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 創価学会をやめ何も信じれられなくなった僕は、そして人間形成のための方法を失った。何を自分の人格形成のためにすべきかとても迷っている。


 他人のための行いを実行してゆくことだろうか。それともやっぱり創価学会に戻るべきなのだろうか。

 創価学会を信じきれると僕は人間的にも立派になれるし、人生の目標がきちんと決まる。でも僕は、疑い深い僕は創価学会をやめた。何が真実か僕には解らない。吃音者のために、また痙攣性発声障害の人たちのために命を賭けてゆくのが正義のような気もする。







 1990・3月4日。今日、父と江島さんが父のボートで朝から魚釣りに行っていた。僕は日曜日なのにいつものように8時ちょっと過ぎにクルマで家を出た。県立図書館で勉強するためだった。もうそのときみっちゃんも来ていた。江島さんたちは7時ごろ僕の家に来たようだった。


 僕だけでなくって、みっちゃんたちも辛いのだと思うと、本当に僕の悩みは贅沢みたいな気がしてきて、僕は苦労してきた親のために、早く医者にならなければならないと反省して、海を見つめながら泣きそうになっていた。もう完全に春になっていた。


 僕は2時40分頃、もう勉強に疲れ果てて家に帰って来た。僕の部屋は綺麗に掃除されていた。僕はそれからワープロに5時間ぐらい向かった。“星子”を出版社に出すためにこの頃、第3稿をワープロで打ち始めたのだった。

                       (1990/03/04)






 春、博多の道を、僕は自転車に乗って、プロかオリンピックかどちらにしようか迷いながら苦しい息の中で“なぜこんなに苦しまなければならないのだろう”と思いながら駆けていたことを思い出す。あれは僕が18のときだった。大学受験に失敗し、福岡の『英数学館』という予備校に来ていたときだった。

 その頃の僕の胸の中は“このノドの病気に罹らなければ、僕は○○さんとも付き合えてたし、○○さんとも付き合えていたのに”という悔しさの念でいっぱいだった。その悔しさを勉強への情熱に向けていた。たしか高三の九月ごろからだった。

 高三の九月ごろから僕はその悔しさの念に押されるようにして毎日五時間ぐらい懸命に勉強した。目が醒めているときはずっと勉強していた。勤行も欠かさずして題目も一日一時間ぐらいしていたけれど。でも毎日、七時五〇分の閉館まで県立図書館で懸命に勉強していた。





 自分は悩みました。小さい頃から毎晩11時、12時、また高校を卒業してからは1時、2時ぐらいまで題目をあげ続けていた創価学会。今は母が僕が早く卒業して医者になることを毎日�恂スに祈っている創価学会に背を向け、自分はクリスチャンになること、僕はそのことに悩み苦しみました。

(1990/03/04 at night)







 夜空を見つめると一人ぼっちだと思って寂しく思って落ち込んでいた僕に、星が光って、僕に微笑んでくれた。星子さんだった。明るく僕を励ましてくれた。孤独に打ちひしがれようとしていた僕を、星子さんの星は、励ましてくれた。




 今日三学期が終わって明日から一ヶ月春休みになる。僕は今日、10日分ぐらいマイナートランキライザーを飲んだと思う。吃りがひどくなっていた。吃りがひどいからクスリをたくさん飲むと対人緊張が和らぐ。今日、僕の親戚らしいYと始めて喋った。二週間同じグループで実習を受けていたけど今日、実習の打ち上げのとき『君と僕は親戚らしい』と僕から言った。Y君は気づいていなかったらしかった。またY君も58年入学でもう2年留年していた。何か心に傷を持っているらしかった。

(1990/03/06)

                         







          僕の大学時代


 ビデオばかり見ていたときもあった。あれは学三になったばかりの頃だった。その頃、学校はとても楽で、いつも昼頃から学校に行ってたと思う。僕が精神科に通い始めてから3ヶ月から6ヶ月ぐらいにかけての頃だったと思う。そしてその年の7月、真�ウに行ってものすごい衝撃を受けたのか、真光教に行き始めてからまた小説や詩を書き始めた。半年間、もうほとんど小説や詩を書かなくなっていたけど、その年の1月から3月まで試験勉強に没頭して、試験が終わって6月まで3ヶ月ぐらい毎日6時間ぐらいテレビを見ていた。2台のビデオをフルに使ってテレビばかり見ていた。


 あの頃、朝起きるといつもお昼頃までテレビを見ていたと思う。録画して貯めた映画やドラマやニュースを見るのに一日6時間使っていた。一つはVHSのビクターのサンアイで買った十三万八千円した格好のものすごくいい、縦置き式の表示がすべて英語のビデオで(これは後に、WにVHSのテープを20巻ぐらい付けて7万円で売ったけど)、もう一つが今も使っている二倍速で音声の出るソニーの9万円で買ったベータ方式のだった。このビデオはベスト電気の少しポヤッ、とした感じの○さんという珍しい名前の(たぶん大学出のインテリだった。そして係長だった。何ヶ月後、ベスト電気の多良見店に移ったけど)人から『9万円でいいですからお願いします。今、決算期で大変で、9万円でいいいです。』と言われて買った。たしか2月だったと思う。二倍速で音声が出てとても良かった。


 お酒をたくさん飲んで泥酔状態になって小説や詩を書くのを一年間ぐらい学二留年の頃からやっていて、それを学二の秋から吃りのためには砂糖食の方がいいしお酒をたくさん飲んで書いたものは良くないと思って学二の秋から砂糖食にして毎日、砂糖食をしてたくさん書き続けた。そして心の中が空白になってもう書けなくなって(書くことがなくなって)そのテレビばかり見る半年間の空白ができたのだった。




 今日、7時ごろ、K君からTELがあった。K君は本当に僕の幸せのことを思ってくれていた。でも僕にはこの信心は合わないように思う。僕にはリラックスする方法の方が、




 僕は勉強をやめて、東支那海の海の上で、網を引っ張っている方が幸福かもしれない。良文が船長で、僕が機関士で、そして岡には妻と子供が待っていて、




 今日、僕が通信販売で注文したHiFiビデオがポツンッ、と応接間に置かれた。夜8時近くだった。そのビデオは4万5千円だった。電話代と送金料を含めて4万6千円にかからなかったと思う。

 僕は今日も昼から市民会館で勉強していたけど、勉強に疲れたとき、近くのデイリーショップに50円の仕事やアルバイトの雑誌を買いに行った。そして、引っ越しのアルバイトでもこの春休みしようかな、とも思った。

 また、今日、大学のM助教授のところに電話したけどいないようだった。途中で中継ぎの女の子が換わったけど僕はソッと受話器を置いた。

 創価学会に戻ろうかどうしようか迷っている。でもやっぱり僕には他の信仰をするのが向いているように思えた。やっぱりクリスチャンになろうとしてM先生の処に電話した。




 信仰をやめた大学一年の11月から僕の人格の崩壊は起こっていたけれど、自分は『戻ろう。』とはしなかった。僕は堕落し続けた。半年経って、少しもノドの病気が良くなってないのに気づいて唖然とした。そして一年経っても少しも僕のノドの病気が良くなってないのを知って落胆した。




 僕は卒業したら、『真理』を求めて日本中を歩こう。『真理』までは行かなくても、正しい健康法を求めて、いや、やっぱり正しい宗教を求めて、僕は歩こう。

 でも親に送金するために東京辺りで正式に医者として職に就こう。精神科医になろう。そして何が真実か、追い求めてゆこう。

----(○○教授だろうか、○○先生だろうか、)『先生、だから僕は結婚はできない、と思います。家族が居れば邪魔になります。僕は真理を求めるために命を賭けて----何が真実か?----求めて求め抜いて行こうと思っています。結婚することは、僕の将来にとってマイナスです。でも父や母のことを考えると。熱烈な恋愛をしたら僕は結婚すると思います。でも僕は自分の病気を治さないことには結婚できないこと、結婚が難しいことを知っています。僕は真理を追求して、死んでゆこう、とも思っているほどです。

