ローゼンヘン工業 共和国協定千四百四十六年夏

 一千億タレルというとつまりは金貨で十億ダカート。

 金の地金の相場で一千グレノルということになる。

 もちろんそんな膨大な量の金貨を誰も扱えるとは考えてもいなかったし、実際共和国中をかき集めてみて、それだけの黄金があるかどうかも怪しい。

 もう少し現実味のあるところで、二十万タレルという金額は金貨二千枚ということで、なかなか大した金額ではあったが、つまりはよくいる金持ちなら年に幾度か誘惑にかられる大取引、という程度の金額でもある。

 三千万タレルというとそれを百倍あまりにも膨らませた金額ということで、話を精査しないでおいそれと手を出す種類のものでもないが、二十万タレルの取引を年に何度かおこなうような者であれば、生涯のうちでそれくらいの金額を作る必要や機会が幾度かないわけでもない、という金額になる。

 三千万タレルと目の前に積まれていうと金貨であっても荷馬車が必要な大きな金額ではあるが、大きめの荘園に必要に迫られて四五千の家人を抱えるというのは、デカートの元老としても頻繁にあるような話ではないが、実は珍しくはない。少しまともな家人を募れば、急ぎのいくらかは奴隷を競売で買うとしても金貨で五十枚で買えるというわけにはゆかない。買ってくる奴隷は金貨で釣りがくるような者ももちろん混ざるわけだが、生き物を使うためにはそれなりに掛かりがくる。

 結局、奴隷をそれなりに使え扱えるように整えるための経費は、まともに名のある人の知れたヒトを雇った方が却って安いことも多い。それなりに質を求めれば、縁のある土地からそれなりの扱いで募ったほうが安くなる。

 買ってきた奴隷に、教育係が務まるようなマトモな執事をあてがい、奴隷が荘園内で客に見られて家の格を疑われない程度に、農地を破産させるような無能を晒さないようにするためには、それなりに管理の手間が必要になる。

 一般的な実績からすれば、新しい荘園の小作人のケツを蹴って農地の経営を軌道に乗せるためには一人あたり金貨百枚はいらないが、金貨五十枚では流行病や天候などのちょっとした事故で死んだ者の後を埋めるのに足りない。

 貨物自動車或いは高級な乗用車の登場当初の数年前の価格一千万タレルというのはある意味で気が狂ったような金額ではあったのだが、手勢のために軍馬を揃えるつもりであれば二三両、或いは新たに聯隊を整えるつもりであれば十両くらいの金額ということでもある。

 ヒトや馬のように年に何人も死んだり入れ替わったりするような、消耗品の家具に比べれば自動車のクロガネのほうが信用できると考える者も当然にいたし、鉄道が資源を手堅く運ぶようになってからは、貨物自動車も数百万タレルというところまで落ちてきた。

 一千万超タレルから数百万タレルという値下げは奴隷千人から数百というところまでの値下がりと考えれば、およそデカートの雰囲気感になる。富豪と云ってよい豪商や元老であっても、毎年買おうと云うものではないが、人馬を使い潰している数を考えれば数年の計画で買い増してゆこうか、と云うものがデカートにおける自動車の感触であったし、より銀行が積極的な市邑では、例えばセウジエムルのような為替両替商組合が公官庁に堂々と軒を並べるような街では税金で買った公用の自動車を時間貸しする行政サービスを中小業者向けにおこなっていて、直接的な資金回収と合わせて確実な商業税の回収をおこなえるようになるなどという動きもあった。

 更に鉄道が北街道をおよそ連結したことで、以前よりもあまり長距離を走らないことを前提にした百万タレルほどの貨物自動車も登場したことで、自動車というものの金額感覚は大きく変わっていたが、年次で消耗されその程度が予測できない生き物と、およそ二万五千リーグと消耗の程度が予測されているものの市井の感覚では無限の距離と大差ない寿命が示されている屋敷のような自動車との、一種の錯覚によって共和国の金銭感覚もまた少しずつズレていた。

 自動車の威力は手に触れたもの手に入れたものでなければわからなかったが、ともかく人々の感覚を切り替え始めていた。

 自動車の鈍いというよりも抑えた艶のあるなめらかな表面は、例えば甲冑を纏った伝説の巨獣のような、そしてしばしば無能な騎士によって辺りに銃や大砲以上の無思慮な破壊をもたらす鉄のからくりは、同じ重さの金塊と同じという金額で登場して数年のうちに数分の一また更に半分、そして明らかに軽い安さを意識した作りではあるが十分な大きさと性能の口上を持った自動車が鉄道の駅の間を埋めるような、ちょっとした農場でも手に入れる計画を建てられるような価格で世間に流れ始めていた。

 鉄道と電話が聞いたこともないような土地から、顔を合わせたこともない商人の手によって、みたこともないような品物を市井にやり取りするようになり始めたことで、人々の間で大きすぎる動きが起こり始めていた。

 大きすぎる動きがそうであるように始まってまだ十年も経っていない出来事の持つ本当の意味に気がついた者は殆どいなかったし、考えに行き着いた者達の多くもそれを我が目で確かめるすべもあるはずがなかったが、はっきりと新しい動きが起こっていた。

 もし、具体的に実例が見たければヴィンゼに足を運べばよかったわけだが、それがなにを意味しているか、当のヴィンゼの人々も理解しているわけではなかった。

 物が欲しければ商店や市場に行って金を出せばいい、という言葉にしてしまえば全く当たり前のように聞こえることだった。

 それが、いかにバカバカしいことであるか、云ってしまえば、働かざるもの食うべからず、という農民のつぶやく聖句のような呪いの言葉と一緒だ、という皮肉は流民であれば小作人であれば或いは兵士であれば知っていることだった。

 身分のない者がカネを作ることはまず苦行のような困難だったし、足りるだけ集めることは奇跡に頼るべきだったし、そうやって集めたカネを持って行っても天使のような何者かの紹介がなければ必要な物も技術も売ってもらえるとは限らない。命にかかわるような医者や高価な品々であれば尚更だった。

 無産階級と呼ばれる人々の多くは、つまりはカネを作ることも集めることも使うことも許されていなかった。

 もちろん市井にいる人々の多くはカネを日常的に使っていたが、おしなべてカネでケリを付けることが許されるのは、それこそが身分ある市民の扱いであって、共和国の市井には市民とは云い難い扱いの人々が数多くいるということだった。

 膨大な人員をかき集め給与として、雇用契約の規則に準じたカネを払う、それだけのことをローゼンヘン工業がおこなったことは、重大な意味があった。

 それまで通貨としてカネを手に入れる術のなかった人々にまで、カネが通貨として流れ始めた。

 この社会の底辺で起こった変化を富裕層や一般市民が理解することはなかなか難しい。単なるキラキラするご褒美の飾りか、賭博の寺銭という意味合いしかなかったカネに社会契約の入場券としての意味合いが与えられた。という説明がおそらく一番単純で端的なものなのだが、それだけではまだ不足であるかもしれない。

 なぜならローゼンヘン工業は膨大な無産階級を組織的に編成するために、通貨による資本化とともに、福利厚生を充実させて文化の支配的な再編成をおこなったからだ。

 体操や入浴という一種自律的でもある客観的な個々の人員の状況確認は、一気に膨張しすぎてしまったローゼンヘン工業にとって、日常的に重要な人員監督の文化的な手法だった。

 体操と云って、別段広間を使って飛んだり跳ねたりや器具を使った大仰なものではない。

 朝、始業前に音楽付きで一連の簡素な動きで体の伸屈を目的にした体操をおこない、動きに問題がある人員は就業させずに医者に回すという、それだけのことで健康状態や職場の状況が把握しやすくなっていた。

 ローゼンヘン工業の社内方針はそれまで無産階級として社会的な運用を試みられることのなかった人々を資本化し組織化し社会化した。

 それは、多くの福祉的な慈善事業が試みつつも結局は福祉事業者による片務的な事業構造によって失敗していた、無産階級の生産的社会組織としての自立に部分的にせよ成功したと云ってよかった。

 もちろん無産階級のすべてが故無く無産階級であったわけではなく、その事由によっては如何なローゼンヘン工業であっても、会社組織に組み込むことはできないわけだが、ともかく、現在のローゼンヘン工業の人員の多くがデカートの無産階級と称される層を経由していた事実は揺らがない。

 無産階級の多くは実のところ社会に適当な産業基盤がないがために、社会にこそ望まれて無産階級にとどまることを強いられていた、いわば無意識の被害者であったから、社会の情勢の変化こそが彼らを無産階級に留めることを許さなかったと云っても良い。

