1991(平成3年)
@mmm82889
1991(平成3年)
1991(平成3年)
信仰をやめた大学一年の11月から僕の人格の崩壊は起こっていたけれど、自分は『戻ろう。』とはしなかった。僕は堕落し続けた。半年経って、少しもノドの病気が良くなってないのに気づいて唖然とした。そして一年経っても少しも僕のノドの病気が良くなってないのを知って落胆した。
僕は卒業したら、『真理』を求めて日本中を歩こう。『真理』までは行かなくても、正しい健康法を求めて、いや、やっぱり正しい宗教を求めて、僕は歩こう。
でも親に送金するために東京辺りで正式に医者として職に就こう。精神科医になろう。そして何が真実か、追い求めてゆこう。
----(○○教授だろうか、○○先生だろうか、)『先生、だから僕は結婚はできない、と思います。家族が居れば邪魔になります。僕は真理を求めるために命を賭けて----何が真実か?----求めて求め抜いて行こうと思っています。結婚することは、僕の将来にとってマイナスです。でも父や母のことを考えると。熱烈な恋愛をしたら僕は結婚すると思います。でも僕は自分の病気を治さないことには結婚できないこと、結婚が難しいことを知っています。僕は真理を追求して、死んでゆこう、とも思っているほどです。
僕は幸せな恋をして、親を安心させてやらなければならないのだ、とも思う。
また、キリスト教を信じてクリスチャンになるよう強迫されている僕は、やっぱり大人しくクリスチャンになろうかな、とも思っている。
もう創価学会に戻らずに、助教授(○○先生)の言うままに僕もクリスチャンになろうかな、とも思っている。命賭けでなくっても適当なクリスチャンに、僕もなろうかな、とも思っている。
『君は医者には向いてない。』
そう言われたのは学三のポリクリに入る試験の直前だった。○○○の○○○の病院の奨学金を受けようと思って、○○○病院へ行ったときだった。10月だった。そしてその頃、僕の家の店は『脱税』ということで捜索されて、三百万円ほど持っていかれた。あれは僕の責任だった。○○○の病院へ何度も自分のクルマに乗って行っていた僕は、クルマのナンバーから割り出されて、そうして狙われたのだと思う。
僕の一人よがりかもしれない。でもあまりに偶然すぎるし、○○○の『○○』という事務長の、僕に対する態度から、僕が創価学会のスパイだと勘ぐられていたことを、僕は何ヶ月前、やっと気付いた。僕は幸せになりたい。早く医者になりたい。またそれが僕や僕の父・母・姉のためなのだと思いながらも、いろんな魔が、僕を攻めて来ている。
僕は苦しいし、僕は泣き叫びそうだし、僕は狂いそうだ。
でもこのまま県立図書館での勉強を続けてゆくと、僕も幸せに�ネれると、そう書いてある。
僕は春の野原を駆け巡りながら、幸せになる方法を、いろいろと考えている。
マルキョウの坂を6時20分ごろ、僕は罪悪感や絶望の思いにとても囚われながら降りていた。久しぶりに雨が激しく降っていた。バックミラーに映る僕の顔は険しかった。笑顔にならなければならないな、とも思った。また、やっぱり創価学会が正しいのかな、とも思ってもいた。親への罪悪感と、もしかしたら(勉強のみに賭けなければ)来年も『卒延』というふうになるのではないか、と思った。
何かアルバイトをするべきかな、とも思った。でも小説が、小説が認められれば僕は大手を振って歩けるのに、と思った。小説が認められれば、僕はもう留年や卒延の恐怖に陥ることなんてないはずだった。それに○○○からの迫害に怯えることもなくなるはずだった。そして僕は毎日を暢気にビデオを見たり、ゴムボートを買って魚釣りに興じたりできるはずだった。
再び“炎の創価学会員”に戻ろうかな、とも思っていた。でも“クリスチャンになろうかな”とも思っていた。僕の心は揺れていた。『もう宗教なんて飽き飽きした。もうただ『愛と調和と感謝の念』に生きようかな、とも思っていた。『愛と調和と感謝の念』と思うと、バックミラーに映る僕の表情も和むのだった。
やっぱり創価学会に戻るのよりも『愛と調和と感謝の念』なのかな、とも思っていた。また、父や母のためにもやっぱり創価学会なのかな、とも思っていた。たしかに創価学会の『歓喜』は凄かった。去年の夏頃のあの歓喜は本当に凄かった。