(1990/03/11 snuday)


                     






 僕は春の野原を駆け巡る。たった一人で、僕は春の野原を駆け巡る。

 もう何年になるだろう。春の野原をいつも一人で駆け巡るようになってから。もう十年、もう十年かもしれない。

 創価学会をやっていた頃、でも寂しくなかった。でも辛さも病気もそのままだった。今の自分はクリスチャンになるように強迫づけられている。クリスチャンにならねば学校を中退、もう僕は医者になれないように強迫されているみたいだ。今日も創価学会に戻ろう、と思った。すると大学の熱心なクリスチャンの助教授から電話がかかってきた。僕はやっぱりクリスチャンになるべきなのかなとも思う。またそれが僕や僕の両親や姉への幸せになるのかな、とも思う。僕は迷っている。僕は春になりかけて、もうクルマの中も暑くなりかけている今日この頃、、僕はそう思っている。

 僕は今度こそは卒業して、明るくなって春の野原を駆け巡りたい。明るくなって、自信いっぱいになって。

 親を安心させて、医者になって、

(1990/03/13 at night)







僕は幸せな恋をして、親を安心させてやらなければならないのだ、とも思う。

 また、キリスト教を信じてクリスチャンになるよう強迫されている僕は、やっぱり大人しくクリスチャンになろうかな、とも思っている。

 もう創価学会に戻らずに、助教授(○○先生)の言うままに僕もクリスチャンになろうかな、とも思っている。命賭けでなくっても適当なクリスチャンに、僕もなろうかな、とも思っている。





『君は医者には向いてない。』 

 そう言われたのは学三のポリクリに入る試験の直前だった。○○○の○○○の病院の奨学金を受けようと思って、○○○病院へ行ったときだった。10月だった。そしてその頃、僕の家の店は『脱税』ということで捜索されて、三百万円ほど持っていかれた。あれは僕の責任だった。○○○の病院へ何度も自分のクルマに乗って行っていた僕は、クルマのナンバーから割り出されて、そうして狙われたのだと思う。

 僕の一人よがりかもしれない。でもあまりに偶然すぎるし、○○○の『○○』という事務長の、僕に対する態度から、僕が創価学会のスパイだと勘ぐられていたことを、僕は何ヶ月前、やっと気付いた。僕は幸せになりたい。早く医者になりたい。またそれが僕や僕の父・母・姉のためなのだと思いながらも、いろんな魔が、僕を攻めて来ている。

 僕は苦しいし、僕は泣き叫びそうだし、僕は狂いそうだ。

 でもこのまま県立図書館での勉強を続けてゆくと、僕も幸せになれると、そう書いてある。

 僕は春の野原を駆け巡りながら、幸せになる方法を、いろいろと考えている。







 マルキョウの坂を6時20分ごろ、僕は罪悪感や絶望の思いにとても囚われながら降りていた。久しぶりに雨が激しく降っていた。バックミラーに映る僕の顔は険しかった。笑顔にならなければならないな、とも思った。また、やっぱり創価学会が正しいのかな、とも思ってもいた。親への罪悪感と、もしかしたら(勉強のみに賭けなければ)来年も『卒延』というふうになるのではないか、と思った。

 何かアルバイトをするべきかな、とも思った。でも小説が、小説が認められれば僕は大手を振って歩けるのに、と思った。小説が認められれば、僕はもう留年や卒延の恐怖に陥ることなんてないはずだった。それに○○○からの迫害に怯えることもなくなるはずだった。そして僕は毎日を暢気にビデオを見たり、ゴムボートを買って魚釣りに興じたりできるはずだった。

 再び“炎の創価学会員”に戻ろうかな、とも思っていた。でも“クリスチャンになろうかな”とも思っていた。僕の心は揺れていた。『もう宗教なんて飽き飽きした。もうただ『愛と調和と感謝の念』に生きようかな、とも思っていた。『愛と調和と感謝の念』と思うと、バックミラーに映る僕の表情も和むのだった。

 やっぱり創価学会に戻るのよりも『愛と調和と感謝の念』なのかな、とも思っていた。また、父や母のためにもやっぱり創価学会なのかな、とも思っていた。たしかに創価学会の『歓喜』は凄かった。去年の夏頃のあの歓喜は本当に凄かった。

『でも…』と思っていた。楽な道を僕は選びたかった。何が真実か迷っている今、僕はやっぱり去年のように創価学会に戻るのはやめるべきだなどと思っていた。


                (1990/03/04 21:00)












僕は今日、図書館で勉強しながら何度も“死のう”と思った。また死神が戻って来たようだった。そうして創価学会に戻ることを何度も考えた。

 でもこの二週間ほど、僕は心の平静を保ってきていた。少し絶望の思いに捕らわれたとき、再び小説をワープロで打って雑誌社に出すゾ、と思い希望が湧いてきて午前中や夕方家に帰って来てからはワープロの前に座っていた。そしてワープロ打ちが昨日ぐらいで終わった。

 もうやり終えた。すべては尽くした。という思いに捕らわれたからだろう。それに今日は12時35分から5時20分まで休まずにぶっ続けで勉強してとても疲れたからだろうと思う。罪悪感が僕にはあった。それが、勉強のみに賭けなければ、という焦りに変わって僕を今日、猛烈な、せっぱつまたような勉強に駆らせていたのだと思う。でもとても緊張して四時間勉強したけれど頭の中にはあまり入らなかった。(二時間勉強したあと、図書室の方で創価学会など宗教関係の本を三十分ぐらい立ち読みした。)やっぱり僕は病気を治す方が先なのか、とも思った。また○○先生と今度の日曜、教会で一応会うことにしているけれど、どうしようかとても迷っていた。宗教に時間を割くべきでない、と思った。勉強のみに賭けるべきだ、と思って今度の日曜やっぱり○○先生に会いに行くまい、またその方が僕が落としている『○○○』の教授の○○先生(○○先生とものすごく仲が悪いそうだ。)に自分が○○先生と親しく話している所を見られるよりもいい、と考えた。

 でも僕はどちらがいいのだろうかとても迷っている。僕は今日、久しぶりに仏壇の前で題目三唱した。親への罪悪感と、自分の病気はもう治らないのではないだろうか、という絶望感と。


 ああ、そうか、と思った。僕が昨日ぐらいからこんなに不安になっているのは


                     (1990/03/14 thursday 21:00)







 ○○先生は『じゃ、“大検”のこと知らなくて却って良かったんだなあ。』と言いました。でも僕にはそれが○○先生が“高校の頃の僕の吃り故の苦しみ”をよく理解していないことを証明する言葉のようにも響きました。

 僕は苦しかった。学校から却って来るとだから勤行と唱題に明け暮れるより他に方法がなかった。僕が明日も生きてゆける道はそれしかなかった。

僕は『雪山の寒苦鳥』のように毎晩毎晩、一時間も二時間も題目をあげ続けました。学校にいる頃は『今夜は夜通しでも題目をあげ続けよう。』と苦しさの中に決意していました。でも帰ってくると安穏に負けて一時間か二時間で(これに勤行を含めると二時間、三時間、となるけれど)題目を終えていた。