 無産階級に配されていた者達の多くは実際無辜の民であったが、不幸な被害者であることを理解納得していた者達の多くは積極的な犯罪者ともなっていて、それこそが全く階級的な闘争構造を肯定する互いの関係の認識に繋がるのだが、ともかく決定的に人員に不足をしていたローゼンヘン工業が無産階級を吸い上げることで社会構造を破壊していたという事実は変わらない。

 具体的にはデカートにおいて農業労働力を補填する機能を持っていた無産階級の枯渇は全く皮肉な形でデカート州の農場の多くの農場主が抱えていた階級的な特権意識に冷水をぶちまけることになった。

 デカートの農繁期の季節労働者をローゼンヘン工業がまるごと吸い上げてしまっていたからだ。

 小作人や開拓農民と違い都市生活を送る季節労働者は、貨幣生活を送っている。

 とは云え、デカートのような比較的様々に整った社会体制の土地であっても、貨幣の流通というものは様々に歪で滞りがちであったから、カネは割符か鍵と大した代わりのない意味しかないこともあった。

 つまりは大方の農場主は報酬をカネではなく食料、物品でしかも農作物の出来に応じた形で渡していた。

 それは実を云えばローゼンヘン工業の一年目の金額と大した差のない金額でもあって、つまりは二年目以降は全く大きく金銭的にも待遇的にも差がでることを意味していた。

 一年目の待遇の悪さはローゼンヘン工業がむしろ誇らしげに掲げていたから、元老の多くや商店主でさえ或いはその製品に目を見張るばかりの多くの工房主たちも全く考えてもいなかったことだったが、ローゼンヘン工業からの離職者は殆どおらず、工房主が技術を盗ませるために送り込んだ徒弟の一部も巻き込まれ取り込まれるように居着いてしまっていた。

 賞金稼ぎとして若くして流れ着いた身であるゲリエ卿は、当然に伝来の家財家人はなかった。

 そこで却ってローゼンヘン館に目をつけて一旗を上げた、という事業の最初の伝説的な経緯は多くの者達が知っていたが、その後の事業の藤蔦のたうつが如き茂りぶりは事業の内側に飛び込んだ者達にとってさえ密林探検と大差ない展開を見せていた。

 と云って、ローゼンヘン工業の秘儀奥義を求めての探求者以外にはローゼンヘン工業の内部の生活はそれまでの市井の生活よりもむしろ単純ですっきりしているくらいで、社員証とちょっとした贅沢のための別料金で三度の食事をおよそ夜を徹しておこなえる社員食堂と浴場と制服を洗濯してくれる被服制度と一グレノル半の広いとは云い難い私室があるだけであったが、実のところそれだけのことであっても、これまでとは全く異なる生活文化を感じさせる、つまりは文明に組み込まれ社会化されているという実感を社員に与えた。

 デカートの人口は数十万だが、それは市民として勘定されるヒトに限った話で奴隷や亜人或いは流民不法民という勘定を免れている者たちがどれだけいるかは殆ど見当もついていなかった。

 その人数は百万はおるまいが三十万ということもあるまいという数で、デカートの人口が十年足らずの間に三十万から五十万ということになったのも、つまりは税金を納める者がそれだけ増えたということである。その中には亜人もいた。

 一家を持たない子どもや家に居着いた嫁や隠遁した者達は税を納めていないことが多いから、およそ数倍いるだろう。

 そういう見えない形でデカートの社会生産力を支えていた住民の多くをローゼンヘン工業は社会化し吸い上げ組み込んでいた。

 そして社会化されるということのここでの意味は、デカートにおける認識は税金を納める定住と定職を得るということである。

 共和国一般の税の扱いが怪しげであるように、デカートにおいても税の扱いは怪しく、元老というのは要するに文句を言わずに税金を収め、必要において洲国経営に万全の無制限の責任を持つ者、というニュアンスでもある。

 そこそこの奴隷が千人も買えるような金額で元老院の席を買う、というのはつまりは税金が不足すれば、それくらいは出しますよ、という気概とそれくらいは日々の活計で慌てずに出せるという意味合いでもあったから、話の最初の部分としてそれなりの規模の家人を抱えているという前提がある。

 共和国の競売奴隷は一種の有期労働契約であるから、大方の者は年季明けで自由民としての居留地の移動の自由を勝ち取ると概ねそれで荘園を離れることを選ぶ。二十年から四十年ほどというものが一般的で特殊な例では五年十年ほどということになる。財産の権利がないと云っても蓄財そのものの方法がないわけではなく、社会権による保証がないというだけのことであるから、目端の利く奴隷であれば年季そのものを短くすることは不可能ではない。

 悪質な関係であれば年季明けの窃盗や年季明けの窃盗を口実にした捕縛と再拘束なる方法もあるわけだが、一般的な話としては毎年数十名がそれぞれの荘園を離れる。鉱山や農園という土地を離れて彼らがどれほどに暮らせるか、という話題とは全く別に各地の元老の荘園は毎年数十名の奴隷を労働力として必要としていた。毎年およそ数千の奴隷が各地の荘園を離れまた入っている勘定である。

 そういう中で意味を考えれば、ゲリエ卿が千人の女と千人の子供を抱えたというのは、随分と偏った話で女を妾として子供を庶子として囲ったという話の面白さはそれとして、人数の上では元老という立場であれば、まぁそれくらいの家人は養ってもらわなければ困るという話でもあって、十万の社員と一口で云っても多いは多いが、新規の立ち上げなどで二三万の奴隷や流民を使ったりおいたりしている荘園がないわけではない。デカート州の領域外に広がっている組織として州の目の及ばない十万という規模は必ずしも法外に大きいとは云えないという現実もある。

 ヴィンゼでは単なる老保安官であるマイルズ卿も郷里にはおよそ八百から千の間を緩やかに増減している奴隷を抱える十リーグほどの荘園を持っていたし、そうでなければヴィンゼの土地でのんびりと保安官をしながら元老に居座ることもできない。

 そもそも年季明けの奴隷に買える土地というのは、大した土地があるわけではない。それでも土地がほしい農民というものはいて、そういう焦りがちな者にとってヴィンゼは人生の博打を打つのに良い土地に見える。

 公営競売された奴隷の出入りは司法と税務が毎年必ず荘園に入り込む忌まわしい儀式でもあった。

 別段、司法も税務も無闇に荒れ狂うというわけではない。

 だが、奴隷の立場をわきまえぬ不心得者やその扱いについての流儀は荘園によって様々に違っていて、客というほど無責任な立場でもない司法と税務の執行官たちは公務で荘園に赴いているので、小王国ともいうべき荘園の中においても鵜の目鷹の目で自らの御役目を振りかざそうと成果実績をあげようと張り切る者たちも多い。

 荘園の管理人にとって公務に張り切る執行官たちは正直煩く面倒くさい生意気な主家の嫡子のようなものだった。誰も彼も可愛らしい身なり見かけをしていればともかく、とうの立った執行官にもはや可愛げは残ってはない。

 元老に限らず荘園主にとって毎年の奴隷の売買というのはそれなりに面倒なものでもあったから、彼らは多少ともこぞって戦争捕虜を受け入れた。

 カネがかからない毎年の出入りのない奴隷というのはちょっと悪くないように思えたものだった。バカな荘園主が使うだろう、と皆他人が引き受けることを期待もしていたし、お試しに使ってみるかとも考えていた。

 ところで使ってみれば捕虜を使うということは、それほど簡単なことというわけでもなかった。

 およそ百あまりあるデカート州内の荘園で受け入れられる捕虜の人数は合計で三万を超えることはなく、デカート州で受け入れられている捕虜の大部分は荒れ野の収容所に収監されている。捕虜収容事業の初期に起きた不祥事と、その後の成り行きで捕虜と云って買ってきた奴隷よりも気楽というわけではないということがはっきりとしたことで荘園での捕虜受け入れを少なめにさせていたが、そうでなくとも戦争が終わった後の扱いを眺めれば慎重にならざるをえない。

 デカートは流儀の品性とか矜持というものにひどく敏感なところのある土地でもある。ローゼンヘン工業の振る舞いはそういう意味で打ちそんじた杭のような気持ち悪さもあったが、ともかくもデカートの元老は自らの襟を正すことにある一定の意味と価値を認めていた。

 大きく面倒になった事件もあったが、ある程度のところで落ち着くと戦争捕虜も奴隷も扱いはそう変わらない、やはりそれなりに手間を掛ける必要があって、その範囲で面倒は起こらなくなっていた。捕虜の脱柵は各地の荘園ではままあることでもあったが、奴隷の脱柵と同じように対処されていたし、およその話として荘園の衛士や政庁の邏卒の手によって捕らえられていた。生きて捕らえられた捕虜は荒れ野の収容所に送られる。それだけの事だった。

