破:戸惑いの中で

 広大な聖堂内には百人以上の一般人がいるのにもかかわず、聖堂内は水を打ったように静かだった。

 全員、聖堂の奥にある十字架に祈りを捧げている。気味が悪いほど黙々と、だ。

 手癖の悪い男が扉を派手に壊したというのに、まるでこちらに気づいていないようだった。

 ――何が、起きてるの?

 不安になっているアンナを余所に、ギードは聖堂内をぐるりと見回した後、眉間にしわを寄せた。

「いねぇな……」

「そうですね。ん……何か臭いませんか?」

 スンスンと聖堂内に立ちこめる臭いを嗅ぐ。

鼻から一直線に脳を突き刺すような臭い。どこかで嗅いだことのあるような気がしたが、どうも思い出せなかった。

「あぁ? 俺じゃねぇぞ」

「いえ、そういうわけではなくて……」

 ギードの反応に困っていると、

「センセー!」

 不意にアンナの胸に二人の少女が飛び込んできた。

「ジネット、マルティナ。無事だったんですね」

「うん! でも、外は大丈夫だったの?」

 ジネットは満面の笑みを浮かべ、問いかけた。

「いえ。外には、まだ悪魔がいます。ここももう安全ではありません。機を見て港の方に移動しましょう」

「はい、わかりました」

 マルティナが二つ返事をする。

 胸に引っかかりを覚えた。

 こんな状況だというのに、マルティナの表情は和やかであった。

 その表情を見るだけで、まるで別人と話しているような感覚に陥る。

「おい、おめぇら、ルシアの友達だよな。ルシアはどこにいるんだ?」

「ルシア? さあ? 知らない」

 耳を疑いたくなる言葉が、ジネットの口から出てきた。

「知らねぇって、おめぇ――」

「だって、知らないんだもん。ね、マルティ?」

「えぇ、私達はルシアのことなんて知らないわ」

「そういえば、ルシアって、どこに行ったんだろうね」

「あの子のことだから、きっとそこらへんでお昼寝でもしてるわよ」

 まるでルシアが迷子になっただけのように、二人は話している。

 その会話には、一切の現実味がない。いつのまにか、夢の中にでも入り込んでしまったようだ。

 ――夢?

「まさか……この臭い! ギードさん! 聖堂から出ましょう!」

「あ? どうしたんだよ?」

「薬品の臭いです! 催眠効果の薬品が散布されてます!」

 錬金術師が調合した薬品で、もっともスタンダードなものだ。この薬品を吸引した者は、一時的に意識を失い、他人の思うように操られる。調合が簡単ではあるが、薬が効くまでの時間がかかり、使用条件も難しい。

「英国の野郎……ここの奴らを生け贄にするために、洗脳したのか!?」

 即効性の薄い薬品を英国がわざわざ使う理由はわからないが、それでも薬品を撒いたのは英国しか考えられなかった。

 すぐにアンナは外に出ようとしたが、服の袖をジネットに捕まれた。

「何言ってるの、センセー?」

「ジネット、お願いだから放して」

「先生、ルシアの伯父さん、これから素晴らしいことが始まりますから、もう少し待っててください」

 ギードもマルティナに手を取られていた。

「チッ! あのクソ英国野郎……顔が変形するまで殴ってやる!」

「残念。違うよ」

 新たに聞こえてきた少女の声にギードとアンナは聖堂の奥を見た。

 座って祈っている人々。その中で、魔術学校のローブを羽織った少女が立っていた。

「ふふっ、英国じゃない。これは私がやったの」

 見覚えのある少女だった。あの少女は錬金術で優秀な成績を収めた生徒として表彰された――

「レベッカ……」

「あら、ストレーム先生、私を知ってるの? 嬉しい」

 頬に手を当てて、レベッカは口元を緩める。しかし、その目はアンナを見ておらず、宙に向けられていた。

 盲目で何も見えていないような仕草。それが彼女の不気味さを一層引き立てていた。

「レベッカ、なぜ英国の手助けを?」

「だから、違うの。ストレーム先生、私は英国なんかどうでもいいの。私がこんなことをしているのは“天使”様のため」

「……天使?」

「ある日ね。私の前に天使様は現れたの。天使様は私がスランプから脱出する方法を教えてくれたのよ。天使様は私を導いてくれるの……ふふっ、だから、私は天使様のためになんでもするのよ」

 恍惚と話すレベッカ。

 アンナの知っている優等生レベッカとは人格が重ねられないほど、異なっていた。

 レベッカという生徒は、成績優秀ではあるものの性格に難があり、優等生としてのプライドが高かった。最近では成績不審のストレスで情緒不安定と聞いていたが……、

「天使様はね、精霊塔の秘密を私に探らせてくれたの。短い時間だったけど、あの悪魔の娘が連れてきたときに精霊塔が何であるか分かったのよ。ここは悪魔召喚のために作られた建物。そして、この聖堂にいる人達は生け贄ね」