 不思議と楽しかった。苦しかったけど未来が希望や夢に満ちてたし、何もかもが新しくて新鮮に見えた。僕は高校時代、幸せだったのかもしれない。

 でも現実の厳しさを知り挫けかけている28歳になる僕は、苦しくて、今日何度も自殺を思ったほどだった。こんな苦境に陥るなんて、僕は思ってもいなかった。




 僕にはあのころ強い意志力があった。それは信仰だった。でも今、僕は信仰を持たない。去年、夏ごろ、7年半ぶりにその信仰に立ち還ったけれども、








自分が創価学会をやめたのは10月20日ごろだった。たしか卒業試験の始まる5日ほど前だったと思う。

 試験の始まる5日前、僕は『10時間唱題会』に出た。大学祭も近づいており、グループ長たちも『忙しい今、それをするのは無謀だ。』と言って反対したと言う。でも大学生活での記念にと部長(Y君)が強行した。6時半から朝の勤行を始めて、昼休みを1時間入れて、7時ぐらいまでかかってする、予定だった。僕は連夜、信仰への疑い、退転しようか、という思いに苦しめられていた。昼間はちゃんと朝に勤行もして出掛け、学校から帰ってきてからも夜の勤行をちゃんとしていた。それにその頃、男子部の処にも出掛け、またそこで『朝と昼は題目と勉強に賭けて、夜は学会活動すべきだ。君には宿命転換しなければならないことがある。そのためにも、勉強に没頭していてはいけない。活動もして、立派に両立させるべきだ。』と言われた。そう言ったのは僕のすぐ近所の、軽い分裂症でもある、また学会での役職は副地区リーダーである(でもこの信心の純粋さは地区リーダーをずっと越えて、部長ぐらいの強さだった。でもその分裂症のため副地区リーダーに地位を抑えられてきた。でも、今まで幼い頃から戦ってきた経験を聞かされたりすると、僕は、身の毛のよだつような、ものすごい人だなあ、と思わずにいられなかった。


 本当に魔の策動だったのかもしれない。立ち上がれば炎となる僕を退転させるための魔の巧妙な誘いに僕は乗ってしまったように思えて仕方がない。(僕はだから今日、やっぱり僕は『創価学会員でなければ自分は人間として駄目だ。』と思って再び創価学会に戻ることを決意しさっき夜の勤行をしたのだった。

 魔が僕に押し寄せているのかもしれない。ひとたび、信仰に奮い立ったら前も後ろも身境なく突っ走る僕の性格のために魔は今必死になって僕がまた創価学会の信仰に戻ることを阻止しているようにも思う。

 僕はいろんな本を読んだ。100冊は読んだと思う。



 戻るべきか、僕は、創価学会に。僕は再び“闘士”として立つか、あの頃の幼いひたむきな信仰に、大学一年のときやめるまでのあの血みどろなまでにひたむきだったあの信仰の姿勢に、僕は再び立つか、そして不幸な人のために自分の命を捧げてこの一生を送るか。


 再びあの、中学・高校、そして浪人のとき、大学一年のときのひたすら純粋だったあの頃の信仰に戻るか。戻ると僕は去年の夏頃のように元気になるだろう。でも宿業との戦いは去年のように依然として続くかもしれない。苦しかったけど楽しかった。やっぱり僕は創価学会に戻ろうか。大学最後の青春だと思った去年の夏の戦い、何故だかとても楽しかった。本当に不思議なほど楽しかった。



 戻ろう。やっぱり戻ろう。あの夏頃の歓喜は劇的だった。そして四月や五月ごろ、信仰を再び始めたときの、どす黒く僕を覆っていたあの死神の思念の去ってゆくと、どす黒かった僕の顔が輝き始めたこと。自分でははっきり解った。

 たしかに魔が策動し、僕を痛めつけ、その度、僕は信仰をやめてきたけど、でも六月ごろ、信仰を確立したとき、もう魔は策動しないようになっていた。それでもやっぱり魔は起こってきていたけれども。




『創価学会員は明るく溌剌としていなければならない。』と僕は浪人のときの折伏のときにも大学一年のときにも自分に言い聞かせてきた。また『少しも法を下げるようなことはしてはいけない。』と中学の頃から大学一年に退転するまで自分に言い聞かせてきた。

 夏の頃、僕は本当に元気溌剌としていた。台風で屋根が飛んだ日も、次の日も、その次の日も、僕は元気溌剌としていた。友だちと一緒に台風の被害を写真に撮ろう、とカメラを買いに行って5万円のカメラを買ったり、僕はものすごく元気だった。


                (1990.3.15 PM 7:15 at home all day)







 天国から星子さんが言った。可愛い星子さんが浮かび出て、この日曜日、遂に一歩も外に出ず、テレビを見たり、ワープロを打ったり、勉強したり、勤行したりしていた僕の前に現れて言った。夕方、もう耐えきれなくなって、お風呂に入ってお酒を飲み始めた僕に言った。

『敏郎さん。幸せになりたいの? 敏郎さん…』

 僕はそうして今日、○○助教授との約束を破って、○○○○○の教会へ行かず、創価学会に戻ろうと、朝の勤行と十分間の題目をあげたこと、そうして昨夜、夜の勤行と二時間近くの題目をあげたことを思った。昨夜は2時間近く題目をあげたあと、『やっぱり創価学会には戻るまい。』と思った。自分にはやっぱりキリスト教など他の宗教が向いている、と思った。でも今日、12時ごろ、昨夜からビデオで録画していたいた映画を何本も見たり、勉強したり、ワープロ打ったりしながら煩悶し、12時20分ごろから朝の勤行を始めた。何かアルバイトをしよう、とは思いながらも勇気が湧いて来ず、家でビデオばっかり見ている自分。この情けない自分を人間として、少なくとも一人の人間として元気な人から好かれ頼りにされる自分になりたい、と思って今日朝の勤行をした。幸せになりたかった。また四年も留年して一年留年しているから、五年も�c、と考えて、親のため、親のために何かなることないだろうか、と煩悶し、やっぱり創価学会に戻るしかない、と思って朝の勤行をした。するとやっぱり凄く元気が湧いてきて『今から『アート引っ越しセンター』の説明会に行こう。』と思った。でもやっぱり創価学会に戻るのやめようかな。』と思い、昨日のように再び元気がなくなって、アート引っ越しセンターの所へも行かず、家で悶々とテレビ見たり、勉強したり、ワープロ打ったりして時を過ごした。』







 僕は今もときどき“死”を思う。でも自殺したら地獄だということは、僕が誰よりも良く知っているから、僕は良く知っているから、自殺したら楽だ、という考えもあるけれど、自殺した方がマシだ、という考えもあるけれど。



 死を思うと暗湛となってしまう。僕の心は暗湛となってしまう。だから創価学会に戻ろうかな、とも思う。また瞑想法に本気で賭けてみようかとも思う。







 F1を熊本放送のようにレースのあったその夜に見たかったし、その頃、長崎は昨年はしていたKTNが今年はF1の放送をしなくなっていた。でも僕が有線放送を引く頃(去年の9月頃だったと思う)一週間ぐらい遅れて放送するようになったけれど)アンテナを立てても父や母や来客の人がみる一階のテレビは映りが良くなかった。またブースターを買ったり、アンテナを新しく買ったり、ということを考えると(ブースターを買って試してみたけれどブースターを使っても一階のテレビは良く映らなかった。室内アンテナでももちろん駄目だった。)6万円払って月々千五百円払う有線テレビの方がいいと思って僕が自分の金を使って有線放送の線を3台分、付けて貰ったのだった。


※有線放送は一台が四万九千円で、二台、三台は同じ五万九千円だった。そして4台目から一台につき五千円ぐらい値段が高くなっていた。


 おととい、道輝が来た。ちょうど僕が酒を飲んで日記を書いて砂糖食をして詩を書いて(この日は砂糖食はいつもの半分ぐらいしかしなかった)。2日間、砂糖食をしていなかった。またお酒も、もうやめていた2日間の1日目に酒を飲んで日記を2枚ほど書いただけだった。(そうしてその夜はそのあとテレビを見ていた。僕の家を有線放送にしたのは僕だった。去年の9月頃だったと思う。でもそれなのに僕はほとんどテレビを見ていなかった。勉強が忙しいこともあった。また、毎晩のように夜8時の閉館まで県立図書館で勉強して、そのあと風呂に入って、風呂に入ってから、酒を飲んで15分ぐらいものすごく冴えた頭で勉強したあと、砂糖食をしながら酒を飲んでいた。…でも10月20日に信仰を退転するまではたしか9月に入ってからは夜の勤行もちゃんとするようになっていた。たしか県立図書館で閉館の8時近くまで勉強したあと、近くの2部の拠点へ行って、勤行と5分間の題目をあげたあと、家へ帰って仏間へ行き家の御本尊様に題目三唱したあと、風呂へ入って、そのあとは同じだったと思う。

