黒く透明な泉

Cessna

黒く透明な泉

【1】


「――――長い旅だね」


 僕が話しかけると、君は仏頂面で答えた。


「…………旅はもう日常だ。長いも短いもない」


 君は輝き始めた朝焼けに遠い眼差しを送り、続ける。


「目的地もない。帰り道ももう忘れて久しい。このようなもの、旅とは呼べまい」


 僕は君の横顔から、君の見つめる先へと視線を移した。

 朝焼けはダイヤモンドのように、菫色の空を眩く照らしている。

 君は独り言じみた調子で言葉をこぼしていった。


「あの蝶にも帰る家はあるまい。だが、いずれ疲れて眠りに就くだろう。その時に、全てがわかるはずだ」

「蝶? どこに?」

「それを探して、歩き出したのだ…………」


 僕はもう一度、君の言う蝶を探してみた。

 だがそれはすでにどこかへ飛び去ってしまった後のようで、僕には見つけられなかった。




 君は時々何かを食べている。

 本来僕らに食事は必要無いのだが、君は頑なに食事を続けていた。

 たまには僕も君に倣って、木の実とか、蜜とか、水とか、そういうものだけを頂いたりもした。


 だけどある時、君が動物の肉を取ってきた時には、僕は心底驚いた。


「なぜ…………そんなものを?」


 尋ねる僕に、君は平然と言ってのけた。


「血が必要だ。真に命を知るためには、私達はこれを味わわねばならない。…………でないと、忘れてしまう」

「忘れるも何も、元々そんなものは知らないだろう」

「…………だからこそ、血を浴びねばならぬのだ。穢れを伴わぬ知は脆い。今に風化してしまう」


 君は横たわる鹿の屍骸から、ズルズルと臓腑を引きずり出す。

 僕はすぐに目を背けた。

 命の証など、見ているだけで十分だと思った。




 世界は白いか、黒いか。

 誰かからふと投げられた問いに、君はためらいもなく答えた。

 ただ答えは問うた者には届かず、僕の耳にだけ入った。


「どちらも同じことだ。下らん」


 僕は君に、つまらないとハッキリ言ってやった。


「当然だよ。だけど、無色の世界などあるものか。何か答えはあるはずじゃないのか?」

「何色だろうと、あって無いようなものだ」


 君はフン、とすげなく鼻を鳴らして続けた。


「塗りたがる衝動こそ、本質よ。衝動は「点」のようなものだ。…………点に、色も何も無い」


 言いながら君は僕を見た。

 いつになく、熱心に。




 咲いては散る。

 散っては実る。

 実っては腐る。

 腐っては芽吹く。

 愛らしい桃色の花がまたフワリと開く。


 花吹雪の下で、どちらともなく呟いた。


「綺麗だ…………」


 僕と君は顔を見合わせる。

 たまには、僕らは頷き合うこともある。




 僕には密かに焦がれているものがある。

 最初の内、それはちっとも形にならなかった。

 だが時が経つにつれ、その夢は少しずつ僕の中で大きな位置を占めていき、何となく色らしきものを帯びていくようになった。


「それは、どんなものなのだ?」


 尋ねながら君は、海に小石を投げた。何度跳ねるか試しているようだった。

 僕は遥か遠くの水平線を眺め、答えた。


「大きなものだよ。…………すごく、小さなものかもしれないが」


 君は水切りを止め、僕の見つめる先を追う。

 僕は心の中でだけ、こっそり言葉を添えた。


「いつか君が言っていた「点」みたいに」


 と。




 イメージの「点」をいくら重ねても、「線」にはならない。

 形無きものに、色だけを秘めた存在に、世界は作れない。

 この衝動には、革命が必要だ。




【2】


 僕は時折、葡萄を一房もぎって食べる。

 果汁で指が染まり、甘酸っぱい味が口に広がるのが好きだ。

 気分が爽やかになる。

 君は物珍しげに、そんな僕を見つめていた。


「…………一つ、いかが?」


 僕が勧めると、君はおずおずと一粒、葡萄を受け取った。

 ためらいながら小さな口にそれを含む君は、まるで本物の子供みたいだった。

 君はすぐに顔を顰めた。


「まだ少し、酸っぱいと思うが…………」


 愚痴る君をよそに、僕はもう一粒葡萄を噛む。

 木漏れ日が僕らをまだらに照らしていた。




 見上げれば蒼く冷たい夜空。

 足下には燃えるような紅い曼殊沙華。

 君と僕は川辺でウトウトと微睡んでいた。


「なぁ…………ヴェルグツァート」

「何だい、ツヴェルグァート」

「今晩は良い月だぞ。満月だ」

「どれ」


 君に呼びかけられて、僕は薄っすらと目を開けた。

 君の言う通り、丸くて黄色い、冴えた月が上がっていた。

 満月には少し足りない気がしたけれど、僕は満ち足りた。


「…………うん、良い月だ」


 僕はほんの少し欠けた月を胸に抱いて、目を瞑る。




 森の中を行く時には、僕らは滅多に会話しない。

 蛍光虫がふわり、ふわりと飛び交う静かな闇を、足を忍ばせて恐る恐る歩いていく。