 でも、とレベッカは話を続ける。

「天使様はそんなこと望んでいない。悪魔との契約なんて、汚らわしいものを認めてないの。だから、私は――ここにいる人達を解放してあげる」

「待ちなさい! 今、外に出たら悪魔が――」

「天使様は私たちを導いてくれる! 何も恐れることはないの! あはっ、あはははははは!」

 狂った笑い声が聖堂を駆け巡る。

 レベッカの狂気が恐ろしく、鳥肌が収まらなかった。

「おい、あのガキ……魅入られてるぞ!」

「ヨーロッパ共和国に天使はいません。おそらく、レベッカの言う天使の正体は悪魔です」

「んなもん、どうでもいい! そんなことより……今はこの状況をどうするか、だ!」

 集団催眠をかけられている人々は、レベッカの思うがままだった。

 レベッカの指示で人々が外に出てしまえば、英国騎士団のフォローが間に合わずに多くの犠牲が出てしまう。それだけは避けなければならなかった。

「仕方ありません! 多少乱暴ですが、気絶してもらいます!」

 アンナは傷だらけの右手を突き出し、レベッカへと矛先を向ける。

「水の精霊――」

 水弾が収束している瞬間、横合いから邪魔が入った。

「っ!?」

 急に突き飛ばされ、アンナは仰向けに倒れる。

「センセー、邪魔しちゃダメでしょ?」

 笑顔という仮面を張り付けたジネットが馬乗りになって、アンナの両腕を押さえつけた。

「センセーさぁ、研究ばっかりで精霊との対話を怠ってるから、いざというときに使えないんだよ? あたしなんて、言葉も動作も使わずに魔術を使えるよ? ――こんな風にね」

 ジネットは顔を上げて、ギードを見つめる。

「ぎ、ギードさん! 危ない!」

 三発の水弾が生成され――ギードへと殺到した。

「っ……!?」

 凶弾はすべてギードの体の直撃し、吹き飛ばす。

 地面に倒れるギードの腕には、マルティナが抱えられていた。

 ギードだけならば水弾を躱すのも可能だった。しかし近くにいたマルティナを庇うために、自らの体を盾としたのだ。

「こりゃあ……いてぇな……」

 いくら化け物染みたギードでも魔術をまともに食らったら、しばらくは立てそうになかった。

 アンナは焦燥に駆られる。

 このままでは最悪の結末を迎えてしまう。

 どうするべきか。

 解決方法は思いつかない。

 八方塞がりの状況下、レベッカは軽いステップを踏みながら、聖堂の出入り口に近寄る。聖堂内へと振り返り、両手を広げる姿は、まるで奴隷解放を成功させる救世主のようだった。

 それが本当に救世主であったのなら、どれほど良かったことか。

「さあ、行きましょう! 天使様の庇護の下、私達は悪魔の企みから――」

 不自然な形で声が止んだ。レベッカの言葉の続きは出てこない。

 アンナは何が起こっているのか、理解できなかった――いや、あまりにも非情な現実に、耐えきれずに理解したくなかったのだ。

 唐突にジネットが力なく覆い被さってくる。意識を失っていた――それはジネットの意識が洗脳から解放されたことを意味する。

 同時に、レベッカの結末も暗喩していた。

「あ……れ……?」

 先刻まで意気揚々としていたレベッカが、すきま風のようなかすれた声を出す。

「どう……し……て……?」

 ゆっくりと胸を貫く剣に触れた。瞬間、血に染まった剣が、まるでレベッカの命を吸うように――彼女の命を奪い去った。

「不意打ちは本日で二度目ですね。まだまだ、僕も未熟者です」

 剣が引き抜かれる。

 血飛沫が舞い、レベッカの体は人形のように倒れ込んだ。

「僕としたことが、迂闊でした。まさか、悪魔の協力者が紛れ込んでいるとは……これは団長に怒られますね」

 剣の主、タリスはレベッカの死を意に介していなかった。

 どくんどくんと、アンナの心臓が高く鳴り響く。

 人を殺して、何の感情も抱かない。人を殺したというのに、何の反応もしていない。年端も行かない少女を手に掛けたのに、何の罪悪感を持たない。

 障害を取り除いただけ――青年の騎士タリスにとって人一人の死はその程度の認識なのか。

「クソガキィィィィ!」

 大気を揺らす咆哮と共に、超音波のような高温が鳴り響いた。

 ギードが拳打を放ち、それをタリスが剣で受け流したのだ。

「何を怒ってるんですか?」

「なぜ殺したぁ!? 殺す必要は無かっただろうが!」

「馬鹿なことは言わないでください。殺す必要はありましたよ。殺さなければ、聖堂内にいた人達が全員死んでいました」

「他に方法があっただろうが……!」

「何を温いことを言っているんですか? あなたは仮にもエクソシスト連合の長でしょう。上に立つ者が、この程度の決断も出来ずに、どうするつもりですか」

「おめぇに説教される筋合いはねぇ! 何様のつもりだ!」

 再び拳と剣が交わり、意志と意志がぶつかり合う。

「はぁ……。だから、あなたは良いように扱われるんです。総長とは名ばかりで、実権は副長に握られているじゃないですか。ここで単独行動しているのも、部下が言うことも聞いてくれないからでしょう?」