 そのあとはいつものように酒を飲んで十五分勉強したあと、砂糖食しながら小説を書いていたと思う。卒業試験直前なのに、僕は砂糖食や小説と詩などの文学や、お酒から、逃れられないでいた。


※(去年、留年していたとき、○○病院でアルバイトして稼いだ百万円近くの金を僕はクーラーを2台買ったり、29型のテレビを8万8千円で買ったり、VHS-HiFiビデオを6万円で買ったりして、どんどん使っていっていた。)







 僕のようなのが創価学会員なら、この信心を傷つけることになる。法を下げることになると思って、僕は高校時代、会合などを離れていた。


(1990/03/21)







----(三月二十二日・木) 今日も図書館へ行って4時間ほど勉強した。僕は今日の夕方まで創価学会に戻ろう、と考えていた。でも今はやっぱりキリスト教をしよう、などと考えている。

 僕は、あまりにも神経過敏な僕には、キリスト教が向いている、と思う。




----(三月二十三日・金) 僕は今日久しぶりに一部の拠点に行った。十日ほど悩みとおしたと思う。そして昨日の夜、やっと決心が付いて創価学会に戻ろう、と思った。

 今朝、県立図書館で一時間40分ぐらい勉強したあと、一部の拠点へ行った。朝、家を出るとき一部の部長のY君にあげる卒試の資料をボール箱に一杯詰めて250ccのバイクの後ろに積んでいた。今日家を出るとき久しぶりに題目三唱して出てきた。

 楽しかった。久しぶりに一部の拠点へ行くと思うだけで何故こんなに楽しくなるんだろうか、と思った。とても不思議だった。

 僕はたしか10月20日ごろの日曜日の『十時間唱題会』に出たあと退転(※1)を決意したのだった。卒業試験の始まる5日ごろ前の日曜日のことだった。僕は…対人緊張に悩む僕は…その『十時間唱題会』に出れば病気も治る、と思って卒試直前で一番勉強しなければならないときにその会合に出た。僕はこの頃もう完全に以前の僕に戻りかけていた。あの大学一年のとき信心をやめる前のものすごくこの信仰に命を賭けていた以前の僕に。

 しかし、去年の10月の退転する頃の僕は毎晩退転する心の誘惑と戦っていた。いつも夜になると退転しようと僕の胸の中にある霊が呟くのだった。僕はその誘惑と戦おうと夜になると毎晩のようにお酒を飲んで砂糖食をして小説を書いて寝ていた。そうすると退転しよう、とまで考えないで眠れてた。


(※1---この信心をやめること。つまり、創価学会の信心をやめる�アと。)





 魔はそうして僕の甘い心を見抜くように入り込んでいたのだと思う。僕は見事に退転してしまった。卒業前の一番大事なときに、もし今ここで踏み留まっていたら僕は父や母に悲しい思いをさせずに済んだのに。

『我及びに我が弟子、諸難あるとも疑う心なくば自然に仏界に至るべし。…真の時は忘るるなるべし。』の御文のように僕は信仰を真のときに忘れてしまって、キリスト教に走ってしまった。

 僕の心の誘惑は甘い悪魔によってそうなってしまった。大晦日近く、姉が帰ってきているとき、僕は再起を思った。でも二日と続かなかった。買って二日か三日頃だった瞑想のための機械を返品期間内だったため、返そうと一回返した。(あれは12月31日のことだった。姉の夫の考正さんからクルマで矢上の郵便局まで連れていって貰った。そしてあのとき考正さんは間違って僕を郵便局に置いたまま家に帰ってしまったのだけど。でも家に帰ったときに気付いて(僕のカバンなどの荷物があったから)すぐに戻ってきてくれて、僕は(謗法の罪ゆえにこれくらいの苦しみを受けるんだ、と自分に納得させて、心のなかで題目を唱えながら家まで歩いて帰ろうとしていた)途中のパチンコ屋の前で考正さんとすれ違った。

 それから二部の拠点に行って勉強した。大晦日で1月四日までどの図書館も閉まっていた。そのため僕は勉強する所がなく、困っていた。

 でも僕は30日、31日と二部の拠点で勉強したあとまた退転を誓ってしまった。僕の心のなかの弱い悪魔と。

 僕はそうしてその瞑想法の機械を取り戻すため郵便局に電話した。そして僕は一月一日の朝だったと思う。小包を出した矢上の郵便局に取り戻しの手続きをするために行った。僕はそれが僕の四回目の留年につながるなんて思ってもいなかった。







 僕はこの頃、自分が本当に自分なのだろうか、と解らなくなることがある。4度目の留年をしたからなのだろうか。それとも謗法の罪なのだろうか。

 僕は創価学会の信仰をしていくのはやっぱり止めようと思う。少なくとも自分には合っていないような、そんな気がする。

 それとも僕はやっぱり創価学会に信心なしでは生きてゆけないのだろうか。


 僕はこの頃、








 2月の終わり、僕の頭は遂にパンクした。人が近くに居るとものすごく緊張するようになって、そして現役のときに九大医学部に落ちた。もし、頭がパンクするのがあと十日遅かったなら、僕は現役で九大医学部に入れてて、輝ける青春を、勝利の高校時代の思い出とともに、英雄のように、博多で華やかな大学時代、そしてインターン時代を送っていたと思う。でも僕は大学入試直前に頭がバーストして大学に落ちた。題目のあげ過ぎだったのかもしれない。また、2月13日に祈祷師のところに喉の病気を治しに貰いに行った故に宿業が現れたのかもしれない。

 今、一浪して入って四年留年して最終学年を長崎大学で迎えている僕は、挫折感と、もともと医者になろうと決意する前は東高で落ちこぼれだった、という諦めの思いと複雑になっている。これでいいのだ、という思いと、落ちぶれ果てた自分への情けなさと、僕は戦っている。そしてこの頃、創価学会の信仰にまた戻っている。春休みになって始めて僕は四度目の留年という苦しみに気付き落ち込んだ。そしていじけてもう立ち上がれないようだった。でもこういうときこそ創価学会の信心だ、と思ってこの四日間勤行をしている。毎夜のように退転の思いに捕らわれるけれど、いま四日続けている。元気になるためには、いじけないためには、自分が少なくとも人間として人並にやってゆけるためには、僕は創価学会に戻るしかないように思えたから。そしてたしかに創価学会に戻るんだ、と思って勤行・唱題をすると、ものすごく元気が湧いてくる。そして生活のいろんなことがすべて楽しいように思えてくるし、勉強に対するファイトも湧いてく�驕B

                       (1990/04/03 at night)







 昨日から学校が始まった。春休みが始まって昨日まで、ほんの少ししか友達と喋ってなかった僕にはとっても楽しい。もちろん、辛いことがたくさんあるけれど、昨日も今日もとても楽しかった。

 今朝、やっぱりクリスチャンになろう、と決めた。3月の20日ごろから創価学会の信仰をしてきたけれど、僕だけには(十人に一人の人には)創価学会の信仰は向かなくて、僕はその10人のうちの一人に入っているらしかった。だから僕は昨日からキリスト教に戻ってよく心のなかで賛美歌を奏でている。

 幸せは何処にあるのだろうか。僕らが少しも苦しまないでよくて、みんな心が美しくて、世の中も競争なんて醜いものはなくって、みんなみんな助け合って生きている世界ができたならば。

(1990/04/12 at night)