 ここは未来の苗床。

 命の芽吹く場所。

 君は肩に落ちてきた綿毛のような胞子を、フゥと一吹きして払った。

 片や僕は、掌に舞い降りてきた胞子を黙って見つめていた。


 一握りすれば、いとも容易く壊れる命。

 一撫ですれば、瞬く間に育まれる命。

 僕らは古い女神の名残だから、そんなことは朝飯前なのだ。


「…………ヴェルグツァート、それを放してやれ」


 ふいに、君が僕にきつい目を向ける。

 僕は一瞬、強烈な衝動に駆られたけれど、


「そうだね」


 と言って、おとなしく胞子を風に乗せた。


 夢が刹那、形を纏いかけた…………。




 冬の朝。

 雪原に一匹のキツネが死んでいた。

 僕らは何も言わずにその傍らを通り過ぎていく。

 だが擦れ違いざま、君はキツネに呟いた。


「…………そうか。寒いか」


 君は振り返ると、キツネに祝福の火を灯した。


 彼女の魔法はいつも、毛布の代わりにしかならない。しかも、かけてやるのがちょっとばかり遅い。


 君はしばらくキツネが炎に包まれる様を見守ってから、再び歩き出した。

 揺らめく火柱が、立ち止まったままの僕の影を色濃くする。

 僕には別の声が聞こえていた。


「「寂しい」…………「哀しい」…………?」


 祝福されたものは皆、静かに灰になっていく。


 ガバリと晴れた空の底で、僕は独り考えてしまう。

 …………感じてしまう。


 世界の虚空と。

 無数の命の言霊を。

 あたかも、僕という一点で耐えるみたいに。




【3】


 季節は巡る。

 葉は色づく。

 花は開く。

 実は結ばれる。

 大地は枯葉でしっとりと埋もれていく。




 君は僕で、僕は君。

 ずっと疑いも無く思っていたことが、ある日、壊れた。

 君は急に、僕とは違うと言い出した。


「なぜ、そう思うの?」

「貴様、気付いておらぬのか?」

「何に?」

「貴様には、あの蝶が見えぬのだ」

「…………蝶?」


 僕は君の指差す方を睨んだ。

 そこには何もいない。

 君は僕に、小石を投げつけるみたいに言った。


「貴様は勘違いしておるのだ。私達は最早、女神などではない。…………私達は、大地に蒔かれた一つの種に過ぎぬ」


 言いながら君は琥珀色の瞳を、まるで本物の人間みたいに滲ませた。


「ならぬ。私から行ってはならぬぞ、ヴェルグツァート。考えを正せ。元に戻れ。この世界に定まった色なぞ要らぬ」


 僕はそんな君の顔を見て、少しだけ胸が痛んだ。

 だが、僕は伝えなくてはならなかった。


「違うよ、ツヴェルグァート。君が間違っている。

 …………どんなに願っても、僕らはこの世界の仲間には永遠になれやしない。

 僕らは、何を食べようと、どんな穢れを纏おうと、この世界の循環には加われない。

 …………女神の残滓でしかないんだ」




 僕らには昔から、命の声が色濃く聞こえていた。

 聞こえてしまっていた。

 産声も、断末魔も、その間にある、形にならぬ言霊も、何もかも。

 僕らは弄ぶように彼らを撫で、殺めることができた。

 彼らは僕らに何も与えず、僕らと彼らは始めから断絶していた。

 僕らは彼らに生かされていないし、彼らは僕らを必要としなかった。


 唯一、僕らの母である女神だけが僕らと彼らの繋がりだった。

 だがその母も、今は無い。




 初めて君から離れた夜。

 僕はこれまでの旅について思いを巡らせた。


 僕と君は、もうずっと昔に、重なり合うように生まれてきた。

 否、燃え残っていたという方が正確だろう。

 女神である母は、僕らが目覚めた時にはもうすっかり燃え尽きていた。

 僕らには母のような偉大な力は無く、ただ幼い身体だけがあった。


 旅立ちの日には、強く渇いた風が吹いていた。

 君は僕より先に立ち上がり、歩き出した。


「…………待って。どこへ行くの?」


 君の背に向かって、僕が言葉を投げる。

 君は振り返って、こう答えた。


「わからぬ。…………それを探しに行く。自分が何者であり、どこへ行きつくのかを。夢の果てを」


 君の瞳はまるで金星のように輝いていた。

 僕はその星に吸い込まれるようにして、君の後を追った。




 ――――それから、僕と君は途方もなく長い旅をした。


 森を、丘を、海を、砂漠を、あらゆる夢の中を、どこまでも歩いて回った。

 僕は消えてしまった母を見つけたがっていたけれど、前を行く君の考えはサッパリわからなかった。


 きっと君の内にも母の余熱がわだかまっていて、それが君を突き動かしているのだと思い込もうとしていた。


 僕は、僕が感じる世界の重さも、あてどなく彷徨い続ける君の虚無も、いずれ母が全部燃してくれると…………今度こそ、燃やし尽くしてくれると、信じていた。今だって密かに期待している。


 あぁ、それにしても君は一体、何を信じて歩いているのだろう?