『でも…』と思っていた。楽な道を僕は選びたかった。何が真実か迷っている今、僕はやっぱり去年のように創価学会に戻るのはやめるべきだなどと思っていた。
(pm 9:00 3.14)
(3月14日(水曜)pm 9:00)
僕は今日、図書館で勉強しながら何度も“死のう”と思った。また死神が戻って来たようだった。そうして創価学会に戻ることを何度も考えた。
でもこの二週間ほど、僕は心の平静を保ってきていた。少し絶望の思いに捕らわれたとき、再び小説をワープロで打って雑誌社に出すゾ、と思い希望が湧いてきて午前中や夕方家に帰って来てからはワープロの前に座っていた。そしてワープロ打ちが昨日ぐらいで終わった。
もうやり終えた。すべては尽くした。という思いに捕らわれたからだろう。それに今日は12時35分から5時20分まで休まずにぶっ続けで勉強してとても疲れたからだろうと思う。罪悪感が僕にはあった。それが、勉強のみに賭けなければ、という焦りに変わって僕を今日、猛烈な、せっぱつまたような勉強に駆らせていたのだと思う。でもとても緊張して四時間勉強したけれど頭の中にはあまり入らなかった。(二時間勉強したあと、図書室の方で創価学会など宗教関係の本を三十分ぐらい立ち読みした。)やっぱり僕は病気を治す方が先なのか、とも思った。また○○先生と今度の日曜、教会で一応会うことにしているけれど、どうしようかとても迷っていた。宗教に時間を割くべきでない、と思った。勉強のみに賭けるべきだ、と思って今度の日曜やっぱり○○先生に会いに行くまい、またその方が僕が落としている『○○○』の教授の○○先生(○○先生とものすごく仲が悪いそうだ。)に自分が○○先生と親しく話している所を見られるよりもいい、と考えた。
でも僕はどちらがいいのだろうかとても迷っている。僕は今日、久しぶりに仏壇の前で題目三唱した。親への罪悪感と、自分の病気はもう治らないのではないだろうか、という絶望感と。
ああ、そうか、と思った。僕が昨日ぐらいからこんなに不安になっているのは
10年前のあのコのことを思っていた。もしも僕がノドの病気でなかったら…と思ってそのことを思って悔やんでばかりいた。もうあのコは少なくとも26歳になっているのだろうけれど。そうしてもうたぶん結婚していると思うけれど。大きな瞳とあの美しい姿はもう永遠に戻って来ないことを思うと悲しいけれど。
(7月、朝、母が風邪をひいて昨日一日寝ていた翌日の朝)
3月の中頃だったと思います。僕はお酒を飲んだとき、ものすごくお腹が痛くなって転げ回ったことがありました。僕はそのとき『イエス様』とも『天のお父様』とも唱えませんでした。僕はただ『南無妙法蓮華経』と心の中で唱え続けました。そして自分がクリスチャンになりきれてない、僕はどうしてでも創価学会員のままでしか有り得ないと解った。そのとき僕は洗礼のための『決心者クラス』を受けていた。僕はそのことによってもう教会へ行かなくなった。
○○先生お許し下さい。自分はやはり教会へはもう行けないようです。
僕は小さい頃から大学一年の秋まで一生懸命創価学会の信仰をしてきました。でも大学一年の秋に創価学会の信仰をやめてから七年余り他のいろんな宗教を遍歴してきました。でも去年の春、創価学会に戻って半年間----片淵の教会へ行くようになるまで----再び創価学会の信仰をしてきました。片淵の教会へは5ヶ月くらい通い�ワした。でも僕は今、迷っています。
先生に心配をかけてきたうしろめたさと宗教的煩悶と自分は激しく戦っています。 許して下さい。僕は創価学会に戻ります。本当にすみません。
僕は苦しみ抜きました。先生への義理と宗教的煩悶とで。
先生。許して下さい。僕はもう教会へ行けません。僕は創価学会に戻りたいです。 僕は先生への義理と宗教的葛藤とで苦しみ抜きました。僕を心配してくれていた先生に連絡もしないですみません。手紙も書きましたけど結局出せませんでした。本当にすみません。
先生。本当にすみません。許して下さい。
雨に濡られて、僕の心が洗われてゆく。病に冒された僕の心が、清められてゆく。心がすっきりとなる。 (6月30日 pm 2:30)
雨に打たれていると、僕の心の病も癒されてゆくようだ。僕にずっと巣喰っている、病が洗われてゆくようだ。