 3月25日、日曜日、朝から市民会館の7階の青年の家で勉強していた僕は、12時過ぎ、勉強にも疲れ、今からキリスト教の教会に行こうとバイクに乗って向かった。今朝は朝の勤行(創価学会の)をしてきていた。でも昼近くになるにつれ、やっぱり創価学会をやめてクリスチャンになろうと思って勉強に疲れ家に帰るついでに片淵のプロテスタント系の僕の大学の教授や助教授も行っているバプテスト教会へと向かった。

 12時半過ぎだったと思う。僕は右肩に勉強道具などを入れた重たいバッグなどを入れていた。諏訪神社前の交差点のすぐ手前のところで僕は右折してきたクルマと衝突した。クルマはドアのところが大きくへっこんだ。僕のバイクはフロントのフェンダーが割れた。そして僕は激しく転倒した。

 転倒したとき僕は右手を付き、手首が痛かった。またガソリンタンクで股を強く打った。僕は倒れこんだまま十秒ぐらい動かなかったと思う。



 僕はそしてその事故がキリスト教の教会に行こうとした罰なのだろう、と思ってそれから4月10日まで真面目に創価学会の信仰をした。たしかにこの信仰をしたらものすごく元気になっていた。でも僕のこの病気はこの信心のためだという思いが抜けきれなくて僕は今日からお祈りをやめたしクリスチャンになる決心をしている。今日、学校帰り、2冊目の聖書を買ってきた。一冊目の聖書は家に置いていて、2冊目の聖書はとても小さいから“お守り”のように持ち歩こうと思っている。








 明日の夜か明後日、姉が夫と一緒に山口県の萩から桜子ちゃんを連れて来るという。僕は今日遅く帰ってきた。1内の回診があったし、(僕は今日当たっていた。でも教授は僕が吃りであるのを知っているのか喧しいことは何も言わなかった。

 その帰り、○○さんのアパートに行って、国家試験のための資料をたくさん貰った。250ccのバイクに2つのロープを巻いてやっと結び付けた。その本は今僕の部屋の本棚に飾ってある。もう僕はこれからは変身するんだ。勉強のみに賭けるんだ、と思っていた。

 一昨日の日に貰ったイースターの日のタマゴをまだ学校のロッカーの中に入れていた。

 姉が来て、退転して落ちぶれた僕の姿を見て、苦しむと思う。姉が苦しまないようにできるだけ明るく生きてゆくべきだと思う。

                      (1990/04/17)








 もう日が無い。日が短くなったのではない。僕の生きている日々が一日一日と、短くなっている。もう日が無い。

                       (1990/04/19)







『プップーッ。』

 これは僕にとって敗北の警笛だった。僕はまだ自分の頭に巣くった悪魔のことを知らなかった。僕はただ心の中で題目を唱えているだけだった。

 汽車は折尾駅から博多駅へと向かっていた。僕は田中さんのハイツを出るときからずっと心の中で題目を唱えてた。また題目を唱えないことには去年の9月頃から悔しさでもみくちゃにされた僕の心を慰めることはできなかった。




 そのあと、僕は書記長の部屋で題目をあげた。いろんな煩悩が次々と出てきていた。女の子のこと…来年の大学入試…父や母への弁解。それよりも一番女の子のこのことがとても気に懸かっていた。喉の病気でさえなかったら輝いていたはずの4年間を思い僕は題目をあげながら悲嘆に暮れていた。今夜、きっと、書記長が帰ってきたら喉の病気の悩みのことなどを話そう、と思っていた。

 書記長の狭い部屋で僕は懸命に題目をあげた。今日はこの下宿に泊まろうかな、とも思った。もしかしたら九医に上がっているかもしれないな、とも思いながら。







 僕が友人と黄色いセルボに乗って山の上の文化祭に行ったとき、君は駐車場の係をしていた。僕は始めそれが君だと解らなかった。







 僕がなぜ長大に来たのかということを、僕がなぜ九大をやめて長大に来たのかということを、君は訝しく思っているけれど、僕は高校三年の2月の終わり頃、ある病気に罹ったんだ。頭が爆発して、ある病気に罹ったんだ。





 青い海の上に浮かんだって無理だよ。君の足は美しくは見えない。君の足は美しくは見えない。







                         (中二・七月)


 夜の闇の中を歩いてゆく君は、現実の君とは違う君だ。夜の闇の中を歩いてゆく君は、現実の君とは違う君だ。夜の闇の中を歩いてゆく君は、現実の君とは違う君だ。







 夏の海の上に君の姿が見える。まるでかげろうのように、君の姿が浮かんで見える。






 闇の夜の中に見えるまっ赤な太陽は、あれは星子さんの魂だったことを僕はこの頃、十年ぶりくらいに、中二の冬の夜や、中一の冬の夜や、中三の冬の夜に、眺めていた君の家のカーテンの色が橙色だったことを、僕は十年ぶりぐらいに、たしか十年ぶりぐらいに、思い出している。






 6月に僕は長崎に帰ってきて、それから毎日県立図書館や市民会館へ通って勉強した。いつも自転車でトンネルを越えて図書館へ行っていた。

 6月の始め頃、僕が県立図書館で勉強しているときに○○さんと偶然会った。○○さんは友達と図書館に勉強しに来ていた。僕は一人で勉強しに来ていた。



 僕らは目が会った。でも僕は勉強に疲れ切るまでは勉強を続けようと勉強をし続けた。また、福岡に居るとき電話した○○さんが今見るとあんまり良くない失望感が僕にはあった。



 僕は駆けるように12時ごろ、県立図書館から出て行き始めた。すると○○さんが階段のところで僕を呼び止めた。







 僕は昨夜、第○解剖の助教授の○○先生から夜の10時から1時半まで聖書をもとにした話を聞いた。僕はでも今はしなくても根っからの創価学会員だった。僕は先生が『イエス様をあなたの“主”として信じますか。』という言葉に『いいえ。』と答えた。僕には信じきれなかった。それに今も命賭けで戦っている創価学会の同志を裏切ることが僕にはできなかった。







『嵐のような海ね。敏郎さん。』

『人生はいつも嵐だよ。人生が嵐でなくっちゃ駄目なんだよ。人生とはいつも厳しい嵐のようなものなんだよ。』

(僕らの目の前には黒い雲の覆う激しい荒れた夜の海が見えていた。星子さんはその厳しい夜の海を前にして泣いていた。僕には何故、星子さんがこうも泣くのか解らなかった。)


『私のようなの。私の人生のようなの。私の今まで生きてきた少女時代みたいなの。だから悲しいの。』

(僕は厳しい顔をして海を見つめていた。負けちゃいけないんだ。負けちゃいけないんだ。と自分の心に激しく叱咤しつつ僕は立っていた。





(僕らは荒れ狂っている冬の海を前にして茫然としていた。星子さんは何でもなかったようだった。でも僕は岩に打ち寄せる激しい波、そして僕らに降り懸かってくる波しぶきを前にして茫然としていた。死ねなかった。死ねない。創価学会に戻ろう、と僕は激しく心のなかで葛藤していた。




 君は死ねない。ああ、僕は死ねない。父のため、母のため、僕は生きてゆかなければならない。僕は死ねない。君のように、恵まれた富裕な君のように、僕は死ねない。







        (夢の中で…) 1990・6・14


 僕は岩を登っている。下界は遥かに遠くて、岩だらけの砂漠のようで、落っこちると死んでしまうに違いなかった。崖の上には父と母がいて、『敏郎、敏郎、』と僕の名を呼びながら泣きそうになって手招きしている。僕は必死に岩を登っている。爪は割れ、血がにじんで、指先は擦り切れて、もう血だらけで、でも僕は歯を喰い縛って登っている。息も苦しくて、でも僕は父と母のために登っている。懸命に懸命に登っている。