 およそ一億タレルを超える事業というのはなかなかに大きな数千人或いは万の桁に踏み込んで人を使うような事業で、立派な屋敷を建てようと思えば、或いは安定規模の荘園を起こした後に眺めてみればそのくらいになるかというものである。最初二十万タレルで買われたローゼンヘン館はその後建物と工房設備だけで材料費におよそ十億タレルを少々出るくらいつぎ込んでいる。

 もはや移転すると云って運ぶだけ組み立てるだけで倒れかねない金額になる。

 百二十億タレルという年次予算のエンドア開拓事業団の初年度計画は、すみやかに三十万の捕虜収容をおこない、その後連続的に収容人員を拡大して、現在の共和国全域で起こっている捕虜の管理上の面倒から共和国を解放し戦争遂行を助ける、という民間事業である。

 あくまで民間事業であるという点が、様々に利点と問題をはらんでいて、事業主体者であるローゼンヘン工業の利そしてまた理について、多くの者たちに疑わせてもいた。

 資金的な将来の保証はあるのかという一般的な質問に対して、エンドア開拓事業団の理事に就任したマキャマドパパパルゼン卿が大議会で答えて云うにはローゼンヘン工業がエンドア樹海の管理を専有する権利を共和国が認めてくれれば宜しいというものだった。

 現状どのみち役に立たないばかりか、しばしば面倒のもとにすらなっているエンドア大樹海に管理者が入り、鉄道が南街道と北街道を繋ぎ四方に往来を保証するのであれば、そこは新たな洲国が興るとしてなにの不都合があるだろうか。シャッツドゥン砂漠やカシウス湖のような現状全く役に立たない土地であっても百年にわたっての長期計画を建てれば採算そのものは可能で、捕虜収容事業とその初期的な労働力と集中的な資金資材の投入でその後十年程度の採算は軌道に乗り、五十年にわたって事業が継続可能であれば利益がようやくに生まれる。

 その未必のしかし蓋然的な利益で将来の鉄道経営を支えれば宜しい、という主張だった。

 バーズ川の不定期な氾濫も水源管理がおこなえれば危険が減る。治安上の問題も産業が成立し常住するものが生活をおくる上では当然に安定の方向に向く。共和国軍への協力も求めることになる。

 森林に伏せられた地には資源や財宝が眠っているかもしれない。

 なにより、南街道と北街道を切り替える新たな街道ができることは共和国全体新たな物流拠点ができるということになる。

 デカートから本社機能を移転させることで会計上の減免を狙う可能性や、法令上の制限を迂回するなどの話題も取り沙汰されたが、具体的な利益を納得させることは難しかった。

 ローゼンヘン工業は南街道と北街道の鉄道線の中間に走る新たな街道による鉄道線の利益を口上にあげていたが、鉄道開発にかかる大きな設備投資の金額を考えればそれが回収できる見込みは実は殆どなかった。

 疑う者の多くはローゼンヘン工業の公開する資料についてかなり精査していて、その内容そのものへの疑いと直感的な投資と鉄道利用の費用価格から来る矛盾を感じていた。

 はっきりと政治的に敵対している者達の多くは、単純な善意で鉄道が運営できるはずはなく、そうであればなにを利益として連結するのか、という点を疑っていた。

 ローゼンヘン工業が成り立っているのは巨大な赤字をさらに巨大な黒字で打ち消す様々な製造販売部門で鉄道電話電灯といった社会投資部門の赤字の多くが社内に向かっていることで、問題を表面化せずに社内債のやりとりでなんとかなっているという状況だった。

 これは例えば鉄道電話電灯という部門をローゼンヘン工業本体から独立させるとほぼ一瞬と云うに等しい期間で枯死する状態といえる。別段これは冗談でも秘密でもなく、一般的に公開されている情報をつなぎ合わせられる者ならば誰もが行き着く結論であったから、強力に利便を支えつつ脆弱な文明の基盤として将来の問題はその先にあった。

 金銭的な利益や取引上の優位というものを求め考える者達に中長期的な展望は無意味だった。およそそういう気の長い利益を求めるには共和国の国情は不安定だったし、そんな足かせを素直に受けるようなカモとまともに付き合うなぞ、組合でもよほどの内々――互いの孫の好みを知るような仲でなければありえないことだった。

 公共事業という感覚は共和国一般の話題としては殆どない。

 そのような暢気を許すほどに共和国の風土は気長ではなかった。

 ローゼンヘン工業はとうとう共和国の自然を克服してみせた共和国最初の文明だった。

 鉄道事業も今となってはよほどの貧乏人でもかろうじて使える価格設定が却って疑いを招いている。受益者負担という原則の話題もさることながら、企業と公益という関係は相容れないという原則が共和国を強固に縛っていた。州を越え公益をつなぐ例外が唯一共和国軍であり、中央銀行発行貨幣であったからローゼンヘン工業の立場、特に鉄道電話電灯という事業について理解を求めることはほぼ不可能だった。実際に各地で沸き起こっていた各種機関を利用したミニ鉄道ブームはおよそ二三年ほどのうちに各社が撤退して馬車鉄道に転換していた。便利は認めるにしても維持ができなかった。

 鉄道事業のおよその意味は因果関係として互いに価値のある土地を結ぶことで価値が増えることを期待する投資であって、相手のない土地に鉄道を結んでも意味が無いし、強力な資金源がなければやはり意味が無い。

 開拓事業や軍需事業と同じで本質的に赤字を前提にした計画と採算事業との連結が必要になる。実を云えばローゼンヘン工業の路線でも単独で黒字を発生させているのはセウジエムルだけで、デカート州内も全くの赤字である。それでも構わないのはその赤字の規模が自動車や馬車を運行して輸送を確保するのに比べて時間あたりでも荷物あたりでも遥かに小さいからであった。その利益を鉄道利用者に受益者負担として投げかける求めることは殆ど意味がなかった。基本的に鉄道利用者を萎縮させるような経営をおこなう段階ではなかったし、設備運営費維持費を回収できれば設備投資そのものは連結した先の事業で回収すればいいだけの事だった。

 鉄道沿線の宅地開発や農地開拓という比較的簡単に販売できるものは存在していて、ヴィンゼで成功を上げている農業協同組合式の投資組織をぶら下げることで、農具農薬の販売や農作物の中間益を回収し、鉄道の利用を促進し、地価の開発に勤しむというビジネスモデルは極めて広範な規模のローゼンヘン工業ならではの長期回収モデルで、鉄道沿線に確保した幅およそ半リーグの土地を単なる不法者よけ、鉄道保安区という扱いから、取引関係のある信用可能な住民に分割することで再開発するということは全く新しい意味合いを持っていた。

 膨大な資源を往来させる鉄道は元来、顧客をローゼンヘン工業だけを相手として成立しており、そのついでに乗客や貨物を載せていた。

 設備投資をおこなっても、馬匹の管理や行李の未着遺失管理を考えれば、鉄道の管理運営は二桁マシで、およそ百リーグで馬匹は荷駄の糧秣を食い潰す、という経験則を考えると実は馬匹の管理は鉄道並みの信用に足る関係が必要でもあったから、軍需を支えることを狙ったローゼンヘン工業にとっては、鉄道の設備投資はまったく馬匹馬郎の整備雇用管理と変わらない種類のものであった。

 少なくとも軍都までの北街道の投資は、馬を買って道中で殺し荷を捨てることを考えれば、面倒の分安上がりという判断が立つ金額規模でもあった。街道といったところでせいぜいが一里塚があったり民家があったりという程度が関の山という道で様々な理由で通れなくなることはミョルナの騒ぎでもわかっているし、実を云えば頻繁にあることだった。

 とはいえ、自己目的化と拡大再生産の結果として赤字を垂れ流している鉄道事業は全くの単独では維持の困難な事業で、機関小銃事業が完了したあとは放棄してしまっても別段構わない事業でもあるのだが、今となってはローゼンヘン工業のわかりやすい公共性公益性を示すものでもあったから切り離すことも難しい事業でもある。

 現実問題としてセイジエムル州内と軍都とデカートを結ぶ北街道線以外は鉄道としての採算を維持することは殆ど不可能でもあった。軍需便として共和国軍は利用しているが、資材の搬送から建設維持そして駅運用管理或いは列車整備運行などという様々を経費としてどこかに割りつけるだけの利益を上げている組織は、共和国のどこを探してもローゼンヘン工業以外には存在していないからだ。

 ローゼンヘン工業が鉄道を必要としたのは、軍都デカート間の安定的な往還路としての街道と、事業に必要な各種資源拠点をローゼンヘン館或いはその後の生産拠点につなぐためであって、百万丁の小銃の納品も終わりリザとの結婚がなった今となっては、マジン個人にとっては全くどうでもよいことと云っても良かった。

