序:悪魔アンドラス
珠代は、複雑に入り組んだ豪邸の中で迷子になっていた。
通路の一つ一つが同じような造りになっているため、その場で目を瞑って回っただけで来た道が分からなくなってしまう。しかも屋内には人気がなく、誰かと入れ違う事がまったくなかった。
沈黙する豪邸。異様なまでの静寂に包まれた空間に、珠代は不気味さを感じていた。
「広ぇ……」
億劫な気分を味わい、珠代は背を丸める。
「ふっざけんな。なんで、こんな無駄に広いんだよ」
ふと一つの扉が、珠代の目に留まった。
何となく、ここに清六達がいるような気がする。
根拠のない考えだったが、珠代は何の躊躇いもなく、ノブを握った。
内開きの扉が、ゆっくりと開いていく。
煌々と電気がついている空き部屋。
なぜ使われていない部屋に、明かりが灯っているのか――そんなことを考える余裕は珠代になかった。
理由は一つ。
「……なんだよ、これ?」
今、彼女の眼下には信じられない光景が広がっているからだ。
殺風景な部屋には、蟻塚のようなオブジェがある。
そのオブジェが何で出来ているのかを、理解するのに時間は要らなかった。
死体の塊。
人間の死体が積み重ねられていた。
何人というレベルではない。何十人という人間の死体が、枯れ葉のように寄せ集められたもの。
その死体の中には、昼間に見た黒スーツの男達の姿もあった。
「――っ!」
一番手前にある死体。その腕が、まるで珠代に助けを求めるかのように突き出されている。だがその死体には、頭部の鼻から上が削られていた。
ハッとした様子で、珠代は視界を巡らす。
すると、すべての肉体に損傷の痕が見られた。
腕がもがれ、
足が千切れ、
頭が砕かれ、
胴が抉られ、
みんな、殺されている。
――違う。
死屍累々の惨劇は、殺されているわけではない。
彼らは“食われていた”。
まるで食材の善し悪しを決めるかのように、つまみ食いされてた肉体。
悪魔崇拝という言葉が珠代の脳裏をよぎった。
魔女は嬰児を食らい、悪魔への生贄とする。
――じゃあ、これは悪魔を呼び起こした後なのかよ……?
どちらにしろ、これほどまでの大人数を誰にも気づかれずに喰い殺すなど、人間の所業ではない。
「こいつは……」
死体の山から清水のごとく鮮血が流れ落ち、赤い湖を作り出している。
未だに、止まらない血の様子を見て、珠代は何かが起きてから、まだ時間が経っていないことを察した。
「とりあえず、清六達に伝えねぇと……」
「何を伝えるつもりだ?」
「――!?」
背後から聞こえる太い声に、珠代は身を震わせる。
振り返れば、外交官と黒スーツの男が立っていた。
外交官は部屋の中に視線を向けた途端、腰が砕けて、その場に尻餅をついてしまった。
「……ひぃ!」
漏れる悲鳴。
顔を青白くさせ、動揺に染まった瞳を珠代に移した。
畏怖と疑惑が入り交じった眼差しに対して珠代は、
――そんな目、してんじゃねぇよ。
「勘違いすんな。俺じゃねぇぞ」
胸から上がってくる罵倒の言葉を必死に押さえつつ、珠代は釘を刺す。
「どういう事か、説明してもらおうか」
ショックのあまり、喋れなくなった外交官の代わりに、黒スーツの男が口を開いた。
「俺だって分かんねぇんだよ。たまたま、この部屋に入ったら死体の山があって――」
「嘘だな」
叩き落とすような一言が、珠代の言い分を遮る。
「偶然、部屋に入ったなどと見え透いた嘘だ。この豪邸にはいくつ部屋があると思う? しかも、ここは貴様達がいた部屋から、遠く離れている。どう考えても不自然だ」
「迷ってたんだよ」
「戯れ言を。我々の目は誤魔化せん。貴様、何が目的だ?」
黒スーツの男の言葉には、疑心しかなかった。
全く言葉が通じない。否、向こう側に通じさせる意思がないのだ。
――俺が化け物だからかよ。
すべては男の目が語っている。
その目は人に向けられるものではない。理解できないものを見る目だった。
「テメェ、人の話聞きやがれ!」
珠代は臆せずに男を睨みつける。
「俺が来たときには、こうなってたんだよ! 何度も言わせんじゃねぇ、この低脳が!」
「ならば、誰がこの者達を殺したんだ? 館にいる者達がすべて殺されたんだぞ? 貴様以外いるはずがなかろう! さっさと本性を現せ、化け物!!」
「テメェ……!」
奥歯をかみしめ、拳を握りしめる。
行き場を失う怒りが、胸中で暴れ回っていた。
なぜ理解しない。
なぜ受け入れない。
なぜ耳を傾けない。
――それは人間だからこそ、出来るんだろうが……!