 僕には最後まで君の「蝶」が見つけられなかった。




「なぁ、ツヴェルグァート」


 僕の呼びかけに答える君の、素っ気ない声が懐かしい。


「何だ、ヴェルグツァート」

「僕らの名前は、誰が決めたのだろう?」


 樹上の君は僕を見るでもなく、のんびりと星の海に浸っていた。


「さぁ…………。どちらかが、気まぐれで付けたのだろうよ」

「どっちだと思う?」

「どっちでもいいではないか」


 僕は君の隣に登り、咎めたものだった。


「君は、いつもそうやって物事を曖昧にしようとする。名前は大切なものだ。ハッキリとさせたい」


 君は少しだけ僕の方へ顔を傾け、こぼした。


「貴様は、いつだって物事を塗り分けようとするな…………。この寂しがり屋め」


 君は誘うように、星へ目をやった。


「心配するな。世界は貴様や私が思うより、遥かに広く、深い。怖がるべきことなど、何も無い」


 …………そう。

 広く、深い。

 だから不安になるのだと、どうして君にはわからなかったのだろう。




【4】


 季節は巡る。

 葉は落ちる。

 花は散る。

 実は熟す。

 大地は枯れ木で豊かに肥えていく。




 僕は独りになっても旅を続けた。


 一度だけ、君の真似をして肉を食べてみた。


 不思議なことだが、細切れにして、焼いたり、干したり、煮たりしているうちに、ちっとも気味が悪いと思わなくなった。

 いつの間にか、それが動物だったことなんてすっかりわからなくなってしまう。


 君の言うことは半分は正解で、半分は間違いだった。

 確かに、食わねば命を忘れてしまうだろう。

 だが食ってばかりでも、忘れてしまうに違いない。


 時には食われるのが一番良いはずだ。




 逆に、動物を育ててみたこともある。

 これは何とも言えない試みだった。

 懐かれると、特に戸惑った。


「僕は、お前をくびるかもしれないよ?」


 忠告しても、あの動物は健気に尾を振って、僕の頬を舐めてきた。

 試しに殺めてみたら、最後の最期まで良い子だったから、僕は驚いた。


 …………あれは苦しそうにもがきながら。

 舌を蒼くして、死の間際まで喘ぎながら。

 僕を睨みながら。

 僕の腕を、命を振り絞って裂きながら。

 あれはついに僕を憎まなかった。


 怒りも恐怖もどれだけ感じたかわからないのに、彼は僕を蔑むことも、世界を呪うこともなかった。

 ずっと僕を見ていた。


 命に畏れを覚えたのは、あれが初めてのことだった。




 皮肉なことだが、僕は君と離れて、かえって考えを改める機会をたくさん得た。


 気まぐれに、わざと時間をかけて人間を育てていた時だってそうだった。


「ヴェルグ、来て」


 その子供は窓際に僕を呼びつけると、大きく腕を広げ、眼下の街の景色をひけらかした。


「さぁ、貴女には何が見える?」


 いかにも姫君らしい…………否、魔術に長けた人間らしい、自信と好奇心が、その紅く燃える瞳に爛々と瞬いていた。

 僕はわずかに微笑んで問い返した。


「気脈が見えるよ。細かな細かな命の網。…………君には、何が見える?」


 子供は頬杖をつき、僕そっくりに笑った。


「実は、私には湧き水が見えるの。貴女風に言えば、命の泉ってところかしら」

「ふぅん?」

「誰にも、玉座の主にだって、この泉は制御できないわ。いずこからか勝手に湧き出して、いつの間にかどこかへと浸み込んでいくの。流れ出る水だけがこうして、街として、山として、海として、人として、見えるのよ」