「話をズラすんじゃねぇ!」

 拳を引き、再度打ち込まれる拳打。しかし、次に受け止められるのは剣ではなく、タリスの手のひらだった。

「くっ!」

 いくらギードが強靱な肉体を持ってしても、水弾を食らってまともに動けるはずがない。

「ズラすも何も……対話など僕は初めから望んではいませんよ」

 純粋な力押しに負けてギードはよろめいた。

 その隙が“対話”の終わりとなる。

 タリスが身を低くし、剣の柄頭でギードの腹部に打撃を与えた。

「かっ……は……!」

 膝を突き、倒れるギード。それきりギードは動かなくなった。

「さて……あなたも反抗しますか、ストレーム先生?」

 挑発的な問いにアンナは感情が体を動かす。

 大股でタリスへと歩み寄り、その頬に平手を食らわせた。

「ストレーム先生、あなたもですか?」

 叩かれた頬を押さえもしない。それは――だだをこねる子供を相手にする親ような態度だった。

「あなたという人は……!」

 感情のまま罵倒しようとしたが、言葉を詰まらせてしまう。次に口を開いたら、込み上げてくる感情に呑まれて、言葉を発することが出来なくなる。

 アンナは口を堅く結び、必死に涙を堪えた。

「……知ってますか、先生? 死人の出ない戦争なんてありはしないですよ」

 嘆息混じりにタリスは言う。

「あなたからすれば、僕の取った選択は最悪なんでしょう。ですが、僕はそれでも構いません」

 剣を納めるタリスの目は、青年のものとは思えなかった。何百との決意を秘める男の目つき。

 彼はアンナから視線を話さずに言い放った。

「僕は祖国のためならば、悪魔にでもなってみせます」

 言葉の重みが違う。

 どれほどの強い意志があれば、このような言葉が出てくるのか……アンナはその重みを肌身で感じ取った。

 立ち去るタリスの背を止められない。

 やがて残されたのは、気絶する人々と少女の死体だけだった。

 聖堂内で響く轟音。その意味を放心状態のアンナには理解することはできなかった。


+++


 精霊塔、上階。

「いけ……にえ……?」

 ルシアは復唱したものの、自分で何を言っているのか分からなかった。

 床には幾何学模様が描かれている。その模様の中心に英国騎士団団長が騎士と魔術師を連れて立っていた。

「歴史的魔女アレシア=エローラの血を引く者。再び、その身を悪魔ベリアルに捧げ、世界を救え」

 眼帯の男――英国騎士団長の団長は淡々と告げる。

「我々は準備を終えた。アレシア=エローラの残した魔法陣を再現し、契約に必要な百の人間を用意した」

 魔女。悪魔。契約。生け贄。エローラ。

 点が線となっていく。線が浮かび上がり、その輪郭を露わにさせた。

「い、嫌! 私は悪魔の生け贄になんかなりたくない!」

「時間は有限。今の状況がいつまでも保てる保証はない。貴様個人の意見は不要だ」

 背後から扉が閉まる音がして、ルシアは振り返った。

 とっさにルシアは扉の取っ手を掴むが、閉ざされた扉は岩のように動かなかった。

「悪魔を喚んでもらおう」

「イヤ……嫌ぁ!」

 扉の取っ手を何度も引っ張る。

 死にたくない。

「悪魔を喚ばなければ、世界は終わる。それでも嫌か?」

 絶対に嫌だ。嫌。イヤ……イヤイヤイヤイヤイヤ!

 ――他人なんかのために、死ぬなんて絶対に嫌!

 なぜ自分なのか。

 他の人でもいいはず。なのに、よりにもよって自分が死ななくてはいけないのか。

 ドロリとした負の感情が溢れてくる。

「人のために命を投げることも出来んとは情けない。貴様一人の決意で何千万の命と国が救済される。それが誇りとは思えんのか? 実に不愉快だ……」

 団長は眉間にしわを寄せ、近くにいた騎士に指示を出した。

「説得は失敗。予定通りに悪魔の契約を行う」

 騎士達が動き出す。彼らの統制の取れた動きに、ルシアの抵抗は無意味と化した。

「放して!」

 腕を掴まれたルシアは必死に懇願するが、騎士は人形のように無反応だった。

「悪魔の召喚はこちらが行う。貴様は、その命を捧げればいい。それが貴様達、エローラの運命だ」

 擦り潰される。理性が、正気が、生きる気力が、力ずくで岩肌に押し当てられるように――壊されていく。

 希望なんてものはない。

 そこにあるのは、現実という名の死だけだった。

「……誰か、助けて」

 声が誰かに届くことを願って。

 しかし淡い願望を聞き入れたのは――神ではなかった。

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