「化け物とは失礼でござるな、背広殿」
廊下の奥から響いてくる声に、全員が顔を向けた。
近寄ってくる二つの影――それは清六と辰之兵だった。
むっつり顔の清六は、黒スーツの男――妹を侮辱した男――に射殺すような視線を送る。
――確かに、珠代は人と異なる。
人と相違点、それは他人と触れ合えることができない異能の力。だが、その力は望むべくして得たものではない。
珠代の体質は、自分のせいなのだ。
だから、清六は男の発言を聞き逃せなかった。
「言っていることが無茶苦茶であるな」
辰之兵が、黒スーツの男に向かって告げる。
「そもそも、なぜあなたはここにやってきたのだ? 外交官を連れてどこに行くのかと思えば、一直線に死体のある部屋へ向かった。必然的に考えて、あなたは“事件”が起きていることを知っている第一発見者であるはず。それならば、第二発見者である珠代に、根拠のない疑いを向けるのは、おかしいのでは?」
探偵さながらの語りを披露する。
「自分が犯人ではないことを知っているのならば、最も怪しい化け物女に疑いをかけるのは当然だろう!」
「そうではあるな。だが、館の人間が皆殺しにされて、なぜあなたは無事だったのだ? 見たところ、我が輩達以外の人間がすべて殺されているようだが?」
「私は外の巡回をしていたから、その化け物女の歯牙から逃れられたんだ!」
そこで辰之兵は、この場にはふさわしくない笑みを浮かべた。
「ふむ、そうであるか。いや、疑って申し訳ない。しかし、あなたが我が輩の護衛を疑ったから、これでチャラということでよろしいかな」
「ふ、ふざけるな! まだ化け物女の疑いが晴れたわけじゃない!」
「仮に珠代が犯人だとしても、どうも腑に落ちないことがあるのだが……。なぁ、清六?」
清六に同意を求めたが、辰之兵が見る先には既に清六の姿はなかった。
彼は残像を残すような速さでショートダッシュをする。
抜刀し、男に肉薄。刀が一閃の太刀筋を描いた。だが、その刀身が鮮血に染まることはない。
男は、紙一重で避けていた。
「な、何をする!?」
後ろに跳躍した男は、いきなり襲ってきた清六を睨みつけて叫んだ。
「もう茶番は終わりでござるよ、背広殿。例え、拙者達の目は誤魔化せたとしても、鼻は誤魔化せぬ。先ほどから、背広殿には気持ち悪くなるほどの血の臭いがするでござる」
「それは私が第一発見者だからだ! 状況確認のために、部屋に留まったから、血の臭いが染み着いただけだろう!」
「ならば、言葉を改めるでござる」
必殺の刃を男に向けながら、清六は告げる。
「背広殿が、その口を開く度に獣のような臭いが、拙者の鼻を否応なく刺激するのでござる」
今もなお、鼻を摘みたい気持ちでござる――と、付け加える。
「……」
シンと静まり返る廊下と男。
男は反論をすることなく、その場に顔を俯かせていた。
わずかな間には、ねっとりとした血の臭いが漂い、薄気味悪い空気を作り出す。
沈黙の肯定が、成立した。
「珠代を化け物呼ばわりする貴様こそ、醜悪な化け物でござる!!」
いきり立った清六は身を低くする。斬り捨てる覚悟で一歩踏み出そうとした瞬間、それを止めるように男が面を上げた。
「イヤァ、バレちッたかァ!」
男の雰囲気が180度変わる。
先ほど喋っていた声よりも1オクターブ上がった声音。化けの皮が剥がれるように、巌の顔をいびつに歪ませた、笑み。弓の形となる両目。
その顔は、道化師(ピエロ)を彷彿とさせた。
「オシかッたなァ! あとフタリ! フタリだけ、コロしちャえば、カンペキに“不和”がセーリツするはずだッたのになァ! カカカカカッ!」
男は、体の芯から震え上がるような哄笑を奏でる。
怒っているのか、楽しんでいるのか、分からない。
「何者でござるか?」