誰も居ない
今でも思い出す。10年前のあのコの姿を。薄暗がりの体育館の、観客席でのあのコの姿を。
大きな瞳のあのコの姿を、少しポッチャリとしたあのコの姿を、悲しげに悲しげに28歳になった今もはっきりと憶い出す。
高三のときの松山の国際体育館でバスケットの高総体の試合があっているとき、友達と二人学校のみんなと離れて見ていた僕らの前に現れたあのコの姿を。僕は東高であのコは活水だったと思う。丸い肩のあの刺繍で、僕は大学生になってからやっとあのコが活水だったことに気付いた。ノドの病気で大きな声が出なくて喋れなかった。無視するしかなかった。僕は中二の頃からそのノドの病気でずっと苦しんできて、将来きっと耳鼻科の医者になろうと思って一生懸命勉強した。でも僕はノイローゼとなって四年も留年している。今年はきっと卒業試験に合格できて医者になれると思うけど、孤独で寂しい。僕の周りには友達がいない。恋人も誰もいない。
あのコのことが忘れられない。十年後の今も県立図書館で勉強しながら、あのコのことを憶い出している。
十年前のあのコはもう居ない。この体育館の何処にも、松山の何処にも、もう居ない。もうあのコは何処かへ行ってしまった。
青い夕暮れの空だけが見える。寂しさでいっぱいの僕の心は、この青い空の中に弾けていって、そうして僕はきっと長崎の何処かにいるあのコのところへ飛んで行きたい。死んでもいいからそうなってしまいたい。
寂しさでいっぱいの僕の心は、鳥になって空に飛んでいこう。そうしてあのコのいる所へ、僕は白い鳩になって舞い降りたい。
白いバルコニーのあのコの家へ、僕は鳥になって舞い降りたい。
k先生。治らないです。僕の吃りは治らないです。僕は寂しくて発狂してしまいそうです。
『飛雄馬。飛雄馬。』という声が聞こえてくる。それは母の声だ。冬の冷たい風にのって聞こえてくる母の声だ。僕はおもむろに起き上がった。
愛子。空を見ていると 十数年前の空が見えてくる。あの頃の空は美しく眩しかった。でも今の空は灰色の空だ。僕を覆っている毎日の雲。僕を焦燥感と不安に陥れる雲。今の僕は何をしていても虚しくて心が落ちつかない。全てが虚しい。年を取りすぎたからだと思う。親への罪悪感。かつての栄光は色あせて凋落してしまった。
空を見上げても寂しさしか湧いてこない。焦りが僕の心をいっぱいにし、僕の心は不安に潰れてしまいそうになる。
もうあの空は戻ってこないのだろうか。
もうあの雲は戻ってこないのだろうか。
輝いていた日々は。青春の日々は。
僕はすぐに戸石のゴミ焼却場へ向かった。自分の過去を捨てる、自分の過去を美しく彩るという僕の醜い心は呪われたような留年となって僕の前に立ち塞がったようだった。
愛子。今頃どうしているのだろう。あのとき電話が欲しかった。僕はその年末や正月、ずっとお酒を飲み続けた。毎日のように飲み続けた。誰からも、友達からも電話は掛かって来なかった。僕は寂しくて愛子のピンク色などの封筒が棄ててある戸石の焼却場に何度行ったろう。もしもあのとき愛子の手紙をまだ持っていたなら。またそのクリスマスや正月、愛子から電話が掛かってきたならば、僕は…。
あれは僕が何度目の留年のときだったろう。もう何年も留年してしまってはっきりと思い出せない。でもたしか4年か3年ぐらい前の正月頃だったことは憶えている。
僕はその年のクリスマスの夜に留年が決まった。今度留年したら死のうと思って勉強していた。でも僕は死にたかったのかもしれない。僕は肝心な科目を勉強せずに落として留年してしまった。朝から晩まで勉強していたのに僕はその科目が重要だということを忘れていた。
僕はその年の10月頃、まだ自信に溢れていた。自分はエリートなのだという自負があった。そして僕はその年の10月、愛子からの手紙や僕が小さい頃から書き溜めていた日記帖などを過去を清算するためにと(僕の過去は…僕の生い立ちは…貧しく不幸だった。そして僕はその頃そのことがたまらなく厭だった。)たくさんのごみ箱に入れて棄てた。
そしてそれから2ヶ月後、僕は呪われたような留年をしたのだった。
完
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