 真実が何なのか、とあのとき迷わなければよかった。そのまま素直に家の信仰の創価学会を信じていれば良かった。でも僕は卒業試験の始まる直前に創価学会をやめてキリスト教の教会に通いだした。僕は卒業試験は受かると思っていた。そんなに頑張らなくても朝から夜の8時まで県立図書館でクスリを飲みながらリラックスして勉強していたら上がれると思っていた。僕の考えは甘かった。教会に通いながら2度自殺霊にとり憑かれ、その度に僕は家の仏壇の前に座って勤行した。少しキリスト教にも失望して、瞑想法も始めた。8万円する瞑想法の機械も買った。でもその度に死神にとり憑かれ、僕はまた仏壇の前へ座り勤行をした。でも僕は創価学会には戻らなかった。キリスト教と瞑想法を繰り返していた。週に二回はたとえ試験の前の日でも教会へ通っていた。僕だけ留年した。試験のときにはいつもバックの中に聖書を入れてたのに、答えを迷ったとき『天のお父様』と唱えながら選んだのは憶えている限り全てはずれていた。僕だけ呪われたように留年した。でも�lは落ち込まなかった。落ち込んだのは3月の中頃、もうみんなが国家試験を直前にしているときだった。僕はキリスト教をやめて創価学会に戻った。







 10年前のあのコのことを思っていた。もしも僕がノドの病気でなかったら…と思ってそのことを思って悔やんでばかりいた。もうあのコは少なくとも26歳になっているのだろうけれど。そうしてもうたぶん結婚していると思うけれど。大きな瞳とあの美しい姿はもう永遠に戻って来ないことを思うと悲しいけれど。


         (7月、朝、母が風邪をひいて昨日一日寝ていた翌日の朝)







 3月の中頃だったと思います。僕はお酒を飲んだとき、ものすごくお腹が痛くなって転げ回ったことがありました。僕はそのとき『イエス様』とも『天のお父様』とも唱えませんでした。僕はただ『南無妙法蓮華経』と心の中で唱え続けました。そして自分がクリスチャンになりきれてない、僕はどうしてでも創価学会員のままでしか有り得ないと解った。そのとき僕は洗礼のための『決心者クラス』を受けていた。僕はそのことによってもう教会へ行かなくなった。







 ○○先生お許し下さい。自分はやはり教会へはもう行けないようです。

 僕は小さい頃から大学一年の秋まで一生懸命創価学会の信仰をしてきました。でも大学一年の秋に創価学会の信仰をやめてから七年余り他のいろんな宗教を遍歴してきました。でも去年の春、創価学会に戻って半年間----片淵の教会へ行くようになるまで----再び創価学会の信仰をしてきました。片淵の教会へは5ヶ月くらい通いました。でも僕は今、迷っています。

 先生に心配をかけてきたうしろめたさと宗教的煩悶と自分は激しく戦っています。 許して下さい。僕は創価学会に戻ります。本当にすみません。





 僕は苦しみ抜きました。先生への義理と宗教的煩悶とで。





 先生。許して下さい。僕はもう教会へ行けません。僕は創価学会に戻りたいです。 僕は先生への義理と宗教的葛藤とで苦しみ抜きました。僕を心配してくれていた先生に連絡もしないですみません。手紙も書きましたけど結局出せませんでした。本当にすみません。

 先生。本当にすみません。許して下さい。







 雨に濡られて、僕の心が洗われてゆく。病に冒された僕の心が、清められてゆく。心がすっきりとなる。    (6月30日 pm 2:30)



雨に打たれていると、僕の心の病も癒されてゆくようだ。僕にずっと巣喰っている、病が洗われてゆくようだ。



 僕は駆け抜ける。白い野原を駆け抜ける。いつまでも、いつまでも、僕は駆け続ける。




 どこまでも続く白い道を僕らは歩いてゆく。







         誰も居ない


 今でも思い出す。10年前のあのコの姿を。薄暗がりの体育館の、観客席でのあのコの姿を。

 大きな瞳のあのコの姿を、少しポッチャリとしたあのコの姿を、悲しげに悲しげに28歳になった今もはっきりと憶い出す。

 高三のときの松山の国際体育館でバスケットの高総体の試合があっているとき、友達と二人学校のみんなと離れて見ていた僕らの前に現れたあのコの姿を。僕は東高であのコは活水だったと思う。丸い肩のあの刺繍で、僕は大学生になってからやっとあのコが活水だったことに気付いた。ノドの病気で大きな声が出なくて喋れなかった。無視するしかなかった。僕は中二の頃からそのノドの病気でずっと苦しんできて、将来きっと耳鼻科の医者になろうと思って一生懸命勉強した。でも僕はノイローゼとなって四年も留年している。今年はきっと卒業試験に合格できて医者になれると思うけど、孤独で寂しい。僕の周りには友達がいない。恋人も誰もいない。







 あのコのことが忘れられない。十年後の今も県立図書館で勉強しながら、あのコのことを憶い出している。           (1990・7・18)





 十年前のあのコはもう居ない。この体育館の何処にも、松山の何処にも、もう居ない。もうあのコは何処かへ行ってしまった。

青い夕暮れの空だけが見える。寂しさでいっぱいの僕の心は、この青い空の中に弾けていって、そうして僕はきっと長崎の何処かにいるあのコのところへ飛んで行きたい。死んでもいいからそうなってしまいたい。




 寂しさでいっぱいの僕の心は、鳥になって空に飛んでいこう。そうしてあのコのいる所へ、僕は白い鳩になって舞い降りたい。

 白いバルコニーのあのコの家へ、僕は鳥になって舞い降りたい。





 k先生。治らないです。僕の吃りは治らないです。僕は寂しくて発狂してしまいそうです。







大学四年留年 八月


 僕は“努力を忘れたカモメ”のようだ。高校のときのようなひたむきな努力を忘れたカモメのようだ。







 苦しかったからでした。僕が一生懸命、創価学会の信心をやっていたのは苦しかったからでした。主に病気を治したいため、一生懸命やっていました。




 僕の言語障害は仏教でいう“業(カルマ)”だったのか信仰弱き自分にはまだよく解りません。

 今まで、僕は僕の病気をカルマ(業)だったのだ、と思ってきました。そして創価学会の信仰活動に身をすり減らすようにして戦ってきました。

 でも卒業試験を直前に控えて(僕はその年の4月ごろから7年半ぶりに創価学会に戻っていました。7年半ぶりに訪れた創価学会の会館には今もまだ僕の名は“幹部”として残されていました。そしてたくさんの始めて見る大学生の創価学会の人たちが、自殺を毎日のように考えていた僕を暖かく迎えてくれました。そして8年前、僕だけが命賭けで活動していたのに今では幾人かの人が命賭けで創価学会の“広宣流布”のために戦っていました。僕はその頃、慢性胃炎を起こし、下痢と発熱と戦う日々でした。あれは春休みの4月始めのことだったと記憶しています。

 僕が創価学会をやめたのは10月の20日頃でした。創価学会をやめて“○○教”に走ろうとしました。二日、講習を受けました。でも僕はトイレに行くふりをしてそのまま家に帰りました。もう卒業試験の始まっている10月の終わり頃でした。

 そしてそれから僕はこの教会に通うようになりました。思えば幼稚園は矢上のあの教会に通っていました。体の弱い僕はカゼをひいて一ヶ月休んだりして半分も出席しなかったと思います。僕はあの頃泣き虫でバスの停留所から家へ帰れなくて毎日帰りがけ、バスの停留所で泣いていたことを憶えています。その頃、家は貧しく、僕の家は夜逃げ同然の状態だったことを記憶しています。








 必死でした。朝の7時18分ごろスクールバスに乗ってから夜8時20分ぐらい家に帰って来るまでずっと勉強していました。毎朝6時20分ごろ起きて朝の勤行をして顔を洗って歯を磨いて朝ごはんを口の中に頬張ってバス停へと走っていっていました。学校では内職ばかりしていました。先生の話を聞くよりも内職をする方が能率が上がったからです。