「んん? カカカカッ! キかれたのなら、オコタエするよォ!」
男――否、道化師は演技がかった様子で自分の胸に手を当てた。
「ボクは、アンドラス! 序列63“不和”をツカサドるチョー・ジョーキュー・アクマだよッ!」
「超上級悪魔……でござるか?」
壮絶なる肩書きを言われても、ピンとこない清六だったが、唯一この場でアンドラスの驚異を知る者がいた。
「あ、悪魔が……なぜ結界の外にいる!?」
その人物――外交官は声を上擦らせた。
「ハァ? ボクがココに、いちャいけないリユーがあんの?」
「結界は、絶対のはず……! 悪魔は、封印されているはず……!」
「ハズハズハズー! ッて、あッたまワルいネー! そんなコトもワカんないのォ? キャー! ハズカチー! なんちッてー! カカカカカカカッ!」
アンドラスは外交官を指さして、嘲けるように笑う。
「ほかのオーディエンスはわかる? ボクが、どうしてケッカイなんてユーものをシカトできちャッたかァ?」
そこで何かを思いつくように声を出すのは、清六だった。
「ま、まさか! 忍法壁抜けの術でござるか!?」
「ハイ! そこのサムライ、オバカ・ケッテー!」
ケタケタと笑うアンドラスは、珠代へと解答権を与えるように指差した。
「そこのバケモノ少女はわかる?」
「召喚されたんだろ? 結界の外で」
鷹のような鋭い眼光が、アンドラスを捉える。
「ワァオ! セーカイ! スッゴいネー! てっきり、ボクはコタえられないかとオモッて、先にキミをシメイしたのに、意外とあッたまイーんだネェ! おどろいちッたよ、ボク!」
拍手三回と侮蔑を孕んだ賞賛を送ってきたが、珠代は鼻を鳴らして相手の挑発をやりすごした。
「でもネー。ボクは、ケッしてジブンから召喚されたワケじゃないんだよ? ヒトが喚んだから、ボクはこちらのセカイにキただけなんだ。いわゆる、ゴ招待ッてヤツだネ!
それにしても! イヤァ! ラッキーだね、ボク! イマ、こッちはスゴーくタノしそうじャん! ヒトとアクマのセンソー! “魔界”じゃあ、序列争いのオアソビみたいなセンソーしかしないから、ナァンかモりアガんないんだよネー! デモデモ! こッちのセンソーは、マジ・ガチ・キチのコロしアイじャん! デッド・オア・アライヴ! キョッホー! ボク、センソー・ダイスキー!」
「黙るでござるよ」
凄みの効いた低音が響く。
途端、アンドラスは気を害したのか、ふてくされるように眉をひそめた。
「ナニ? それ、ボクにメーレーしてるワケ? たかがニンゲンが」
「関係ないでござる。悪魔であろうと物の怪であろうと、拙者の敵であるのならば、それを斬り捨てるのみ」
正眼の構えを取る清六。
それに対して、アンドラスは再び笑みを作った。
「カカカカカカカカカッ! オモシロいネー、キミ! たかがニンゲンが! 序列63のチョー・ジョーキュー・アクマのボクに!? カてるとオモッてんのォ!?」
アンドラスは翼のように両手を広げる。
「戦に絶対などないでござる」
「アッハー! ムリムリムリ! ボクをコロすのなら、チョー・ジョーキュー・テンシでもツレてくるんだねッ! まッ! この土地は、アクマとの契約でツクられたケッカイがあるから、クソ・テンシたちはチカヅいてこないんだけどネー! ザンネンでしたァ!」
「黙れと申したのが、分からぬようでござるな!」
刹那、清六が地を蹴った。
上段からの斬撃を繰り出す。
神速の太刀はアンドラスの肩を捉えていた。だが、太刀を凌駕するスピードで、アンドラスがバックステップを決める。
刀は空を切るが、清六は続けざまに太刀を浴びせた。
一撃・袈裟切り。
二撃・横一文字。
三撃・刺突。
連続した斬撃を放つが、どれ一つとしてアンドラスに届くことはなかった。
――速いでござるな!