 利用者負担を求めるにしても共和国全域で見た場合には、利用者の経済感覚はおよそ物々交換よりは多少マシ、という程度であったから受益者負担を本気で望めば利用者は絶無になりかねない。

 今は子供をあやすように人々に便利を貨幣で買えるということを示すことが第一だった。

 鉄道や電灯電話という社会設備を維持している根拠は全く社主個人の文明哲学というものに支えられているのみと云って過言ではなかった。

 それが出来る状況も整っている。

 極めて膨大な既に年に数億グレノルという単位を扱っている鉄道は赤字そのものは出ているが、一方で往来を握っていることで物資の相場や質という街場をうろついても手に入らないものの根拠を容易に手に入れることができ、実際に膨大な消費量と合わせて大きな利益を会社にもたらしている。だがローゼンヘン工業を維持できているそのカラクリの多くは口に出すことが危険な種類のものでもある。

 それは慣例による時間を見た決済と、鉄道と電話による速度差を活かした付加価値によるもので詐欺でも何でもなく拡大再生産を可能にするローゼンヘン工業の実力と広大無辺で文明に行き渡らない共和国の需要が咬み合っている今、あたかも利息を先取りするような効果を得ることで鉄道の赤字を無視するように拡大していたが、その管理にはセントーラ率いる社主秘書室の集中的な資源相場管理と計画採算線を睨んだ計画調整監督があった。

 社主秘書室は全く非合法な手段で連れて来られた、奴隷よりもひどい来歴の者達によって、しかし信用できる形で運営されていた。少なくとも彼女らの現在の扱いは身の上を聞いたものが思うよりは遥かに健全に、おそらくは共和国に暮らす上位五厘の旦那様奥様などと傅かれる身分ある人々の暮らしと大して変わりはなかった。

 セントーラは屋敷から表に出ることは殆どなくなっていたが、電算機が電話回線とは独立した通信網を準備し始めるようになったローゼンヘン工業においては次第に直接的な決算執務の場所については次第にどうでもよい話になり始めていた。

 鉄道基地を経由して集められる各地の相場を眺め、電話で市場に割り込ませ、社主秘書室は損益を調整していた。およそ様々な理由で設備投資が赤字を垂れ流す中で手早く赤字を管理する方策として鉱石や穀物の相場で帳尻を合わせていた。

 両替為替市場の信用がしっかりとしていて流通規模がそこそこ安定しているセウジエムルは、ローゼンヘン工業の短期資産運用によってますます繁栄をしていた。

 およそ単純な街道の切り替えというだけでなく水運整備も街道整備も完備され、旅行者や隊商についても対応がおおらかなセウジエムルは四方に鉄道を伸ばし、海街道と南北街道とをもつなぐ大交差点になりおおせた。共和国で最も整備された鉄道網とおそらく最も密度の高い電話網とが電話や鉄道の敷かれていない地域の情報を汲み上げることで各地の資源相場をつかみ、その中でも大口のローゼンヘン工業が連続的な投資をおこなっていることで各種の中間益や税の形でセウジエムルに莫大な資金を投下していた。

 セウジエムルにローゼンヘン工業の本社はなかったが、巨大なローゼンヘン工業の支社があって、セウジエムルの南側の郊外にその名もベムルローゼンヘンという名の集落ができ、そこに市電の操車場や電話局などの様々な施設を含むローゼンヘン工業の様々が集まった地域がある。

 郊外といっても市電でなら馬でセウジエムルを跨ぐよりも早く往来ができたし、市電は日中なら一時間に十数便、深夜も三便ほどが往来していて深夜はときたま保守工事が入って不定期に運休になる市電だったが、ともかく不便ということはない土地だった。市電があるということは途中で人が拾われ降ろされするわけであったから、セウジエムルの成長の方向がおよそ決まったということで、セウジエムルの新市街が既に伸び始めていて、街に入り込むには少々大きすぎて或いは町中の面倒を避けて野営をする旅人を目当てにしたりする商売や新しい往来を繋ぐ街道がいくつも拠点を作り始めていた。

 デカートとは対照的にセウジエムルは全く華やかに鉄道や電話電灯を受け入れていた。市電によって町中の往来が完備されたセウジエムルでは自動車の工房はあまり多くなかったが、反面電灯をあしらった看板が様々に登場し蛍光管や蛍光膜をつかった看板が人気を博していた。

 夜の風景が変わるおよそそれだけのことではあるが、セウジエムルのような陸の港であれば、ますますにその意味は大きく変わる。特に蛍光膜は昼の光には負けるがかなり明瞭に光る絵を描けるということで、夜の風景特に盛り場の風景を全く変えた。

 セウジエムルの夜の灯に元気づけられ隊商の足はセウジエムルをいよいよ目指すようになっていた。物流基地は年々巨大になり、とうとうキンカイザのトーゴー銀行までがセウジエムルに支店を出した。

 自由な空気を醸すことにかけて恥じるところのない反面、極めて政庁の統制の利いているセウジエムルはそろそろ値崩れの兆候のあった建設資材の相場を背景に一気に街区の整備をおこない、水道とガスを電灯電話と合わせて都市計画に組み込むという大胆な計画を立案していた。実のところ、屎尿の汲み取りは農地の規模が比較的小さなセウジエムルではまちなかの面倒を増やすばかりで下水工事の計画は以前から各方面から求められていたものであったし、上水道に関しては鉄道駅周辺では整備されていて非常に評判の宜しい設備でもあった。下水は郊外の鉄道の敷地を溜池として定期的に汚泥を浚渫野ざらしにしつつ管理されていた。セウジエムルはデカートと違い古い工房もあまり多くなく遺構もなく、入り組んだ面倒も少ないことから、下水道は比較的簡単に運営されていた。

 上下水道と都市ガス整備はセウジエムルではひとつの課税手法として見られていた。直接利用に税金をかけるのではなく、住所地の追跡をおこなうに当たって比較的簡単に設備の改変がおこなえる電話電灯に変わる利用者の追跡手段として上下水道と都市ガスに期待がかけられていた。

 商業制度の進んだセウジエムルにおいて可能なかぎり公正感のある線形の徴税制度はデカートよりも労働の平等感においてよほど重要な意味合いを持っていた。

 往来の増加とそれに伴った取引流通量の増加はセウジエムルに大きな税政上の余裕を作っていて市街の整備と生活環境の設備投資をおこなう機会と捉えられたことで、南街道西部の中心地としてのセウジエムルの意味と価値をより大きなものとした財政上の積極策をローゼンヘン工業のラジルアジフアガル流通計画主任は推奨していた。

 南街道の拠点として生産拠点としては揺らぎないデカートにほど近いセウジエムルの地勢がおよそ重要であることはセウジエムルの誰の目にも明らかで、民生統制と自由闊達の協和が商業往来の基礎であることを承知しているセウジエムルでは、建築資材の陳腐化に伴う値崩れを契機に都市設備の増改築と内需の回転を積極的におこなうことで、定住民の収入の底支えをおこない、街の資産価値の拡大に成功していた。

 セウジエムルでは事実上無産階級という社会参画をできない人々は文字通りの流民としての一時滞在者を除いていなくなった。

 別段、社会的に排除した動きがあったわけではない。

 また、無産階級をいわば季節的な調整槽として扱う動きがあったわけではない。

 社会設備の拡大のための労働力としてあちこちの定収を伴った職業に組み込まれることで、最低限の社会的な接続をおこなうことになったということだ。

 将来を睨んだ計画としてはエンドアの捕虜収容所においても上下水道の問題は明確に存在していて、実はそれはセウジエムルやデカートよりも遥かに深刻でもあった。



 住みやすい土地ではないものの命を拒む土地というわけではないはずのエンドア大樹海が何故千年にもわたって人の手を受け付けなかったか、という面倒の多さを改めて基礎投資の経費として明らかにしつつエンドアの開拓事業はエンドア開拓事業団の正式な成立をまたないままに推し進められていた。

 経費としてわかりやすい、ヴィンゼの土を入れるということと土地の水を抜くという作業は、エンドアの開拓にとって欠かすことのできない重大な意味がある作業だった。

 エンドアには雨季というものはおよそない年中極めて高温多湿の環境である。

 だが季節感がないわけではない。

 猛烈な通り雨がありその頻度はおよそ年間を通じて一定なのだが、雪解けの時期になると地下水脈が上昇する。そしておよそふたつき生乾きの泥沼にエンドアの地は沈む。それを免れる方法はおよそ十五キュビットも土地の周りに溝を掘り土地の水を抜き干すこと。もちろん実際にはそうやったところで辺りから押し寄せて来る水を避けられるという意味しかない。大事なのは細かく土地を切り耕して土地の水分を調整することだった。