 賢しらな子供は私の瞳を、臆面もなく覗き込んできた。


「…………もちろん、貴女も泉の子よ?」


 彼女の戯言は、僕の気に入った。

 僕は望まずして、君が憧れていた居場所…………世界との繋がりを手に入れたようだった。

 姫君のアイデアが、浮ついていた僕を世界に沈めてくれた気がした。




 怒りから憎しみへ。

 憎しみから嘆きへ。

 嘆きから哀しみへ。

 命の声と色は、不思議な畏れを孕みながら絶えず移り変わっていく。


 言霊たちは泉の中心から、いくらでも湧き、沈んでいくのだった。


「ヴェルグ。貴女はたまに、とても遠い目をしているわ。一体、何を見ているの?」


 子供は瞬く間に成長するから面白い。

 だが、彼女の燃え盛る好奇心は生涯変わらぬと見える。

 僕や君と同じように、彼女は少し危なっかしいぐらいに、世界にまつわる知に餓えていた。


 僕は姫君に、惜しげもなく与えてきた。彼女からもらった知恵に見合うようにと、いかなる問いにも答えてきた。

 だから、その時も正直に話した。


「大きなものだよ。…………すごく、小さなものかもしれないが」


 いつか君に答えたのと同じ言葉を口にした。

 ただ、添える言葉だけはわずかに違っていた。


「いつか君が言っていた、「泉」みたいにね…………」




 イメージの「点」をいくら重ねても、「線」にはならない。

 形無きものに、色だけを秘めた存在に、世界は作れない。

 僕が聞く命の言葉は、未来永劫、外へ溢れることの無い「泉」。

 地の底で。

 目を瞑って。

 僕と共に、忘れ去られるべきものであると。

 ずっと思っていた。


 …………だが。




「ヴェルグ」


 姫君が、私に言った。


「そんな寂しそうな顔をしないで。

 …………貴女も泉の子よ?」




【5】


 とびきり風の強い晴れた日に、僕は革命を起こした。


 久しぶりに血で手を染めた。

 それは葡萄をんだ時に似て、甘酸っぱく、爽やかで。

 少し寂しさが残る経験だった。


 母の炎は未だ遠く。

 だが僕の世界は…………僕が幾千年もの間、内に秘め続けてきた言霊たちは、ようやくこの世に芽吹いた。


 溢れ出した膨大な「虚ろ」は、どんな色もしていなかった。

 新しい世界を駆け抜ける風は無性に心地良く。

 僕はじっと風に吹かれていた。


 気付けば、僕の後ろに君が立っていた。


「…………随分なことをしたものだな、ヴェルグツァート」


 僕は愛しい姫君の亡骸を撫でながら、君を振り返った。


「ツヴェルグァートか。…………何しに来たんだい?」

「貴様、何をした? この世界の有様は、一体何だ? 貴様は世界に何をばらまいた!?」


 君は真新しい血溜まりの上で、激高した。

 僕は落ち着き払って答えた。


「…………ばらまいてなんかいないよ。元々あったものを、視えるようにしただけさ」

「まだ女神気取りか!?」

「違うよ、ツヴェルグァート」


 僕は冷たい娘の額に、同じぐらい冷めきった自分の唇を添えた。


「僕は一つの点だった。君と別れて、そうだと気付いた。

 だから…………泉となったんだ。透明な衝動の湧き出す、泉に」

「戯言を! この血の嘆きが聞こえぬとは、言わせぬぞ! 貴様はとんでもない闇を世界にもたらした!」

「違うよ、ツヴェルグァート」


 僕は姫君にそっと火を灯し、立ち上がった。