舞い落ちる木の葉を斬ろうと必死になる素人のように、清六は翻弄される。
「カカカカカッ! ダァメダァメ! ゼンッゼン、フミコミがタリないよォ? アレ? もしかして、ビビッちャッてる?」
長舌による挑発。
とっさに清六は刀から片手を離し、
「ち、違うでごじゃる! び、ビビってなんかないでごじゃる!」
全力で否定した。しかも、動揺丸だしで。
「噛み噛みじゃねぇか!」
脇から、珠代の突っ込みが入る。
「だから、違うでごじゃる! 拙者が怖いのは、珠代だけでごじゃる!」
「はぁ!? ぶち殺す! アンドレとか言う悪魔があんたを殺す前に、俺が殺してやる!」
ぶわっと珠代の周囲の闘気のようなものが発生した(気がする)。
「ここにも悪鬼が一人いるでごじゃるぅ!?」
「やめろ、蓬莱兄妹!! 貴様らは、敵を前にして何をやっておるのだぁ!」
そこに辰之兵の雷が落ち、二人は正気を取り戻した。
「カカカカカカカカカカァ! オモシロいネェ! キミたち、チョーオモシロい! このボクのマエで、これほどにもヨユー・シャクシャクとはネッ! カカカカッ!」
アンドラスは腹を抱えて笑い声を上げた。だが、数秒後には大きく開いた口は、細い三日月を形作る。
「さァてと、ジューブンにタノしめたコトだし、ボクはキえるとするよ」
「清六! 逃がすな!」
「ニガす? チガうチガう。ボクが、ミノガしてあげるんだよ」
メリッと卵の殻が割れるような音が鳴る。
次の瞬間、アンドラスの背中からコウモリの翼が生え出てきた。
悪魔たらしめる翼が、廊下に広がる。
「サイゴに、イーコトをオシエてあげるよッ! あのケッカイ! アレ、もうすぐホーカイするからねッ! いつ封印がトケてもオカシくないよッ!」
「なっ!?」
その驚きの声を漏らしたのは、誰なのかは分からない。しかし、この場にいる誰もがその事実を知って、戦慄と驚愕を胸に刻み込まれた。
「ボク、センソーダイスキー! じャッ! そういうコトでー!」
翼を羽ばたかせるとアンドラスの体が浮く。
重力を感じさせずにホバーリングする巨漢。
アンドラスの視線は、廊下に備えられた窓に向けられていた。
相手の目的に気づいた清六は瞬時に身構えた。
両者が動く。
清六が撃墜しようと、
アンドラスが逃走しようと、
動く。
跳ぶのは清六。
飛ぶのはアンドラス。
刹那の駆け引きは――アンドラスの思惑通りになった。
上段に向けて一太刀が振るわれる。だが、その刃はアンドラスを捉えられずに行き場を失い、壁に刀身を埋めた。
清六達を見逃して、アンドラスは逃げる。
その行く手を阻める者はいなかった。
窓ガラスが割れ、悪魔が館を後にする。
翼を広げた悪魔は暗幕の夜空へと溶け込んでいく。
館に残されたのは凄惨な屍達と、翻弄された人間達。そして、与えられた事実。
人は、膨大なる時間を無限と捉えてしまう。
だが時間は有限であり、何兆何億と存在しても、その時はやってくる。
時限――時は限られているのだ。
やがて結界は崩れる。
時は動き続けている。
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