 エンドアの土地に水源そのものはあちこちにあったが、およそ微生物に汚染されていて、伏流水といえども油断はできなかった。浄水の化学的対処は比較的簡単で第四堰堤で使うつもりの浄水装置と組み合わせれば別段大した手間ではないわけだが、下水の処理は相応に準備も必要な作業だった。百万人からの糞便の始末はおよそ毎日数千グレノルの汚穢となる。木の根と落ち葉でグズグズの沼地を支えているような土地であるエンドアの土地は、放っておけば上水に使っている水源まで汚染してしまうわけで適切に流れを切り分けて汚穢を干してやる必要がある。

 一般的な土地では灌漑といえば水を土地に与えることだったが、エンドアに限って云えばまるで逆だった。あまりに巨大な森林と入り組んだ植生を支えていたものは、低緯度帯の強烈な日光だけではなく、低地に流れ込む広大な衝立山脈の雪解けとどういう風に流れているのか全く見当もつかない膨大な規模の量の伏流水だった。小型の山羊のたぐいが樹上生活に馴染んだ形に進化した以外はわかりやすい草食獣の類は姿を見せず、共和国ではどこでも姿を見かける野ブタや鹿の類もエンドアでは姿を見かけない。大型の肉食動物と云えば子鹿のような大きさの山猫がいくらかと雑食性のヒヒやサルの仲間、あとは水たまりに住まう何でも口にする爬虫類両生類魚類などの生き物たちというところになる。

 幸い幾らかの土地は既に農地向きに水抜きが進んでいて、計画性があれば日に数千グレノルという汚泥の量も処理の目処が立たないわけではない。

 ヴィンゼの土を持ち込んでいるようにエンドアの水や土をあちこちに持ち出すことは鉄道の力を持ってすればそう難しいことではなかったし、山を超えてワイルの周辺の緑化を試みたりもしている。

 エンドアから持ち出せるものはあまり多いわけではないが、貨車に樹脂製の柔軟水槽を積み込めば水を持ち出すことはそれほど難しいわけではなく、共和国の土地の全てで水が余っているわけではない。ワイルの駅前の池は全くオアシスというわけではなかったが、日々少なくない水を持ち込むことでそれなりに大きさになっていた。

 燃料も製材所の廃材やそうでなくとも土地を掘り起こした時の切り株や根っこ或いは下生えや蔦など燃やすべきものはいくらでもあって、二段燃焼炉を使わないと大方燃えないようなものばかりでもあるものの、燃料にならないというわけでもない。

 そういう土地に機械と科学の力で人類の拠点を築くのだ、という事業は云うほどのことはない、実に容易いことだ、と巨人の城門と云っても信じられそうな第四堰堤の工事をなした帝国出身の労務者たちには思われていたが、彼らをして全く油断ならぬ土地と認識されるようになっていた。それでもようやく水を抜き土を入れ替えた効果が出てきて、落ち着いて農地を整える算段がついてきたところだった。

 身も蓋もない言い方をすればローゼンヘン工業はこの後に来る捕虜からの労務者たちの労働成果についてはあまり期待していなかった。

 より正確に云えば期待できるほどの根拠をローゼンヘン工業では準備出来ていなかったし、無駄に死んだり揉めたりしないでくれればそれで宜しい、という程度に考えていた。

 エンドアの風土について理解が深まるに連れて、ローゼンヘン工業医療部はこの地が共和国で見つかるだろうほとんどすべての病の根源を抱えているのではないかと考えるようになっていた。

 命としてどうでも宜しいというわけでないというところが関の山で毎日十人ほど年に数千という数で起きている風土病については、膨大な種類の化学剤や抗生物質が送られていた。実のところ、それらはローゼンヘン工業医療部においては命をかけた富くじのようなモノであると考えられていた。風土病でハズレを引いた者たちを対象に富くじの当たりを見つけるべく、医療研究所では日夜およそ二十万匹のネズミとウサギを使って試験がおこなわれていた。

 種痘人痘という抗体反応についての理解が、エンドアの風土病に対して幾らか抵抗の違いのある人々の調査を進めた結果、生まれや育ちの土地について幾らかの傾向というものが探られるようになり、幾らかの人々が持っている血清抗体が幾つかの風土病には有効であるらしいとわかった。

 とはいえ、ある人々の血が薬になるからといって、彼らの血を絞りとるわけにもゆかなかった。

 それはそれで重要な示唆であるとしても、病原体を撃滅するか出来なくとも弱らせる方法が必要だった。

 そういうひとつが化学剤治療だった。

 化学剤治療の基本の考え方は特定細胞内小器官の染色にある。

 ほとんどすべての色素はタンパク質や糖或いは脂肪酸や核酸といった生物の根幹的な分子構造に吸い付くようにして色を定着させるというメカニズムは理解されていた。またその一部がかなり複雑な特定構造を狙うように定着するということは知られていた。

 特定細胞の特定構造に張り付くということは、それを発展させるとある種の微生物やある種の毒素を染め上げる色素があり、そういう色素が或いは色素ではなく微生物を撃滅する毒素或いは毒素を無効化する薬物であれば、人体にとっては薬として機能する、かもしれない。

 かもしれないというところが実に重要なところで、全くのデタラメと変わらない化学的な順列組み合わせを一から順に埋めるような手法で、電算機の支援を受けて化学剤を既に毎年二千程通算でおよそ二万ほども製造していた。数が合わないのは社主が電算機の利用を始めた頃に数千の化学剤を設計生産し、そのうち幾つかを臨床試験をおこなわないままに殆ど勘に頼った決め打ちで治療に使ったからでもある。毎年二千というまるで意味のない、或いは毒になるかもしれない化学剤を研究所では試験をしている。

 抗生物質の考え方は全く別で菌類或いは地衣類などの微生物や植物がコロニーを形成するにあたって競合する生物を排除する成分を出している、という仮説に基づいている。

 それは樹木の下草が日差しの印象以上に抑圧されていることから、一部の植物種は栄養環境上競合する植物種を排除する成分を出しているのではないか、という仮説にもとづいている。また人の涙や鼻水唾液からも細菌を殺す成分が含まれていることも発見された。結果として仮説の正否はともかくとして抗生物質を含むと疑われるおよそ十二万株の微生物が培養され、そのうち三十株ほどは実際に有用な効果を持つと認められた。

 およそ四千分の一という確率であるわけだが、最初はおよそ三十分の一だった。

 ローゼンヘン館の台所にあったカビたパンや傷んだ野菜から採取された七十ほどの菌株からふたつの抗生物質が発見されたことがすべての始まりだった。

 その後はカビを如何に効率的に発生させるかという試みが続いた。

 廃蜜の上にシャーレの上で分別され増やされた種カビを蒔き酸素を吹き込み酒を作るように発酵させ抗生物質と思しきモノを単離した。

 そうやって作られた新薬は様々な外科手術や病気にかなり有効に作用していた。

 一部のカビは完全に殺せたかどうか怪しいところであったが、粉糖に紛れさせて使ううちに枯れさせられる、とかなり乱暴な方法で経口投薬或いは患部傷口に直接投薬された。

 成果としてはなかなか上々で実用して数年が経つが怪しげなカビが元と思われる病気は起こっていない。

 だがエンドアの風土病にはそれだけでは不十分だった。

 改めて、なにがこの地の風土病の病原菌にきくのか、そもそも病原菌は何なのか、という問題に挑戦するために開拓事業の負傷疾病の治療以外にローゼンヘン工業医療部は千人ほどの研究者を常駐させて研究をおこなっていた。

 ある程度、新薬の生産の目処が安定すれば、染料と同じような、酒と同じような金額と時間に幾らか余計な設備を準備して、奇跡的な治療薬が販売できることになるわけで、今のところローゼンヘン工業の内部と軍都の療養院で臨床試験が進められているが、痒みや軽度の炎症という副作用はあるものの致命的な麻痺や死亡に繋がる事件には至っていない。尤も新薬による臨床試験をおこなうということはそれなりに重症の患者が多いわけで、必ずしも全員が回復したというわけでもない。一九良くて二八という本人の体力次第、という患者が四分六或いは五分五分で生き延びたというところで、実態として薬がどれほど効果があったのかはわかりにくいところだが、ローゼンヘン館での治療では外科手術後の感染症などが起こっていないことから、十分に効果を実感している。