「確かに、僕の理想を叶えるために、玉座の主の寵姫には惨いことをした。特に、この紅の姫は、僕にとっては娘のような存在だったのに…………。

 だが、これはそれだけ、この世界に秘められていた闇の力が大きかったということの証だ。穢れの無い知などあり得ぬと、君も言っていたじゃないか?」


 僕は姫君を巻く炎を眺めながら、続けた。


「嘆きは巡る。憎しみとして、怒りとして、哀しみとして…………。この業火の後の灰もやがて、樹を育むだろう」


 肉の焼ける匂いが辺りにむらむらと立つ。

 風が火の粉を空高く運んでいった。


「僕が焦がれたものは、完成した。

 …………君の「蝶」は、見つかったかい?」


 君は何も言わなかった。

 炎が踊るように君の影を揺らしていた。

 ふいに、昔僕が殺めた動物の吠え声が聞こえた。

 僕は彼を連れて、歩き出した。




 世界は広く、深い。

 全ての言霊たちに、恵みあれ。

 …………実りあれ。





【6】


 ある昼下がり、瑠璃色の蝶が僕の目の前に飛んできた。

 僕は指先に彼を留め、考えた。

 この世界の美しさについて。


「どう思う、リケ?」


 僕の問いかけに、膝でうたた寝をしていた三毛猫が億劫そうに目を覚ます。

 ユラユラ揺れる二股の尾が、彼の機嫌の悪さをよく表していた。


「ニャァー…………ヴェルグさん、たまに変なことを聞く」

「この蝶を標本にしても良いし、庭で自由に飛ばしても良い。…………どうするのが一番、この美しさを留めておけるかな?」


 リケはクシャクシャに顔を顰め、もう一度「ニャァ」と鳴いた。


「リケは、そんなのちっとも美味しそうだと思いません。…………チョウチョなんて追っかけるの、仔猫だけですニャ」

「…………つれないな」


 僕はフゥと息を吹きかけ、蝶を野へと放した。

 瑠璃色は黄色い花が咲き乱れる野原へ、たちまち掻き消えた。




 リケは再度顔を上げると、目を細めて僕を見た。


「ヴェルグさん。今日は、葡萄は?」

「あるよ」


 僕は傍らのテーブルから葡萄を一粒ちぎり、リケにやった。食べるとお腹を壊す動物も多いが、どういうわけか彼は平気だ。

 リケはパクリと葡萄を頬張った。


「ヴェルグさん…………「胡蝶の夢」って、知ってるかニャ?」

「夢か現か。目に見えるものの儚さを例える故事だ」

「ニャイ」


 リケは口をもごもごとさせ、食べきると、ペロペロと脚先の毛繕いを始めた。果汁を舐めているのかもしれない。


「…………チョウチョを追っかけている仔猫は、自分が夢を見ているのか、起きているのか、わからニャイ…………。チョウチョも、リケも、ヴェルグさんだって、そう」


 リケは存分に果汁を舐めとると、大きく欠伸をした。


「美味しいなんて、儚いもの…………。何の目的も無い宴の、ほんの一幕に過ぎニャイ…………」


 僕は丸まるリケを撫で、遠くに目を凝らした。

 蝶は花畑の合間にヒラヒラと見え隠れして、やがて見えなくなった。




 咲いては散る。

 散っては実る。

 実っては腐る。

 腐っては芽吹く。

 愛らしい桃色の花がまたフワリと開く。


 この花吹雪の下、君は何を思っているのだろうか…………。


(了)

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