本部に電話をした。

「特別作業は使用資材の数量報告及び機材人員の状態管理を前提にこれを許す。

 作業人員には特別報酬を準備する。

 また休暇中の日数分については全員正規報酬を補填する」

 思いのほか物分りの良い命令は、作業本部にとって思いがけない種類の連絡だったことを感じさせた。少なくとも政治的な混乱によるものではないらしいことを感じさせる鷹揚さだった。

 十日の休暇の原因は堰堤貯水面に貼る大型タイルの生産稼働が遅れた事によるものだった。

 イノク大尉は千人余りを指揮して二日で資材集積所と飯場の周辺に空堀と土塁を築き予備の鉄骨や線路で柵を立て雪を道や基地に直撃させないように陣地を形成した。幾つかの重要な倉庫には土と資材で屋根をかけていた。

「張り切り過ぎだな。まだ休暇に余裕がある。とは言え見事だ。こんなことを前線でやられているとすれば、これからの戦争は苦しいな」

 避難を目的にひときわ高く作られた土塁に立ってマクマール男爵がイノク大尉に講評を述べた。

「全くです。張り切り過ぎとはおっしゃいますが、一万からの人員の宿舎と資材基地をまもる陣地五つをそこそこにしあげるのがこれほど容易いとは思いませんでした。まぁ、前線の陣地に比べれば小さいものですが。それでも恐るべきものです」

 動かしにくい設備を除いて宿舎貨車などを土地の中央に寄せ転がらないように土塁で支え周囲を陣地で囲う作業は最低限の質にもよるが丸一日で終わった。

 翌日は空堀と土塁を築き各所の設備を守る作業だった。

 直接動かしにくく動かすことを許されていない鉄道設備にも対策を施したのは山の早い日暮れと競争になったが、ともかく作業についた者達に怪我はなかった。

 休暇明け新たな作業技師たちが新しい作業機械とともに百名到着すると作業は次の段階に進んだことを意識させた。ダム水面側の内壁の傾いた二次曲線を構成するタイルを鉄橋基部に取り付ける作業が始まった。

 雪が降るまえに第一鉄橋の鉄道線の高さまで作業を進めたいというそれは、巨大な滑り台のような構造の建造物作業でこれまでの作業で重機には慣れたつもりの者たちも手作業で調整してくれる者達との連携が重要な難しさがあった。

 これまでの作業が肩慣らしだったと言わんばかりの難工事であったが、ようやく一万人という工員が全力で稼働するような仕事になったということもいえた。

 初雪が降って十日後内壁工事の一次作業が終了した。

 労務者たちは休暇がなければなぁ、などと笑い次の作業に移ることになった。

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