 麻酔の継続的な利用による指や四肢の切断や全身やけどというこれまででは回復不能の手術も実施成功例があった。

 とは云え、風土病の全てが同じ細菌同じ原因というわけではないということをエンドアの地は示していて、まずは疾病の原因の追及からというところが事の始まりだったが、どうやら幾つかの水棲原虫か水棲粘菌か或いは藻類かが原因ではないかとわかってはきた。感染症の経路としては微生物で汚染された水を経由して傷口や粘膜など鼻や口或いは肛門や性器といったところから入り込む。多くの場合は炎症や発熱というところで体組織の剥離とともに排泄或いは体内で炎症を伴い膿疱としてやはり排泄されるわけだが、大きい血管に乗ると重症化する、フィラリアやマラリアのようなメカニズムであるだろうと推測されていた。この森の山羊やネコのたぐいが殆ど水を飲まないのは、水を飲むものは早く死ぬからということであるらしい。代わりに山猫のたぐいはこの森ではウリとアケビの中間のような高い木に絡む蔦の木の実を好む。

 ともかくも大雑把な原因はわかってきたものの、実際の治療薬という意味ではまだ具体的にどうという対処があるわけではなく、人痘を極低温殺菌したものを接種してみるというのが比較的無難な対処で今のところは暗中模索というところであった。

 もちろんそういう状況は労務者には逐次情報公開されていて、細かな傷の治療を含む健康管理面での協力を徹底するように指導監督がおこなわれていた。

 既に現地に入っているケヴェビッチも三回の種痘接種でおよそ三週間の発熱があり、先が思いやられる様子ではあったが、ともかく血液検査を含む健康診断で問題ないことが確認されて、医師を含む六百名で早速、収監事業所内を巡回して回っていた。

 人員の体力回復の確認とその後の訓練を兼ねての巡回であるわけだが、およそ労務者の性質上、ケヴェビッチとは幾度か顔を合わせている者もおり、調整の結果、合わせて七千名ほどが常住することになったために、今からの緊張は却って危険と全体に探り合いではあるものの、互いにリラックスを心がけた穏やかな雰囲気で状況のやり取りがおこなわれた。

 ケヴェビッチとしては巡回に女性と医者を同行させることで女子供が含まれる捕虜の問題を早期に対処する意思があることを労務者たちに周知を望み、面倒の少ないままに労務と収監を進め、捕虜に戦時下を無難に過ごしてもらいたい、ということを巡回先で繰り返した。

 上官殺しの共謀と脱走というケヴェビッチ自身の前歴を考えれば、自分が殺される側にはあまり成りたくないわけで、殺される方が悪いと思っていた上官の様子を思えば、最低限の対話と掌握の努力と状況の確認、自らの立場の明示くらいはおこなうつもりでいた。



 ケヴェビッチという男はもちろん人格円満と云うには程遠い人物であったし、考えのすべてを他人に伝えられるほど能弁な男でもなかったが、一方で四十をとうに過ぎた男らしくそれなりの折り合いの付け方も知っていたから、自分の望まれている仕事の内容と目的がどういう形を取れば、自分の手間が少ないかという理想形を描くことぐらいは容易にできた。

 収容所長を自分の下にしてくれ、という希望がケヴェビッチの組織上の希望だった。ナセームという収容所長はケヴェビッチとはあまり相性の良いタイプではなさそうに見えた。 ナセームラントンは共和国軍の退役中佐で部隊幕僚の経験豊富な人物だった。軍務経験のないマジンには彼の軍務経歴の意味するところは殆どわからなかったが、およそ才気にあふれた前線幕僚で、しかし長とつく役職に就いたことのない人物でもある。

 とはいえ、中佐ともなればそれなりに人の差配にも慣れているはず、とエンドア樹海労務所長を任せていた。今のところ彼の実績に問題があるように見受けられない。

「ケヴェビッチ。理由はあるのか。単に威張りたいだけじゃないだろうな」

 現状、事務局長の下に二人並んでぶら下がっている状態を一本にしたいというケヴェビッチの意見は意味が無いわけではないが、一方でケヴェビッチの能力に問題があれば面倒にもなる。

「向こうのほうがテカが多いのに、こっちが監査をするっていう立場なんですよ。そりゃ、抵抗されたら無理ってことになるでしょ」

「所長はそういうわかりやすい反抗をする男じゃないだろう。本当のところは、なんだ」

 ケヴェビッチの仮定の話に胡散臭さを感じたマジンが尋ねた。

「え、あの、だいたい本当のところなんスけど。……んあ、なんつうか、ああいう指折り勘定してからじゃないと動かないような御仁は、保安官には向いてねぇっつうか。まぁ判事とかには良いんでしょうが、今回は吊るすのが目的ってわけじゃないんでしょうからまぁ。そういった感じで、アレですが」

「そりゃ良いが、お前、三千からの兵隊をまともに使えるんだろうな。脱柵を樹海に散らしても構わんとは言ったが、百万の捕虜を扱うとなると、どうしてもそのうち五六千の兵隊を扱うことになるぞ。無線機を全員分よこせとお前は言ったが、数百の隊伍ってだけで相当なことになる」

「むぅ」

 自分で百万を相手にどれだけできるか考えてケヴェビッチは唸った。彼が看守にあたった一二万の労務者はおよその意味で第四堰堤という工事に向けて選抜された者達であったが、今度の捕虜収容事業では選抜という作業をも、おおまかに云ってケヴェビッチの分担の一部になる。

 人選作業そのものは別の者の担当だが、その監督をおこなうのは事務局であり、所長であるナセームの職掌ということになる。

 その上に立つとなれば、すべてがケヴェビッチの責任になる。

 ケヴェビッチ自身、特務士官として実戦を含む軍務経験はあったが正規の幕僚教育も中隊以上の部隊長の経験もない。千人を超える組織はそれなりの運営をおこなう必要があるくらいは彼自身も理解していた。

「例えば三万とか五万とか人員を割ければ随分話も変わったのだろうが――結局、人員を大きくさけない――現状では看守は帝国の労務者を含めて三千五百お前のテカを加えてようやく四千だ、というところが問題でナセーム所長の手腕に期待するというところが大きい。全部の人員を足してそこに駅舎や事務局や医療研究所の人員を加えてもやっと七千だ。まぁ、必要に応じて増やすつもり、はつもりとしても当面はソレっぱかりで立ち上げて、増やすつもりでいるが、一万は超えても三万にはできない。病気と怪我については一応の努力をしてはいるが、ぶっちゃけ事件を事前に潰すことはどうあっても難しい。とくに脱柵については見せしめも已む無しかなと諦めている。まぁはっきりしていることとして脱柵した連中は帰ってくる時までに病気を拾ってくるだろうってところだ。

 実はボクもナセーム所長は苦手なタイプだ。なんというか、ギリギリまで動かないトカゲかヘビみたいな感じで、だが頭も動きも鈍くないし、むしろ鋭いタイプだ。獲物を待ち構えているようで、そういうところがボクは苦手だが、人員が少ない以上、人選としては悪くないと思っている」

「つまり、中のことは所長に任せろってことですか」

 不満というより投げやりな態度でケヴェビッチが口答えめいて尋ねた。

「そこまでは云っていない。お前はお前で好きにやれ。所長は単に事業団の人員だが、お前はうちの執事でもある。そういうのを笠に着るとナセーム所長の顔を潰すことになるが、非常装置に手をかける立場という程度に考えてくれると、ボクとしてはロゼッタを預けやすくなる」

「いざとなったら、テカを増やしてくれるとか、戦車回してくれるとか、そういうことですか」

 言質を焦るようにケヴェビッチは尋ねた。

「間に合うか、手が打てるか、は別にして、お前とロゼッタはボクの紐付だ。ってことはお前たちが紐を引っ張ればボクも動くってことだ。必要があるというなら説明をくれればアリモノを回すことは難しくない。事業団の中のことはロゼッタには先ず云え。絶対に必要だということであれば、そこに手をかけながらでもロゼッタには伝えろ。その上で必要なら医者でも戦車でも応援に回してやる」

 ようやくケヴェビッチは薄笑いを浮かべる気になった。

「そりゃ頼もしい」

「戦車がいるような事態になってしまうと、いよいよすべてが終わりだが、まぁ問題のある捕虜をどこかに引っこ抜くくらいはしてやるよ」

 マジンにはケヴェビッチが実際のところ何を疑っているのか全く理解が及ばなかったが、ともかく現状ナセーム所長は実績として無難な所内の運営をしていて聞き取りにおいても、不穏は感じなかった。

 強いてあげれば、備品消耗品の予算消化があまりに計画通りで、なにか額面操作をおこなっているのではないか、という疑いもあったが、額面操作がおこなえるくらいに兵站業務に精通している将校は確かに予想される危険もあるものの、いままさに現場整備に必要な種類の人材でもあり、問題が起こっていない現状において予め排除するべき種類の懸念材料でもなかった。