 学校が終わって夕方、学校帰りの途中の県立図書館で閉館の7時50分まで懸命に勉強していました。そして帰りのバスの中でも本を広げて勉強していました。歩きながらでも頭の中で物理の問題を解いたり、歴史を思い出したりしていました。

 夜、帰って来ると、夜ごはん食べてお風呂に入ってそして勤行もして寝ていました。高二の頃(そして高三の夏ごろまで)朝晩の勤行は欠かさずやっていましたが題目は一日一時間ぐらいだったと思います。







 病気になった僕。みんなから陰口を言われ、四年も留年して、ノイローゼだと言われ、一人ぼっちで、誰も喋る相手がいなくて


 ノイローゼだと言われ、みんなから陰口を言われ、四年も留年して、今も苦しくて、人が恐くて





 何もするな。何も考えるな。


 鳥になれ。鳩になれ。白い鳩になれ。


 鳥になれ、蟻になれ、





 僕の幻の中の女性は君ではなかった。この夏の終わりの台風の近づいている灰色い重たい雲の中に、僕の中学・高校の頃思い描いていた僕の想いは、消え去っていこうとしているようだ。悲しい…でも楽しかった片思いの思い出として、あの辛かった中学・高校の頃の記憶とともに、一生、僕の頭の中から離れていかないだろう。この曇り空のように哀しみとともにその思い出は僕の頭をこれからも覆い続けるのだろう。


これからの僕の日々はどうなるのだろう。夏の終わりの白い雲は僕の中学・高校の頃の思い出を乗せているようだ。そしてゆっくりゆっくりと流れていっている。悲しく悲しく流れていっている。僕はずっとずっと一人っきりでそれを見遣っている。


 僕の中学・高校の頃の思い出が流れ去っていく。白い雲と一緒に消えてゆこうとしている。 

          (1990・8・23 市民会館七階、中央青年の家にて)







 遠い過去の思い出ももう十年も前のことになろうとしている。松山の国際体育館でのあの思い出も(今、新しい女の子が僕の前に現れようとしているようなのだけど)






 海の精が呼んでいる。星子さんの沈んでいった海の精が、今度は僕を呼んでいる。

でも僕は負けない。僕は星子さんのようには負けない。

 海の底が渦を巻いて、泳げる僕を、呑み込もうとしているようだ。一人ぼっちで、淋しくて、海を見つめていると。





 愛子。僕は君を傷つけたつもりではなかった。僕は愛していた。君を心の底から本当に愛していた






                        (H2・9・8)


 網場のバス停に着いた僕は、毎朝、7時19分頃『水族館前』のバス停に朝早く起きて勤行をして、7時14分ぐらいから朝ごはんを食べ始めて、朝ごはんを頬張りながら家を出る自分のようにも思えた。スクールバスはいつも7時19分ぐらいに『水族館前』に来ていた。僕は毎朝駆けていた。毎朝6時30分ぐらいに起きていて、僕はいつも朝ごはんを頬張りながら玄関を出ていた。元気だったあの頃の僕は。本当に元気だった。

 東高に着く頃になると、さんかくと、押さないでもいい次に降りるためのベルをよく押していた。みんな、微笑んでいた。元気だった。あの頃の僕は。もう今、どこで、どうしているのか解らない“さんかく”と一緒に本当に明るくて元気だった。







 ご無沙汰していてすみません。

 思えば去年、最後のポリクリが一内でそのときリウマチの患者を持ちました。39歳になる身動きもできないその女性の患者とそのひとの母親の苦しみの顔を見て僕はそれから宗教の所を訪ね歩いたり夜は宗教書を読み耽りました。卒業試験中、昼間は勉強していましたけど、夜はずっと宗教書をたくさんたくさん読み続けました。昼間勉強しているから大丈夫だろう、と思っていました。

 なぜこの世には恵まれた人や不幸な人がいるのだろう、どうしてそのリウマチの患者さんやそのお母さんはあんな辛い苦しい目を受けなければならないのだろう、と自分は『真実』を知りたくて模索し続けていました。あまりに卒業試験を甘く見すぎていました。





 青い海だ。僕の心も青く澄み渡っている。青い海だ。いつも行く図書館へ今日は行かず、僕はここへやってきた。卒業試験中なのに中だるみのようになりかけている僕の心を叱咤してくれるような海。僕を元気づけてくれる海。とても綺麗だ。孤独との戦いをもうこのへんでやめたい、と願っている僕の心を反映しているような海。青い青いどこまでも澄み渡っているような海。ゴロや星子さんとの楽しい昔の思い出。

 

『敏郎さん。勉強してますか。星子、海の中から応援しています。ゴロ君もいま私の傍に居ます。そして敏郎さんが一日も早くお医者さんになる日を待ってます。今年は必ず卒業してね。去年のようにいろいろ深く考えたり悩んだりしないでちゃんと勉強してね。今年は必ず卒業してね。』

 

 もうすぐしたら僕はいつもの図書館へ行くと思う。いつも三、四人ぐらいしか勉強していない市民会館の7Fの青年の家へ冷たい風に吹かれながら行くだろう。そしてそこで寒さに我慢しながら、孤独に耐えながら、僕は勉強すると思う。

(1990・11・14)







 海が見える。僕らの少年少女時代の頃の海が見える。もう十数年も前の海が、君の笑顔の思い出とともに、哀しく寂しげに僕の目に映ってくる。







 この頃、さっぱり図書館へ来なくなったあなた。クリスマスイブの日から来なくなったあなた。あなた、どうしたのですか。







 哀しみの中にある人に喜びを、苦しみの中にある人にも喜びを。







 女の子を抱くと僕の病気は癒されるのかもしれない。女の子と恋をしたら、可愛い高校生と、激しい恋をしたら。

            (県立図書館にて AM 10:10)







 女の子を抱けば、可愛い女子高校生を抱けば、僕は元気になるだろう

 僕の心は以前の喜びや一日一日の楽しさというものを思い返すだろう。高校時代の元気だった僕。いつもこの県立図書館で勉強していた僕。きっと僕は元気になるだろう。




 心を落ちつかせるものがあれば僕の病気は治るのだと思う。それは可愛い元気な女子高校生の真心だと思う。






 トイレの中は誰もいないところ

 トイレの中で僕は王様

 吐いたり何でもできる






 僕らの浜辺はもう遠くへ行っている。運命に打ちひしがれ、不運を嘆きながら、それでも僕は20歳までは元気に生きてきたけれど、この5年間の打ち続く孤独の日々にもう耐えきれないようになってきている。




 もう遠い昔になってしまった過去。もう15年にもなるだろうか。僕より2つ年下の星子さんが死んでから。

 僕のために、僕のために死んでいった星子さん。僕が苦しめ、でも僕の�a気が僕と星子さんを引き離していたのだけど、そして死んでいった星子さん。明るかった。いつも長い手紙を書いて僕を励ましてくれていた星子さん。



 手紙の束は三年前、狂っていたとき捨てた。死神にとり憑かれ、○○○系の病院の奨学金を貰おうと熊本に立つ朝、僕はほかのいろいろな思い出とともに捨てた。偽りの美で僕は自分の過去を彩りたかった。



 もう遠い…遠い過去になろうとしている。ペロポネソスの浜辺も、ゴロの思い出も。

 僕は罪悪感に打ちひしがれ、北風に吹かれて浜辺に立っている。十五年前と全然変わらない浜辺。そして卒業試験中で不安におののいている僕の心。病気を治したくていろんな宗教を渡り歩いている僕。一人ぼっちの、恋人もいない僕。



 星子さんを呑み込んでいった海を前にして僕は立っている。冷たい風も、また一人ぼっちで迎える明日の誕生日の寂しさも。呑まれていったとき泣いていた星子さんの姿と、今の寂しい僕の心が一緒になって、そうして天国へ旅立てたら…と思っている。

  (1990・11・25 PM 5:11 今まで朝から市民会館で勉強していた。)