 ナセーム所長はあまりに軍務官僚で有りすぎて、言質を与えない本心を見透かせない人柄であったから、体良く云っても現場指揮官の一人であるケヴェビッチや目端の利く素人風情のマジンでは胸襟開くという関係は難しそうだった。およそのマジンのこれまでとしてこの手の細かな追跡追及はセントーラに丸投げにしていた部分があって、或いは今回はロゼッタに期待するところが大きかった。

 ケヴェビッチも千二千の戦力で百万の暴動を抑えることが出来ない、という理解があれば暴動を起こさない起こさせないことこそが重要であるということはおよそ理解してできるはずで、ケヴェビッチ自身が人員数千人の部隊を預かりたいというわけではないことを確認すれば、単に手元の人員の数が少なすぎることに不安を感じ始めたのだろうと考えるしかなかった。

 ケヴェビッチはせいぜい数百から頑張って千人の自分の目耳で聞こえ見える範囲の状況を扱う種類の人間だったから、すでに書類で戦うことに慣れているナセーム所長とは勝負にならなかった。

 マジンの内部でケヴェビッチとナセーム所長の役割は期待されるところが全く異なっていた。

 ともあれ、エンドア開拓事業団は暦の上で初夏、土地としては雪解けの水が地下水を押し上げる泥濘の時期に、その事業運営の開始を高らかに宣言した。

 そして一日十万人の捕虜を二日にわたって受け入れた。

 それは捕虜たちにとっては目を疑うような風景の変化であれよあれよというまに別天地に送り込まれた、住み慣れた故郷を追われてリザール城塞にたどり着いた時も驚いたが、それ以上の急展開だった。列車は必ずしも眠れないほどに環境が悪いわけではなかったが、一編成で一万人を収容する、ハンモックが用意してあっても貨車一つに百人をつめ込むような環境が過ごしやすいというわけでもなかった。

 気候も風景もこれまでの土地とは全く異なるということだけ圧倒的な空気感で理解を迫るエンドア樹海にポッカリと空いた捕虜収容所は既に七万戸が用意されてはいたが、これを十五万戸まで増やすことが年内の捕虜に期待された労務だった。

 最初の二日に二十万人が送られただけではなかった。

 とは云え、事態は性急だった。労務者たちは互いに状況がつかめないまま、十日目にいきなり周囲に鉄条網と空堀が出来上がり、区画が切り分けられた。

 そして労務者の募集が十日ごとに一万人という制限枠で設けられることになった。

 その後は毎日およそ五千人が脈々と送り届けられていた。

 ペイテルとアタンズにいた捕虜、およそ五十二万人のうち四十六万人がエンドア樹海に送られることになった。

 当初の三十万という話をどこかに置き忘れたような数字にロゼッタはマジンと顔を合わすたびに文句ばかり言っていたが、物流の手配を整えひとまず四十六万人が飢えずに生活を営み八万戸ほどの住宅建設に足りる資材の準備を整えた。

 今回の収容所運営は様々に努力が払われていた。

 最終的にこの地は捕虜労務者の幾割かにとっての第二の故郷になるはずの土地だった。少なくともマジンはそう考えていたし、実際に帝国がまともな捕虜送還への交渉努力をする気がなければそうなる。

 この地を彼らに与えるとして適切な値をつける必要があった。

 成り行きで引き受けた荒れ野とは違い、最初からそのつもりでおこなっている事業であったからそれなりの手順が踏まれることになったが、おおよそ早い遅い或いは犠牲の多い少ないまたは経費の高い少ないなど幾らかの候補があって、ロゼッタは結局手早く犠牲を抑えつつ経費を明確にする方法を選んだ。

 結果として収容所の周辺は空堀と鉄条網鉄柵でかこまれた。協力的な捕虜を三千名選抜しもともとの労務者と共同で街を作った。

 捕虜の多くは戦地で受けた絶望的な衝撃から立ち直れないまま、先行きの不安から労働意欲をなくしている者たちが多かったから、ムチの音で耳目を引いてある程度アメの先渡しをする必要もあった。

 収容所の住宅は四人で住むには余裕があるが、七人で住むには少々狭く、雨はしのげるが汗の匂いが暑苦しいという規模と作りだった。それでもペイテルやアタンズの収容所の施設に比べるとまだマシと言えた。ペイテルやアタンズの収容所は食料の手当はそこそこだったが冬場の燃料配給はかなり薄く、互いの体温で暖を取らないと命にかかわるような時期が年に幾度もあった。

 エンドアの土地は多湿熱帯で基本的に寒さに凍えるということはない土地だった。体温を超える気温というのは日陰であればそれほどにはなかったが、一旦水を干した土地では日中は頭の上に鍋をおいたような状態になり、労務でも何でも森の湿気との二択になる。

 朝日には切り妻から湯気が上がっているのが見えるような状態で、辺りの湿気がともかく落ち着き先を求め、ときたま猛烈な雨が降る。雨の激しささえなければ露天で過ごしても問題ない土地ではあったが、水抜きを半年ほどしただけでは土地の湿気もなかなかで水はけも良いというわけではない。

 とは云え、ヴィンゼの土を入れるようにしてからは猛烈な勢いで草木が吹き出すように生い茂るということはなくなっていて、先行して労務をおこなっていた労務者たちにしてみれば内心感謝をせがみたいほどの気分ではあったが、ともかく、住宅の数を増やさないと洗濯物を軒に干すこともできない有様だったから、住宅を建てる労務から、始まることになった。

 戦線後方拠点に収容されていた捕虜はおよそ一様に労務意欲が削がれていて、帝国出身の労務者にとっては自分の身にも覚えのあることではあったが、だからといっていつまでも腐ってもらっていては困るところだった。

 様々に納得できていないのはお互い様だったが、ともかく先行している分、気持ちの切り替えも終わっている労務者たちにはエンドアの土地を自分たちの農地にする覚悟が定まりつつあったし、自分たちが納得した話の筋によれば、送られてきた同胞たちも粗方は同じような未来が待っていた。

 寒い土地と暑い土地とどっちが良いかという問題は、農地が手に入るなら暑い土地のほうがおよそ面倒は少ないだろうと帝国の開拓者たちは思っていたし、これだけむやみに草木が生い茂るような土地であれば、弾みさえ付けば良い農地になるだろうと楽観していた。

 戦争の成り行きで不満を持っている同胞をうまく宥めすかして、ここに国を作るつもりでいる者達は労務者たちには多かった。

 労務者たちの多くはおよそ自分の国というものに想像の至らない者たちが多かったが、そうは言ってもいくらかはそれなりに高等な管理職にいたものもおり、いまは捕虜として開拓者の中に紛れてはいたが、革命の志を持って国で立った者もごく僅かにいた。

 帝国の仕置を命冥加に切り抜けた者達の幾らかはそれぞれにこの状況を活かすべく、どうするべきかを様々に考えていたし、百人には足らないながら虜囚生活の中で同志やシンパを作ることに成功した者たちもいる。共和国軍は抵抗や反抗さえしなければ、個々の捕虜についての身上を追うほどに捕虜について興味があったわけではないから、房の中で人死が出るような状況になければ、房の中のことはおよそほったらかしだった。

 数十万という人間を管理することは共和国軍にとっては不可能事だったし、帝国についても一緒だった。

 ローゼンヘン工業でもそれはおよそ変わらない。


 強いてあげればローゼンヘン工業はややゴツい足輪と腕輪を付けて捕虜を管理していた。

 労務者も全員がつけていた。

 機能は大雑把にふたつで身分証明と所在証明の機能を持っている。

 腕輪の方は電波を受信して腕輪の番号を報告するだけの機能を持っている。

 足輪の方は電波を受信できなくなると定期的に電波を出し始める。

 どちらも基本的には労務者の身分や労務口座番号を記録していて、エンドアの土地の中で行方不明になった後に見つかったとしてその身分を証だてるものだった。

 連続的に開拓中のエンドアの土地は故意に関わらず境界が様々に怪しげな土地で、積極的な脱柵ならずとも半日から二日程度の短期的な行方不明は頻発していた。

 作業班から離れ一人用便をしたり昼寝をしたりしている間に気が付かないまま、作業班が移動を開始し見失うというパターンが多い。作業班の移動は事前の計画もありその計画も作業班全員に通達されてはいたが、色々な理由でパニックに陥るとそもそも一旦自分で潜った森のどちらの明るい方から来たのかさえわからなくなる。エンドアは濃い密林ではあったが何かの拍子で僅かに森が裂けているところがないというわけではない。そしてそれはそれは小さくともかなりの数存在している。