 僕は学会に戻ろうか迷っている。苦しいことや悲しいことがあってもひたすら題目を唱えぬいてきた小さい頃から20歳までの日々。その頃の僕の心はとても素朴で素直だった。…でも病気の僕。僕は今日も一日じゅう再び創価学会の信仰に戻ろうか戻るまいか勉強しながら考えた。寂しかった。創価学会のみんなと…命を賭けあったみんなと…お酒を…いや、不幸な人たちのための戦いを誕生日にもしたかった。涙に沈む人の家を訪ねて信仰をするように励ます自分…そして同志。



 愛子からの電話を待っている。傷付けてしまった愛子だけど、もう何年も前のことだけれど。

                (29歳の寂しい誕生日に)







 女の子の柔らかい体を抱くと、僕の心の緊張は12月の夜空に、星のように消えていって、そうして僕の病気は治るんだ、と思うのだけど。

 でも僕は孤独で、毎日孤独感と戦っていて、僕の体も顔もこわばって、僕は女の子と喋りきれない。女の子を避けてしまって、毎日孤独感に打ちひしがれて、今にも発狂しそうで、僕の頭の中は爆発しそうだ。今にも狂ってしまいそうだ。本当に女の子の柔らかい体を抱くと、僕の病気はいっぺんに治ってしまうと思うのだけど。



 可愛い女の子の体を抱けば、柔らかい女の子の体を抱けば。







 元気な明るい女の子と友達になると、僕の心も明るくなって、今の冬の今にも雨の降りそうな僕の心は、再び少年の頃のように元気になって、そうして希望が持てて、明るくなって親を喜ばせてあげて、そうして僕はまた明るい少年時代の僕に、久しぶりに戻れて、僕の心の中の暗雲は吹き払われて、親をとても喜ばせてあげられると思うのだけど。







 医学部にもう十年も通っているあなた。困っている人がいると、寒い日に、お題目を唱えながら、バイクに乗って出かけてゆくあなた。宗教に熱心なあなた。留年ばかり繰り返しているあなた。死後の世界のことばかり話しているあなた。私が一緒に自殺しよう、と言うと、決して自殺だけはしてはいけない、っていうあなた。そのくせ、今まで自分では何回も自殺を繰り返してきたあなた。うまく喋れなくて、いつも苦しんでいるあなた。苦労ばかりしているあなた。

                        (12月23日)







 寒いこの年末に生活に苦しみながら、病気などに苦しみながら生きている人が長崎にもたくさんいます。自分も卒業試験に再び落第しそうなとても厳しい状態にあります。今日も何回も迷いました。創価学会の信心を貫いていこうか、それとも楽だけども人は救えないキリスト教をしていこうか。創価学会で信仰していてあまりうまくいかなかったこと、対人緊張がどうしても強くなってしまうこと、でも仲間や同志がたくさんいて楽しいこと。思い出のいっぱいある創価学会のこと。今まで学会員でいた自分。







 僕の躰は燃え続けました。37℃あまりの熱を出して燃え続けました。

 それが半年ほど続いたでしょう。春になって暖かくなってやっと僕の躰も平熱に近くなっていきました。







 ジャラジャラと音をたてて、彼女が僕の前を通り過ぎてゆく。途方もなく綺麗な彼女が。僕はただ為すすべもなく立ちつくしていた。激しい劣等感と、そして何故人は生きているのかと煩悶しながら。




『もう死ぬしかない。』と思ったとき、




 極限の中で生きてきた。その中でも生きて来れたのは御本尊様のおかげだった。




 死神さんは敏郎さんからお離れになって、今度は私にお憑きになったの。死神さんは




 黒い川が僕を呼んでいる。寂しさに耐えかねている僕を呼んでいる。






           (妙子のラスト) 


 僕の体液が溶けてゆき、君の膣腔を満たす。そしてそのとき僕らは茂木の浜辺で浜の音を聞きながら死んでゆくだろう。首を吊りながら。僕らは幸せに首を吊りながら。

 浜がキラキラと光って首を吊って死んでいる僕らを照らしている。木ノ葉は泣き、冷たい風が僕らに吹きつけている。


----やがて僕らは気付くだろう。幸せは何処にもなかったことを。茂木の浜辺にも。森にも。死後の世界にも。






『敏郎。敏郎。』という声が聞こえてくる。それは母の声だ。冬の冷たい風にのって聞こえてくる母の声だ。僕はおもむろに起き上がった。







 愛子。空を見ていると 十数年前の空が見えてくる。あの頃の空は美しく眩しかった。でも今の空は灰色の空だ。僕を覆っている毎日の雲。僕を焦燥感と不安に陥れる雲。今の僕は何をしていても虚しくて心が落ちつかない。全てが虚しい。年を取りすぎたからだと思う。親への罪悪感。かつての栄光は色あせて凋落してしまった。

 空を見上げても寂しさしか湧いてこない。焦りが僕の心をいっぱいにし、僕の心は不安に潰れてしまいそうになる。

 もうあの空は戻ってこないのだろうか。

 もうあの雲は戻ってこないのだろうか。


 輝いていた日々は。青春の日々は。







 僕はすぐに戸石のゴミ焼却場へ向かった。自分の過去を捨てる、自分の過去を美しく彩るという僕の醜い心は呪われたような留年となって僕の前に立ち塞がったようだった。


 愛子。今頃どうしているのだろう。あのとき電話が欲しかった。僕はその年末や正月、ずっとお酒を飲み続けた。毎日のように飲み続けた。誰からも、友達からも電話は掛かって来なかった。僕は寂しくて愛子のピンク色などの封筒が棄ててある戸石の焼却場に何度行ったろう。もしもあのとき愛子の手紙をまだ持っていたなら。またそのクリスマスや正月、愛子から電話が掛かってきたならば、僕は…。



 あれは僕が何度目の留年のときだったろう。もう何年も留年してしまってはっきりと思い出せない。でもたしか4年か3年ぐらい前の正月頃だったことは憶えている。

 僕はその年のクリスマスの夜に留年が決まった。今度留年したら死のうと思って勉強していた。でも僕は死にたかったのかもしれない。僕は肝心な科目を勉強せずに落として留年してしまった。朝から晩まで勉強していたのに僕はその科目が重要だということを忘れていた。

 僕はその年の10月頃、まだ自信に溢れていた。自分はエリートなのだという自負があった。そして僕はその年の10月、愛子からの手紙や僕が小さい頃から書き溜めていた日記帖などを過去を清算するためにと(僕の過去は…僕の生い立ちは…貧しく不幸だった。そして僕はその頃そのことがたまらなく厭だった。)たくさんのごみ箱に入れて棄てた。

 そしてそれから2ヶ月後、僕は呪われたような留年をしたのだった。







 不幸に生まれてきた2人の少年・少女の物語。やがて少女は死んでゆく。少年は少女を救おうと少女の飛び込んだ海の中へと自分も飛び込んでゆく。でも助からなかった。少女はもう死んでいた。

 少年は小さい頃から吃りで、それに中一の冬にノド�フ病気になってあまり大きな声が出なくなった。(お祈りのしすぎで。貧乏で不幸せな家庭のためにと必死で創価学会のお祈りを毎日毎日何時間もしていた心の純粋な少年だった。)少女は小さい頃に交通事故をして車椅子の少女となった。二人は近所どうしだった。よく海辺に出ているその少女(星子さん)を少年(敏郎)は秘かに恋していた。少女も少年を恋していることを少年も知っていた。しかし喋れば必ず幻滅されて嫌われると思っていた少年は少女を避け続けた。しかし少年が中二のときに二人は文通を始めるようになった。

 でも破局がやってきた。少年は自分のような病気で苦しんでいる人たちを救うんだ、と一生懸命に勉強をするようになった。もう少女へ手紙を書いてる暇もあまりなかった。それを少女は誤解して自ら命を絶つことにした。






                 完

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1990 @mmm82889

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