 実のところほんの十数チャージの範囲で或いはほんの一チャージの範囲で迷子になることは多く、地形に突然の起伏などがあると僅かな距離で互いにゆき会えないまま日没にいたり諦めるということはしばしばあった。

 労務管理に関する真剣さ責任が不足している、と中級管理官は苛立って怒鳴って見せればことは足りるわけだが、下級管理官としては現場で顔を合わせることの多い、そして人数で圧倒的に多い捕虜を過剰に逆撫でする気にはなれなかったし、上級管理官としてはやはり、長期計画の上で不穏材料を減らす方策について検討する必要があった。

 そしてなにより、このあと百万を超える捕虜のいちいちを看守が覚えることはどうあっても不可能だった。

 看守一人頭で三十を超える捕虜を或いは現場としては百を越えようか、という人数をまとめることは到底不可能事でもあったから、看守と捕虜という塀の内側外側という立場でまとめることは難しかった。武器や棒での暴力の優勢を日常の秩序の根拠に扱えるのは三十がおよその上限で、実際の上では十倍を超えればおよそうまくゆかない。

 エンドアの捕虜収容施設には設備上細かく区画を隔てる仕切りは存在しない。

 恐怖政治の基本は擬似的な同盟関係だが、恐怖政治による秩序は支配者が譲るかもしれないという期待の幻想があって成り立つことで、最初から立場に明確な差があれば単にそれは暴力を行使し続ける外はなくなる。

 現実問題としてたかだか百万の裸の人間を殺すこと自体はマジンにとっては既に様々に手段があって、ナセーム所長やケヴェビッチが本当に打つ手がなくなり、エンドア開拓事業団が完全な破談となれば、収容者をことごとく鏖殺するという事も考えてはいた。別段そうするために数万も数千も兵隊はいらなかったから、単に収容者を殺すということであれば、何者かをわざわざ役職に招く必要はない。

 後先を考えないのならば、シラミを駆除するのにいちいち潰さずとも煙でいぶしてしまえばよいのと同じように、ヒトにもそれに似合った手軽な殺し方はいくらでもある。

 エンドア開拓事業団の望みは、そのように無体な差配を必要としないままに人々を落ち着かせ、あわよくば彼らの望みとしてエンドアの開拓に当たらせることにある。

 ナセーム所長には事務局長として着任した女性――ワーズワス女史を紹介する際に社主であるゲリエ卿が自ら最初にそう告げた。

 共和国軍での自身の軍歴に相応の誇りを持つナセーム所長としては反発の出る言い分だったが、一方で冷静な参謀としての彼は新任の将軍がよくやる方法だとも思った。

 部下掌握術としては必ずしも上等とはいえないのだが、最低限の絵を将軍本人が描いたところで幕僚長に全てを任せて部隊の練成をみるというのは、派閥を持たないままに単身既存の師団の後任司令官に着任した将軍にはよくあることで、手元の予備部隊の指揮は将軍本人が握ったまま独自に動かしつつ、元からいる組織の動きに任せるというのは一定の合理性を持っているし、予備が予備であることの印象も強くする。

 エンドア開拓事業団がローゼンヘン工業とは別会計組織として立ち上がったことと、その経緯は既にナセーム所長は承知していて、横滑りも同然に組織が拡大していたことは会社本体からのナセーム自身の評価と理解していた。当然にその決定を決裁した本人がこの場にいるところを見れば、ナセーム自身の実績に疑いを持っているとはあまり考えにくい。

 そこには自信もあった。

 ナセーム自身は特段軍功目立った将校というわけではなく面白みがある人物というわけでもなかったが、しかし一方で部下や同僚から後ろ指を指されるような人物ではなく、人々の機微に疎いというわけでもなかった。戦傷で走ることが出来ない体になったことがローゼンヘン工業への入社を考えさせる経緯になったことにはつながっていたが、軍人としてなにかが問題があったというわけではない。

 中佐で戦傷を受け、大佐になりそこなったということはナセームが将軍と呼ばれるには戦死くらいしかキャリアとしてはありえない年齢になっていたし、そういう組織よりは事実上の聯隊長旅団長としてのポストが与えられた現状はおもしろみも感じていた。

 ローゼンヘン工業は自動車の数で困るところがなかったから、多少足が不自由であっても後方勤務で面倒が問題になるわけではない。アクセサリーと云うには悪趣味ではあるが、戦傷兵が義手義足を戦歴のひけらかしに使える程度にはローゼンヘン工業の福利厚生は整っていて、エンドア開拓事業団にかかわらず、両手両足を失ったような者も警備部の主計科にはいたりして、ローゼンヘン工業のあちこちのポストに傷病兵は配置されていた。

 およそ数字の計算ができ読み書きができる人材であれば、ローゼンヘン工業は採用していたし、軍歴という意味で身元がある軍人は学問所や工房上がりの徒弟よりもよほどはっきりと適性の予想ができたから、ローゼンヘン工業はかなり強力に退役軍人の応募に応じていた。

 とは云え一年目はナセーム退役中佐としては大いに悩むような状況でもあった。工具の基本や自動車運転や会計帳簿或いは時刻表の読み方、というある意味で会社の基本はさておき、算数や手紙の読み書きを教わることになるとは思ってもいなかったし、福利厚生はなかなかに素晴らしかったが、一年目の俸給は何の間違いかと思うような金額だった。

 役職配置のある二年目からは俸給も世間並みになったが、二三人私的な部下を雇えるような共和国軍中佐の給与水準からするとまだだいぶ少ない。とは云え、社宅や鉄道自動車或いは馴染みの病院というものがひとまずそろっていて、社員の子供の病気を無料でみてくれるとあれば、多少給与が悪くともナセーム家で誰かがローゼンヘン工業に不満があるというほどに文句があるわけでもなかった。

 社宅も妻と子供三人の家族五人で暮らすには十分な大きさと広さを持っていて、上下水道や電灯電話が備わっていて風呂や洗濯が好きにできる家が無料で官舎とあてがわれたとあれば文句の言いようもなかった。

 部下の代わりに自動車という風に考えれば、給与が上がったとも考えられる。

 とはいえ、警備部に配置される現場向きの人員の大方に自動車は与えられていた。

 およそ、人員の流動の激しい部署でもあったから日常的に自動車の運転に慣れている必要があって、自家用車は一種の教材のような扱いでもあった。

 ナセームは人生の明るい面で暗い面を照らすことのできるくらいには現実的な人物であったから、エンドア開拓事業団が大規模な捕虜収容施設であるという事実と、百万を超えるの捕虜を様々に含めても一万人には足りないだろう一個聯隊ほどの人員で支えなければならない、という事実についての問題や危険は十分に承知していたが、一方で巨大な規模の捕虜たちが決して一枚岩ではなく既に幾らかの派閥があり、強力な派閥のひとつは永住を前提に協力する姿勢を示していることも承知していた。

 必要があればシラミを殺すようにヒトが殺せる、という理事長の言い方は少々癇に障る物言いではあったが、最悪ナセームたちが致命的な失敗をしたとして共和国を揺るがすような事態にはならない、ということであれば、随分と気楽な話でもあった。

 予備を予備としてあるいは提灯としてひけらかしてケヴェビッチを所内に入れたのも、必要に応じて応援をする気はあるということであれば、いまナセームが飛びついてあれこれ云うよりは、これまでと同じように収容所内の労務者たちに計画と資材を示し成果を明らかに告げることがナセーム所長の仕事であった。

 エンドアでも始まった捕虜収容所での毎月三万人の労務募集枠は街がそれらしい形になっても購買が機能を始めても殆ど埋まらなかったが、ペイテルからの収容者たちの受け入れが次第に増えてくるとある時点で受け入れの募集枠は急増し、最終的に十日に一回の面接は希望者が列をなす状態になった。



 エンドアの街は実のところ労務者のための街だった。

 外界からはおよそ切り離されていたが、労働に応じた物資は供給され最低限の食料は配給がおこなわれていたから、ただ生きるだけなら配給の食料でダラダラと過ごせたが、労務参加の意欲に欠けると見られれば監督が付き十日の判定で不適合となると最初の何もない檻の中に戻される。十日で一万というのは戦場後方の拠点にある捕虜収容所から送られてくる人々と大差ない状態に落ち着いてはいたが、つまり一年ほどは檻の中から出られない計算でもあって、一旦は人間らしい暮らしに戻れたとホッとした者達にとっては、再びつながれることの苦しみを思い出す日々でもあった。

 エンドアの収容所事業は予定通り収益という意味では全くの大赤字だった。

 接続先のない鉄道、孤立した社会そして膨大な人口。更にその生存を保証する努力。

 巨大な赤ん坊を抱えた寡婦の苦労、というところだ。

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